島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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完結編
第44話 故郷


 

 兵士をするのがヘタクソで、諦めの悪いただのバカ。三年間の訓練兵生活を経て、ジャンがノエル・ジンジャーという人物に抱いていた印象だった。ライナーたちに連れ去られ、実は望んでいなくなったと聞いてからも、その印象は変わらないままだった。

 それが音を立てて捻れ始めたのは、ノエルが偽名だったと告げられた時からだ。ウォール・マリア奪還を目前にして、新しく湧いて出た疑念の種に、仲間たちは騒ついた。あの無害な笑顔の裏で、何を考えていたのか。ジャンが、ノエルの両親への事情聴取に同行しても、疑念が確信へと変わるだけだった。

 ウォール・マリアを奪還して時が経ち、海の向こう側へと繰り出しても、ジャンの頭にはノエルの影があった。時が何年と過ぎようが、ノエルが何を偽っていようが。あの日、誓ったことは変わらない。

 調査兵団として壁外へ出るなり、ジャンはノエルの情報を辿った。悪魔の島から連れてこられた、ちっぽけな女を。潜入調査の最中にそれほど踏み込んだ捜索はできなかったが、4年前に連れてこられた島の悪魔の情報は何処からも出てこない。行き先に目星もつけず、町へと繰り出しても当然の如く駄目だった。

 

「ヘタクソ、なのか……?」

 

 そこまでして探していた相手は、見つけるどころか、自分からやって来た。

 長く伸びた髪の毛を肩で一括りにし、どっかの母親みたくエプロンを身につけた女。記憶の中と同じでありながら、まるで違うソイツがノエルだと確信できたのは、変わらない瞳の色があったからだ。

 ノエルは、ジャンを目にしても表情を変えなかった。あれだけ忙しなく笑ったり、落ち込んでたりしていた昔とは、まるで別人のような平静さだった。用意していたはずの言葉が、何一つ出てこない。兵長に声を掛けられなければ、その余韻をいつまでも引きずっていただろう。

 エレンの忍び笑いをやめさせた後。重く沈んだ沈黙の中で、ノエルは徐に立ち上がった。ジャンが不穏な気配を止めようと動くも「邪魔しないで!」悲鳴にも似た叫び声で拒絶された。静止を振り切ったノエルは、そのまま壁に足を突き立て、感情を露わにする。

 胸ぐらを掴み上げそうな気迫でエレンを問い詰めるノエルに、割って入ろうとする人間はいなかった。できるのは、目の前で繰り広げられる光景を、傍観者となってただ追うことだけ。そのやり取りから察するに、ノエルを連れて来たのはエレンであるらしかった。

 

「ク、ソが……」

 

 ノエルがそう吐き捨てて、壁に背をつけたまま、床に崩れ落ちる。そんなノエルを騙して、飛行船に連れて来たのも、エレンが勝手にやったことらしい。

 さっきまでの怒気を萎ませ、俯いたまま何も言わなくなったノエルに、しばらくは誰も言葉を発さなかった。足を投げ出し、顔に影を落としたノエルからは啜り泣きの一つも聞こえてこない。糸が切れた人形のように、床で座り込んでいる。エレンも同様に、ノエルを目で辿りすらせず、床に顔を向けているだけだった。唸るような飛行音だけが、場を支配している。そんな状況を打破しようと、ジャンが一歩踏み出した時だ。静観していたハンジが、ノエルへと近づいた。前へと立ち、「ノエル・ジンジャー」その名前を呼ぶ。

 

「覚えているかい?君は私にそう名乗っていたよね」

 

 ハンジが喋り掛けても、ノエルは身動ぎひとつしない。その体制で気絶でもしてるんじゃないかと、勘違いしそうなほどの反応の無さだった。伏せられた前髪が顔を隠していて、表情は窺い知れない。物に向かって話しかけているのと同じような状況に、ハンジは顔色を変えず、続けた。

  

「ノエル・ジンジャー。またの名を……――」

 

 聞き馴染みのない名前がジャンの耳朶に触れる。まだ一度も発したことのない、ノエルの本名だった。手元で拘束している子供からも「え……?」 訳もわからないというような声が上がる。連れて来た時の反応を見るに、ノエルは飛行船に乗り込んできた二人の子供と知り合いらしい。ジャンが驚愕で声を失くしている横で、眉ひとつ歪めずに何か言葉を吐き捨てていた。何処で出会ったにしろ、海の向こうでも偽名を名乗っていたらしい。

 

「これが、君の本名なんだって?」

「……誰ですか、それ」

 

 ハンジが聞き返して、ノエルはやっと言葉を溢す。雑音に紛れてしまいそうなほど小さく、誰へ向けたかもわからないような呟きに似た返事だった。数分前の声を荒げていた時とはまた違う様子。ジャンは、自分の抱いていたノエル・ジンジャーという人物像が、音を立てて崩れていくのを感じていた。

 

「誰って、君の」

「知らない。知りません、そんな人」

 

 ハンジが言おうとしたのを掻き消すように、ノエルが先ほどより強く声を被せる。探ろうとした手をバッサリと切り落とす、確固たる意志が滲んだ回答に、「そっか」ハンジはそれ以上追求することなく頷いた。

 

「じゃあ。4年前に行方をくらませた君が、何故今ここにいるのか……それは、わかるかな?」

 

 息を吐くような間を置いて、ハンジは再び口を開いた。投げかけられた問いに、ノエルが顔を持ち上げることなく、時間だけが流れていく。痺れを切らしたハンジが一歩出たところで、「さあ」ノエルが言った。

 

「そこの人に、聞いてください」

「ああ……そうしよう。私も彼には聞きたいことが山ほどあるからね」

 

 ハンジはそう冗談みたく言って、真後ろにいるエレンへ視線を寄越す。「でも、その前に答えてくれないかな」ジャンも一緒になって目をやるも、エレンは相変わらずだ。髪の間から覗かせた瞳は、暗く澱んでいて、その先を辿ることはできない。その横でハンジが動かしていた首を戻した。少しばかり身を屈め、ノエルの体が影に飲まれる。

  

「君の目的は、何?」

「……言えば」

 

 改めて問い直したハンジに、ノエルがやっと声以外の反応を示した。今まで下げていた顔を少しだけあげ、口元が明かりに照らされる。こっちも、エレンと大して変わらなかった。何の感情も乗っていないような、平坦な表情を貼り付けたまま、ノエルは淡々と続けた。

 

「言えば、あたしを解放してくれますか」

「残念だけど、無理だ。君は重要な参考人だし……まだ兵団の所属だからね」

 

 「君の罪は、然るべき場所で裁かれないといけない」ハンジは一考する間も見せずに、ノエルの交渉を切り捨てた。身分偽装に、反逆罪。どちらも兵団の規律通りに審議されれば、どうなるくらいは目に見えている。ノエルもわかっているのだろう。

 

「なら、話すことは……ありません」

 

 そう言ったきり口を閉ざし、僅かに上げていた顔も床へと落とした。一度は破られていた静寂が舞い戻ってくる。数秒と経たないうちに、ノエルを見下ろしていたハンジも顔をあげ、身を翻した。はじめの時と同じような態度に、これ以上は意味がないと判断したようだった。ジャンの連れている子供を見るなり、指示を飛ばす。

 

「ジャン。一先ず、その子達は倉庫に拘束して。サシャの様子を見るのは……その後だ」

 

 ハンジが半開きの扉に、視線を滑らせて言った。サシャの死を報告しに来たはずのコニーは、既にいなくなっている。大方、サシャのところにでも行ったのだろう。すぐにでも向かってやりたい気持ちを抑え、ジャンは苦々しくつぶやく。

 

「……はい。ですが……アイツは」

「彼女はあのままでいい。今更暴れるようなこともないだろうしね」

 

 言い淀んだジャンに、ハンジはさらりとそう返した。そう言われても、肩越しの床にいるノエルが動き声を発することはない。同じ体勢のまま、沈黙を貫いている。

 

「ヘタクソ」

 

 ジャンは子供を拘束したまま、その背に呼び掛けた。訓練兵の頃からの、くだらないあだ名。こうやって呼ばれるお前は、いつも何も考えなさそうなアホ面で笑ってやがった。一歩間違えば暴言と変わらないそれを、気に入っているとも。

 ジャンが呼んでも、ノエルはピクリとも動かなかった。何もかも聞こえていないか、無視を決め込んでいるのだろう。そんな器用なことはできない奴だと思い込んでいたが、ジャンはノエル・ジンジャーという人物を何も知らなかったらしい。

 ジャンが立ち去るまで、返事は返ってこなかった。昔みたいな笑顔も、声すらかけられず、そのまま。ジャンの胸の内には、期待も落胆もなかった。あったのは、変えられない過去への後悔。それだけだった。

 

 

――――

 

 

 母親、という生き物がいるらしい。それを知ったのは、友達ができてからだった。物心ついた時には、母親の姿はなく、家にいるのは父親だけ。寂しさを感じることはなかった。わたしには、それが普通で、日常だった。

 むしろ、わたしは母親というものが好きではなかった。周りの友達には、二人の親が家事を分担してやっているらしいのに、わたしの家には一人。パパが全ての家事をこなしていた。それに加えて、生きていくための仕事も。わたしも手伝いはしていたけれど、子供の手では間に合っていなかった。

 時折、お母さんから荷物が届いた。荷物、と言ってもわたしたちを気遣う手紙や物資なんかじゃない。お金が入っているだけの、ただの封筒。わたしたちが生活するには、何もかも足りてない。それだけだった。

 わたしはお母さんが好きじゃなかった。嫌悪すら抱いていたかもしれない。大好きなパパを、そんな目に合わせているのはお母さんだったから。

 

「はぁ」

 

 シガンシナ区の兵舎。地下深くの牢獄で、ひとり息を吐く。飛行船から降ろされ、拘束されたまま馬車で移動した先は、懐かしい故郷だった。馬車から兵舎へと歩く傍らで兵舎の周りを一見しただけだったが、巨人の楽園となっていた痕跡は見当たらなかった。あたしがくだらない夫婦ごっこをしている間に、壁内も変わっていたらしい。再会した旧友たちも、風貌こそ同じでも、以前と異なる顔つきをしていた。その理由は聞けなかったけれど、良いことばかりじゃないことは確かだ。

 かつての仲間たちとは、あの部屋で別れたっきりになってしまった。みんな、エレンのことで大変だろうから、裏切った癖して何食わぬ顔で戻ってきた人間に構っている余裕はないのだろう。ファルコやガビとも同様にそれきりだ。ジャンだけが何か話しかけてきたような覚えもあるが、答える気にはならなかった。それどころではなかったし、島に着いたら同じように尋問を受けるだろうと知っていたからだ。実際、その通りになった。

 聞かれるのは、毎回同じだ。行方不明になっていた4年間の動向と、エレンとの関係。兵団としては、特にエレンが何をしていたのか知りたいようだった。あたしからすれば知ったことじゃないが、兵団からすればエレンが独断で連れてきた女だ。何かあると疑うのは当然だろう。その証拠に、あたしをエレンと同じ房には入れず、わざわざシガンシナ区まで連れてきた。

 あたしはどちらについても黙秘を貫いている。情報は力だ。数年前の愚かな自分みたく、無償で売り渡しては価値がない。お陰で、あたしの運命を決める裁判は日程を告げられずにいた。

 やってくる兵士の質問に、緩く笑みを浮かべたまま見当違いのことを返す。もはや日課となりつつある、その無意味な行為も終えて、眠気に襲われるまで暇になってしまった。ベッドに座っているのも飽きてきて、横に体を倒す。埃っぽい匂いが舞う中で、天井を見上げると、古びたランプが灯りもなく鎮座している。前にいた牢の照明と言えば、鉄格子に遮られた日の光くらいだったので、牢に入れられて驚いた。生活で最低限必要な家具に加えて、湯も沸かせるし、今寝転んでいるベッドもある。布切れ一枚も貰えなかったあの場所とは、比べる気もしなかった。

 

「ふー……」

 

 少し硬いベッドに体を埋め、意味もなく酸素を吐き出す。太陽の下で暮らせなくたっていいから、もういっそここで老衰させてくれないだろうか。暇に忙殺されたとしても、それで死ぬなら本望だ。巨人に喰われたり、誰かに殺されるよりよっぽどいい。寝転んだまま、暖かな色の光が差し込んでくる鉄格子の向こうに目をやる。こちらに背を向けて立っているのは、あたしなんかを監視しなければいけなくなった哀れな看守だ。懐柔できないかと連日声を掛けてはいるが、物に話しかけているみたく、まるで反応がない。手洗いに行きたいと言えば、ちゃんと出してはくれる。他の兵士とは話しているので、難聴という訳でもないはずだけど。ポルコみたいに揶揄えないし、つまらない。

 身をゴロンと転がして、毛羽立った毛布に頬を擦り寄せる。恐ろしいくらい淡々と過ぎていく空間で、あたしは何を考えて時間を潰していたんだっけ。手繰り寄せた温もりに包まれ、瞼を閉じた。独り占めして寝られるベッドは、やっぱり息苦しくなくていい。真っ暗になった視界の中で、意識だけが浮上したまま。鬱陶しかったいびきや熱が、今になってほんの少しだけ恋しくなってくる。誰か。子守唄でも歌ってくれればいいのに。まだ小さい頃、パパがしてくれていたみたく。記憶の中にある歌を口ずさもうとして、やめる。そっか。あたしは、どうしようもなかった母親のことを考えていたんだ。

 思い返せば、子守唄もそうだった。本来なら母親の役目であると、父親が歌うなんて変だと、友だちに揶揄われて知ったんだ。ずっと、不思議だった。自分の母親は、どうして帰ってこなかったのか。わたしを寝かしつけてくれなかったのか。わたしを、愛していなかったのか。同じ調査兵団となり、海を越えてからも。それだけが謎のままだった。

 いつまで経っても、沈まない頭で寝返りをうつ。ぼんやりとした闇は、何も映さない。全て失った、捨てたあたしに相応しい色。

 

 今なら、わかる。

 

 お母さんは、あたしと同じだったんだ。自分のためなら、家庭も。夫も、子供でさえ捨てられるような、屑だった。でなければ、幼い子を夫に託して壁外へ向かい続けられる訳がない。自分の子供に顔すら見せないで、放っておく。なんて。まともな人間じゃ、もう少しマシなことをするはずだ。残念ながら、体裁良く母親面する器用さは持ち合わせていなかったらしい。あたしだって、ライナーの恋人面ができたのに。

 やっぱり、立体機動は下手だったんだろうか。もしくは、斬撃。どれにしたって、巨人相手に何年も生き残れる技量がなかったことだけは確かだ。

 母は、死んだ。壁外調査中に殉職という、なんともありきたりで呆気ない終わりだった。母からすれば、大好きな壁外で死ねて、本望だったのかもしれないけれど。残された側からしたら、それはもう悲惨なものだった。指の一本すら戻ってこず、残されたのは血濡れた腕章。どんな最期だったのかすら、誰からも知らされなかった。それが、あまりにも悲惨だったからか、誰も生き残れなかったのかはしらないけれど。母は、巨人の胃の中で惨めな最期を迎えたに違いなかった。

 

「おかあさん、」

 

 広がっている常闇に身を委ね、唇を動かす。あたしは、やっぱり貴方の娘だ。大切だったものは、全部捨てた。かりそめの夫も、子供も捨てた。仲間も、故郷も、全部。

 一度たりとも、言葉を交わしたことがなくても。同じ血が流れてた。巨人に自分の体が咀嚼される音を聞きながら、貴方も後悔したのかな。孤独に、誰も知らない場所で。

 

「ねえ……」

 

 あなたの子供が牢獄に入れられて、助けを待ってる。親は何があっても子供の味方じゃなかったの。あたしを、悪魔をこの世に産み落としたのは貴方なのに。無責任だな、ほんと。

 

 

――――

 

 

 レベリオの襲撃から数日後、重症だったライナーはベットの上で目を覚ました。その後に、ジークを除くマーレの戦士のみで行われた作戦会議で、パラディ島の奇襲を提言。マガトは暫し沈黙したが、ライナーの提案を取り下げはしなかった。

 真っ先に出て行ったマガトとコルトに続き、ライナーも席から立ち上がる。机に広げられている新型の立体機動装置。どこか懐かしいそれから目を離し、部屋を出ようとしたライナーを「ライナー、ちょっと待って」ピークが呼び止めた。

 

「何だ?」 

「話したいことがある」

 

 振り返ったライナーに向かって、ピークは告げた。椅子へ腰掛けたままだが、先ほどよりは姿勢を崩しているようだった。その神妙な態度に胸がざわつく。そして、次に発された言葉でそれはさらに大きくなった。

 

「ノエルちゃん、まだ見つかってないんだってね」

「……そうだが、心配しなくていい」

 

 ピークが口にしたのは、最愛の妻の名前だった。気遣うような、嫌な含みのある言い方に、ライナーは間髪入れず口を開いた。ノエルが、まだ見つかっていない。その現実を忌避するみたく、ひとりでに話し出す。

 

「広場の近くにはいなかったからな。あの混乱できっと、迷子にでもなってんだろう」

 

 ライナーは言って、妙な焦燥感を駆り立ててくる胸を宥めた。そうだ。家は劇場から遠く離れているし、あの混乱で収容区外にでも避難したまま、迷っているに違いない。どこか抜けてるノエルのことだ。今頃は訳のわからん場所で、俺の迎えを待っている。数ヶ月の遠征の後でさえ、帰還時に耐えきれず抱きついてくるのだから、寂しくて堪らないはずだ。ライナー、と。俺の名前を呼び、涙ながらに駆け寄ってくるノエルを抱き止めてやって、それで。

 そこまで考えて、ライナーは息をついた。そう、この数日で何度も言い聞かせてきたが、ノエルは一向に見つかっていなかった。臨時の避難所、負傷した民間人を治療している病院にまで赴いても、本人どころか、ノエルの目撃談すらない。まるで、消えてしまったかのように。

 ノエルは最後、洗濯物を見にいくと言っていた。家の距離と時間から考えて、母さんとすれ違っていてもおかしくないが、ノエルらしき人物はいなかったようだ。つまり、ノエルは自分が見送ったきり、消息を絶ったことになる。

 その事実を受け止める度、胸が締め付けられた。引き留めなかった自分を、無理矢理にでも付いていなかったことを、何度も悔やんだ。出来るなら、今すぐにでもその後悔を伝えたい。もう二度と手放さないと誓ったにも関わらず、一人残したことを。襲撃の最中、そばにいてやれなかったことを。あの柔らかい体を抱きしめて、今度こそはと謝りたかった。

 

「早く、迎えに行ってやらねえとな……」

 

 脳裏に浮かぶのは、去り際の姿。夕焼けを背にしたノエルは、影の中で笑っていた。赤く沈んでいた太陽のお陰か、それとも、俺に向けてか。頬を赤く染めながら、ゆったりと眉を下げて、口元を和らげていた。こっちまで顔を綻ばせてしまうような、昔から変わらない笑い方だ。

 アイツはいつもそうだった。あの笑みを浮かべて、俺を受け入れてくれる。祭りの前夜も、一年半ぶりの再会でも。あの木の上で罪を告白した時、約束を交わした厩舎も。いつだって、ノエルは変わらなかった。

 蕩けた微笑みで、頬を擦り寄せてくる。耳元でそっと俺の名前を囁くので、口付けで答えてやったりもした。驚きで瞳孔をきゅうと縮ませている様子に抑えが効かなくなっても、ノエルは俺を押し返すどころか、頭の後ろに手を回してくる。揶揄うように何か言われて、俺は引かれるがままノエルの胸へ顔を埋めた。鼻腔に広がったノエルの匂い。くらりと麻薬のようなそれを追い求めるように。しなやかな体を抱き止め、ノエルを貪り尽くした。

 そんな晩の翌日も、アイツはなんてことはないように笑っていた。それどころか、まだ物足りないとばかりに誘ってくるので、耐えるのに苦労したもんだ。長年培ってきた忍耐力がなければ、あの色香にやられていたことだろう。

 一ヶ月前にはあったはずの、夢のような日々。今となっては眩ささえ覚えるような日常を思い返して、下ろしていた拳に力が入る。ノエルも、笑いかける相手がいなくて退屈している頃だ。作戦が始まる前に探し出してやらねぇと。

 

「……私、知ってるよ。ノエルちゃんの居場所」

 

 ライナーが手を一層強く握り直し、そう意思を新たにしたところだった。ピークが雑談でも始めるような軽さで、そう言い出したのは。

 

 その言葉を噛み砕くような間を置いて「ッな、……!」ライナーの喉から驚嘆が洩れた。確かにある目の前の現実がぐらりと揺れ、その勢いでピークへと詰め寄る。

 

「そうなのか?ノエルはどこに……!!」 

「気持ちはわかるけどさ、落ち着いてよ」

 

 突如として現れたノエルの手掛かり。それを逃さんと前のめりになるライナーに対して、ピークは冷静だった。衝動のまま、肩に掴みかかってしまった手を払われてようやく、ライナーはハッと顔を歪める。

 

「す、すまない……それで、ノエルは」

 

 弱々しく謝罪して、ライナーがピークから手を離す。バツの悪そうな表情を貼り付けたまま、一秒すら惜しいとばかりに、その続きを促した。

 聞き返されたピークは、静かに瞬きをして、口を開く。

 

「私とポルコが穴に落とされた時、ノエルちゃんも一緒にいたの」

 

 なんてことはない一言が、一気にその場の熱を奪う。ライナーの浅く開いた口は、何の音も発さなかった。同じ言語を喋っているはずが、理解できないと脳みそが叫んでいる。ピークと、ポルコが?ノエルと。あり得ない現実に、思考が捻じ切れそうなほどの熱をあげる。痛む額を自らの手が抑える。そうして「……は、」やっと発したのは、言葉にもならない息遣い。

 

「彼女だけが穴から逃れ……ジークの共謀者は"迎えに来た"と、そう言っていた」

 

 ライナーの体は、誰が見ても異常をきたしていた。ただでさえ青白い顔が血の気を失い、荒れ始めた呼吸が体を小刻みに震わせている。それでも、ピークは口を動かすことをやめなかった。

 

「ポルコが何度も叫んで引き留めていたけど、彼女は一瞥もくれずに、そのまま」

 

 最後まで言い終えて、ピークは目を伏せる。ライナーが婚約者を溺愛していることくらい、戦士の間どころか、収容区内では有名だ。真実を伝えるのは憚られたが、隠したところで意味はない。その上、ピークには確かめたいことがあった。

 

「待って、くれ。そんな、……ノエルが……?」

 

 未だ衝撃の余韻に引きづられているライナーが、縋るような声を出す。片目を覆い隠した手の裏で、ライナーは信じ難い事実を何度も反芻していた。ピークがこの状況で冗談を言うような奴ではないことはわかっている。加えて、居合わせたというポルコが何の口出しもせずに、黙り込んだまま。部屋を出ようともしない。その光景が、今告げられた言葉が紛れもない真実であることを証明していた。

 背筋を冷えた汗がなぞり、落ちていく。ライナーは震える唇をどうにかこじ開けて、伸縮する肺に酸素を送った。もし。それを現実として受け入れるとするなら、ノエルは、俺に嘘をついていたことに。ピークはジークの共謀者と言って。「は、」吐いた息が、やけに大きく響いてくる。待て、ピークは。穴に落とされたと、ノエルが立ち去ったと言ったのか。

 顔を覆っていた手を離し、確かめるように目を合わせるも、ピークは無慈悲に頷くだけだった。

 

「間違いないと思うよ。この目で見たし……そうでしょ。ポルコ」

 

 目を見開いたまま、絶句しているライナーを尻目にピークはもう一人の証人へと問いかけた。机に肘をつき、二人の話を静かに聞き届けていたポルコが躊躇うような間を置いてから言った。

 

「あ、れは……アイツで間違いねぇ……」

 

 ポルコは物憂げだった表情をぐしゃりと崩し、頬についていた手で拳を握った。それを額に擦り付け、ギリギリと歯を食いしばっている。いつものポルコらしくない取り乱し方に、ピークが少しだけ目を丸くする。

 

「……随分親しげだったよね。初対面っていうのは嘘だったの?」

 

 その驚きが引いてから、ピークはずっと気掛かりであったことを口にした。祭りの日。ノエルと出会った時から、ポルコの様子は変だった。最初こそ緊張しているのだと流していたが、穴の中で見た反応はその一言で片付けられるものではなかった。ノエルが立ち去ったあともポルコは天井を睨みつけ、気が済むまで名前を呼び続けていた。旧知の仲であるピークだからこそ、その尋常ではない態度である程度の察しがついた。ポルコとノエルの間に、知り合いの枠を超えた何かがあったことは間違いない。その何かを明らかにしようとするピークの隣で、打ちひしがれているライナーが「ピーク?」意図のわからない行動を訝しむ。

 注目の的となったポルコが、額に当てていた手を開く。乱れていた前髪。頭を掴み上げ、掻きむしる前みたく爪を立てた。「アイツとは、」誰とも視線を合わせることなく、言う。

 

「アイツとは、……知り合い。だった」

 

 ひゅ、と。誰かの掠れきった呼吸音が、響いた。

 

「な、んだっ、て……?」

 

 小刻みに揺れていたライナーの手は、既に止まっていた。はくはくと口を開閉し、声の主へと視線を動かす。ポルコは、今に倒れてもおかしくないようなライナーを視野に入れるなり、支えていない方の手で机を強く叩いた。拳を振り下ろしたそこへ、「ッチ、……」ポルコが舌打ちを零す。

 

「……なるほど、」

 

 頭を抱えている二人の男を目にして、ピークは一人でそう呟いた。何も知らされていなかったらしいライナーも、よそよそしかったポルコにも、辻褄が合う。発端となったノエルの目的こそ謎のままだが、これだけは分かった。

 

「二人とも、とんだ悪女に転がされてたみたいだね」

 

 ピークが言っても、返事はなかった。二人とも、魂でも抜けたように呆然として何も言わないでいる。たかが、女一人。飛び抜けた美貌を持っていた訳でもなく、まんまと騙された男たちが、ピークからすればどこか滑稽だった。同時に、恐ろしいとも。

 初めて出会った時、といってもつい数日前のことだ。あの大人しそうな子が、ここまで人を狂わせるのか。もっと早く出会っていたら、自分もその一員となっていたのかもしれない。あり得ない話だが、そう考えると他人事のようには思えなかった。

 

「ノエルに、会わねぇと……」

 

 日が暮れてしまいそうなほど、長い静寂の後。ライナーが、ぽつりとそう言い出した。

 どうして、自分の前からいなくなったのか。去り際の言葉は何だったのか。なぜ。知らないうちに、他の男と会っていたのか。それを、隠していたのか。交わしたはずの約束は。そばにいると、あの言葉は何だったのか。わからない。疑念ばかりが脳みそを駆け巡り、答えを出してはくれない。考えても、意味はないのだろう。この痛みを止めるのには、もう一度アイツに会って、答えを聞くしかない。

  

「ああ、お前と一緒なのは癪だが……アイツには、聞きてぇことが山程ある」

 

 ポルコが苦々しく同調して、机から体を離した。深く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。穴を見下ろしていたあの表情が、目に焼きついて離れなかった。この鬱陶しい呪縛から解放されるには、直接話をつけるしかないのだろう。3年前、そうしたように。

 

「……ノエル」

 

 ライナーの洩らした音が、誰の耳に触れることなく溶けていく。数分前まで鮮明に思い起こせたノエルの笑顔が、今はもう朧げだった。

 

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