島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【閲覧注意】(望まない)妊娠・中絶(具体的な描写はない)について触れます。捏造過多。自衛お願いします。


第40話 共鳴

 お昼前のレベリオ収容区。本来なら空高く登っているであろう太陽は、白い雲によって見えなくなってしまっている。何の面白みもない曇り空に目を向けながら、あたしは検問所の列が動くのを待っていた。そう、今日の目的はいつもと少し違う。単なる買い出しではなく、今手に引っ提げている包みを収容区外の軍本部に届けることだ。

 きっかけは、つい数分前のこと。その他の親族たちが仕事や訓練へ出掛けて、朝食の片付けをしていた最中だった。二人しか残っていない部屋の中で、あたしではない声がした。嫌な予感で手を止めるあたしの前。カリナは卓上のそれを指しながら独り言にしては大き過ぎる声を溢した。「ガビがお弁当を忘れていってしまった」と。机の上に残されている包みの存在は気づいていた。知ってて、何も触れずに放置していたのだけど。あわよくばこのまま放置されないかというあたしの淡い期待は、その時に砕け散った。

 本来ならお弁当なんて必要のないものだ。ガビたちはいつもなら兵舎の食堂で食事をとっているはずだが、今日だけは違った。丸一日外に出てっぱなしで課題をこなし続ける演習をやるとかで、弁当を持参する必要があるらしい。それを聞いたのが昨晩のこと。ガビは嫌がるだろうし、あたしが作ることにはならないだろうとたかを括っていたら、カリナに指名されてしまった。朝食のついでに作ってくれないか、と。ほとんど強制に近いお願いをされれば、首を縦に振るほかなかった。あたしの作った料理なんて食えたもんじゃない、とガビが反論してくれればよかったのだけど、何故かそんな声が出ることはなかった。

 輩からガビを助け出してから、ガビの態度は間違いなく変わった。柔らかくなったと言うよりか、敵視するのをやめたような、そんな感じだ。いちいち噛み付いてくることがなくなったし、ご飯も残さずに食べてくれているらしい。それにしたって、お弁当を作るのまで許してくるとは予想外だ。大した言葉はかけてないつもりだったが、ガビなりに思うところでもあったのだろう。お陰で突発性の吐き気に怯えながら余計な料理までさせられて、そんな体で出歩く羽目になってしまった。前みたいに吐いても介抱してくれる人はいない。道端で突然倒れ、胃の中身をひっくり返す勢いで吐いている女の姿を思い浮かんで、ひとり冷笑する。恐ろしいのは、もしかしたら有り得るかもしれないということだ。

 

「おお、ブラウンさんのとこの。今日はなんの用で?」

 

 余計なことをしなければよかった、と微かな後悔を滲ませていれば、列なんてあっという間だった。収容区と外界を分つ柵にはライナーが本部に行くのを見送る時くらいしか近寄らないから、物珍しいのだろう。門兵のおじさんが、不思議そうな目を向けてくる。どこかから湧いてくる居心地の悪さを掻き消すように小さく息を吸って、歯切れ悪く言った。

 

「ガビに忘れていったお弁当を持っていってあげたいんですが……」

 

 こんな陳腐な理由で収容区外に出れるとは最初から思っていない。外の人たちからすれば、あたしたちは巨人に化ける怪物なのだ。そんな化け物を不用意に外へ出す理由なんてない。許可が降りなかったと言えば、カリナも納得してくれる。そう当然のように思い描いていた未来は、またもや打ち破られた。「気をつけて!」わざわざ帽子をとって送り出してくれた門兵に、愕然とした気持ちで控えめな会釈を返す。ライナーの嫁だから?それにしたって、警備が甘すぎじゃないだろうか。奇しくも得てしまった外出許可証を握り締めながら、あたしは門兵に教えてもらった本部への道のりを辿っていった。右手に引っ提げた包みがより重くなったのは、きっと勘違いではないだろう。

 

「こっちです」

 

 兵団にたどり着いたあたしが通りすがりの道案内役として捕まえたのは、どこか見覚えのある顔だった。戦士候補生を示す黄色の腕章をつけた青年は、コルト・グライスと名乗った。既視感の正体が明かされ、「ファルコの」と、名乗るより先に呟いてしまったのも仕方がないはずだ。

 

「それにしても、大した偶然ですね」

「ええ、お弁当を忘れたガビに感謝しないと」

 

 慣れない廊下をずんずんと進んでいく背中を追っていると、人当たりの良さそうな笑みを浮かべたコルトが言った。僅かに上がった口角の形がファルコにそっくりで、こっちまで自然と頬が緩む。幼い頃にやった絵本の間違い探しをしているようだった。

 

「ノエルさんとは、一度お会いしたいと思っていたんです」

「あたしもですよ。いつもファルコから自慢の兄だと聞いているので」

 

 小さく肯首してから、口元にゆるりと微笑みをたたえる。戦士隊と一緒に戦地へ赴いていた兄が一時帰還するのだと、ファルコは喜びを抑え切れない様子で喋っていた。早口で目を輝かせている姿が珍しく年相応で、記憶に残っている。

 

「ファルコがそんなことを……い、いやあ。すみません。いつも世話になってるみたいで……」

「いいえ」

 

 コルトが頬をかいてから、恥ずかしげに視線を落とした。照れ臭さを誤魔化し切れず、顔を背けることしかできないところもよく似ている。次々と現れる面影を辿り、くすりと溢れてしまいそうな笑みを噛み殺す。 

 

「あたしこそ、こんな不審者に大切な弟さんを付き合わせてしまって……」

「いや、!ブラウン副長の奥さんが不審者な訳ないじゃないですか」 

 

 名前一つで信用を得られてしまうんだから、楽でいい。何度もされてきた嫁扱いに訂正する気も失せているので、そのまま受け流そうとして「副長?」されたことのない呼び方が引っかかった。眉を顰めると「……ああ!」あたしの表情で何かを察したらしいコルトが思い出したような声をあげる。

 

「つい昨日の会議でブラウンさんが次の戦士隊副長として任命されたんです」

 

 コルトは辺りを見回してからやけに控えめな声量で言った。ポルコから話には聞いていたが、まさか本当に選ばれるなんて。まあ、その嫁とやらに近況を尋ねる簡単な手紙の一通も出せないくらい奔走しているようだから、当然と言えば当然か。

 

「正式発表は本人が帰還してからなので、その……」

「わかりました。内密にしておきますね」 

「助かります。軍ってものはややこしくて……」

 

 立ち止まって言葉を濁すコルトに快く首を振れば、ホッとした表情へと変わった。兄弟揃って感情がすぐ顔に出るらしい。将来、悪い女に捕まったりしなきゃいいけど。ファルコを騙くらかしているあたしに言えたことじゃないが。

 

「その会議でコルトさんは本部に?」

「いや。自分はまあ、付き添いのようなものですよ」

 

 他の戦士隊は帰ってきていないのに、なぜコルトだけ帰って来れたのだろう。単純な疑問を口にするも、ハッキリとした回答は得られない。付き添いって、誰の。頭に漠然と浮かんだ言葉を尋ねようとして、柵の向こう側に見知った頭が見えた。

 

「ノエルさん!?あ、兄貴まで」

「こんにちは」

 

 中庭の土を踏んで近づいてくるあたしを見て、真っ先に声をあげたのはファルコだった。平らに整備された場所の一角で集まって、雑談でもしていたのだろう。ガビの他にも、いつか見たことがあるような二人がいた。唐突に知らない女が来たら驚くだろうと思っていたのに「ノエルさんって、例の?」「この人が……」目の前で繰り広げられる意味のないヒソヒソ話は以外にも冷静だった。ファルコやガビから聞いていたんだろうか。コルトに知られていた件といい、身の振り方にはもう少し慎重になったほうがいいかもしれない。

 

「訓練、邪魔しちゃってごめんね」

「何、しに来たの」

 

 より一層慎重にならないと。そう心に決めてから眉を下げたら、好奇心を隠さずに見つめてくる他二人と違う顔つきをしたガビに遮られた。目も合わせず、声だけをぶつけてくる様は、つい先日までと正反対だ。真正面から、逃さないとでも言うように見つめてきていた時の気概は失われてしまったのだろうか。

 

「ガビにこれを届けに来たんだよ」

「あ……それ」

 

 眼前で包みを突きつけると、丸い瞳がそれを捉える。「弁当!よかったじゃん、ガビ」「昼抜き、って言ってたもんね」丁度お昼時だし、弁当がないとでも話していたんだろうか。眼鏡の子がガビの背を叩き、隣の女の子が静かに微笑む。弁当一つでは大袈裟なくらい湧き立っている中心で、控えめに伸ばされた手のひらが包みを受け取った。よかった、約束の時間には間に合いそうだ。胸を撫で下ろし、屈んでいた腰を伸ばしかけたところで。

 

「……あり、がと……」

 

 今にも消え入りそうな音が、耳朶に触れる。ハッと、声にもならないそれを発したのはファルコか、あたしか。弱々しいけれど、確かに聞き間違いでないそれ。驚嘆の沈黙を呑み込んでから、唇を開いて。

 

「ガビ、」

「俺たちもお腹すいたよな」

「うん、空いた」

 

 上げられた瞳と視線が交わったところで、無邪気な声が割り入ってきた。乗せようとした言葉が、口内で溶けてゆく。「ガビとファルコは?」悪気のない問いかけに、あたしが何か思うような間はなかった。「ゔッ!」鉄槌が下されたからだ。言い出しっぺである眼鏡の子の腹に、ガビの拳がめり込んでいる。

 

「なっ、なんだよいきなり!」

「いいから、さっさとあんたも弁当だしな!」

「お弁当のカツアゲ……初めて見た」

 

 感心したような声で、どこか見当違いの感想を述べる女の子に、振り返ったガビが「ゾフィア、あんたもだよ!」とすかさず付け加えた。眼鏡の男の子は未だに腹を抑えたままで、ガビに容赦なく鞄を引っ掻き回されている。どこか懐かしい騒々しさに、目を窄めた。

 

「折角ですし、もう少し見学してかれますか?」

 

 さっきのことが気になるのだろう。物憂げな顔で見上げてくるファルコへそっと笑いかけたところで、コルトが隣から問いかけてきた。やっと帰れる。内心で一息つきかけていたところを、名残惜しげに目を伏せる。

 

「お誘いは嬉しいんですが……あまり収容区外にいるのもなんですから」

「そうですか……なら、また収容区で会った時に」

 

 「ええ。お茶でもしましょう」正直なところ。獣の巨人の継承者であるコルトとは、あまり会いたくないのだけど。上部だけの返事をして、にこりと笑ってみせた。

 

 

「ここ、……」

 

 ぽつりと溢れた自分の声が、いやに大きく響く。目の前には、ブラウン家と同じような集合住宅があった。何の変哲もない、煉瓦造りの家だ。周囲の目を気にしながら、そっと中へと足を踏み入れると、これまた似たような内装だった。天井の隅に張り付いている蜘蛛の巣から目を離して、約束していた部屋を探した。

 未だ賑やかにやっている子供たちへ挨拶をしてから、コルトに本部の外まで送り届けてもらったのが数十分ほど前になる。あたしは本部から迷うこともなく、無事に収容区内へ戻ってきていた。皺になるくらい握りしめていた許可証も、片腕に下げていた重みも、もう必要ない。そして、待ち合わせの場所に着くことができれば、いつまた襲ってくるかわからない吐き気に怯える必要もなくなる。

 そうだ。道端で惨めに吐き続けたあの日から、あたしは決めていた。そのために、あたしの中で胎動する命を他の人間からひた隠しにして、買い出しの合間で情報を集めて。やっとここまで辿り着いた。

 待ち合わせの場所は、生活音が聞こえてくるような廊下の突き当たりの部屋だった。ドアの前についたプレートのようなものには、何かが書かれていたようだが、擦り切れていて、目を凝らそうが読めそうにない。何度かノックして待つも、返事一つ返ってこなかった。押し黙り、溜まってきた唾を嚥下する。意を決してドアノブへ手をかければ、呆気ないほど簡単に開いた。

 そそくさと内側に体を滑り込ませて、後ろ手でドアを閉じる。香りたつ埃臭さに、胃がざわめく。その部屋は空き家らしかった。廊下を進み歩いた先には、窓際の机、椅子と、簡易的なベッドが置かれている。ここは、廃業した町の診療所なのだろうか。答えられることのない疑問を抱えながらも、机の前で対になっている椅子の一つへ、そっと腰を下ろす。椅子の座面に埃は乗っていなかった。つまり、目的地はここで間違いない。ずっと重くのしかかっていた何かがなくなって、背もたれに体を預ける。ギシリ、と椅子を軋ませながら、蜘蛛の巣が張り巡らされている薄汚れた天井を仰ぐ。

 マーレ人とエルディア人の間に子を設けることは固く禁じられている。ここへ来たばかりのあたしでも分かるような、一般常識。あたしはそこに目をつけた。禁じられている。つまり、あり得ない話ではないということ。そんな禁忌を犯した話は、少し探っただけで嫌になるほど出てきた。愚かな人々を、救おうと手を差し伸べる存在も。

 一度きりの不貞行為で出来てしまった、マーレ人との子供。あたしが今回吐いた嘘は、ありふれた茶番だった。自業自得だと笑うにしてもくだらないから、プライバシーを守るという団体の意向はありがたい。

 今待っているのは、仲介役をしているとか言う人物。話に聞いた限りは良い人で、団体の支援者でもあるそうだ。事情を話せばすぐにでも医者を手配してくれるという話だったが、どうにも不安が拭えない。それが、顔も名前も知らないその人に対してか、これから行われるであろう得体の知れない手術に対してか。検討もつかない。たぶん、両方だ。

 そうして考えていたら、キィ、と。あたしがこの部屋に入ってきた時と同じ、悲鳴に似た軋みが鳴った。治しきれてない寝癖を弄っていた手を止め、近づいてくる足音に意識が引き込まれる。

 

「あれ?」

「な、……」

 

 廊下の奥からやって来た、その人物の顔が視界に飛び込んできて。全身から、血の気が引いていくのがわかった。

 

「獣、の」

 

 冷えた体が勝手に立ち上がり、その拍子に座っていた椅子が倒れる。なんで。とか、そう言う場合じゃない。筋の通った鼻、灰がかったブロンド。顎に蓄えられた髭は、自らが保有する巨人を主張しているようにも見える。その中でやはり異質なのは、妙な形をした眼鏡の硝子に覆われた瞳。あの夜の惨劇を引き起こしてもなお、変わらないそれ。

 

「あー……なんだっけ」

 

 痛いくらい締め付けてくる心臓を抑える。掠れ切った吐息しか吐くことのできないあたしは、その場違いな声色をただ聞くことしかできなかった。

 

「そうだ!ノエルちゃんだ」

 

 眉間を揉んでいた男が、落としていた視線をあげる。不気味な碧色の前に晒された体が、凍りつく。数年前のちっぽけな悪魔のことなど、忘れているかもしれない。愚かな希望は無惨にも絶たれた。

 

「あれっ、そうだよね?俺、間違えてないよな」

 

 絶句したままでいると、男は小首を傾げながら急かしてきた。今すぐにでも、あの体を押し除けて逃げ出したい。この視線を断ち切ってしまいたいのに、役立たずの体は指先ひとつ動かせない。

 

「……だったら、どうするの」

 

 この男に真正面から向き合うことなどできなかった。気を抜いたら膝から崩れ落ちてしまいそうなほどの震撼に呑まれながら、そばの机に手をつく。壊れてしまったみたいに振動している指が目に飛び込んできて、またもや冷や汗が溢れた。伏せがちになった首で、前髪の隙間から視線をずらす。せめて、態度くらいは舐められないように。ひくついている口端を、なけなしの意地で無理矢理にでも吊り上げる。

 

「軍に、……報告する?」

「おいおい、そんな目で見ないでくれよ。俺まだ何も言ってないだろ」

 

 まともに笑みを作れているのかさえわからない。鳴り続ける心臓の音に邪魔されながらも、正常に働く耳はジークの呆れを含んだような言葉を拾った。眩暈を起こしそうな空間を捉えながら、その一挙手一投足に全神経を傾かせる。ポリポリと怠慢に頭を掻いていたジークが再び目を向けてきて、分かりやすいくらいに肩を落とした。

 

「繊細なんだよ、俺。これでも」

「繊細……」

 

 何を言っているんだ、この男は。その表情からは、冗談なのかさえ伺い知れない。ウドガルド城を襲い、先輩たちを肉塊へと変えた張本人のどこが、繊細なのか。聞き返すことのできないあたしは、タチの悪い冗談だと思い込むことしかできなかった。

 

「まあ、……とりあえず」

 

 呟いて、ずっと部屋の入り口で立ち尽くしていたジークが動いた。溢れそうになる悲鳴を噛み殺して、背後へ退こうとするあたしとは正反対に、ジークは悠々と近づいてくる。

 

「話だけは聞いてあげようかな」

 

 ベッドと机に遮られ、唯一の逃げ道である廊下はジークを挟んだ向こう側。八方塞がりとなって、背に机を食い込ませることしかできないあたしを、ジークがあの瞳で見下ろしてくる。

 

「そこに座りなよ、ノエルちゃん」

 

 目の前の男を殺す術もない、逃げ出す先も、捕まらない保証もない。今この空間を握っているのは、間違いなく目の前の男。ジークの気分が少しでも変わって、軍に告げ口されれば、あたしは呆気なく終わる。今までの媚態も、味方も、居場所も。何もかも無駄になって消えてしまう。それを延命するには、黙って従うほかなかった。

 ギシ、とやけに大きく軋んだ椅子の上。あたしは膝に上で手のひらを組んでいた。少しでも気が抜けたら、体の芯すら保てなくなって、前のめりに倒れてしまいそうだ。

 

「で」

 

 吐かれる息ひとつに肩を揺らしながら、より一層強く指を絡めたところだった。ジークがコートの裾から取り出した紙。おそらく、あたしが吐いた嘘でも纏めているのであろうそれを片手で広げながら、ジークが言った。 

 

「マーレ人との間にできた子供、ってことでいいの?ライナーとは破局?」

 

 あたしが何か言うよりも先に「あ、でも」ジークが顎に手を添えた。その瞳は、記憶を探るように宙をなぞっている。

 

「最近婚約者がいるとか、なんとか言ってたか……それは、ノエルちゃん?」

「……はい」

「じゃあ、父親は?」

 

 自分で口にするにはあまりにも不本意過ぎる事実を、どうにか絞り出してすぐだった。息を吐く暇もないまま問いただされ、苦いものが何処かから口の中へ広がっていく。

 

「ライナー、です」

「ああ、やっぱり」

 

 まだ受け入れたくなかったそれが、落とした声と共に現実味を帯びてくる。いや、そんなのはとっくに分かってた。それでいて、どこかであり得ないと否定していたかったんだ。数年前じゃ、想像すらしなかった今を乾いた喉に嚥下した。そう。唇を噛み締めながら答えても、ジークは瞬きひとつしない。最初から、全てわかっていたように。

 

「よかったじゃない、好き同士なんだろ?」

 

 この男には恐ろしいほどよく似合う、何ひとつ熱の籠っていない祝福だった。数年前なら、わざわざ声を上げて訂正していたような勘違いに、返事をする気力はない。

 

「マーレ人でもないんだし。堕ろす必要ないと思うけど」

「っ、あたしは……!」

 

 ジークが持っていた紙をひらりと翻したところで、声を上げていた。突然の行動に、二つの双眼がこちらへ向く。膝に乗せていた手を硬く握りしめてから、あたしは震える唇を開いた。

 

「子供なんか、望んでません」

「……へえ」

 

 自分たちの意思で作ったくせに。軽薄な相槌と共に向けられた視線が、そう言いたいのだろうと察するのは簡単だった。握りしめていた手に爪先が食い込み、じわじわと熱を上げていく。「だって」それに抗うよう、あたしは声を上げていた。

 

「……この世に生まれたとして、何の意味があるの」

 

 手繰り寄せられた服が、深い皺を刻んでいく。生死を決める瀬戸際で、慎重に言葉を選ばなければいけないのに。わかっていても、止められなかった。

 

「他人の命を奪って生きることしかできない、こんな世界に」

 

 見ていただけの傍観者と、あたしを苦しめていた悪人。勇敢に戦って死んでくれた上官、ずっと騙していた仲間たち。あたしが捨てた親に、身代わりにした親友。数え上げたらきりがない。あたしは、その人たちの命を踏み躙った。そのお陰で。今、息をしている。

 

「自分一人すら、生かすのも儘ならない。こんな世界に……生まれさせて、どうするの」

 

 これだけの屍を、罪を、積み重ねているのに。この世界では、呼吸をすることすらやっとで。

 

「それなら――生きる歓びも、死の恐怖も。知らなくていい」

 

 故郷から遠ざかる船の上、恐怖に怯える人々の中で、ただ一人見上げた夕暮れ。永遠に続くはずだった痛みと死から救ってくれた、何よりも美しい空。

 親友を突き飛ばした、手の感触。いつまで経っても、洗い流されることなく纏わりついてくるそれ。脳が千切れそうになるくらいの痛み、目の前の全てが敵になってしまったような感覚。冷たくなった半分の体は、灰になって還っていく。何も残さずに。

 

「……知らない、ままでいい」

 

 あたしには理解できない。この世界が残酷だと知っていていながら、罪のない命を投げ出すなんて。自分でさえ、まともに生きさせていられないのに。

 

「ジークさんは、そう思いませんか?」

 

 言って、ずっと下に向いていた首を持ち上げる。膝の上で握りしめた拳は、もう震えてなんかいなかった。

 

「生まれてこなければ、……こんなことにはならなかった」

 

 この世に生まれてこなければ、裏切りも、悲しみもなかった。あたしが、生き延びたいと願うことも。そのために、こうして他の命を奪うことも。

 顔を上げた先、ジークは先程までの表情をやめていた。手に持っている紙が重力に従って折れているのに、正すことすらしていない。僅かに見開かれている瞳を捉えて、どこかで溜飲が下がる。

 

「同じなんです」

 

 あたしは、今も昔も。ずっと変わらない。

 

「ずっと、自分のために殺してきた」

 

 たぶん。生まれた時から、こうだったんだ。

 

「だから、子供だって殺せる。それが、……自分の子供でも」

 

 片手を動かして、命が宿っている場所へと指を伸ばす。服の上からでは、まだ何の変化もない。それが数ヶ月と経てば、遅効性の毒みたいに回ってくる。隠し通せなく、逃げられなくなる。そうなる前に、あたしはこの温もりを手放す。自分のために、死んでもらう。そこに何の躊躇もない、あるのは。そうなる運命に決まっていた命への、同情だけだ。

 

「あたしは、……島の悪魔なので」

 

 あの。あたしを痛ぶっていた男は、ある意味正しかったのかもしれない。胸の内でそう溢してから、ゆっくりと微笑んだ。

 

「これでも、まだ。必要がないと言いますか?」

 

 お喋りな口はどこへやってしまったのか。あたしの命を握っていなければ、嘲笑していたことだろう。口を噤んだまま、ただ静かに話を聞いていたジークへ、今度はあたしから問いかける。

 

「いいや、……充分過ぎるくらいだ」

 

 ジークの、感嘆でも漏らすような息づかいが静寂を破った。どう返されるのかと、身構えていた気持ちが一気に緩む。その顔は手で覆い隠されたままで、その肩は煽動しているように見えた。

 

「まさか。ノエルちゃんがこっち側だったなんてな」

 

 「ライナーもいい趣味してるよ、本当」そうぼやきながら骨ばった手が外されて、目線が交わる。硝子の奥から向けられている瞳は、人間らしく輝いていた。この場には似つかわしくないくらい、爛々と。

 

「よし」

 

 そう言って、ジークが椅子から腰を上げる。遠慮なく伸ばされた腕が、船の上でされた時のように肩を叩いた。

 

「俺たちで、そのお腹の子供をこの世界から救ってあげよう」

 

 救う、か。大層な言葉だ。鼻で笑いそうになったのを、喉奥へと押し込む。今からすることは、そんな高尚なものじゃない。何もできない命を一方的に殺す。ただの殺人なのに。

 

「はい」

 

 救いを騙るのは簡単だった。昔から、何度もやってきたから。生を脅かされる心配がなくなり、安堵する頭を縦に振った。その下で、命が閉じ込められている場所を優しく撫でる。今から殺される。あたしが殺すことにした、命。

 一度目は、親友。二度目は、自分の子供。あたしはつくづく、どうしようもない屑のままだ。確かに膨らみのあるような気のするそこを、手のひらで覆う。

 

 もし、あたしたちが。何も知らない、ただの被害者でいられたなら。

 

 じん、と熱くなった目の奥は、何も吐き出そうとしなかった。




まともだけど終わってる人たち。
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