島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【閲覧注意】嘔吐表現、(望まない)妊娠。伴う描写が含みます。捏造過多。苦手な方は自衛お願いします。後若干のタマヒュンです。


第39話 変容

 町のざわめきに身を任せながら、日常となってしまった景色の中を進んでいく。ここ、レベリオ収容区も随分と見慣れてきた。それは、自分が新たな居場所を作り出せているからか、心底どうでも良くなるほどに麻痺してきているからか。買い出しの荷物を抱え直して、奥底に溜まった疲労と共に息を吐き出す。

 ここにいると、自分の常識、認識が。体が。作り変えられていく。この居場所に適合されられていってしまう。否応なしに変わっていく自分が恐ろしい反面、頼もしかった。そのお陰で、最近になってやっと叔父さんたちも世間話程度はしてくれるようになったし、この閉ざされた異質の地での生活も何とか続いてる。ガビとの関係は硬直状態が続いているけれど、よくやっている方だろう。

 まあ、そもそも。あの病院にいられれば、変わる必要なんてなかったのだが。夕暮れ時の空を見上げて、独りごちる。あたしをわざわざ連れ出してくれた人物は今、戦場に赴いていた。何もないはずなのに目の上が重くなってきて、対抗するように瞼をあげる。

 もう何度も経験した出立の日。周りから覆い隠すみたいに抱きしめてくるライナーへ「待ってるからね」とか思ってもないことを囁いて、見送ったのが随分と昔のことみたいだ。しばらくの間帰ってこないとはいえ、考えてしまうのはライナーが戻ってきた後のこと。あたしが胎を膨らませるか、ライナーが諦めでもしない限り、どうしようもない夜がまた続くのだろう。

 最初の頃は新しい朝日が登るたび、惨めで仕方なかった。もうとっくに手遅れとなった状態からしか抵抗できない自分、自己陶酔に浸って愚かな選択をした過去の自分が、そうとしか生きられないあたしたちにも。神様はそんなあたしを憐んでくれているのか、今のところ悍ましい命は芽吹いていない。けれど、このままいけばいつかその時が訪れるのは必然だ。そうなる前に、新しくできたあたしだけの味方に助けてもらわないとならない。

 ポルコとは、再会してからも約束を取り付けて何度か会っていた。二人で言葉を交わすのは、決まって他者の目が届かない場所。男を喜ばせる会話というものを知らないあたしは、囚われていた時と同じような世間話をしていた。普段は、ぽつりぽつりと降り始めの雨のような会話しかしないけれど、軍関係のことは違っていた。余程言いたいことが溜まっているのか、一度突くとポルコの方から熱を上げて喋ってくる。そんな姿をひたすらに肯定して、時折心配そうに眉を下げれば、ポルコには充分らしかった。ポルコがライナーと同じく戦地へ赴かなければいけない前日、思いつきで突然腕を引いてみたりもした。どんな反応をしてくれるか楽しみにしていたのに、口で嫌がるくらいで振り払ったりはしなかった。あたしの思惑は、順調に進んでいるらしい。

 初対面こそ、ポルコは硬派で無骨な男という印象だったが、中身を暴くとまるで違う。昂った感情に流されてしまうほど自分に素直で、あたしみたいなのに騙されてしまうところがライナーとそっくりだ。ポルコはドベと似ているなんて言われたくないだろうから、口が裂けても言わないけれど。

 

「ノエルちゃん」

 

 露店の方から呼びかけられ、足を止める。「こんにちは」呼び声にそう返せば、人の良さそうな顔がにっこりと笑う。焼きたてのパンが並べられた隙間から顔を覗かせていたのは、すっかり常連となっている店のおばさんだった。あたしという存在が日常になってしまったのは、周りの人間も同じらしい。

 

「また一人で買い出しかい?」

「はい、夕飯の材料が足りなくて……」

 

 聞き返してきた人間の顔へ、小さく頷いてみせる。そこに敵意や詮索の意図はなく、純粋な動機を向けられているのだとわかる。最初の方こそ、突然湧いて出た主婦らしき女の姿に好奇の目が向けられていたが、今やあたしは市場の常連。ライナーの嫁だ、とかいうどこから流れ出たかわからない噂のお陰もあってか、こうして気にかけてくれる店主が多かった。

 

「あんまり張り切りすぎちゃ駄目よ」

「いえ……あたしには、こんなことしかできないですから」

 

 自虐的に笑って、場を濁す。家事をしなければ生きて行けないこの状況が、側からはそう見えるのだろう。何もしないで、寝て起きていればいいだけの生活はとっくの昔に失われてしまった。

 

「はい、これ。持っていきな」

 

 おばさんが屋台の奥に入っていったかと思えば、膨らんだ紙袋をあたしへ突き出した。中身を見ずとも、香ってくる焼きたての匂いでそれが何かわかる。焦げた小麦の香りが、直接脳内に入り込んできて、顔を顰めそうになるのを堪えた。最近、妙に食べ物の匂いが鼻につく。他人の手料理なんか特に駄目で、最近は無理矢理にでも自分がご飯を用意するようになっていた。

 

「遠慮しないでいいのよ」

「ありがとう、ございます」

 

 ずっとここにいるから、ストレスが溜まっているんだろう。それらをぐ、と喉奥へしまっていたあたしを、おばさんは遠慮しているように捉えたようだ。屈託のない笑顔を向けられて仕舞えば、突き返すこともできなくなる。

 

「カリナさんにもよろしくね」

「ええ、伝えておきます」

 

 そう付け加えたおばさんへ適当に頷いてから、歩を再開する。この収容区の中にいる限り、どの名前からも離れらない。どの人間からも、ライナーの恋人であるノエル・ジンジャーを求められる。そう変化して適応してきたのは自分のはずなのに、無理やり骨を捻じ曲げられているような違和感が、傲慢にも主張し続けている。いつまで我慢しすれば、いいのだろう。こんな生活を、いつまで。気が遠くなるような現実に意識を掠め取られそうになり、「あ」視界へ飛び込んできた光景で、足が止まった。

 

「おい、やめろって。ガビ!」

 

 今いるところよりも少し先。人気のない路地へ繋がるような細ばった分かれ道の前で、その人はいた。とても見覚えのある姿が、これまた見覚えのある人の腕を引いている。いつも一緒にいるはずの眼鏡の子と女の子の姿がないくらいで、何の目新しくもない光景なのだが、一つだけ明らかな異物が混じっていた。恰幅が良く、悪どい顔つきをさらに歪めたその男は、記憶のどこにも引っかからない。

 

「このガキッ、ぶつかってきたのはテメェだろうが!」

「あんたがフラフラ歩いてるからでしょ?!」

 

 ファルコの静止も虚しく、怒鳴り散らかす男に負けじとガビが声を張り上げる。あたしと同じ腕章をつけた男は、反抗してくる子供に「あ゙あ?」と大人気なく凄むが、ガビが退く様子はない。

 

「すみません!俺が言い聞かせておくので、今は」

「ファルコも見たでしょ!ぶつかってきたのはどう見てもコイツなんだから」

 

 どちらも譲らずの硬直状態をファルコが仲裁しようとするけれど、すかさずガビに遮られてしまう。指まで突き立てて主張するガビの腕を掴んで下げさせようとするも、睨まれるばかりで振り解かれていた。何が起こったのかは見てないものの、大方の察しはつく。巻き込まれてしまった哀れなファルコを遠巻きに見つめながら、周囲に目を向けてみた。

 人通りはそれなりにあるが、子供を見捨てて通り過ぎる人影ばかりだ。ファルコには悪いが、あたしもその中の一人とならせて貰おう。見て見ぬふりをして、別の道から帰ろうと踵を返しかけたところで。

 

「あ」

 

 気配でも感じたのだろうか。不意にこちらへ向いたファルコの瞳と視線が交わる。やらかした。帰ろうと動き出しかけた足を止め、己への深いため息を耐える。ファルコが呼ぼうと口を開く素振りはない。確実に目があったにも関わらず、助けを求めることなく男とガビの方へ向き直った。

 

「候補生か知らねえが、ガキのくせに調子乗ってんじゃねぇよ!!」

「はあ?」

 

 一際大きく声を荒げた男に、ガビが真正面から食ってかかる。正直なところ、男の主張は少しばかり当たっているのだろう。でなければ、子供が悪漢相手にここまで食ってかかれない。元の性格も大いにありそうだが、そのうち痛い目を見そうだ。

 

「す、すみませんでした!こいつが、生意気なこと言って」

「勝手に謝らないでよ!あっちが先に手を出してきたんでしょ」

 

 「だ、だからって……」ガビの代わりに頭を下げたファルコが、前屈みになった姿勢を戻してから口籠もっている。孤立無援の状態でも、あたしを見つけたファルコが再び目を向けてくることはない。おそらく、あたしを気遣ってのことだ。ここでこのまま立ち去っても、あのファルコなら恨みがましく思うことはないだろう。

 

「おじさん。あんたがそう思うなら、いいよ」

 

 ガビが改まったように仁王立ちして、男へ向かって何かを喋っている。その向こうでファルコは不安げな表現を浮かべたままだ。まだ手を出されていないはずが、一段薄汚れている。訓練兵の頃、あたしもああいう風にズタボロになっていた。

 ファルコを無責任に励ましたのも少し前だ。あたしの言葉があってかは知らないが、今でもファルコは諦めずに食らいついているらしかった。一昨日も、あたしの話すのが楽しいって、恥ずかしげもなく言っていたっけ。

 

「本当に調子乗ってるだけか、確かめてみたら」

「ックソガキ……!!」 

 

 ああもう、子供って。ファルコって、ずるい。存在だけで守られるべきものと決まっている上に、あんな顔を向けてくる。そういう慈善活動はとっくの昔にもうやめたから。今からのは、一度きりの気まぐれだ。拳を握ったまま、一歩前へ踏み出そうとする男を視界に捉えて、体はもう動き出していた。

 

「ゔッ、は」

「ノエルさん……!?」 

 

 懐かしい痛みだった。脇腹に食い込んだ鈍痛が、粘ついた唾を口端から溢させる。突き飛ばした拍子に持っていた袋をぶちまけ、地面に大粒の染みを落としながらも。一歩、二歩。ふらりとよろめく足元に力を込めた。

 

「な、なんだ。お前っ」

 

 さっきまで遠くにいたはずの男が、眼前で動揺を滲ませる。当たり前の反応だ。突然、よくわからない女が割り込んできたのだから。虚を突かれたような男を鼻で笑ってやりたくなりながら、ファルコを背に隠す。

 

「な。なんで、あんたがここに」

 

 その横で、突き飛ばされたガビが地面に尻もちをつきながら、信じられないような目であたしを見上げていた。その周りには焼きたてのパンや食材が土の上に転がっている。勿体無い。今すぐにでも拾い上げたいところだが、まずはこの男を何とかしないと。

 

「はあ?お前……このガキたちの母親か?」

「し、りあいの子、なんです。言い聞かせておくので……勘弁して、くれませんか」

 

 見当違いのことを言ってくる男にたどたどしく言葉を返した。腹に食らった一撃で、如何にも弱っている風だ。大男を地に伏せるアニの蹴りや永遠に続く痛みに比べれば、とっくに痛みなど引いていたが、下手に出て損はないはずだ。「な、私は……!!」隣から心外だとでも言うような声が聞こえてくるが、前ほどの覇気はない。まだ、混乱しているらしい。

 

「知らねえよそんなこと!大体、お前んとこのガキが喧嘩売ってきたんだ」

「それは……本当に、ごめんなさい」

「謝って済む問題じゃねぇだろ!!」

 

 怒鳴られた耳が嫌な耳鳴りを発する。こういう輩はどこかで生産されていたりするんだろうか。いつかの暴漢と同じような汚らしい顔面を歪めて、男が捲し立てた。無駄に大きい声量と吐きかけられる唾が、あの男を思い出させる。顔が思いっきり顰め顔になりかけるのと、腐敗した下水のような息をどうにか耐え忍ぶ。「ノエルさ……」背後で何か言おうとするファルコの袖口を掴む。意図を察したのだろう、ひとまずは口を噤んだファルコにほっとしつつ、男から目は逸らさない。

 

「……それとも、何だ?お前が責任とってくれるのか」

 

 気味の悪い沈黙。正確に言えば、隠す気のない情欲を滲ませた澱んだ瞳がつま先から頭まで登っていってからだ。男は今までの怒り顔を途端に沈め、下品な笑みを作ってから言った。何もかも、壁内のあいつらと一緒では困るのだけど。お返しに深いため息でも吐きたくなるのを我慢して、か弱い女らしく喉を震わせた。

 

「子供たちには……」

「ああ、約束してやるよ」

 

 肩をすくめたら、下卑た笑いを浮かべた男が目と鼻の先に顔を近づけてくる。全身にぶわりと粟立つ鳥肌を感じながら目を伏せれば、肩へ男の手が乗せられた。腹の底でのたうち回る嫌悪感は、ライナーからだったら存在しないもの。され過ぎて鈍感になってしまったのか、一緒に過ごしてきた年月からの慈悲か。わからない。

 

「だ、駄目です。そんなっ!」

「黙ってろクソガキ!お前らのママが責任取るって言ってんだから邪魔すんな」

 

 黙って見ていられなくなったのだろう。ファルコが後ろから投げかけた静止を、再び憤慨し出した男が遮る。予想できていた展開に、あたしは肩を抱かれながら振り返った。

 

「ファルコ、いいから大人しくしてて」

「で、でも。ノエルさんが、」

「ファルコ」

 

 ゆっくりと嗜めるように言い聞かせ、ファルコはようやく口を閉じた。不安そうな表情をしたまま、立ち去ろうとはしない。さっさと逃げて欲しいのに。転がったまま、立ちあがろうともしないガビを横目に見ながら、内心で悪態を吐く。良い子過ぎるのも、問題なのかもしれない。

 

「あっ、」

「買い物帰りか?」

 

 それでも、早く逃げろと目で訴えかけていたつもりが、無駄骨だった。突然。肩を抱き込まれたかと思ったら、そのまま路地の壁に背を打ち付けられる。意識外の衝撃に息を漏らせば、男は首から引っ提げているエプロンへ視線を落としてから聞いてきた。

 

「不運だなぁ、こんなとこで」

 

 鼻につくような吐息を漏らしながら、男が耳元で囁いている。

 このエプロンは、病院を連れ出されて一週間と経たないうちにライナーから送られたものだ。料理する時に汚れないだろうとか、なんとか。まるで母親か妻のような扱いにまだ慣れておらず、あたしは固まることしかできなかった。後ろの紐も解けたまま放置していたら、謎に意気込んだライナーが勝手に結んだのだっけ。

 

「こ、……子供たちを返してから」

「んなこと言うなよ、見せつけてやりぁいいだろ」

 

 あの時の妙な興奮具合を思い起こせば、怯え声を出すのは簡単だった。演技に引っかかった男が、躊躇なく耳を舐めてくる。なめくじが這っているようなそれに、全力で身を捩りたくなりつつも、うまく踊らされている男が哀れでもあった。腕の隙間から外を覗くと、立ち尽くしているファルコと顔だけこちらへ向いたガビが見える。こんなのファルコには見せたくなかったけれど、仕方ない。

 

「やるなら、早く……夫が、帰って来ちゃうから」

 

 体に這わされている手を引き、服のボタンまで誘導する。わざと胸の上を通らせて、指先がどこかに引っかかるたび「ん、っ」それらしい声を出す。そのまま潤んだ瞳で見上げれば、男の呼吸音が一段と激しくなっていった。

 

「既婚者か?ははッ、どえらい淫乱妻だなあ、おい……」

 

 男は片手でボタンを外しながら、あたしの顎を痛いくらいの角度で掬い上げた。これなら、ライナーの相手する方がマシだな。いつも肝心なところで助けに来てくれないライナーの姿を脳裏に浮かべつつ、正面から男と向き合わされ、鼻息があたるほどに近づいたところで。

 

「まあ、……違うけど」

「あ?」

 

 あたしは、目の前の顔に思いっきり額を打ちつけた。ゴッ、と鈍いような音が響き「あ゙が、!?」男は思っていたより簡単に崩れ落ちた。さっきまでの威勢がどこにいったのか。額を抑えて屈んだ男の腹めがけて「ぐ、はッ!」見よう見まねの蹴り技を繰り出す。もうその必要はなさそうだが、耳を舐めてくれた分だ。あれだけあたしに技を教えてくれなかったアニが、唯一伝授してくれた秘策。それを仕上げとして、壁へ手をついてもたれる男の股間へ繰り出した。靴底を落とし、一気に踏み抜く。「ぎ、!?」日頃の鬱憤も込めたその一撃で、男は見てわかるくらい汗をかいた。腰が抜けたみたいにへたり込んでいる。ずくり、と湧き上がる何かに突き動かされそうになるのを止めたのは「え、?」側から聞こえてきた声と、驚きで見開かれた目玉だった。

 

「ガビ、ファルコ!」

 

 縮こまっている男を捨て置き、二人の腕をとった。「ぁ、ちょっ、と」困惑気味なガビの腕をお構いなく引いて、もう片方でファルコと手を繋ぐ。男はもうピクリとも動かなくなっていたが、この状況を誤魔化すには、今更で大袈裟なそれが必要だった。

 

「はあッ、は、は……」

 

 走り続けるのにも限界が来て、あたしは道の脇で足を止めた。一年弱に渡る主婦生活は、訓練兵時代に養ったなけなしの筋力と体力を削ぐのに充分すぎる時間だったらしい。少しも息の乱れていない二人の間で、あたしは無様に空気を吸っていた。

 

「っ、はぁ……怪我は、ない?二人とも」

「は、はい!ノエルさんのお陰で」

 

 膝についていた手を離して問いかけると、汗ひとつかいていない様子のファルコが頷いた。先程の行為がまだ余韻を残しているのか、反応はいつもより鈍い。「そっか……ガビは?」子供には刺激が強過ぎたのかもしれない。嫌われていないことを祈りながら、もう一人へと顔を動かした。

 

「なんで、助けた」

「っガビ!」

 

 あたしを見上げていたのは、いつもと変わらない敵意の籠った瞳だった。低く呟いたガビを咎めるように呼んだのは、やはり隣にいたファルコだ。男の時と同じように、ガビは態度を和らげることなく続けた。

 

「私は強いから、あんたなんかに助けられなくても……自分で、どうにかできた」

 

 「なんで、邪魔したの」いつもなら、目を逸らしたくなるくらい真正面から見つめ返してくるのに。ガビは、すぐさま視線を落として言い聞かせるように呟いた。驚くほど弱々しいガビの姿にあたしが目を丸くしていると、普段の関係を知らないファルコが口を開いた。

 

「そんな言い方はないだろ。ノエルさんは俺たちを助けるために、」

「できたの!!」

 

 それを遮ったのは、なんの形にもなっていない。良く言えば年相応の、悪く言えば幼稚な、癇癪に似た叫びだった。

 

「なのに、あんたが……!!」

 

 親族と紹介された時から不思議だった。ガビからは、ライナーの面影を一つも拾えないから。一切の混じりも感じさせない胡桃色の瞳に、改めてそう思い直しながら、あたしは口を開こうとしなかった。

 

「弱っちぃ癖に。嫌いな癖に、なんで……私を、」

 

 ギラギラと野生動物のような輝きが、徐々に光を失っていく。訴えかけるように握られていたガビの拳が、震えているのがわかった。掴み掛かられるかと身構えていたのが嘘みたいに、その場でゆっくりと落ちていく。あたしと同じくガビの様子を見ていたファルコも、覇気のなさに戸惑っているようだった。

 

「ごめんね、ガビ」

 

 あたしは、ぽつりと謝罪の言葉を呟いた。静寂を破ったその音に、俯きかけていたガビの顔が持ち上がる。そこにはもう、刺々しい敵意は残っていなかった。

 

「あたし、二人に傷ついて欲しくなかったの」

 

 「……どうして」あたしが適当な嘘を呟いてすぐ、上から声を被せられる。丸い瞳であたしの姿を捉えたまま、ガビは言った。

 

「あんたは……私のこと、嫌いでしょ」

「嫌い?」

 

 一体どこからそんな話が出てきたのか。身に覚えのない単語を反芻すると、ガビは表情を伺う間もなく俯いてしまう。下ろしていた両手が服を握りしめ、皺を作っている。

 

「だって。私……あんたに意地悪してた」

 

 黙って話を聞いていたファルコが、目だけこちらへ向けてくる。ファルコのことだから、ガビの話で大体見当がついたのだろう。とっくの昔から勘付いていたけれど、あたしはたった今気付いたように目を瞬かせてみせた。

 

「あんたの料理だけ残してたし、ライナーにあんたの悪口も言った」

 

 やたら食べ残しが多かった皿は、ガビのだったんだ。食事中は何も考えずにただ咀嚼する癖がついてしまっているから、全く分からなかった。

 

「ライナーは、なんて?」

 

 ゆっくりと窺い見てくるガビに知らなかった方の意地悪を聞き返す。食べ物については勿体無いのでどうかと思うが、悪口の方はもっと言ってもらってもいいくらいだ。ライナーがどんな返しをしているのか。些細な好奇心に突き動かされるまま聞き返して、ガビの返答に後悔した。

 

「ノエルも色々と疲れてんだろうって……」

「……そう」

 

 疲れてる、当たり前だ。誰かさんのお陰でこの歪んだ家族の仲間入りを果たして、誰かさんが勝手に子供を欲しがるから充分な睡眠も取れない。可愛がっているガビの前で一丁前に気遣える夫を演じていそうなライナーが容易に想像できて、せっかく作っていた穏やかな笑みが崩れかけた。今度帰ってきたら、服で隠せない部分に噛み跡でもつけてやろう。それをガビに問いただされて、慌てればいい。

 

「あたしは、ガビのことが好きだよ」

 

 頭の中で決めた仄暗い感情を上書きするように、あたしは微笑んでみせた。いかにも何も勘付いていなかった、鈍感な女のように。

 

「ガビは、あたしのこと。嫌い?」

 

 自分の膝に手をつき、目線を合わせたまま問いかけてみる。ガビの視界には確実にあたしが入り込んでいて、聞こえるような声量だったはずだが、結局返事が得られることはなかった。

 

「……帰ろっか」

 

 歩み寄ろうとしたつもりが、何も前進していないような。黙り込んでしまったガビに、今度はそう伝えてから曲げていた膝を伸ばした。複雑そうな表情で、同じく塞ぎ込んでしまったファルコへ笑いかける。

 

「ファルコも、途中まで一緒に……、?」

 

 最初は、些細なものだった。不自然に言葉を途切れさせたあたしを、ファルコが心配そうな目で見上げてくる。大丈夫って、伝えたいのに。「ゔ、」あれ。なんで、視界が溶けてる。

 

「お゙ぇええッ、え゙ぇっ、」

 

 くらり、と回転する世界。塞ごうとした手のひらが濡れる。口から吐き出されたのは、喉奥から迫り上がってきた別のものだった。地面にぶつかった膝の痛みが骨まで伝わってきて、耐えきれない。点滅する景色の中に。目の前に、せっかく詰め込んだはずのご飯。数時間前までは大人しく胃に収まっていたものが、ぶちまけられていた。酸っぱいような苦いような臭いが立ち昇ってきて、吐き気を呼び覚まさせる。

 

「ノエルさんっ、どうしたんですか!?ノエルさんっ」

「ふぁ、る……」

 

 何の液かも分からないものを口端から垂れ流しながら、応えようとして。「お、ぇ、え゙ぇ、……えっ」無理だった。抗いようのない衝動に喉を焦がされ、無理矢理にでも体を曲げながら、何度も。何度も。それを続けた。子供二人に惨めな格好も見られていることも、ここが道端であることもお構いなしに。今はただ、込み上げてくるものを外へ出してしまいたかった。

 人を呼んでこようと、立ち上がったファルコを引き留めて。ただ、背を摩ってもらいながら。それで、何十分経ったのか。胃の中身が全部ひっくり返されるまで吐き続けて。ぐちゃぐちゃに汚れた口元で、やっとまともな呼吸ができるようになった頃。

 

「ゆっくり、ゆっくりでいいですからね」

「は、あ……は、はひゅ、は」

 

 四つん這いになったまま、どうにか酸素を吸い込む。やっと吐く以外のことができた口を、はくはくと開閉する。尋常でないくらいガクガクと震えてばかりの、覚束ない自分の手を空っぽになった腹。その、もっと下に添えた。幻覚か、現実かはわからない。伝わってくるのは、朝にはなかったはずの鼓動。命が胎動する、悍ましくて醜い音。

 生理的に流れていた涙の雫が、重力に従ったまま落ちていく。いつかって、言ってたのに。こんなところまで作り変えてくれなくたっていい。

 

「は、っ、は……」

 

 神さまはいつもそうだ。あたしたちの話を、何も聞き届けてくれない。

 

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