島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第41話 前夜

 きっかけは、いつからだったんだろう。外から聞こえてくる虫の音に耳を傾けながら、手を動かす。迎えを待つと額を合わせた船室。もしくは、木の上で誓い合った時か。いや、厩舎でした約束。もしかしたら、もっと前かもしれないし、きっかけすら、あったのかも怪しいくらいだ。

 

「ノエル、すまない……」

 

 一つだけわかること。ライナーがこうなるきっかけを作ったのは、確実に数刻前の夕食だった。料理とは違って、薄味の会話をライナーと交わしていたカリナが、あたしの両親と挨拶がしたいと言い出したのだ。最初の頃に親族は全員死んだと伝えていたはずだが、忘れていたのか。他の意図があったのかは分からない。確かなのは、その一言で余計な手間が増えたと言うことだけだった。

 

「俺のっ、俺の……」

 

 ベッドの淵で腰掛けいるあたしを、床の上で膝をついたライナーが下から抱き締めている。所詮膝枕と言い換えられるその状態を、物言いたげなライナーの目によってつくらされて、何分経ったのだろう。腰に回された腕の力が強くなり、ライナーの鼻先がより一層太ももへ食い込んでくる。

 

「うん」

 

 言葉にすらなっていない。嗚咽ようなそれを垂れ流して、小刻みに震えているライナーの髪の毛を、梳かすように撫でてやる。欲を向けてくる時とはまた別の、耳障りな呼吸音。大袈裟なくらい大きくて、途切れ途切れに響いてくる。

 ライナーがこうなるのは、珍しいことじゃなかった。その度に、こんな。母親がするようなことをやらされている。何も言わずに撫でられるだけだったり、今のように何かを呟いていたり。その代わりに、大抵はこのまま寝てしまうので、体を使うよりかは楽だった。

 自分より一回り大きい男を、あやすなんて。最初こそぎこちなかったが、二年も経てば慣れるものだ。それに。収容区の人々に尊敬されている戦士隊副長が、情けなく女に縋っている。一度洩れれば、致命的とはいかずとも、かなりの恥を負うであろう姿を知っているのは、あたしだけだ。行動に映しこそしないが、溜まった鬱憤を優越感に変えていくには充分だった。そうする事でしか、暇を潰せなかった。

 

「俺のせいで、お前の父親は死んだんだ……!」

 

 ライナーは巨人を継承される危機から、みんなの憧れの的にまで登り詰めた。副長という称号を得てから、ガビからはより慕われるようになったようだ。軽い昇格祝いをした際の、自慢げな顔を覚えている。そんな、格好良くて頼れる副長さんが、あたしの前にもいてくれたらいいんだけど。汗で張り付いた前髪を払ってやろうとした手が、空中で静止する。

 

「……うん」

 

 一拍の間を置いてから、あたしは何度目か分からない相槌を打った。水浴びもせずに、ベッドまで来てしまったからだろうか。いやにベタついているライナーの額へ指を滑らせ、前髪を梳かしてあげる。

 

「マルセルが死んだのも、壁が。破壊されたのも……」

 

 またか。つい溢しそうになるのを、喉奥で留めた。こうなった時のライナーは、いつもこの話ばっかりだ。それがライナーの背負う罪であることは理解していても、聞かされる側としては退屈だった。だって、なんの意味もない。誰に謝ろうと、後悔しようと、過去は変えられないのだから。

 例えば、そう。数ヶ月前に奪った命。まだ幼いとも言えないような、何の穢れもない罪なき命を、あたしは奪った。ジークに言わせてみれば、救ったのか。家畜みたいに縄で縛り付けられ、みっともなく足を広げ、今から出産でもするような格好で、真逆のことをした。自分が生きているのかすら、分からないほどの激痛にのたうち回って、喉が引きちぎれそうなくらい叫んで。気絶したんだったか、耐えきったのかは覚えてない。瞼を開けたら、遠くの方に桶みたいなものが置いてあった。その中身をあたしが知るよりも前に、とってつけたような哀憐を貼り付けた医者が告げた。あたしの体は、もう子を宿すことができない、と。その時に溢れ出た涙がなんだったのかは、思い出したくない。

 隠れて息を吐き、止まっていた手を再び動かした。ライナーの短く切り揃えられた髪の毛を、頭の形に沿って撫で付ける。髪が生え始めた赤子も、こんな感じなんだろうか。あたしに、確認する術はもうないけれど。

 さらさらと、髪の毛が指の間を通っていく。あたしが殺した命。最初で最後だった子供が、もし。あたしの前に現れたとしたら。あたしは、ライナーのように謝るのだろうか。首を垂れて、裁かれることを望むだろうか。

 

「お前の親父が、瓦礫に潰されたのも……」

 

 掠れきった鳴き声が、息遣いだけの部屋によく響く。あたしがいつかに吐いた陳腐な嘘を、ライナーはまだ信じ込んでいるらしい。真実を伝えたっていいんだろう。本当はそんなことなくて、あたしが殺したようなものなんだと。ライナーとは関係のないことなのだから、謝る必要はない。と、それはもう甘く砂糖を煮詰めて溶かしたような囁きで許してあげれば。きっと、ライナーもそれを望んでいる。

 

「うん」

 

 そこまで分かっていながら、あたしは前と変わらない返事だけをした。ライナーが背負い込んでいる罪の、ほんの上澄みを掬ったところで、この無駄な時間が終わるとは思えないからだ。それを知っていて、伝えてあげるような優しさも、今はもう持ち合わせていない。何より、こんなところにあたしを縛り付けているのだから、少しくらい罪を肩代わりしてくれたっていいだろう。

 

「全部。俺の……」

 

 ライナーが言い切って、固く瞼を閉じた。現実を目に映すことさえ、苦しむように。あたしの腰を抱いている手のひらに力が籠る。太腿に埋められていた頭が、深く擦り付けられる。その衣擦れを耳にしながら、あたしは目を窄めた。

 結局は、似たもの同士なんだ。あたしも、ライナーも。過去が変えられないと知っていながら、罪がなんだと嘆いている。今のあたしも、同じ。己を悪魔だのと言っておきながら、きっと。心のどこかでは。

 

「あと、三年だ」

「……三年?」

 

 膝に乗っている温もりを感じながら、一緒に目を閉じようとして。独り言のような音が届いた。瞬きをしてから、唐突な単語を反芻する。ライナーは、すぐに答えようとしなかった。ぐ、と唇でも噛み締めているかのように押し黙ったあと、漸く口を開いた。

 

「俺の寿命は、もう三年も……ない」

「……なんで、?」

 

 そう聞き返したら、ライナーはすぐに教えてくれた。エルディア人の先祖である、始祖ユミル。御伽話のような存在と、知性巨人を継承した人間に定められた13年の命について。

 

「すまない。お前が悲しむだろうと思って、……ずっと、黙っていた」

 

 それにしては、饒舌な語り口だった。まるで、聞いて欲しくて堪らなかったかのように。あたしの顔も見ずに話しているライナーを見下ろしながら、その矛盾を嘲笑う気はしなかった。

 そういうものだと割り切って、受け入れてきた巨人の力。その、今まで考えすらしなかった真実を告げられても、それほどの衝撃はなかった。人間が巨人になることすら、この世の理から外れた行為だというのに。喉を裂かれようが、四肢を切断されようが、息絶えることのない不死身の力。人智を超えたようなそれが、なんの対価も支払わずに得られる力であるはずがない。

 どちらかと言うと、そんな事実をライナーが今まであたしに伝えていないことの方が驚きだった。要らない気遣いのせいなのか、だとしたらもう少し後。死に際にでも言ってくれれば良かったのに。中途半端なところで耐えきれずに吐露してしまうのは、残念ながらライナーらしかった。

 

「俺がいなくなっても……幸せに暮らしてくれ。母さんたちと……俺たちの、子供と一緒に」

 

 ライナーが溢したのは、ありふれた望みだった。頷こうとして、付け加えられた最後の一言でやめる。

 ライナーには何も伝えていないから、あの無意味な行為は続いていた。もう新たな命を宿す心配のなくなったあたしにとって、それはライナーの欲を満たすだけのものへと成り下がっている。元からそっちの側面の方が強かったが、数ヶ月前からはさらに増しているのだ。いつまで経っても妊娠の予兆を見せないから、あたしがそう言う体質、なんだとライナーは思い込んでいるらしかった。最近も、夫として、とかなんとか言って妙に意気込んでいたっけ。

 ずっと、なんでそこまで執着しているのかと不思議だった。特別子供好きな訳でもなかったのに。それが今になって腑に落ちた。それにしたって、無責任過ぎるけれど。あの夜の謝罪は、その意味も含んでいたのだろう。

 

「あと。お前にはずっと、……俺を想っていて、欲しい」

 

 嗚咽を噛み殺すように、深いため息で喉を震わせてから、ライナーが言う。まるで命でも握られているかのような懇願だった。小刻みに揺れている体は変わらずに、あたしの返答を待っている。こんな風に言われて、断りでもしたら。あたしが悪者みたいじゃないか。

 

「……うん、いいよ」

「ノエル……」

 

 強張った口元を無理矢理にでも緩ませ、ライナーが望んだ通りの言葉を返す。名前を呼ばれてから、熱い吐息が膝の服に染み込んでくる。生温く溶けていくそこへ「お前は。お前だけは、最初から……俺を」ライナーは額を擦り付けた。引き寄せられた腰が、僅かに屈む。

 

「だから、お願いだ。最期まで」

 

 ライナーが肩を震わせながら、擦り切れそうな涙声を出した。目の前にいるのは、死を定められた惨めな生き物。あたしという悪魔にしか、心からの遺言を残せない孤独な男。かつては、何よりも大切だった、恩人のひとり。

 ふと、ベッドについていた腕を持ち上げる。指を伸ばして、ライナーの目尻に溢れている、大粒の雫を掬った。

 

「ライナー」

 

 口を動かすと、ずっと俯いていた顔が持ち上がる。見開かれた瞳から、もう涙は流れていない。その瞳に見せつけるよう、拭い取った一粒が残っている人差し指を咥えた。じわりと広がっていく塩の味。それを舌の上で転がせば、数秒と経たずに消えていった。あたしが指を舐めとる姿を、ライナーは目で追ってくる。それとも、何かを期待しているのか。何も無くなった指を唇から離して、ライナーの頬に手を伸ばす。やつれた骨の窪みに手を這わせてから、身を寄せた。

 

「そばに、いるよ」

 

 髪の毛が鼻先に触れた。ライナーの顔を胸の中に押し留めて、世界から隠してあげる。ライナーがお気に入りの言葉。あたしを縛り付ける呪いを呟きながら、耳朶へ口を寄せた。柔らかい軟骨を唇で食めば、息を呑む音がする。

 何度か甘噛みをしてから、唇を開いた。完全には離さないまま、短い口付けを落としていく。「ノエル」吐息混じりの声も無視して。すっかり色づいているそこを、もっと鮮やかにするために。ライナーの意識を、現実から逸らすように。何度も。

 

 そのまま折り重なるように眠って、久しぶりに夢を見た。微睡の中で浮かんできたのは、訓練兵時代の苦しくも楽しかった幸せな記憶。何も知らないでいられた頃、愚かだった自分。

 あたしは仲間たちに囲われている自分を、見ているだけだった。食堂に並んだ四つの背。その周囲に、かつての仲間たちがすれ違い、時には話しかけて去っていく。

 あたしと特訓の話をしていたであろうエレンがアルミンやミカサと共に歩き去り、今度は嫌な笑みを浮かべたジャンが近寄ってきた。付き添い人のマルコも一緒で、ライナーとも何か言葉を交わしながら、最後はつまらなそうに帰ってく。雀斑のある頬を柔らかくあげたマルコが、別れ際に微笑んでから、先に行ったジャンの背を追っていってしまう。夢の境目、光に呑まれてく。その瞳はやっぱり、あたしを映さなかったけれど、それで良かった。こんな、醜くて汚い姿を見られる訳にはいかないから。

 四人の人影だけはずっと動かず、楽しげに雑談をしていた。口を動かしたまま、あたしが芋を齧る。咀嚼し、喉を動かしたところで苦しげに顔を顰めたまま、胸を抑えた。ライナーが立ち上がってあたしの背を叩く。ベルトルトがすかさず、側のコップを持ち上げてあたしに差し出した。水を飲み干したあたしが、調子良くお礼を言って、アニが呆れ返った目で何かを呟いている。ありふれた日常の一幕だ。

 ベルトルトがどうなったのか、ライナーに問いただしたことはない。わざわざ聞かなくとも、どうなったのかは分かっていたから。アニの行方も同様だった。救出とか言っていたから、兵団に捕まったのは確かなのだろう。それからどうなったのか、想像すらできない。間違いないのは、この四人がもう集まることはないということ。二人がいなくなり、三年後にはライナーも。かつての。目の前のあたしが望んでいた未来は、何一つ叶わないらしい。

 いつの間にか、食堂には誰もいなくなってしまっていた。動きもできない朧げな世界で、息をつく。何一つじゃ、ないかもしれない。

 

――悪魔は誰にも知られず、惜しまれず、ひっそりと死ぬ。

 

 それくらいの望みなら、簡単に。「はは、」誰にも拾われることのない音を溢す。叶うことのない希望に縋って、生きようとしている過去の自分が、馬鹿馬鹿しくて。今だけは、哀れだった。

 

 

――――

 

 

 建物の壁に背を預け、顔に巻いた布を深く被り直す。場所が場所なだけはあり、行き交う人々の中に知り合いの人影はない。それでも。引き寄せた布を、目元まで引き寄せる。噂というものはどこから洩れるか分からない。やり過ぎな程度に警戒しておくのが、結局は一番いいんだ。

 そう独りごちたところだった。すぐ側で、あたしと同じように立っていた女が動く。派手に着飾った服を揺らしながら、歩いて来た中年の男に近寄っていった。女が男の腕に絡みつき、何度か言葉を交わしてから、その状態で近くの建物へ入って行く。この一連の流れを眺めたのも、今日で何度目か分からない。焦る気持ちに蓋をして、落とした視線を上げたところだった。

 

「ポルコ!」

 

 待ち望んでいた人の姿が視界に飛び込んできて、それからは思いつきだ。いかにも待ちきれなかった様子を装って、駆けた足の勢いを乗せたまま、胸の内に飛び込む。 

 

「ちょ、おい!人目につくだろ……!!」

「あ。ごめん、勢い余った」

「お前……」

 

 いきなり飛びつかれるのは、流石にやり過ぎたらしい。胸板に手をつけたまま見上げた先で、今にもため息を溢しそうなポルコの口元が映った。「大丈夫だよ」あたしはそう言って、周囲の目を気にしているポルコへ笑いかける。

 

「ここら辺は子供たち、近づかないよう言われてるし。義母さんと叔父さんたちも、……いない。はずだし」

「まあ、な……」

 

 まさかの可能性を潰すようにつぶやいたあたしへ、ポルコが歯切れ悪く返してくる。あたしたちがいるのは、レベリオ収容区の奥深く。そういう目的で使用される宿屋や娼館が立ち並んでいる一角だ。

 この場所を指定したのはあたしだった。ここなら姿見を隠していてもおかしくないし、奥張った路地裏よりかは何倍もいいはず。名案のつもりだったが、ポルコはどうも居心地が悪そうだ。以外にも、あまり来たことがないんだろうか。

 

「ドベの奴は、大丈夫なのかよ」

「うん。友達とお茶しに行ってくる、来たら嫌いになるって言ったから」

 

 首を縦に振ってから、ポルコの腕へ手を滑らせる。さっきの女たちがしていたのを真似て、指を絡めながら、思い返すのは家から出る前のこと。

 昨晩は、完全に甘やかし過ぎてしまったらしい。朝起きようとするあたしを腕の中に引き戻して、動けないくなるほど抱き締めてくるのは、まだ良かった。昨日のお返しのつもりか、あたしの名前を譫言みたいに呼びながら耳にキスしてくるのも。

 大変だったのはその後だ。家事も全部片付けて、出掛けようとするあたしをライナーは引き止めてきた。一人では危ないからとか、責任がどうだとか。何かと理由をつけ、着いてこようとしてきたのだ。それはもうしつこいくらいに。数十分にわたる攻防の末、いい加減うんざりしてきたあたしがそう言い切って、やっと解放されることができた。

 

「……お前って結構……」

「なに?」

「いや、なんでもねぇ」

 

 さっと可笑しいくらいに青ざめていったあの表情を脳裏に浮かべていたら、ポルコがぼやく。脳裏に浮かべていた光景を途切れさせ、問いかけるも目を逸らされるだけだった。

 

「とりあえず、そこらへんの部屋借りる?」 

「ああ……密会場所として借りるだけだぞ」

「わかってるよ」

 

 何か隠しているポルコへ追求はしないで、腕に絡めた手の力を強める。念を押しに軽く相槌をして、もう一方の指で適当な宿を差せば、ポルコは躊躇いを見せながらも頷いてくれた。

 

「わ、普通の宿みたい」

 

 渡された鍵でガチャリと開け放った扉の先。広がっている中の光景を目に映すなり、そう声が出ていた。別に何を期待していた訳でもない。ライナーとは部屋でするのが常で、こういった場所に足を踏み入れるのは初めてだったから。ここまでくる道のりも、新鮮で仕方なかった。

 

「……だな」

 

 はしゃぐ子供のようなあたしに対して、ポルコは大人びていた。入ってきた部屋の扉を閉めながら、遅れた返事をしてくる。他の人もいなくなったというのに、どうして床を見続けているのか。受付でしていた手慣れたような受け答えで、大抵の想像はついた。

 

「なぁに、その反応。来たことあるの?」

「……悪りぃかよ」

「ふぅん……むっつりだ」

「うるせぇ」

 

 ぶっきらぼうに言ったポルコが、さっさと部屋の中へ行ってしまう。その背中を背後から追いつつ、ニヤつく口元を抑えきれなかった。

 廊下から部屋の中に足を踏み入れると、黄ばんだ控えめな照明がついた真ん中に、ベッドだけが鎮座している。一目見るだけでは分からなかったが、やっぱりこの部屋はそういうことをするために作られているらしい。人目を気にする必要も無くなったので、顔に巻いていた布を解く。 

 

「ねえ。今度したくなったら、あたしを呼んでね」

「は、はあ?!何言ってんだよ」

 

 狭い部屋には似つかわしくないくらい大きなベッド。その真っ白なシーツへ腰を下ろしながら、首を傾げてポルコを見上げる。思い通りの反応へ、微笑みを絶やさないまま、続けた。

 

「……だって、他の女の子として欲しくないから」

「俺は、お前のツレになったつもりはないぞ」

「うん」

「それでいいのかよ、……」

 

 首を縦に振ったあたしへ、ポルコは呆れ返ったような声を出した。嫌悪ではない。むしろ、あたしを気遣うような態度だ。胸中でほくそ笑んでから、ポルコの腰に垂れていた手首へ、両手を伸ばした。

 

「いいよ。好きなように使って?」

 

 ごくり、と唾でも飲み込むかのように上下した喉仏が映って、笑みを深める。力の入っていない腕は、されるがままに付いてきた。ライナーよりかは小さいけれど、あたしのよりは大きい。節ばっている手にじぶんのを絡ませながら、引き寄せる。指先で、自分の膝を覆っている布を摘んだ。

 

「駄目だ。悪魔とはやらねぇ」

「抱きしめてくれたのに?」

 

 長丈のスカートを膝まで手繰り寄せたところで、重ねていた手が引き抜かれてしまった。落胆するみたいに、大袈裟なくらい肩を落としてから、あたしは口を尖らせる。まあ、ポルコが手を出して来ないことは分かっていた。分かってて、反応を見たいがためにやってるだけだ。

 

「それとこれとは別だ……あと、自分を物みたいに扱うのはやめろ」

 

 そんなことも知らず、頬を僅かに赤らめたポルコが、それを隠すよう口元へ手を添える。ポルコが母親みたいな小言を言ってきて、「え、……ああ」その言葉を理解すると同時に、愉快だった気持ちが萎んでいく。

  

「……ごめん。これ言うとライナーは喜ぶから」

「何やらせてんだよ……アイツ……」

 

 ポルコは眉間に皺を寄せたまま、天を仰いだ。隣からの音が聞こえてきそうなくらいの、沈黙が流れていく。ポルコが再び開口したのは、誰かへの深いため息を吐き出してからだった。

 

「それで?一体何の用だ。それだけで、わざわざ遠征の前日に呼び出したりしないよな」

 

 新緑のジャケットを羽織った背が備え付けられた窓のカーテンを雑に閉じて、振り返った目と目が交わった。完全には遮れなかった夕焼けの光が、カーテンの裾から漏れて揺らいでいる。

 

「しばらく会えなくなるんだから、話したいって思うのは当然でしょ」

「どうだか」

「つれないなぁ」

 

 腰掛けているベッドが、深く沈み込む。あたしの隣。と言っても、しっかり余白を開けた先で腰を下ろしたポルコに文句を垂れる。絡んでいた熱の余韻も感じられなくなった指で、シーツの皺をなぞる。思い起こすのは、ライナーが聞いてもいないのに教えてくれたこと。

 

「中東連合と決着つけに行くんだって?」

「ああ、そうだ」

「……なんだっけ。あそこ、……サラダ要塞」

「スラバ要塞だ」

 

 漠然と宙に浮かべていた視線を、隣に動かす。ファルコのものよりも、緑黄色が強く入り混じったような瞳があたしを見つめていた。

 

「……生きて帰って来れるの?」

「さてな。お相手の新兵器次第だろ」

 

 頬に登ってきた鬱陶しい何かを手で隠しながら聞き返せば、ポルコが鼻で笑うようにして答えた。「そう……」叔父さんが取っている朝刊を盗み見たことがある。マーレ陸軍がどこを陥落させたとか、海軍の戦艦が何隻沈んだとか。子供向けの絵本でも読んでいた方がよっぽどマシな内容ばかりのそれに、対巨人の新兵器開発がどうこうとか書かれていた。

 対巨人の兵器と言われたら、あたしには一つしか浮かばない。地を這うしかできないあたしたちに翼を与えてくれる、あの兵器。あたしの相棒は、どこに行ったんだろ。最後に手放したのは、移動用の木箱に詰め込んだ時だ。後から回収するとか話していたけれど、それきりだ。訓練を乗り越えてきた相棒であり、お揃いの凹みを気に入っていたのに。

 

「知性巨人には、寿命があるんだってね」

 

 どこからか立ち込めてきた空気を霧散させるよう、あたしは話題を切り替えた。重苦しくのしかかってくるものから逃れ、側に座っている影へと距離を詰めていく。

 

「ライナーはあと3年、もない……ポルコは?」

「9年だ」

 

 ポルコがこちらへ見向きもしないまま言って、こつり、と肩同士がぶつかる。わざわざ作っていた余白を埋められたのに、触れている体は逃げようとしなかった。

 

「あたし、聞いてないよ」

「……そうか」

 

 そう言ったあたしに、ポルコは相槌さえしなかった。9年。一見したら長いようで、残り寿命として考えるには短過ぎる時間。ライナーから伝えられた御伽噺が現実となり、あたしは脱力した頭をポルコの肩にもたれさせた。

 

「……ライナーが言ってたの。俺はもうすぐ死ぬ、って」

 

 さっきは自分から手を離したのに。ポルコはいくら触れてもあたしを咎めようとしない。段々と体重をかけていきながら、昨日の夜に投げかけられた言葉を、今度は自分の口から吐き出す。

 

「だから、あたしとの子供を欲しがってたみたい」

「お前、……受け入れたのか」

「拒否できてたら、こんなコソコソしてないよ」

 

 他のことを考えているみたいに、虚空を漂っていた視線が振り返る。やっと向けられた瞳。その奥に映る自分の影を見ながら、あたしはこれ見よがしに腹を擦ってみせた。

 

「まあ。言われる前から"そう"だったし、そんなのは今更どうでもいいの」

 

 軽く言っても、ポルコは気がかりそうな表情をやめなかった。当たり前か。あたしだって嫌いな相手のそんな事情は知りたくもない。

 

「ポルコ。ポルコは……あたしが21才の子連れ未亡人になったら、拾ってくれる?」

「随分と、若いな」

 

 一歩間違えば、あり得たような未来。それを茶化すように伝えても、ポルコの顔つきは濁ったままだ。意思のなく下されている腕。そこへ懲りずに手を伸ばしても、身じろぎひとつすらされない。肩を寄せたまま、抱えるようにして両手をポルコの腕へ沿わせた。また違う洗剤の香り、頬まで摺り寄せようとして「もし、」ポルコの方から声をかけてきた。

 

「お前があの家に見放されたら、面倒見てやるよ」

「……あたし、お義母さんと相性悪いし。そうなるかも」

 

 あたしの視界に入っている横顔は、冗談を言っているようには見えない。上がりかけた口元を、ポルコの腕に押し付けて隠した。

 

「ポルコと……早く、一緒に暮らしたいな」

 

 そう独り言のように呟きながら、抱え込んだ腕に頬を擦り寄せる。ライナーがあたしにそうしていたように。

 

「死なないで、帰ってきて。お願いね」

「……死なねぇよ」

「どうかな」

 

 何か思うような間を置いてから答えるポルコに、あたしは唇を開いた。

 

「あたしの好きな人は、すぐどこか行っちゃうから」

 

 大切だった人も。大切な人も。みんな、あたしの前から消えていく。ポルコの手の甲を撫でながら。ゆっくりと、どこかを見上げた。

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