第41話 帰郷
空っぽになった桶の中で、水の波紋だけが揺れていた。持っていた大皿の水滴を拭き終え、一人きりの空間で息つく。
濡れた指先。関節で裂けた赤身に、ピリピリと麻痺するような痛みが染み込んでくる。ライナーの部屋あった軟膏を毎日塗っているのに、最近はずっとこうだ。ピリつきを感じながらも指を曲げ、節に刻まれた赤い皺を意味もなく睨む。
人が二人いなくなって、洗い物は減ったはずなのに。ふう、と近くにあった布巾で手を拭う。毛羽だった布と傷跡が擦れて、微かな刺激が走る。最近になって乾燥が酷くなってきた、というわけでもなく、手を動かす量も減った。だとしたら、散々家事に使われて手が摩耗してきたのか。この家にいる限り、完全に治せはしなさそうだ。
緩んできたエプロンの紐を結び直して、重ねた皿を持ち上げる。片手で食器棚を開き、中を覗き込む。カリナの好みで選ばれている質素な皿を、一つづつ重ねていった。ギイ、と廊下の先から聞こえてきた音。最後の皿を積み終えたところで、足音はそのまま部屋へ入ってきていた。
「お義母さん、おかえりなさい」
「ええ」
振り返った先。カリナは口を動かして、手提げ袋を卓上に置いた。最初の頃なら目線の一つすら返ってこなかったものが。喜ぶべきなのかは分からなかった。
「ノエルさん」
まだ籠に放置しっぱなしの洗濯物を片付けようと、動きだしていた体が呼び止められる。その方向へ目を向ければ、カリナが頭に巻いていた布を解きつつ、口を動かした。
「ライナーたちが帰ってくるわ」
その響きに、瞬きはしなかった。「……そうですか」同じような調子で返して、頷く。ああ。あたしの指が、また荒れてしまいそうだ。
その数日後。カリナに連れ出されたあたしは、群衆の中で収容区を遮る門を眺めていた。叔父さんたちの会話を遠くの方で聞きながら、思い出すのは数ヶ月前のこと。
あの日もこんな風に集まって、ぞろぞろと蟻の大群みたいに連なっていく戦士たちを見送った。いつものようにライナーたちだけを見送るつもりが、その最後尾に並んでいたのは他と頭ひとつ分小さい体。戦士候補生たちだった。軍が何を思ったのかは知らないが、候補生も最終局面となった戦地へ赴くことになったらしかった。
子供を戦地に連れて行くなんて、この国は心底狂ってる。それを喜ぶ周囲も同様に。子供が戦場に連れて行かれると知った両親が、頑張ってこいと送り出す姿には驚愕したものだ。腕の一本も返ってこなかったらどうするつもりなのか。ライナーにこれが普通なのかと問いたくなったけれど、やめた。ろくな回答が返ってきそうにもなかったから。
それに、聞こうとする暇さえなかった。部屋に戻るなり、ベッドへ連れ込まれたのだ。長期間の遠征となるからか、生きて返ってこれる自信がなくなったのかは知らないけど。あれはもう当分したくないくらいの有様だった。あの体力。いや、執念は一体どこから湧いてくるんだろ。戦士たちの帰還を今か今かと待ち構えている人々の中で、その発端が帰ってくる事実に、一人ため息をこぼしたくなる。
「大丈夫よ、ノエルさん。ライナーは無事に帰ってくるわ」
門を眺めることも飽きて俯いていたら、叔母さんが気遣うように笑いかけてきた。一言も喋らないから、ライナーの安否を気にしているようにみえたらしい。「はい……」あたしは否定もせず、控えめに頷いてみせる。と、前の方で戦士たちを待っていた集団が騒めき立つのは、ほぼ同時だった。
「ライナー」
「母さん」
隣にいるカリナの呼びかけで、ガビたちを見下ろしていた背が振り返った。カリナに向けられていた瞳が、あたしたち全体を捉える。黄金の瞳と視線がいやでも交わって「ノエル、」小さくとも、聞き取れるくらいの声量で名前を呼ばれた。何をいうべきか、考えようとしたあたしの背が押される。
「あ、…」
それほどの力でなくとも、あたしを前に出させるには十分だった。足をもつらせ、一歩前で踏みとどまる。押された方向を見れば、微笑ましそうに向けられている生暖かい視線。ほんとに、この家の人は余計なことしかできないのか。唇を噛み締めそうになるのを堪え、大人しくライナーを見上げた。こっちからは、僅かに縮んだ瞳孔と隠しきれていない物惜しげな視線だ。「ライナー」一息ついてから、あたしは口を開いた。その調子のまま腕を持ち上げて、ライナーの体に這わせる。
「おかえり。頑張ったね」
「ああ、」
顔を擦り寄せて耳元でそう囁けば、ライナーの顔上下に揺れる。家族の前だからだろうか。抱きしめ返してくる手のひらに力は入っておらず、いつものように顔を擦り付けもしない。
「疲れたでしょう、今日はゆっくりなさい」
「そうさせてもらうよ」
カリナの労いの言葉に、ライナーは口元を緩ませて答えてる。その傍らで、あたしはあっさりと離された腕を見つめた。いつもこんなだったら楽なのに。結局。肩を並べて帰るとなっても、ライナーは触れてこようとせずに、あたしの聞いても何にもならないような近況を探ってくるだけだった。
「ドッカーン!!」
窓に激しく叩きつけられている雨音を掻き消すような大声だった。意識の外から捻じ込まれたそれに、あたしは肩を跳ねさせる。上手く作れたスープに夢中で、全く話を聞いてなかった。湯気のたった器から視線を外し、声の主を見遣る。視線の先にいるガビは、興奮気味に声を上げ続けていた。
「ガリアードさんが、顎の巨人で私を守ってくれたの!」
ガビが大袈裟なくらいの身振り手振りをしながら話し終えると、母親が横から褒め称え、頭を笑顔の父親が撫でた。両親に褒めちぎられているガビは、その頬を赤く染めて笑い声を溢している。
見なきゃよかった。すぐさま後悔して、再びスプーンを手に取った。器の底を掬い、温かいスープを口に流し込む。自分の子供が人を殺し、殺されかけた。喜び褒め称えるより先にすべきことがあるはずだが、この人たちは気付きもしないんだろう。料理の味にも、人にも慣れてきたのに、この異常な会話にだけはいつまで経っても慣れない。
「あとはあの島にいる悪魔どもさえ消えてくれれば、エルディア人はみんな幸せになれるのにねえ」
二口目を食べようとしたところで、手が止まる。ひとつ間をおいてから、今度こそ口に含んだ。胸の辺りが急速に冷えてきたのを、スープの熱で誤魔化す。さっきまで美味しかったはずのスープは、何の味もしない。この話題もそうだ。いつまで経っても、慣れない。あたしが島の悪魔であり続ける限りは、変わらないだろう。
「俺はあの島で軍隊に潜入したんだ」
今日はさっさと食べ終えて、先に水浴びでもさせてもらおう。そう決めたあたしを引き止めたのは、ライナーのその言葉だった。空虚に向けていた視線を隣に動かす。
「島の連中はまさしく悪魔で、残虐非道な奴らだったよ」
食卓に肘をつき、顎に手を添えたライナーが何か思い出すような口ぶりで話し始めていた。
「あれは軍の入隊式の最中だった……突然芋を食いだした奴がいた」
どこか懐かしむようなライナーに、あたしの記憶まで掘り起こされる。サシャのあの行動は、残虐とまでは行かずとも、非道ではあったのだろう。こっそり見てしまった教官の愕然とした表情を、この先も忘れることはない。
「本当に……どうしようもない奴らだった」
入隊式の出来事を話して、ライナーは顎に添えていた手をそっと外した。顔があたしと逆の方向に動き、どこを見ているのか知ることはできない。
「突っ走るしか頭にねぇ奴に……何があってもついて行く奴ら」
ライナーが頬骨をついて、言葉を途切れさす。何を言っているのか。この空間で、ライナーの話を理解できているのは、おそらく自分だけだ。その証拠に、誰も声を上げようとしていない。何も気づかずに喋り続けているライナーを見ながら、スープを最後にひと掬いしようとして。「それに、」ふと、その瞳があたしへ向けられた。
「何でも、受け入れてくれる奴……」
ライナーがあたしの姿を映したまま、口を動かした。わざわざこっちを向かなくたっていいのに。堪らず反応しそうになる体を押さえつける。
なんでも、じゃない。あたしは、生きたかっただけだ。ライナーのために、受け入れた訳じゃない。居場所が欲しかっただけ。訂正する術もなく黙っていれば、ライナーの顔がまたどこかへ逸らされた。
「そこにいた日々はまさに地獄だった」
ライナーが言い切ると同時に、雨戸が勢いよく開いた。無気味な隙間風が入り込んで、沈黙を揺らしている。顎を手から離したライナーは、正面にいるカリナを見てやっと察したらしい。「あっ……」掠れた嘆息が耳に入ってきて、神妙だった表情がサッとわかりやすく崩れてる。やめておけばよかったのに。憐憫の目を向けつつも、あたしは雨戸を閉じるつもりで椅子から腰を上げた。
「少し話しすぎた。忘れてくれ」
あたしが窓の方を向いた時にはもう、カリナが枠に手をかけていた。引き上げられた窓から冷たい風が一気に流れ込んできて「いろんな奴らって、何?悪い奴らでしょ」ガビが熱の入っていない声で言って、雨戸が閉じられる。このまま席に座る気にもなれず、あたしは食べ終わった皿を回収することにした。
「そうだよ、ガビ。島にいるのは世界を地獄にした悪魔だ」
カリナの声を聞きながら、空になった皿へ指を伸ばす。世界を地獄に、まあ。そうでも思われてなければ、あんな一方的な大虐殺は行われないだろう。あの日殺された殆どが、世界が何かも知らないような人たちばかりだったけれど。あたしには真実を伝える権利も、それを訂正しようとする気概もない。できるのは、蚊帳の外で馬鹿馬鹿しい話を嘲笑うことだけだ。
「私たちを置き去りにして島に逃げた奴らに、制裁を与えなくてはならない」
「私たちを見捨てた奴らに……」カリナが苦々しく吐き捨てて、ガビに向けていた顔を動かした。その視線の先にいるであろうライナーを横目に、あたしは皿を持ち上げる。もしここで、自分は島の悪魔だと言ったら、この人たちはどんな反応をするだろう。その悪魔に、息子がどれだけ縋って、泣いてきたのか話したら。重苦しい沈黙の中で、あたしはこそりと溢れそうになる笑みを手で抑えた。
晩御飯を終えた後、ライナーは珍しく一人で自室に戻ってしまった。何を思っているのかは知らないが、原因は火を見るより明らかだ。さっさと引きこもれるライナーとは違って、あたしにはまだやることが残されていた。さっきまで島の悪魔がどうこうとか言っていた人たちが使った食器を片付け、残っていた洗濯物も全て畳んだ。寝る支度も済ませた頃には、あたしだけがリビングに取り残された。
やっとのことで部屋まで辿り着き、薄暗い部屋へ足を踏み入れる。ベッドの上で、窓から差し込む光に照らされた体を視界に浮かび上がってきた。そこにいたのは、靴も履いたまま寝こけている男の姿。今まで散々一緒に寝ようとか言ってた癖に。まだ何も知らなかったあの頃を地獄だ、なんだと言った挙句に。その瞼は固く閉じられていて、あたしが入れそうな隙間もない。近づいて見下ろしたライナーの顔が苦しげに歪んでいなければ、すぐさまその体を揺すって叩き起こしていたことだろう。
「ライナー」
小さく呼びかけるも、返事はない。自然に目を開けてくれるのを期待していたのだけど、望みは薄そうだ。眉間に寄っている皺も変わらずで、僅かに開いた唇から言葉にもなっていないような呻きが漏れ出していた。
「め……よ、……に、」
何やら言っているライナーの背を両手で押して、壁際に寄せる。それで確保した隙間にどうにか体を縮こませ、やっとのことで横になった。現実から逃れるように目を瞑る。真っ暗な視界の中。眠気に誘われるがまま、意識を飛ばそうとして、できない。
「あ、は、っ……ぁ、……」
息遣いが、より一層酷くなる。あまりにも耳障りなそれに、一度は閉じた瞼を持ち上げた。天井に向けていた顔を動かして、ライナーの様子を見る。悪夢も佳境に入り始めているのか、強張った表情で尋常じゃない量の汗を流していた。ライナーが魘されているのは今までもあったが、今日はやけにうるさい。
「……せ、か……ちの、…す…こ、……に」
ライナーの額をつたって落ちる、大粒の汗。荒い呼吸を聞かされながら、そっと息をつく。
あたしが開拓地にいた頃も、毎晩こんな風だった。意味もなく謝り、みんなの眠りを妨げて。親友が喰われる夢を繰り返していた。そういえば。最初こそ毎日のように苦しんでいたが、今はもう久しく見ていない。
「ライナー」
もう一度呼びかけてみる。大きく胸が上下するばかりで、反応はない。ライナーの口から返されるのは、掠れた吐息だけだ。酸素を取り込むように、大きく上下している胸を眺める。
三人とも、よくこんなうるさいのに二年も耐えられたな。あたしだったら、一週間くらいで手が出てしまいそうだ。
仄暗い視界で青白い顔をしたライナーがみじろいで、溜まった唾でも飲み込むみたいに喉仏を動かす。でも、違うか。よく考えれば、ライナーだけは違った。
「ぁ……は、……」
無防備に晒された首筋へ触れる。ピクリ、とライナーの体が小さく震えた。ライナーも、こんな気分だったんだろうか。二人だけの秘密にした、あの夜を思い浮かべ、指を首に滑らせていく。
両手を使っても、ライナーの太い首を完全に一周することはできなかった。喉を空気が通っていく振動が、触れた手のひらから伝わってくる。それで、確か。こうするんだ。
「あ゙」
ぐ、と指先に力を込めて、ライナーの喉から発されていた声色が変わった。濁った音を耳に入れつつ、首を押し締めていく。自分がされた時の息苦しさを再現するように、もうこれ以上喋らないように。
「はぁ゙……、はぁ゙、は、」
「ライナー、苦しい?」
問いかけても、返ってくるのは苦々しい喘ぎだけだった。喉を潰している手の下。喉仏が上下して、酸素を取り込もうとしている。みっともなく、生きようとしてる。それを見下ろして、自分の口角が上がっていくのが分かった。
「苦しいね、ライナー」
締め殺すつもりなんか、これっぽっちもないし、あたしの腕力ではそこに至るまで叶わないだろう。分かっていて、囁きながら力を込めていく。手を添えている首筋が段々と強張っていき、その感覚にゾクリと脳が痺れた。
「あたしも、苦しかったな」
ライナーは答えない。眉を顰めるばかりで、無意味な音を口からとめどなく垂れ流し続けている。従順に喉を潰されていく。「あ゙、は」あたしが、この命を握っている。そんな錯覚が毒のように脳髄を這い回って、込める力を強くしていく。
「ライナー、」
前のめりになって。伏せられた瞼を、引き攣った眉間を見下ろす。もし、このまま目が開いて。夢から覚めたライナーが、自分の姿を映したとしたら。
「ッはー……、は……は、は」
首に回していた指を解いた。青紫がかっていた唇が酸素を求めて、はくはくと動く。あたしをそれを見下しながら、一気に冷め切っていく熱を感じていた。
「っら、……はしん、だ……」
短く途切れていた息が、すぐに元の呼吸を取り戻した。手の形に変色していた肌も、元の色へと馴染んでく。あたしはライナーから目を逸らして、起こしていた上半身を倒した。シーツに体を滑らせて、ぺしゃんこの枕に頭を埋める。目を開いたまま、埃舞う天井へ向ける。
「お、れ、が……ま、……の、代わ、りになる……、から」
外からの光に反射しているそれが、どこかへと揺らぎ落ちていく。その傍で、ライナーは何か言っていた。耳を塞ぎはしない。眠気も失った鮮明な意識の中で、ただ、それだけを聞いていた。
「おはよう、ブラウン副長。ノエルちゃん」
「おはようございます」
声をかけてきたおじさんにライナーが挨拶を返した。それに合わせて、あたしも会釈をしておく。おじさんは微笑ましいものでも見るような笑顔を貼り付けていて、またか、と肩を落としたくなった。
睡眠と呼べるようなものは、ほとんど取ることができなかった翌日。あたしはその原因と肩を並べて歩いていた。向かうのはレベリオ収容区と外界の境目。本当ならこんな朝早くから外へ出たくなどないのだが「もう出るぞ」とライナーが見送られる前提で話しかけてくるものだから、洗い物を中断せざる終えなかった。
「あら、小さな戦士ちゃん。みんな、あなたに期待してるわ」
「ありがとうございます」
前で歩いているガビも、同じように返事をしている。その声色は普段より一段低く、力無い。スタスタと歩いていく小さな背中を目で追いながら、あたしは心の内で首を傾げた。昨日の夕飯での出来事が原因なのかは知らないが、朝からガビはこんな様子だった。あたしに対してなら普段と変わりないのだが、ライナーや街の人達に対してもこうなのは明らかに変だ。だからといって心配するつもりはないけれど、日常の歯車が狂ってしまったような違和感は拭えない。ライナーもわかっているはずなのに、何も言おうとしないし。
「本部へ」
兄貴分なのにどうなんだ、と視線を向けていたものの、門に着くまでライナーが気づくことはなかった。門兵に許可証を見せている二人の背を、早朝の澄んだ風に揺られながら、一歩後ろで眺める。「チビもこの間は活躍したんだって?」門兵の一人に話しかけられているガビの姿を目に映していたら、ライナーが振り返った。
「気をつけてね、ライナー」
あたしは手を前で組んだまま、ライナーの恋人らしく微笑んでみせる。「…行ってくる」笑いかけられたライナーが、僅かな間を置いてから目元を緩ませた。やっと家に帰れる。水に浸したままの汚れた皿を思い浮かべつつ、門兵と話しているガビへ目を向けた。
「いってらっしゃい、ガビ」
ガビの顔が少しだけ動いて、瞳が交わる。その口は浅く開かれたまま、何の言葉も発さずに閉じられてしまった。こんなのには慣れっこなので落胆もない。収容区外へ歩いていく背を見送ってから、背を翻した。名誉マーレ人でも、戦士候補生でもないあたしは、気軽に外まで着いていくことができない。結局、どこまで行っても壁から逃れられないらしい。
だから、一人帰路に着くあたしと壁を挟んだ向こう側で。
「――あと、力を継承したら。ノエルは、……私が守るから、心配しないで」
「……ガビ」
「私たち二人で守ろう。みんなの幸せと、ノエルのことも」
「ああ、……そうだな」
歩いていく二人の間、そんな会話が交わされていることなど知る由もなかった。
数日後。あたしは活気ある市場で、紙袋を抱えて歩いていた。日常と何ら変わりない、ただの買い出しだ。少し違うとすれば、二人分戻ってきたお陰で荷物が重いくらいだろうか。ふと、つま先から顔を上げて、あたりに視線を走らせてみる。今は訓練もとっくに終わった夕暮れ。お目当ての姿は影も形もなく、そっと目を下ろした。
最近、ファルコと会わない。一人だけ残って訓練でもしているのか、町で見かけるのはファルコ以外の三人ばかりだった。ライナーに探りを入れたら、ちゃんと訓練にはきているようだし。あたしのことが嫌になってしまったんだろうか。あるわけがない想像をして、小さく首を振る。
ガビが戦果を上げたことで、鎧の継承先はほぼ決まったようなものだ。戦士になれないのだとしたら、ファルコと仲を深めたところで意味がない。頭では分かっていても、どうしてか探すのをやめられない。
そうして、一人で歩くにしては広すぎる道を静かに進んでいたら「ノエルさん!」背後から名前を呼ばれた。足を止め、どこか浮ついた心臓が震える。振り返らずとも、その溌剌とした声が誰だかわかった。
「すみません、挨拶が遅くなってしまって……」
「ううん、いいんだよ。訓練も大変だろうし」
罰が悪そうにしているファルコへ、首を振る。数分前、あたしが考えていたようなことは杞憂に終わっていた。数ヶ月前と変わらない笑顔の前で、どこか安堵する胸を押さえて口を開く。
「ほんと、ファルコが無事に帰ってきてくれて良かった」
戦士候補生が前線に配備されると聞いた時、軍は何を考えているのか、とライナーに意味もなく問いただしてしまうところだった。ファルコが榴弾にでも直撃したら、あたしの味方が減ってしまう。無事帰還してくると話が伝わってくるまでは、ずっと気に掛かっていた。
「ノエルさんも、元気そうで良かったです」
「うん。まあ、ね……」
ずっと伝えたかった言葉を伝えれば、ファルコがそう言って屈託のない笑みをつくる。
確かに、元気は元気だ。ブラウン家でもそれなりに馴染んできたから、二人が戻ってきても大して負担は増えなかった。買い出しこそ一人だが、叔母さんが料理を手伝ってくれたりもするし。
それでも元気と言い切れないのは、今朝から続くささやかな腰の鈍痛が取れないからだ。数ヶ月の間にあたしへの想いも冷めたかと期待していたが、まるでライナーはその逆だった。
見送った日の夜が、特に酷かったのを覚えている。何もしてないのに謝ってきて、ずっと離してくれなかった。半泣きの男を半強制的に慰めさせられ、こっちが介抱する羽目になったのだ。安心したのか挿れたまま寝てしまうし、本当に面倒だった。
「訓練はどう?」
こっちを見上げている瞳の色で、過去に飛びかけていた意識が戻った。引き攣っていたであろう口元を誤魔化すように引き上げて、なんの捻りもない問いかけをする。
「訓練は、相変わらず……」
あたしの声で、ファルコは地面に向かって視線を落とす。ガビのことで落ち込んでいるのか、と鈍い頭が察したのはその姿を見てから。何か付け加えようと開いた口を「でも」遮ったのはファルコだった。
「最後まで進み続けると決めたんです」
顔を上げたファルコの横顔。その瞳は澱みひとつなく、確かな決意だけがそこに宿っている。あたしでは到底宿せないような光を前にして、その眩しさで目を窄めた。
「そっか。偉いね、ファルコは」
「え、偉いなんて。オレは……違いますよ」
圧倒的な実力差を目の前にしても、諦めずに喰いつける人はそう多くない。心から誉めているのに、ファルコはまだ謙遜しているようだ。頬を仄かに色づかせながらも、首を振った。
「さっきの言葉も、……受け売りですし」
「受け売り?」
「はい……最近、知り合った人で」
「なんか、焼けちゃうな」
口籠もって呟くファルコに、あたしは言った。知らないところで、ファルコに影響を与えた人がいる。あたしが先に目をつけていたのに。子供染みた感情を吐露すれば「え?」こっちを見たファルコの瞳が丸くなった。湧き上がってきた悪戯心を抑えずに、調子良く続ける。
「ファルコは、あたしとその人だったら……どっちの方が好き?」
「え、いや。どっちとか、そんな……選べないですよ」
「へぇ。あたしはライナーより、ファルコの方が好きだな」
「ノエルさん……」
ファルコが最後まで言わずに目を向けてくる。あたしは知らないふりをして、にっこりと笑った。
それから、お互いの近況やらファルコを揶揄ったりしながら道を歩いた。何か用事かあるらしいファルコとは途中で別れ、集合住宅にまでやっと到達した時だ。あたしの家の入り口。そのすぐ脇で、壁に背をつけている人物が視界に飛び込んできた。
「お、やっと来たか」
避けようにも避けられない場所を陣取っている人影へ近づくなり、男から声を掛けてきた。人違いか、別の人を待っているのだ、と現実逃避していた頭を引き戻され、苦いものが口内に広がっていく。
「……ジークさん、どうしてここに」
噛み締めていた唇を開く。あたしの気も知らずに手をひらひら振ってきているのは、赤い腕章を腕に通した髭面の男だった。
数ヶ月前の手術を終えてからも、ジークはあたしを軍に売ろうとはしなかった。むしろ、好意的と言ってもいい。町でばったり出会ってしまった際は話しかけてくるし、体を気遣われたこともある。暇つぶしの相手にされているのかもしれないが、どちらにしろ関係ない。
「買い物帰り?良かった、会えなかったらどうしようかと思ってた」
「上がって良いですか」
壁にもたれるのをやめた男の前で、あたしは入り口の縁へ手をかけた。この男とは、極力出会いたくない。それは、再会する前も後も変わらなかった。だって、あの城での残状を引き起こした相手と誰が好んで話したがるのだろう。
「冷たいなあ、まだ要件も聞いてないじゃん」
あたしの切り捨てるような態度に、ジークがぼやく。肺が縮むほどの深い息を吐き出してから「言ってませんでしたっけ、ジークさん」あたしは階段の一段目にかけようとしていた足を下ろした。
「あたしには一応、婚約者がいるんです」
紙袋を抱え直して、真正面からジークを見つめる。奇妙な丸眼鏡の形にすら神経を削られているのがわかる。うんざりした吐息を思いっきり吐き出しそうになるのを抑え、額に乗っかってくる気怠さを言葉にのせた。
「こんな堂々としていたら、あらぬ疑いをかけられるので」
戦士長と戦士隊副長の妻、になるらしい女。親しくたっておかしくない仲だが、あらぬ噂の種にもなりかねない。それに、いつライナーが帰ってくるかわからないこの状況。家の前で他の男とのんびり話していられるほど、危機感は欠如してなかった。ジークもそれくらいわかっている癖に「疑い……ねぇ」と含みある言い方をするばかりで離れる様子はない。
「今に始まったことじゃないだろ」
「さあ。なんのことですか」
ジークが指先で髭を弄りながら、鬱陶しい視線を送ってくる。あたしは清々しいくらいの蒼さを持った瞳の前で頬を吊り上げ、何も知らない女みたく惚けてみせた。
「詮索好きな男はモテませんよ」
「えぇ?まあまあモテるよ?俺」
「ああ、そうですか。良かったですね」
牽制するつもりで吐いた言葉で、ジークは怪訝そうな声を上げた。謎に対抗してきたので、白けた目で適当に受け流す。図体がでかいだけで、子供の相手をさせられているみたいだ。
「じゃあ、そういうことで」
そんな子供は一人でいい。荷物をぎゅうと抱え上げ、今度こそ足を踏み出したところだった。「あ、ちょっと待って!!」叫ぶような声が背中にぶつかってきて、動きを止めさせられる。
「……なんですか?」
自分で想像していたより何倍も低い声が出てしまった。仮にも正体を知られている相手なのだから、慎重に言葉を選ばなければいけないのに。
「いやあ、俺は伝言を伝えにきたんだ。忘れるところだったよ、もう……」
「伝言?」
聞き慣れない単語を反芻する。ライナーからだろうか。もしくは、ポルコ。頭の中で挙げた名前に、自分で首を降る。いや、直接言えばいい。直接話さず、わざわざジークを介して話しかけてくる人間なんて、何処にも。
「ああ。ノエルちゃんに会いたいって奴がいるんだ」
「……誰です?」
「エレンだよ」
聞き返したあたしに、ジークは答えた。動いた、その唇の形。音が耳に届くまで、目の前の時が止まってしまったかのようだった。
「え……?」
意思と関係なく、嘆息が洩れる。静かだったはずの心臓が、頭の真ん中でけたたましく響き出す。
「仲良かったんだろ?話したいことがあるってさ」
エレン。
ジークから聞こえたのは、間違いない。数年前に別れた仲間の名前。
「明日の正午。収容区の病院で」
あたしが騙し、利用し、裏切った。旧友の名前だった。