島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第43話 嘘吐

 

 夜風でたなびく髪を抑え、その涼しさに気持ちよく目を細める。暗闇で朧げな光を零しているのは、整列された真四角の窓。その間から吊るされた旗が、収容区の道に張り巡らされて、収容区を装飾していた。すっかり祭りの雰囲気で染まったそこを、普段より多い人影が過ぎ去ってく。この整頓された輝きを見ていられるのも、今日で最後。風で頬が冷えてきたところで、ギ、と背後から扉の開く音がしてくる。その発生源へ振り返ることはしなかった。

 この部屋で、こうやって律儀に約束を守り、待つのも最後だ。

 

「ノエル。何を見てるんだ?」

「こんな遅くまで人が通ってるから、珍しくて」

 

 投げかけられた声へ、あたしは正直に返した。近づいてくる人の気配を感じつつ、窓から乗り出した身は動かさない。

 

「明日は祭りだからな」

「……うん」

 

 その場で相槌を返す。祭りと言われ、あたしの頭の中で浮かんでいるのは、出店の食べ物やら夜に行われる劇じゃなかった。あるのは、一週間前。あのベンチで交わした密約。

 旗の下を、はしゃいで眠れない様子の子どもたちが駆けていく。祭りの前夜で浮かれ、親も放任しているのだろう。笑い声が建物に挟まれて反響してきた。前方の窓に映る影、光を阻んだ暗い部分が愛し合う二人の人間の形を浮き出させている。

 レベリオ収容区の日常は、ゆっくりと過ぎていた。明日、全てを奪われるとも知らずに。

 鬱陶しい人々の揺らぎから目を離し、窓枠にかけた手を眺める。絆創膏が貼り付いた、汚い手のひら。この家で順応するために使われ続けていた手。あっちへ帰ったら、もうこの痛みともおさらばだ。かさついた指の腹を擦っていたら、肩を引かれた。その手の主が、ようやく目に入ってくる。

 

「そんなに前へ出たら危ないぞ」

 

 誘導されるがまま、前のめりになっていた体を正す。見つめ返した先で、ライナーはまだ水気のある前髪を揺らして、咎めるような声を出した。注意すればいいだけなのに。必要がなくなっても、肩へ乗せられている手を視界の端に映したまま、口を開いた。

  

「さっぱりした?」

「ああ……いつも待たせちまって、すまない」

「ううん、別に」

 

 漂ってくる石鹸の香りに鼻を動かしていたら、ライナーの表情が申し訳なさげに歪む。勝手に眠りこけて勝手に魘されていたりとか、もっと別のことを謝罪して欲しいものだが、あたしは首を横に振るだけにとどめた。

 

「祭りが、終わったら……どうするの?また別の国と戦争?」

「まあ……そんなもんだ。今よりは、忙しくなる」 

「そう」

 

 少し前なら、また負担が減ると喜んでいただろうに。今のあたしにはその些細な喜びすら必要ない。知らない人間に囲まれて過ごす平坦な日々で、ひとり辟易とすることも。あたしはもう、居場所を手に入れたから。

 

「ノエル」

 

 惨めったらしい毎日から解放される清々しさに胸を打たれてると、名前を呼ばれた。節張った指が背筋をなぞり、腰を抱く動きに、意識が現実へと引き戻される。胸の高鳴りに耐えきれず、少し早とちりしてたみたいだ。レベリオで過ごす最後の夜は、まだ終わってなかった。

 

「……水浴びしたばっかりなのに、いいの?」

「俺は……構わない」

 

 情欲の籠った手つきに、体の奥の方が冷えていく。最初の頃。向けられている感情の正体が分からず、いちいち触れられるたびに背を跳ねさせていたのが嘘みたいだ。尻に触れるか触れないかというところで留まった手に、あたしはみじろぎひとつしない。作り替えられてしまった体を厭悪しつつ、そうしてくれた元凶を見上げる。

 

「あたし、昨日から浴びてないけど」

「気にしなくていい」

 

 ライナーの前にでも入ろうと企んでいたのだが、夕飯の片付けに追われて間に合わなかった。人によっては忌避しそうな事実を伝えても、ライナーが引き下がる様子はない。むしろ、食い気味に返事をしてきた。

 

「でも、臭いよ。たぶん」

「大丈夫だ」

 

 レベリオは曇り空が多く、雨が降る日も珍しくない。湿度と嫌でも流れてしまう汗でベタついた体を、晒したくはないのだけど、ライナーはあたしの心情など興味がないのだろう。不安がっている人を宥めるみたいに呟いて、体を寄せてくる。

 

「……いいか?」

 

 匂いを確かめるように。あたしの髪の毛へ鼻先を押し付けていたライナーが、頭の後ろで言った。何も言わずにいれば、腰に添えられていない方の手が、開いていた窓を引く。今から行われる行為を、外の世界から遮断するように。見かけだけは恋人らしく並んでる自分たちの姿が、窓硝子に反射している。閉じかけの窓から見える景色。正面の建物で、カーテンに浮き上がった二つの影は、まだ動いていた「いいよ」あたしはそこから視線を断ち切って、振り返る。

 

「このまましよっか」

 

 朝まで閉じている予定だった口で、言葉を発した。伸ばされていた腕を取り、半開きの窓に背を預ける。顔を上げた先で、ライナーは衝撃を噛み砕くみたいに口を開閉させていた。縮まっている瞳孔も予想通りで、ちょっとつまらない。

 

「い、……や」

 

 ようやく衝撃を噛み砕けたらしいライナーが、その余韻を引きずったまま、つぶやいた。すぐそばの木箱で灯っているランタンの光に照らされた顔は、薄暗い夜でもわかりやす過ぎるくらいに上気している。手を出してきたのはそっちの癖に、口を尖らせそうになるのを堪えつつ、ライナーの続きを待った。

 

「下から……見えるだろ」

 

 あたしの後ろからは、相変わらず冷えた風の流れ込んできている。その場所を気にする素振りを見せ「声も、」ライナーが言葉を濁らせた。羞恥と欲望の間で揺れているライナーを目にして、あたしは漏れ出そうになる笑みを噛み殺す。そんなこと気にしたって、とっくに知られているというのに。なんて浅ましくて、情けないんだろ。

 

「やめる?」

 

 まごつくばかりで結論を出そうとしないライナーへ、小首を傾げて問いただす。ライナーの頭の中で結論はとっくの昔に出ているはずだ。今までのを考えれば、嫌でもわかる。ここまで問いただしても、勿体ぶって言おうとしないライナーに、どこかで燃え上がっていた感情が冷めていく。ライナーの手首に絡めていた指を離そうとして「いや、……」緩んだ手のひらが上から握り直された。

 

「俺も、大丈夫だ」

 

 数秒前の躊躇いようはなんだったのか。堰を切ったように、ライナーが顔を近づけてきた。距離を詰められ、体が後退する。背中に食い込んでくる窓枠の形を感じながら、ライナーの動きを目で追った。

 

「声は、我慢してくれ」

 

 手を固く握り潰している方とは逆の手が、あたしの顎に添えられる。緩く力が込めてきたので、望み通りの場所を晒してあげた。熱の籠もった吐息が肌にあたって、溶ける。くすぐったいそれに身を捩り、首筋へ顔を埋めようとしているライナーに言った。

 

「それは、ライナー次第でしょ」

「それも、そうだが……」

 

 ライナーが動きを止めて、瞳をこちらへ向けてくる。いつも一人でうるさくしてるのはライナーの方だ。あたしの声なんて掻き消されるくらい盛り上がっているはずが、自覚していないらしい。水浴びしたばかりなのに。ライナーは、赤らんだ頬の上で汗を垂らしている。今から窓際であたしを抱く気概はあっても、周りからはバレたくない。都合の良いところだけ掬い取った欲張りに、口が動いていた。

 

「いくじなし」

「な、」

 

 幼稚な暴言で、ライナーの瞳が丸く縮む。いい気味だ。脳内をじくりと駆り立てる優越に身を任せ、自由に動かせる片手を持ち上げた。ちゃんと食べてるはずが、一丁前に痩けたままの頬を撫でる。

 

「聞かせればいいよ、全部」

 

 上顎をなぞれば、ライナーの体は正直過ぎるくらい反応してきた。欲に濡れた視線が、あたしの動きを見逃さんと絡みついてくる。歪んでいく口角を直さずに、シャツの襟へ手を伸ばした。

 第二ボタンの下まで。中途半端に留められているシャツの襟ぐりからは、白っぽい色の鎖骨が覗いてる。隆起した喉仏を指で掠め、胸筋の膨らみに手を這わせてから、片手で残りのボタンを外してく。

 

「こんな夜は、もう来ないんだから」

 

 そう。こんな恋人ごっこは、今日きりでもうお終いだから。今やっているのは、別れへの餞別みたいなものだ。暗に込めた意味合いを声にすることなく、胸に溶かしてく。

 面倒になってきて、ひとつずつ外していたボタンから手を離した。期待に応えてあげているどころか、サービスまでしてやっているんだ。これ以上は自分でやればいい。

 

「ね?」

 

 確かめるように問い返したところで、再び肩へ重みが乗ってきた。指を絡めている方の手が、あたしの手ひらごと纏めて服を掴む。元よりライナーのお下がりで、伸び切っている寝巻き用の服。下に引き下げられれば、いとも簡単に肩を曝け出した。「ノエル……」それが冷えた夜の空気へ馴染む前、懇願するように呼びかけられる。

 

「ふふ……ライナー、ほら」

 

 餌を前に吊られている動物みたいな。それにしたって耐えきれていない姿を鼻で笑った。言い切ってから、ライナーの背中に片腕を回す。少しばかりチクリとするような短髪へ指を沈め、胸に抱え込むみたく引き寄せる。

 

「好きにして、いいよ」

 

 鼻先がくっつきそうになるほど、お互いの吐息が混じり合って溶けていくほどそばで。どろどろに煮詰めた砂糖のような、甘い許しを囁いた。

 

 

――――

 

 

 微睡から抜けられないでいる意識を「ん、……」吐息と共に浮上させる。差し込んでくる光に眩しく目を細めつつ、朝からでも容赦なく雪崩れ込んでくる騒がしい音で、完全に瞼を開けた。

 巻きついている腕をどけ、ベッドから床に足をつける。開けっ放しの窓から下を覗くと、非日常が広がっていた。

 色とりどりの出店に所狭しと行き交う人々、おかしな格好で周囲を沸かせている人型の何かもいる。普段の閑散としている景色が嘘のようだ。カーテンで体を隠しておいて良かった。

 

「なん、の音だ……?」

 

 容赦なく響いてくる太鼓やら町の喧騒で、流石のライナーも目を覚ましたらしい。顔だけ動かした先、上掛けから身を出したライナーが、寝癖のついた前髪を掻き上げている。やけに掠れたライナーの声を聞いてから、あたしは窓の外へ視線を動かした。

 

「お祭りみたい」

 

 異質な匂いが混じり合っている通りを、ライナーを前にして進んでいく。さっきまで悠々と見下ろしていた道は、異様な混みようだった。ライナーの背中の後ろにぴったりとついたまま、あたりを見回す。人混みは苦手じゃないが、好きでもない。例の時間が来るまで家で待機しているつもりだったはずが、ライナーに連れ出されてしまった。家事が残っているから、と断ろうとしたけれど、カリナがこんな時ばかり気遣いを見せてきたのだ。せっかくの祭りなんだから二人でなんとやら。あたしの唯一の仕事を奪われて仕舞えば、もう言い訳は残ってない。

 

「……なあ、ノエル」

「どうしたの?」

 

 壁内でも見たことのなかったような景色。どこかしも豪華で賑やかな雰囲気に慣れず、身を縮ませるようにして歩いていたら、ライナーがおずおずと喋り掛けてきた。視線を彷徨わせたのちにあたしを捉え、伏せた目で口を開こうとする。

 

「手を、」

「おはよう」

 

 それを遮ったのは、前から投げかけられた挨拶だった。反応したライナーが、掛けられた方へと振り返る。聞き覚えのない女の声だ。強張った体をライナーの背後で隠し、肩越しに様子を伺ってみた。どこぞの髭面みたく、手を振っていたまま歩いてくるのは、黒髪の女だ。これ見よがしに示された腕章は、赤色。マーレの戦士か、と頭が警戒心を緩ませかけて、その隣を歩く影に唾を飲んだ。

 

「ピーク、ガリアード。お前らも来てたのか」

「こんな騒がしかったらね」

 

 あたしも気も知らずに平然と言葉を交わすライナーの背で、こっそりと重苦しい息を吐いた。知らない顔ばかりだったらまだ良かっただろうに。ピークと呼ばれた女の横を歩いているのは、嫌なくらい見知った人間だ。

 

「ったく……せっかくの半休だってのに、おちおち寝てられもしねぇよ」

 

 その人は寝起きで働かない頭を抑えるみたく、手で覆ったまま文句を言った。まだ、あたしの存在に気付いていないらしい。無事帰還してきたことを労ったのが二週間前ほどになる。もう会う必要も無くなって放置していた手前、気まずさは拭いきれない。

 

「ライナーは、ガビたちを探しに?」

「それもあるんだが、……」

 

 あたしが冷や汗を流して脳みそを回転させていると、ピークたちの方へ向けられていたライナーの顔が動いた。間を隔てていた壁がなくなり、二人の姿が頭からつま先まで視界に入ってくる。それは、逆も然りだ。

 

「あ」 

 

 素直過ぎるくらい開いた口が、あたしを見るなりそう溢す。その音を耳が拾って、顔が引き攣るのを堪えなければならなかった。出来ることなら、近寄って塞いでしまいのに、できない。

 

「あなたって、もしかして?」

「はい。はじめまして、ピークさん」

 

 一人の強烈な視線には知らないふりをして、確かめるようなピークに頷いてみせた。車力の巨人の保有者だとか聞いたことはあるが、まさか最終日に出くわす羽目になるなんて。

 

「噂は聞いてるよ」

 

 「よろしくね」ピークはゆったりと頬を笑ませて、手を差し出してくる。それに応える傍らで、底知れない黒曜の瞳に神経を張りつめさせていく。薄ら笑いを浮かべたまま、何度か腕を上下させて手を離した。ピークはこちらの内情も知らずに、人当たりの良さそうな笑顔をポルコに向ける。

  

「ほら、ポルコも挨拶しなよ」

「お、れは」

「あ。照れてるの?駄目だよ、人妻なんだから」

「ちッげぇよ、馬鹿野郎……」

 

 浅く笑ったピークの揶揄いに、ポルコが悪態をつく。いつもなら否定していたような勘違いだが、それよりも僅かに頬を赤らめたポルコから目が離せなかった。なんだ、あたし以外にもそんな顔をするのか。親しげな二人の空気感が面白くなくて、足が勝手に動いていた。

 

「はじめまして、ガリアードさん」

「あ、ああ」

 

 腰の横で下ろされていた腕を手に取って、握手する。この場を乗り切るための設定を言葉に乗せ、念を押しておく。あとは、その態度をどうにかしてもらわないと。唇を噛み締め、適当な嘘を重ねようとして。

 

「わ、」

「挨拶もそこら辺でいいだろ。ガビたちを探すぞ」

 

 使っていなかった方の手を、ライナーに取られた。強く握られたまま、歩き出されて仕舞えば、軽い握手は簡単に解けてしまった。半ば引き摺られるような形から、どうにか体制を立て直して。その横顔を覗いてみる。場違いなくらい真剣な顔をしたライナーは、真っ直ぐに前を見据えていた。

 

「ライナー?」

「はぐれねぇように、繋いでた方がいいだろ」

「……あたし、もう子供じゃないんだけど」

「どうだろうな」

 

 はぐらかすライナーを、半目で見上げる。その横顔は真剣そうに前を向いていて、あたしの表情に気づく素振りもない。話に割って入り、何かと理由をつけて引き離そうとする方がよっぽど子供だけど。その自信のなさに呆れつつも、抵抗すら煩わしいので放置しておく。

 

「熱いね」 

「……鬱陶しいぐれぇにな」

 

 後ろから聞こえてくるポルコのため息に、同調しなかったあたしは間違いなく大人だった。

 

 ライナーに連れられ、装飾された大通りを進んでいく。祭りだから収容区外からも人が雪崩れ込んできているのだろう。腕に何もつけていない人たちともすれ違う中で、エルディア人の腕章はよく目立つ。それも、戦士候補生であることを示す黄色となれば尚更だった。

 

「ライナー!」

 

 四人の子供に見つかったライナーが、ようやくあたしの手を離す。真っ先に駆け寄ってきたガビが、そう名前を呼んで、ライナーの腕を掴んだ。唐突に解放された手を握り直していると、興奮気味のガビに押されて、ライナーが祭りの渦中へと連れていかれる。その落ち着きのなさを諌めながらも、ライナーの表情は満ち足りていた。最初からガビと回っていれば良かったのに。さっきまでの退屈な仏頂面を思い返して、内心で悪態を吐く。その足で家に引き返そうとしなかったのは、残った三人の中にファルコの姿があったからだった。

 

「楽しんでるみたいだね」

「はい!ノエルさんは?」

「ライナーの付き添い」

 

 もごもごと何かを咀嚼し終えて、ファルコが聞き返してくる。あたしはガビに引き摺られているライナーを指差して言った。勝手にあたしを子供扱いした仕返しだ。ファルコの眉が不思議そうにあがるのを眺めて、あたしは膝に手をついた。

 

「いっぱい食べた?」

「食べました!でも、まだまだ……」

 

 元気に返事をするファルコへ、エプロンの裾を持ち上げる。丸くなった瞳を前に「ごめんね」一言だけ謝っておく。ハンカチでも持ってくるべきだったかもしれない。微かな後悔を滲ませて、指で摘んだ布をファルコの顔に近づける。柔らかい頬を軽く拭ってやれば、汚れていた口元はすぐ綺麗になった。

 

「うん。もうついてない」

「あ、ありがとうございます」

 

 薄く色づいた頬で感謝を告げてくるファルコに、口角が上がっていく。こうして会話するのも何だか久しぶりだ。エレンに出会ってからは、極力外へ出ないようにしていたから。頭へ手を伸ばしそうになるのを堪え、微笑むだけに留めていると「ファルコ、浮気?」隣から声がした。アニみたいな鷲鼻の女の子、確か。ゾフィアと呼ばれていた子が真顔のまま、立ってファルコを見つめてる。

 

「ち、ちがっ!なんでそうなるんだよ!」

「浮気しよっか。ファルコ」

「ノエルさんまで、やめてくださいよ。もう……」

 

 ゾフィアの言葉に便乗してみると、ファルコが段々と覇気を無くしていく。恥ずかしげに落ちていく視線と、赤く染まっている正直な顔。もう少し責め立ててみたくなるのを、喉奥で耐える。帰りたくて仕方なかった数分前が、嘘のようだ。祭りって、意外と悪くないかもしれない。

 その後も、あたしたちは祭り一色に染まった収容区を練り歩いた。正しくは、食べ歩いたと言っていいだろう。収容区では、ましてや壁内では一生お目にかかることもなさそうな異文化の食べ物や料理たち。立ち並んで美味しそうな香りを漂わせてくるそれらに、育ち盛りの子供たちが対抗できるはずもなかった。

 いつも真っ先に食べ終わるガビがまた新たな出店に釣られて、他の子達もそれに続く。物惜しそうな四人の目に見つめられて、ライナーが財布を開く。この繰り返しだ。たまに自分でも食べてみたいものがあれば、ライナーの袖を引いて名前を呼ぶ。数秒後には望み通りのものが手に入った。

 

「食べなくてもいいの?」

「ええ……もうお腹いっぱいなので」

 

 次から次へと出店に連れて行かれているライナー。最初の態度はどこかにいったらしいポルコが、子供たちと笑い合っている姿を目にしていたら、隣から話しかけられた。色鮮やかな野菜の乗ったパンを手に持ったまま、微笑んでくるピークに腹のあたりをさすってみせる。

 

「そっか。悪いね、旦那さんにお金使わせちゃって」

「いいんです。やらせておけば」

 

 ピークがバツの悪そうに顔を歪めるので、あたしは首を振った。正確にはまだ旦那にしたつもりも、妻になったつもりもないが、声を上げる方が手間だ。苦汁を飲んだつもりで、流しておく。

 怪訝そうな目つきをやめられないけれど、あたしはこれっぽっちも気にしていなかった。ライナーにしてみれば、お金を払うだけでガビに甲斐性を見せつけられるのだ。ライナーが稼いでいるお金なのだし、好きなだけやればいい。そう諦めたところで、視界の先。また、ガビに何か買わされている。

 

「ノエルちゃん、だっけ」

 

 溢れ出そうになる溜息を噛み殺していたら、ピークが確かめるみたく言った。その手に半分ほど残っていたはずのパンはなくなっている。あたしが視線を外した際に食べ終えたらしい。

 

「ここってさ。同年代の女の子が少ないから、ずっと話してみたかったんだ」

「そうなんですか」

「うん」

 

 気にも留めていなかった話をピークに聞き返すと、首を縦に振られた。言われてみれば、すれ違う人々に若者は目立っていない。自分たちより下の年代か、一つ上だろうという風貌ばかりだ。戦士隊で紅一点だと聞くし、ピークの言い分は理解できなくもない。

 

「敬語なんかやめていいのに」

「いえ、あたしはただの一般人ですし……年下ですから」

「え。そうなの?」

 

 今更他人と仲を深める気概もない。適当に理由を探って呟けば、長い睫毛に囲われた瞳が、きゅうと丸くなる。そんな、年増に見えるのだろうか。兵士の頃は、子供っぽいと散々言われていたのに。

 

「はい、19です」

「ごめん。見えなかった……」

 

 あたしの返答に、ピークが片手で額を抑えて謝罪してくる。大人っぽくみられたのを喜ぶべきか、嘆くべきか。わからないので、とりあえずライナーの方を睨んでおいた。

 

「てことは……三年前に婚約したんだよね」

「そうらしいですね」

「うん、……なるほど」

 

 ピークが顎に手を添えたまま、言葉を濁らせる。察しがいい方ではないが、今ならピークの頭に浮かんでいるものを言い当てられるだろう。としても、確認する気はおきなくて、ただ曖昧に笑ってみせた。

 

「苦しいよぉ……」

 

 浮ついた祭りの空気は、あっという間に流れていった。どっぷりと夕日に浸かった収容区の建物が、黄昏時の色を反射している。その眩しさに目を窄めるあたしの前で、歩いてる二人の影が長く伸びて揺らいでいた。「くるし……」膨らんだ腹を抱えたガビが、引き摺られた状態で呻いている。「お前が欲張るからだろうが」ライナーの小言を耳に挟みつつ、劇場まで後少しというところで「ライナー」ガビの腕を引いて歩いている背中を呼んだ。振り返ったライナーが足を止め、真正面から視線が交わる。

 

「洗濯物の様子を見てくるから。先行っててくれる?」

「一人で大丈夫なのか」

「うん」

 

 一度は自分が連れているガビに目を落として、怪訝そうな表情のライナーが聞き返してくる。良かった。流石に今のガビを置いてまで、着いてくる気はないらしい。一人で抜け出す方便となってくれたガビに感謝して、あたしは下ろしていた腕を後ろへ回し、いつもみたく微笑んでみせた。

 

「……いっちゃうの?」

 

 動き出そうとしていた足先を留めたのは、意外な声だった。呼ばれた方へ顔を動かすと、ガビが胡桃色の瞳をこちらへ向けて、答えを待っている。数年前なら想像すらしていなかったような態度に、息をつくような間を置いて、あたしは膝を曲げた。

 

「……でも、すぐ戻るよ」

 

 ファルコにしてあげたみたく、エプロンの裾で汚れているガビの口元を拭ってやる。ガビは目を見開きつつも「そ、っか」そう溢したっきり、抵抗はしなかった。エプロンから手を離したら、綺麗になったガビの顔があたしを見上げてくる。ここまで従順なら、ライナーが兄貴風を吹かしたくなるのもわかるかもしれない。

 

「もう、はしゃぎ過ぎないようにね」

「……うん」

 

 特にファルコと。知り合いを見つけたとかで駆けていってしまったファルコの姿を思い浮かべて、暗に念を押しておく。引き留めるわけにもいかず、まともな別れすら告げられなかった。あたしの知ったことではないと言っても、このまま子供に死なれても後味が悪い。素直に頷いたガビから目を離して、あたしは追っていた膝を伸ばした。さっきから熱烈な視線を送ってきていた人物へ一歩近づいて、首元に手を伸ばす。緩みかけていたネクタイを締め直し、ずれていたコートを正してやる。服をきっちりと整え直して、寄せていた体を離した。ライナーの顔が何か求めるように近づいてきたのは応えず、頬をあげる。

 

 

「じゃあね、……ライナー」

 

 あたしは最後の別れを口にして、3年前からずっとしてきた、変わりのない笑みを浮かべた。

 

「ああ、……また後でな」

 

 同じような緩い笑みを口元に湛えたライナーが言って、あたしは背を翻す。一歩、二歩と一人で歩き出しても、特に呼び止められることもない。そのまま前へ進んでいたら、背中に突き刺さっていた視線も人混みに紛れていた。あれだけ待ち望んでいた別れは、想像していたよりもずっと簡単に済んだ。

 暗く長い影の中で、劇場に向かって歩いている人々の群れを逆行して。何かが込み上げてくる。それが歓喜に打ち震えているのか、縛り付けていた約束との決別に対してなのかはわからない。震撼する胸を抱えたまま、念願の故郷と仲間たちの元へ体を突き動かす。ライナーたちとは反対の方向に、目が届かない場所まで歩いても、振り返ることはしなかった。

 

 

 あたしは、家に帰ると言ったその足で、真逆の方向へと歩き続けた。行ったこともないような道を曲がり、路地を進んだ。兵士に目をつけられていないか、辺りへの警戒を怠らないようにして、指定された建物まで辿り着くのは難しくなかった。宿のような見た目の建物を前に、エレンから伝えられた言葉を何度も頭の中で反芻する。意を決してドアノブを捻り、室内へと入っていったが、中は無人だった。驚くほど人気のない廊下を進んで、指定されていた部屋に入る。そこにも、迎えとやらはいないらしかった。

 

「はあ……」

 

 焦る気持ちを抑えつつ、側の壁に背を預ける。前には机と椅子が置かれていたが、座る気にはならなかった。不自然に灯りだけ灯された部屋で、息を整えるように深く酸素を吸い込む。壁に備え付けられた窓から差し込んでいた光の色が変わり、闇夜に浸かっていくのをただ眺めていた。

 そうして待ち続け、窓の奥から仰々しい音が響いてきたのが数分前のことだ。時計ひとつ置かれていない、不気味なほど生活感のない部屋では今が何時なのか、自分が何分待っているのかすら分からない。

 朝、カリナが劇に行くと話していた。ライナーと出会う前にあたしを回収してくれないと、辻褄が合わなくなるのに。立ち昇ってきた焦燥感が、あたしの心臓を嫌に揺らしてくる。そうして、ひとり落ち着かない胸を宥めていた時だった。

 

「入れ」

 

 ガチャリと音がして、ずっと見つめていた扉が開かれた。現れたのは、マーレの軍服を着た長身の兵士。その後ろに並んでいた人影が明かりに照らされ、だんだんと浮き上がってきて。前に出ようとした体が固まった。

 

「ポルコ、」

「ノエル……?」

 

 緑の混じった黄の瞳と真っ直ぐに視線が絡んで、遠くでも分かるくらい大きく縮む。そこにいたのは、よく見知った顔。ついさっきまで、もう二度と会わないだろうと横顔を盗み見ていた相手だった。隣にも今日会ったばかりのピークがいて、訝しげな視線を向けてくる。

 

「どういうことだ?マガト隊長はどこに、」

「ポルコ!!」

 

 どうこの場を切り抜けるべきか。急に熱を失った体で、後退りをしようとして。ピークが扉へと振り返り、叫び声を上げるのは同時だった。あたしが捉えたのは、廊下に立っていたはずの兵士が壁に垂らされていた縄をナイフで切り落とす瞬間。「わああああッ!?」二人が残像となって、急に現れた奈落の闇へと堕ちていく姿だった。その悲鳴を最後まで聞き届けることなく、視界に手のひらが差し出される。

 

「ノエルさん、ですね。お迎えにあがりました」

 

 それを辿って、首を動かす。たった今二人を落とした張本人は、底の知れない黒を宿した瞳であたしを見下ろしていた。目が合い、その口元が弧を描く。芝居ぶったような言い方で、兵士は続けた。

 

「さあ、共に帰りましょう。あなたの故郷へ」

 

 宙を漂っていた手が、改めて向けられる。顎に蓄えている髭とは不釣り合いな細長い指を前に、あたしは唇を引き結んだ。ごくりと、溜まっていた唾を嚥下する。やっとだ。喉奥から溢れ出そうになる想いを抑え、ようやく得た救いの手を掴もうとして。

 

「おいっ、ノエル!」

 

 伸ばしかけた手が空で静止する。浮ついた意識を現実へと引き戻したのは、すぐそばの穴から響いてきたそんな叫びだった。

 

「聞こえてんだろッ?!なあ!」

 

 何の反応もせずにいるあたしを、ポルコが呼び立てた。「お前がなんでソイツと、どういうことだよ!?」驚嘆と困惑が入り混じったような声色が、鼓膜を震撼させる。目の前で捲し立てられても、驚くほど心は平然としていた。こういうのは、二度目だから。「そこにいんだろ?!」ああ。また新たに問いかけられ、ひとり悪態を吐く。

 あたしは床にぽっかりと空いた穴に体を向ける。側にいる兵士の視線を受けつつも、穴に落ちる寸前で足を止めた。しゃがんで中を窺い、ずっと下にいったところ。薄暗い闇の中に二人はいた。

 

「ノエル!!」 

 

 あっちからもこちらの様子がわかるらしく、目が合うなり名前を呼ばれた。この高さから落下して骨折でもしたのだろう。ポルコとピークの体からは、巨人特有の蒸気が立ち昇っている。その煙を纏いながら、ポルコは不可解そうな面持ちであたしを見上げていた。

 

「……ポルコ」

「あ、……?」

 

 その口がまた開こうとしたのを、重ねるようにして答えた。

 

「落ちてて」

「は、」

 

 消えそうなくらいの嘆息を洩らして、ポルコの表情が凍りつく。その光景をしっかりと目に映してから、顔をあげた。曲げていた膝を伸ばし、服を軽くはらって、兵士に向き直る。

 

「行きましょう」

「……ふ、ざッけんな!ノエル!戻ってこい!」

 

 歩き出したところで、再び声が聞こえてくる。少し前にいた兵士が足を止めたけれど、あたしは首を横に振ってみせた。「意味わッかんねぇ、何やってんだよ!!」黙ってくれれば楽なのに。ポルコもエレンと同じみたいだ。

 

「こちらです」

 

 兵士が扉を押さえたまま、部屋の外へと誘導する。その指示に従って廊下へと出ても「クソッ待て、行くな!!」ポルコはまだ騒いでいた。返事はしようとも思わない。「ノエル!!」それを最後に、兵士が開けていた扉をパタリと閉じる。完全に塞がれた部屋から、もう声は聞こえてこなかった。

 

 あたしは名も知らぬ兵に連れられ、二人を残した建物を出た。外はとっくに日が暮れて、星ひとつない空が広がっている。迷いなく進んでいく兵士を追って、閑散とした道を進んでいると、「……良かったのですか」その背中から声がした。

 

「顎と親しかったのでは?」

「あぁ、……別に」

 

 何を聞かれるかと、身構えた気持ちが萎んでいく。舗装されていない地面を見下ろして、自分の靴先をなぞった。さっきのポルコ、うるさかったな。どう媚びても一歩距離を置かれていたはずなのに、そうでもなかったのかも知れない。今となっては確かめられないし、しようとも思わないけれど。あたしは、開いたままの口を軽く動かした。

 

「もう、……いらないし」

「そうですか」

 

 その後に兵士が話しかけてくることはなく、連れられた先はまた別の建物だった。ブラウン家と同じような造りの集合住宅で、中へ入っても印象はほとんど変わらなかった。古めかしい色の階段を屋上まで登っていき、兵士はやっとその足を止めた。

 この場所が、合流地点にでもなっているのだろう。兵士は屋上から、収容区の様子を監視しているらしかった。特に、闇夜に浮かび上がっている劇場の光を熱心に見つめている。建物に阻まれて劇の内容は全く知れなかったが、兵士が注視していた理由はすぐ分かった。

 

「エレン……!」

 

 立ち昇っていく白煙と、立ち並ぶ屋根の間から現れた異形。夜空を遮ったその影へ、兵士が堪らずといったように呟いた。動き出したその巨体は、すぐさま建物に阻まれ見えなくなってしまう。ライナーとも、ユミルとも、また違う体。その存在が、襲撃の始まりを告げていた。

 未だに外を観察している兵士の隣で、屋上の縁に背をつけて座り込む。今頃、あの下では阿鼻叫喚が広がっているはずだ。エレンが呼び出してくれていなければ、あたしもあの場にいたのだろう。最悪のもしも、を想像しかけた体に腕を回し、顔を足に埋める。どこかから鳴り渡ってくる地鳴りには耳を塞いで、兵士が動き出すのを待つことにした。

 

「ッ、……?!何の音」

 

 あちらこちらから轟いてくる銃声に、黒煙まで足元へ入ってくる。加速している戦闘に身を縮めようとした時だ。手では遮断しきれないほどの爆音と突風が頬にぶち当たってきた。暗く影になっていた足元が、一気に明るくなる。照らしていたのは、太陽よりも一回り大きいような塊。眼球に焦げ付いてしまいそうな熱だった。

 

「アルミンが軍港を破壊したんです。もうすぐですね」

 

 燃え上がった夜空を前に言葉を失くしていたら、周囲を見渡している兵士が振り返りもせず、そう言った。数年ぶりの響きに懐かしさを覚えつつ、訳知り顔な兵士へ聞き返す。

 

「アルミンが?そんなの、どうやって」 

「ああ、……あなたは知らないのでしたっけ。上から見れば、すぐにわかります」

「上……?」

 

 兵士が思い出したような声を出して、徐に持ち上げた腕で指差した。示したのは、遠くの方で燃えている夜空。「ほら、丁度来ましたよ」その真ん中を割るように向かってくる白い物体を前に、あたしは感嘆の息を洩らすしかできなかった。

 

「……飛んで、る……」

 

 飛行船、とか言うのが開発されているとか新聞で読んだけれど、あれがそうなのだろうか。わからない。本当に人が乗っているのかすら。

 鈍く間延びするような音を垂れ流して、戦場の空を悠々と飛んでいるそれに気を取られていると、屋上へ影が飛び込んできた。現れたのは、全身を黒い服で覆って鉄の塊を装備した人間。あたしの知る兵団と随分異なる装いだが、胸に象られている紋章は数年前に自分が背負っていたはずのものだった。「イェレナさん」屋上に降り立った二人のうち一人が、兵士を呼んだ。その二人に向かっていく兵士――イェレナの後ろであたしは縁に手をついて立ち上がった。一言、二言と声を交わしたのちに、イェレナが無謀とも思えるような作戦の全容をあたしに告げた。

 「お先にどうぞ」と順番を譲ってくれたイェレナの言葉に甘え、あたしは兵士に抱えられて空を飛んだ。地面から足が離れ、浮遊感が襲ってくる。それに耐えるのも少しだけで、ぎゅうと強く閉じていた瞼をあげ、垂れ下がっている縄を掴んだ。強風吹き荒れる空の上で、灯りの溢れている内側に乗り込もうする。もう一歩。揺れる縄を必死に握り締め、中へ腕をかけた。

 

「ノエル、……?」

 

 身を乗り出したあたしの前に、影が落ちる。短髪のブロンドを靡かせたその人は、碧い瞳を見開いてあたしを見下ろしていた。

 

「ありがとう」

「……ノエル」

 

 差し出された手を握り締め、床に転がり込む。床に手をついて、一日中強張っていた体を弛緩させていたら、「ノエル、……なんだよね?」アルミンが声をかけてくる。

 

「え?ああ、……こんな格好してたら、驚くよね。ごめん」

 

 アルミンからしたら、4年ぶりに再開した仲間が主婦か家政婦みたいな格好で現れたのだ。驚きもするだろう。「脱ぐの忘れてた」服の上に重ね着しておくのが癖となってしまったエプロンの紐を摘んで、言い訳してみせる。どこかで脱ぎ捨てればよかった。「いや、そうじゃ。なくて……」今からでも、と紐を肩から抜こうとしてアルミンに止められる。

 

「エレンが言ってた。驚くだろうって……君のこと?」

 

 アルミンが瞳を震わせながら、やけに回りくどい言い方で問うてきた。あたし、何かしてしまったんだろうか。感動の再会のはずなのに、アルミンの表情は濁っていて、歯切れ悪そうにしている。

 

「知らないけど……エレンから聞いてないの?」

「……何も。聞いてないよ」

 

 首を横に振っているアルミンが、一枚壁を隔てた遠くのことのように思える。どうしてだろう。背筋を嫌な汗が流れてく。全て順調に終わって、このまま島に帰ればいいはずなのに。胸の奥が落ち着かない。

 

「エレンは……君になんて、」

「だから、帰ろうって。……え?、待ってよ」

 

 言いかけて、喉が引き攣る。アルミンはさっき、なんて言った?聞いてないって言っていたのか。「……本当に、何も?」まさか。そんなはずはない。祈るような気持ちで聞き返して、アルミンの表情は変わらないままだった。

 

「……聞いて、ないよ」

「は……?」 

 

 そんな訳が。問いただそうとして、「アルミン。あの野郎はまだなのか」横から入ってきた声に邪魔をされた。そこにいたのは、また別の懐かしい顔ぶれ。小さいながらも威圧感を放っているその佇まいは、4年前。一度きり出会った印象と変わりなかった。圧倒的な強さを誇る人類最強を前に、少しは体勢を整えた方がいいはずが、床に手をついた体は全く動かない。

 

「もう少しで、上がってくるはずです」

「おせぇな。呼び出した癖に待たせやがって」

 

 リヴァイ兵士長が舌打ちをして、開いたままになっている外を睨む。その傍で、あたしは痛いぐらいに伸縮する心臓を服の上から握りつぶす。いくら力を入れても、止まない。あたしは、浅くなっていく自分の呼吸を聞いていた。

 

「それで、その女は何だ?」

「……ノエル。ノエル・ジンジャーです」

 

 アルミンが静かにあたしの名前を答えた。「例の奴か……」声と共に目を向けられ、その鋭い双眸に貫かれた肩が、ピクリと動く。

 

「四年前の離反兵が、何でここにいやがる?」

「わかりません……イェレナが連れてきたようですが」

「チッ……またエレンか。好き勝手やりやがって」

 

 言い淀んだアルミンへ、兵士長が再び舌打ちを落とす。腕を組み直したその人に向かって、「ちょっと、待ってください」あたしは声を出していた。

 

「あ?」

「好き勝手って、どういう、ことですか。この強襲は、兵団とエレンが企てたものでは?」

 

 突然話し出した女に、兵士長の片眉があがる。それでも、関係なかった。口元に広がってくる苦いものを飲み込んで、確かめる。勘違いだと、そう言って欲しかった。

 

「……どうやらテメェも、あのクソにしてやられた側らしいな」

 

 少しの間を空け、兵士長がつぶやく。その音が脳みそに伝わるより早く、「は」息が溢れる。あたしの望んでいた答えは、どこにもなかった。

 

「アル、ミン?」

「ごめん……」

 

 縋るように見つめても、アルミンは目を伏せるだけ。その代わりにぽつりと謝られ、現実が色を失ってく。やめてよ。影を落としているアルミンへ、あたしは熱をあげて叫びたくなった。ベルトルトみたいに、謝らないでよ。

 

 それからは、悪夢の中にいるみたいだった。四つん這いのまま愕然としていたら、知らない顔の兵士に奥の部屋へと連れて行かれた。途中、蒸気の中で座り込んでるジークの姿もあった。声を掛けられたような気もしたけれど、もはやどうでもよかった。あたしが今話したいのは、ただ一人だけ。連れ込まれた部屋の椅子に座らされ、ぼーっとした頭の隅で壁に積まれた板の数を数えていたら、例の人との再会は意外にも早かった。

 

「座れ」

 

 銃を突きつけられた長髪の男。病院で会った時よりもみるからに薄汚れた姿のエレンが、あたしの隣に腰掛けて、腕を拘束される。部屋に入ってきたのは、数名の兵士だけではなかった。兵士長に続き、アルミンと髪を短く切り揃えたミカサも入ってくる。艶のある黒髪は、間違えようがなかった。アルミンから聞いていたのだろう。あたしと目のあったミカサが、驚嘆の声をあげることはない。

 ジークとその側で背をついているイェレナ、エレンを囲っているアルミンたち、そしてあたし。三つ巴となった空間で、話し出したのは兵士長だった。

 

「評判良かったんですけどね」

 

 指摘されたイェレナが、違和感のあった顎鬚を剥がす。同時に、扉の奥から響いていた物音が大きくなって「あいつら、まだ騒いでやがるのか」兵士長の悪態に応えるよう、扉が開いたのはすぐ後のことだった。

 

「ファルコ、ガビ……何故ここにいる」

 

 扉を開けた兵士が、前に引き連れている子供の名前。別れたはずの二人を、ジークが呼んだ。数十分前にもあったような光景に、頭の奥が痛む。どちらの顔も殴られたような跡があり、血を垂らしている。訓練の後でも見たことのないようなファルコの怪我に、どこか心が浮ついた。

  

「何故、って。ジークさんこそ、何故?」

「生きていたんだね!でもこいつらに捕まっていたなん、」

 

 ジークに喋り掛けていたガビの声が、中途半端に途切れる。別れを告げたはずの瞳が、丸く縮んであたしを捉えていた。それは、隣にいたファルコも同じ。

 

「ノエルさんまで、なんで……?」

 

 ファルコが弱々しく問いかけてくる。無視してやり過ごしたかったのに。周りから向けられる視線へ、ため息をついてから顔を動かした。口を半開きにして、泣きそうな顔をしている二人へ、つぶやく。

 

「だから、……はしゃぐな、って言ったのに」

「っえ……」

 

 唖然としている二人から目を離そうして、「ヘタクソ、なのか……?」その後ろにいた人物と視線が交わった。その声と髪の色で記憶が呼び起こされる。大人びていてわからなかったが、そのあだ名を使うのは一人しかいない。二人と同じく瞠目しているジャンに、兵士長が近づく。

 

「このガキは何だ?」

「ッ、ロボフさんを殺し、立体機動で飛び乗ってきました」

 

 ジャンはハッと我に帰ったように言葉を並べて、苦々しく唇を噛み締めた。眉を潜めたまま、その続きを口にする。

 

「――そしてこの子に、サシャが撃たれて……もう、助かりそうにありません」

 

 真っ先に駆けて行ったのは、ミカサとアルミンだった。勢いよく扉がとじられ、入れ違いのように前方の扉からまた別の兵士が入ってくる。今度は誰だろうかとその人物へ視線をやり、身につけている眼鏡で誰か分かった。数年前は開いていた片目が眼帯によって隠されている。浮浪者みたいなエレンといい、こっちもこっちで色々とあったのだろう。あたしも、みんなも変わってしまったらしい。

 

「イェレナ!!顎と車力はお前が拘束するんじゃなかったのかよ!?仲間が余計に死んだんだぞ!?」

 

 ジャンがイェレナを激しく怒鳴る。仲間想いなところは、相変わらずみたいだ。激情をぶつけられても飄々と言葉を返しているイェレナの横顔から、今さっき二人が出て行った扉を見据える。

 ジャンは、サシャが撃たれて助かりそうにないと言っていた。本当にそうなら、一度くらい顔を合わせたい。あたしのパンを食べて幸せそうにしていたあの顔が、どんなふうに成長しているのか見てみたかったのに。

 

「マーレ軍幹部を殺し、主力艦隊と軍港を壊滅させた。これで時間は稼げたはずです」

「世界がパラディ島に総攻撃を仕掛けてくるまでの時間かい?」

 

 沈黙を貫いていたエレンが喋り出し、あたしはそっと話に耳を傾けた。「それをわかっておいて、自らを人質に強硬策を取るとは……」ハンジが暗い表情でした話は、聞けば聞くほど、エレンから語られていたものと違う。疑念が確信へと変わり、エレンを見た。

 

「全ての尊い犠牲がエルディアに自由をもたらし、必ず報われる」

 

 あたしとは目も合わさず、表情ひとつ変えないエレンを前に、沸々と何かが湧き上がってくる。話の途中だろうが、関係ない。声をあげようとして、鉄の扉がゆっくりと開かれた。

 

「――サシャが、死んだ」

 

 特徴的な坊主頭ですぐにわかった。その頬を大粒の涙が流れて、落ちていく。やっぱり、サシャには会えず終わってしまった。「……え?」誰かの声がして。静まり返った部屋の中で、あたしは過去を思い返すことしかできなかった。

 サシャとはそれなりに仲が良かった。いつもパンを狙われて大変だったけど、構われるのが嬉しくもあって。なにより、あたしをノエルで居させてくれた人たちの一人だった。

 

「コニー。サシャは…最期…何か言ったか?」

「肉…って、言ってた」

 

 少しの間を空けてから、「くっくっくっ」押し殺すような笑い声が耳朶に触れた。俯いたエレンが、肩を振るわせて、笑い続けてる。

 

「お前が調査兵団を巻き込んだから、サシャは死んだんだぞ」

 

 ジャンが言って、エレンの動きが止まった。低く唸るような音だけが残った空間で、しばしの沈黙が流れる。サシャの死を悼みたいところだけど、それよりもやらなきゃいけないことがある。ジリ、とまだ覚めらぬ熱に突き動かされ、「エレン」あたしはやっと声を出すことができた。

 

「すっごく楽しそうなところ、悪いけど」

 

 椅子を手で押して、その場に立つ。周囲から突き刺さってくる視線にも構わず、エレンへと歩を進めた。手を後ろに組んで、椅子に座っているエレンを見下ろす。話しかけても、エレンは俯いたままだ。髪の毛に遮られて、その表情を読むことはできない。全部わかっている癖して、顔すらあげようとしない態度に歯を軋ませる。

 

「兵団に話はつけてある?罪には問われないって?仲間――だって?」

 

 数日前、全てはエレンが言ったことだ。仲間だろ、なんて臭い言葉で手を差し伸べてきたのはエレンなのに。ここまで来て、あり得ない。こんな、何を考えているかも分からない男に、泣いて感謝を告げた自分自身もだ。

 

「ははっ。笑っちゃいそうだよ、あたしもさ!」

 

 衝動のまま、足を振り上げてエレンの隣の壁を蹴る。大袈裟な音が鳴って「おいッ、ヘタクソ!」駆け寄ってこようとする気配に「邪魔しないで!」と叫んだ。エレンとあたしの問題に、他の人間はいらない。肩越しに睨みつければ、近寄ってくる人は誰もいなくなった。あたしが支配した空間で、壁についた靴底を擦り付ける。ズリズリと、何度も。何度も擦り付けてやる。

 

「良かったね。エレン」

 

 にっこりと笑ってやっても、エレンは動かない。意思を失った木偶の坊みたいに、床を見ている。ああ、なんでだろう。

 この男の、視界に入ってくる全てが鬱陶しい。憎たらしくて堪らなかった。頭を踏み抜いて、顎をかち割ってやりたい。妙に饒舌だった舌を引っこ抜いてやりたいのに。できない。あたしに、そんな力はないし、ここはあたしの居場所じゃない。そんなもの、どこにもなかった。

 

「これで……あたしは、終わる」

 

 このまま島へと戻ったら、あたしは反逆罪で裁かれる。兵士になったら誰もが最初に習うことだ。反逆は、兵団内でも罪の重い違反行為。その場で叩き切られても、おかしくないほどの。つまり、裁判にかけられて仕舞えば、あたしは。

 わかってる。ここから上手く逃げ出そうにも、上空から落ちて死ぬだけだろう。抗いようのない現実に視界が眩んで、自分の唇を噛み締める。息を吸って、鉄の味が滲む口で「この、」零れ落ちていく言葉を吐き捨てた。

 

「この、嘘吐き……!!」

 

 なにが、仲間だ。なにが、仕方ないだ。あたしを誘導するために、適当なことばかり並べて。エレンは最初からこうするつもりだったんだ。あたしを騙し、報いを受けさせるために。

 

「先に」

 

 荒い呼吸を整えていたら、エレンが動いた。持ち上がった顔の、無造作に分けられた前髪の間から、深緑の瞳が覗いている。異様な光を宿した、瞳が。肩を上下させるあたしの姿を映してる。

 その様子に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。頭のどこかで警鐘が鳴り出し、エレンを静止しようとして、間に合わなかった。

 

「先に裏切ったのは、お前だろ」

「え…?」

「嘘吐きは、お前だろ」

 

 そうだ。あたしは、あの木の上で。初めて出会った時に。ちがう、ずっと。ずっと最初から。あたしが。あたし、だけが。

 

「あ」

 

 あたしが先に、やったんだ。じゃあ、もしかして。全部、あたしの。

 

「ノエル」

 

 あたしのせいで――死ぬ?

 

「ぁ、あ、……ぁ」

 

 全身から、汗が溢れる。壁につけていた足がよろめき、後ろに下がっていく。「ッぅ!ぐ、ぅ……」背中が壁にぶち当たり、衝撃で呻いた。壁にもたれるようにして、膝ごと崩れ落ちる。地に伏せても、手を差し伸べてくれる人は誰もいない。ジャンも、ファルコも、みんな。あたしを見るだけで、何も。味方なんか、どこにもいない。目尻が、じわりと熱くなって。向けられる視線から逃れるように、天井を仰いだ。

 

「ク、ソが……」

 

 あたし、何を見てたんだろう。希望。救い。そんな、馬鹿げたもの。この残酷な世界には、存在しない。昔から。知ってたはず、だったのに。

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