島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

47 / 79
第45話 終末

 鼻につくような埃っぽい空気を吸い、吐き出す。最初はカビ臭さも感じていたが、ずっとここにいたから馴染んできてしまったらしい。すんすんと嗅いで、膝を抱えたまま壁にもたれる。お茶でも沸かして飲めばいいんだろうけど、そんな気分でもなかった。暇に忙殺されそうな頭で、天井を仰ぐ。

 故郷へ連れ戻されてから、おそらく一ヶ月程が経った。時計のない牢獄では正確な時間を知れない。窓もないので空の色を数えられもしないが、軟禁当初から壁に刻んできた傷跡を見れば日数くらいは把握できていた。一度目の経験が役立っているのを喜ぶべきなのか。複雑な心情を抱えたまま、視線を廊下へとずらす。毎日挟まる尋問の時間が、今日はいつまで経ってもやってこない。気のせいかもしれないが、昨日から見張りの兵士も落ち着きがなかった。あたしを無視するのは相変わらずだけど。

 いつもなら鉄格子の数を数えていたところを、廊下へとやって数十分。階段から降りてきたのは一人の兵士だった。一言挨拶をしたのちに、看守の兵士が言う。

 

「今日のシガンシナ区防衛訓練はどうするって?」

「予定通り行うらしい……」

「総統が殺されたと言うのに……そんなことをやってる場合なのか?」

「さあな」

 

 こちらを意識してのことだろう。噂話でもするような声量だったが、音のない牢屋では大きく響いてきた。前半の部分は、まだいい。懐かしさのある単語だけれど、気にかけている場合じゃない。それより重要なのは、後者のほうだ。

 兵団内で、総統と呼ばれる人間は一人しかいない。死んだならまだしも、殺されたとは。

 ベットから手をつき、地面に足をつける。軋む音を残しながら立ち上がり、鉄格子へと近づいた。牢の前に立っていた二人組がこちらを見、問いただそうとして。

 

「なんだ……?」

 

 静かだったはずの天井、上の階に繋がる階段から騒々しい音が流れてきた。明らかな異変を前に、離反兵など構っていられないのだろう。二人は顔を見合わせると、あたしの質問を聞くことなく、階段を上がっていってしまった。

 その後ろに続きたいところだけれど、牢の扉は開いていない。立ち尽くし、階段を注視する。兵士が帰ってくるのをただ待っていると、足音が響いてきた。ゆったりと降りて来る影が目に映り、姿を現したのは深緑の兵団服と鮮やかな髪色。

 

「フロック……?」

 

 そこにいたのは、訓練兵時代の仲間の一人、フロックだった。

 あたしが名前を溢すなり、その瞳が僅かに見開かれて、ほんの少しの間が空く。それもすぐに断ち切られ、フロックは銃を手に抱えたまま牢を見回した。

 

「ここに彼奴らを連れてこい」

「ハッ」

 

 見ない間に、随分と偉くなったらしい。フロックが自分よりも年上らしき兵士へ指示をして、その影は階段を駆け上がっていった。重く沈むような沈黙が流れていく。フロックは何も口にすることなく、あたしに背を向けている。どうしようもない静寂の中で、あたしはその背に声をかけてみることにした。

 

「久しぶりだね……どうしたの、その頭」

 

 フロックとは特別仲が良かったわけじゃない。同じ班になったら、言葉を交わす程度。特徴的な髪型で覚えてはいたが、今やそれもやめてしまったらしい。あたしにライナーたちがいたように、フロックにも仲良くしていた人たちがいた。いつも一緒にいていたけれど、どうやらその姿はない。駐屯兵になったと聞いていたはずが、フロックの服にあしらわれている紋章は自由の翼。あらゆる違和感を喉奥へ押し込んで、「前の方が良かったのに」あたしはそう付け加えた。

 

「上が騒がしかったけど、看守の人は」 

「ノエル・ジンジャー」

 

 一向に戻ってこない看守たちの動向を問いただそうとして、フロックが振り返る。その顔つきに、かつての面影は消え失せていた。代わりにあるのは、冷えた目つきと引き結ばれた口元。不穏な気配に、鉄格子へ掛けていた手を離す。その前で、フロックは銃を持ち直し、厚い靴底を鳴らした。

 

「エルディアを捨て、敵に寝返った……壁内人類初の裏切り者」

 

 フロックは顔を歪めることなく、ただ吐き捨てるように呟いた。一歩、二歩と牢の前まで距離を詰めてきて、立ち尽くしているあたしを見下ろす。濁った目の色があたしの影を捉えていた。何年前にも見たような、残忍性を孕んだそれ。

 垂らしていた手を握り、嫌な汗が背筋を流れる。この人は、もう以前のフロックではない、と。脳みそが告げていた。

 

「どんな面の皮を下げて、島に帰って来たのかと思ったら……随分と呑気だな」

 

 こちらを見下すような視線をやめないまま、フロックは鼻で笑うように言った。見窄らしい服を着た女が一人牢屋で佇んでいるとなれば、銃を手に持っているフロックからしたらそうなるだろう。

 

「どうだ?久しぶりの故郷は、快適だろ」

「……壁の外より、よっぽどね」

 

 取り繕いもしていない。いっそ清々しいほどの明確な敵意へ、慎重に言葉を選ぶ。フロックがまた何か問いかけて来るより先に、「フロック」あたしは声を上げた。

 

「旧友のよしみで教えて欲しいんだけど」

 

 強張っている自分の体をさすって、再び鉄格子へと手を伸ばした。鈍い冷たさが指の腹からじわじわと侵食してくる。もう片方の手で、ある一点を指差した。

 

「その銃は、何のためにあるの?」

 

 それなりに重量のある銃を背負うでもなく、わざわざ出しておくのにはそれなりのワケがあるはずだ。例えば、上で起きている騒ぎと何か関係があるとか。真正面からこちらを見ていたフロックの視線が途切れ、指先を辿る。手に持った銃を固く握り直すようにして、答えた。

 

「エルディアを解放し、自由をもたらすため……そして、」

 

 手元に眺めたまま、フロックは続けた。下に向いていた首があがり、無機質な眼球があたしを映す。

 

「お前を、殺すため」

 

 品定めをするような間を空けて、その一言が耳朶に触れた。

 

「……今、ここで?」

 

 胸の奥を蝕んでいく苦いもの、背筋を這い上がってくる何かには知らないふりをして。銃先の動向を追う。

 

「いいや、今じゃない」

 

 息が詰まるような沈黙のあと、フロックは手元にあった銃を下げた。どこか、胸の内で安堵が滲んでいく。生温いそれに呑まれかけた意識を、張り詰めた空気が覚ます。フロックは、品定めするような、気味の悪い目であたしのつま先から頭までをなぞっていく。こうやられるのは初めてじゃないが、やはり気分のいいものじゃない。あたしが眉をピクリと顰めたところで、その感情を削ぎ落としたような口元が動く。

 

「お前を使って鎧を殺した後だ」

 

 冗談でも言うような軽さで、フロックが言った。罪で裁かれるという話だったはずが、事情が変わったのだろうか。兵団の長も殺されたと聞くし、今も上の階で続いている音。フロックの様子を視界に入れながら、やけにうるさい天井を見上げる。この喧騒が始まって、フロックが階段を下ってきた。名も知らない兵士共々武装していて、看守たちは未だに帰ってくる気配すらない。つまり、もしかして。一つの可能性を含んだまま、天井から視線を下ろす。

 

「昔っから気持ち悪りぃくらい引っ付いてたからな、お前らは」

 

 微かな灯りに淡々と照らされていた顔。なんの感情も露わにしていなかった表情が、薄ら笑いを浮かべた。あの頃の軽薄さなどは削ぎ落とされている。一歩間違えば、残忍とまで言い換えられそうな皮肉めいたそれ。あたしは、なんの言葉も返さなかった。 

 

「目の前でお前を引き合いに出されたら、まあ。的くらいにはなるだろ?」

「……そうかもね」

 

 いくらだって噛み付くことはできたけれど、あたしは曖昧な返事だけをした。ここで楯突いて、鉛玉を撃ち込まれては困る。あたしの反応に、フロックは喜びも怒りもしていない。まるで、興味がないかのように。

 フロックが何故ここまで変わってしまったのかは知らないが、一先ずは生き延びられるようだ。ライナーを捨てた先で、ライナーに命を繋ぎ止められている。やっと役に立ってくれたのはいいが、それにしても馬鹿げた話だ。いつもなら笑いを堪えるのに必死だっただろうけど、どうにもそんな気にはならない。

 

「フロックさん、制圧が完了しました!」

「今行く」

 

 会話がそう途切れたところで、別の声が割って入ってきた。壁に阻まれてわからないが、おそらく先程までいた兵士だろう。階段の奥から投げかけられたそれに返事をして、フロックは背を翻した。やっといなくなるのか。張り詰めていた空気が緩みかけ、フロックの背が数歩先で止まる。

 

「覚えておけ、ノエル・ジンジャー」

 

 フロックが肩越しに振り返る。そこから覗いて見えたのは、最初と同じ、刃物のように冷ややかな眼差し。

 

「裏切り者は、俺が必ず殺す」

 

 返事をする間も、しようとも思わなかった。一方的にそう宣言したフロックが、今度こそ立ち止まることなく去っていく。その横顔を辿れなくなったところで、入れ違うように別の兵士が降りてきた。後ろに続いている人の影。フロックの言っていた、彼奴ら、だろう。あたしと同じ境遇となった哀れな同居人を目に入れるなり、自分の唇が震えるのがわかった。

 

「ノエル?」

 

 短く切り揃えられた小麦色の髪が、薄暗い地下牢で輝いて揺れる。前髪の間から覗いた碧色の瞳が、丸く縮んでいた。

 

「みんな、大変みたいだね」

 

 アルミンに外の状況を一通り聞き終えて、あたしは机に頬杖をついた。話したっきり、難しい顔で黙っているアルミンと入った時から無言のミカサを見やる。兵士に連れてこられたのは、アルミンだけではなかった。ミカサに、ジャン。コニーまで。エレンを除いたかつての同期たちが揃っている。それらに加えて、全く身に覚えのない人たちまで。

 子供を守るように連れ添っている中年の夫婦らしき人物は、サシャと同じ姓を名乗った。一緒にいる複数人の子供たちは、厩舎で暮らす家族なのだとか。言われてみれば、面影があるような気がしなくもない。明らかにチグハグな群れだけれど、問い直すまで興味は湧かなかった。

 そんな中で、一人あぶれた薄いブロンドの男は料理人なのだと言った。マーレ人の捕虜として働いていて、なやかんやあって捕えられるまでに至ったと。ジャンたちとは何やら以前から知り合いである様子だが、あたしにはそれが不思議だった。マーレ人が、島の悪魔を細胞から毛嫌いしていることくらい嫌なくらい知っている。悪魔に囲われた今の状況など生き地獄でしかないはずだけれど、この男は平然としている。悪魔どころか、何か別のことを気にかけている様子だ。悪魔と同じ空間で閉じ込められている。その現実に耐えきれず、喚き散らす方が面倒なのでありがたいが、珍しいこともあるようだ。

 

「イェーガー派、だっけ」

 

 頭の中で芽吹いていた一つの可能性は、ほとんど当たっていたようだ。数分前までここにいた、フロックが主導している反兵団破壊工作組織。通称・イェーガー派が、ザックレー総統を暗殺。脊髄液入りのワイン、などと言う字面だけでも気色の悪い代物で兵団を乗っ取った。それだけならまだマシだったのかも知れない。脊髄液を体内に取り込んだ人間は、ジークが叫ぶだけで巨人になってしまうらしかった。あの悍ましい、生き物に。

 

「エレンとは、喧嘩でもした?」

 

 想像するだけで恐ろしい話だ。脳裏で他人事みたく呟いて、正面に座っているアルミンへ首を傾げてみせる。アルミンは答えないまま、影を落とした瞳で机をなぞっていた。事情を説明してくれた間ではよかったのに、さっきからずっとこんな調子だ。これじゃあ、話し相手が増えたことにならない。頬を支えている手に頭を預け、重苦しいため息で反応を試そうとして。

 

「ヘタクソ」

 

 浅く開きかけた唇は、声を乗せることなく閉じられた。無視してしまいたいのを堪え、首だけを声の主に向かって動かす。

 

「そういうお前はどうなんだよ」

 

 所々が欠けている煉瓦を背にしたジャンが言って、あたしへ目を向けてくる。どうにか何も言及されずにこの場を乗り切りたかったのに。ジャンは逃してくれないようだ。あの飛行船での醜態を見られたのだから、放置する方がおかしいか。

 どれもこれもエレンのせいだ。幼馴染の二人もまとめて糾弾したいくらいだが、仲違いしているのなら意味はない。一度は静まり返っていたはずの怒りが、沸々と湧いてくるのを嚥下する。

 

「ライナーとはどうなった?好きでいなくなったんじゃなかったのか」

 

 あたしがどうにもならない思いを飲み込んだあと、ジャンは妙に懐かしい名前を口にした。

 好き、か。ぽつりと反芻して、肩に重たいものがのしかかってくる。そう言えば、みんなからはそう思われているのだった。

 滑り落ちそうになった頬を、もう一度拳で支える。4年前のあれが、嘘偽りのない逃避行であったなら。独りよがりな願いで傷を舐め合わなければ、こんな現実にならなかったのだろうか。胸の内で溢して、首を振る。変わらない。あたしたちは、何度繰り返してもあの選択をしてしまう。どうしようもない、加害者のまま。

 

「……ジャンはさ」

 

 思考に沈みかけていた頭を持ち上げ、ジャンを正面から見つめ返す。飛行船の時もそうだった。しん、と静まり返った飛行船で途切れそうな意識を繋ぎ止めるあたしに、ジャンだけが。

 息を吐くような間のあと、途切れた先を繋いだ。

 

「なんで、そんなに知りたいの?」

 

 みんなからすれば、あたしは壁内人類の裏切り者。フロックの言っていた通り、断罪されるべき敵の一人だ。イェーガー派が実権を握ろうが、みんなの立場がどうなろうが、4年前の事実は変えられない。あたしに何が起こったのか知ったところで、何もできやしないのに。

 

「あたしが何のために、何を思って嘘を吐こうが、裏切ろうが、ジャンには関係」

 

 言いかけて、不意に声が詰まる。あたしは、そう言われた相手がどれだけ傷つくのか身をもって知っている。知っていて、あたしは。真っ直ぐにジャンの瞳を捉え直し、閉じていた唇を開いた。

 

「……関係ないでしょ」

「ああ」

 

 わざわざ言い淀んでまで、吐き捨てた言葉。それに対する反応は、想像よりもずっと単調だった。間髪入れずに頷かれ、虚をつかれたまま目を見開く。何も言えずにいるあたしを置いて、ジャンは続ける。

 

「お前が向こうで何をしてようが、俺には関係ねぇことだ」

 

 「だけどな」ジャンは言い切るなり、そう付け加えた。昔と変わらない悪人面をぐしゃりと歪め、手のひらを仰いでいる。そこに文字か景色でも投影されているかのように、じっと見つめたのち、ジャンは手で自分の顔を覆った。

 

「そうも言ってられねぇんだよ……俺は」

 

 その指の隙間から溢れてきたのは、喉を焦がすような叫びだった。確かな決意を滲ませたジャンが、手のひらを額に沿わせ、髪を掻き上げる。改めて向けられた迷いのない瞳に、ドクリと心臓が跳ねた。

 

「話せ、ノエル。お前に、何があった」

 

――何が、あったの?

 

 ジャンが問い直してきて、いつか掛けられた声と重なる。耳元で鳴っている鼓動のそばで反響し、なぜだか目頭が熱くなってくる。あたしを心配してくれていた、あの優しげな表情。何度記憶を辿っても、明確に思い起こすことさえできなくなっていた声が、今だけは鮮明だった。

 じっとあたしを待っている顔に、耐えきれなくなって顔を逸らした。いつの間にか頬についていた手も離れ、机に投げ出されている。まるで自分の体じゃないみたいなそれを目でなぞりながら、「あ、……あたし」譫言みたいな自分の声がして。

 

「誰だ、お前」

 

 コニーの声で、あたしが紡ごうとした言葉は途切れた。どうしようもなくなった続きを口の中で噛み殺して、声の主へと首を動かす。鉄格子へ寄りかかり、事の様子を静観していたはずのコニーは、牢の外に身を傾けていた。床には、長く伸びている影。知らぬ間に人が来ていたらしい。牢屋の真ん中で足を止め、灯りに揺れているそれを辿ろうとして、「そう騒ぐんじゃねぇよ」聞き覚えのある音がした。

 

「俺は奴に用があってきただけだ」

「奴?」

 

 は、と乾燥した空気が喉を通っていく。否が応でも眼球が震え、ただの一言も発せなくなった。いたのは、新緑の兵団服を身に纏った男。一ヶ月前、穴の中で見捨ててきた顔ぶれ。

 

「まだ、生きてんだろ?ノエル」 

「ポル、コ……」

 

 壁内にいる訳がない、ないはずだった姿。夢でも見ているのかと疑いそうになって、頬を撫でる冷めた空気が目を覚まさせる。自分の意思とは関係のないところで驚嘆の息が洩れ、「ハッ、」ポルコはその様子を鼻で笑った。

 

「あん時は、よく無視してくれたな?そんなに小さかったかよ、俺の声は」

 

 淡々としながら、芯の食った声色があたしの鼓膜を震わせる。椅子に腰掛けたまま動かないでいると、ポルコが鉄格子へ手をかけた。その隙間から覗いた瞳の色。暗い影の中でも劣る事のない輝きをみせているそれに、あたしはまだ落ち着きのない胸を抑えた。

 

「……いや。聞こえてた」

 

 知らぬ存ぜぬを突き通せたら楽だったのに。この牢にいる全員から突き刺さる視線に耐えかね、あたしは口を開いた。言ってすぐ、どんな顔をしていればいいかわからなくて目を伏せる。どうやって、何をしに来たのか。エレンの時と同じような疑問ばかりが頭を支配していた。聞きたいことはいくらでもあるが、それよりも。ポルコを上手く丸め込めるような言い訳が、何も思いつかない。

 

「全部。嘘、だったのか?」

 

 じわりと嫌な汗を垂らしながら、唇を噛んだあたしに、ポルコは問いかけてきた。いっそのこと、耳を塞いでしまいたい。ズキズキと一丁前に痛みを挙げるだけの役立たずな頭を抱えて、机に擦り付ければ。でも、無駄なんだ。あたしが、かけた呪いは海を越えてしまったから。

 

「俺を、騙すための。俺を、利用するための」

「……うん」

 

 怒号とも嘆きともつかないそれに、あたしは淡白な相槌を返す。間違いようのない事実を、今更になって勘違いだと取り繕おう気は湧かなかった。

 

「ッ……クソ、」

 

 真実を告げられたポルコが、舌打ちのあとに悪態をつく。鉄を殴ったような鈍い音がして、床へ落としていた顔をあげる。視界の端で、格子を握っていた腕が力無く垂れていった。

 騙し、利用するため。レベリオで、ポルコへ近づいた理由は間違いなくそうだ。居場所も味方もいなかったあたしに、ポルコはよく使われてくれた。お陰様で正気を保っていられたし、良い暇つぶしにもなった。それは、初めて出会った時から同じ。

 

「でも、」

 

 脳裏に浮かんでいた光景を押し込んで、あたしは机に手をついた。鈍い体をどうにか動かし、立ち上がる。ポルコの眼前まで近づけば、項垂れていた体がゆっくりと正された。

 

「全部が……嘘じゃない」

 

 少し乱れた髪の毛の下で、困惑混じりに揺れ動いている瞳を見つめ返す。黄緑がかったその色が、平静さを取り戻す前に。あたしは下ろしていた腕をあげ、鉄格子を固く握りしめている手に指を伸ばした。人差し指の腹で、冷えた節々を撫でる。すぐにでも振り払われるかと思ったが、ポルコの反応はない。それを良いことに、上から覆うようにして手を添えた。

 

「あなたと話している間だけ、人間でいられたのは……嘘じゃない」

 

 乾燥した皮膚に、熱が滲んでいく。文字通り、体が引きちぎれそうな痛みと孤独だけが残っているあの場所で。地面に転がっている肉の塊と成り果てていたあたしを、人間にしてくれたのはポルコだった。今もどこからか現実だったのか分からなくて、記憶が混濁しているけれど。ポルコと話していた時だけは、はっきり覚えてる。

 

「は、?」

 

 あたしが言い終えて、ポルコの小さく開いた口から熱のない声がした。重ねた下で、ポルコの手が強く強張るのがわかる。ギリ、と歯が擦れる音のあとに「じゃあ……それだけかよ」ポルコは言った。

 

「ドベが死んだら一緒に暮らすってのも……!!俺が、好きだって話も……!!」

「……うん、全部」

 

 矢継ぎ早に捲し立てられたのは、胸を灼くような叫び。悲鳴にも似たそれの前で、あたしは静かに首を振った。「だって、そうでも言わないと」見てわかるくらい細かく打ち震えている肩を横目にして、言い重ねる。

 

「あなたは、ただ命乞いする島の悪魔に流される男じゃないでしょ」

「ッチ」

 

 舌打ちを溢したっきり、ポルコが沈黙する。図星だったのだろう。あたしは、ポルコの眉間に刻まれた皺をどこか他人事のように眺めた。再び声をあげられるより先に、張り詰めた息を小さく吸う。ポルコの姿を見てから、頭の片隅にあったそれを口にした。

 

「あたしを、……殺す?」

 

 ポルコが、何の目的もなく裏切り者のところにやってくる男じゃないことは知っている。あたしを、簡単に許してくれないだろうということも。フロックのように銃を持っていたなら話は早かったが、ポルコはどうも手ぶらのようだ。後ろにいる誰でもいい、身代わりにして、どうにか逃げられないか。あらゆる考えが脳みそを駆け巡っていく。

 そうして、じんわりした熱を持ちはじめていた肌から離れかけ、「あ」できなかった。燃えるように熱い手のひらが、あたしを掴んでいた。長い指が手首に絡み、あたしの動きを抑える。突然のことに瞬くあたしを、澱みのない瞳が映した。

 

「惚れた女を、殺せる奴がいるかよ」

 

 その口元が模った単語を、脳が咀嚼するよりも早く「え、……?」口端から嘆息が溢れる。まだ何も理解できていない体がグイ、と強く引かれた。

 

「はッ、それが素か?」

 

 力の入っていない体は、されるがままに傾く。冷えた鉄の感触があたって、頬に息が触れた。遮るものがなかったら、胸元に倒れ込んでいただろう。鼻先がくっつきそうなほどの距離で、あたしを見下ろしているポルコは、嘲るような笑みを浮かべていた。

 

「始祖を奪還したら、償わせてやる。殺すなんて生温いことで許されると思うな」

 

 そこに、先ほどまでの嘆きはどこにもなかった。ゾクゾクと背筋を這い上がってくるような、確固たる意志を孕んだ双眸が、あたしを捉えて離さない。

 

「覚悟しとけよ、ノエル」

 

 挑戦的に囁かれ、脳髄が痺れた。目の前の男は、呪いを解くどころか、自分にかけてまで、あたしを求めている。あたしという、島の悪魔を。

 近くで五月蝿く鳴っている鼓動を耳にしながら、頬が吊り上がる。場違いな温度をのせたまま、「あは、」口端から笑みが溢れていた。

 

「何、されちゃうんだろ」

「さあな」

 

 ポルコが惚けたように言って、あたしの腕を下ろす。するりと手首から撤退していく温もりに名残惜しさを覚えつつ、引き留めはしなかった。

  

「今度こそ、俺が迎えに来てやる。期待して待っとけ」

 

 あたしが返事をする間もなく、ポルコが背を向ける。「またな」最後にそう言い残したポルコは、振り返らずに去っていってしまった。どこか夢見心地のような気分で立ち尽くし、誰もいなくなった廊下を眺める。

 

「なん、だったんだよ。今の……」

 

 余韻に浸っていた体を現実へと浮上させたのは、どこからか聞こえてきたジャンの一言だった。無意識のうち、鉄格子に触れていた手を下ろす。みんながいたことも忘れて、散々言い合ってしまった。誤魔化せもしないだろうが、緩く微笑んでみせる。

 

「顎の保有者……もしかしたら、ここで戦争が始まるのかもね」

「あれが、顎の……!?じゃあ、既に兵団内へ」

「そうだけど、ちげぇだろ。アルミン!」

 

 あたしが思っていた通りの驚嘆をみせ、真っ先に身を乗り出したのはアルミンだった。その格好のまま、顎に手を添えて思考に耽ろうとしたアルミンの隣で、ジャンが組んでいた腕を解く。

 

「ノエル、あの野郎……お前の何だったんだよ」

 

 何、か。そう問われると、わからなくなる。友人や恋人でもなく、知り合いと呼ぶには深すぎる。一通り考えたところで、一番近そうなものをポツリと呟いた。

 

「……間男?」 

「おま、……マジかよ」

 

 そんなに愕然とするほどのことだろうか。所々で言葉を詰まらせてまで絶句するジャンに、他にどう言い表せばいいのか聞き返したくなった。

 

「俺たちのしらねぇ間に、ほんと……やさぐれちまったな」

 

 何を期待していたのか知らないけれど、ジャンが肩を落としてぼやいている。この数年間で変わった自覚はあった。変わらなければ、生き残れなかったから。でも、そこまでの絶望を滲ませなくたっていいのに。同意を求めるようにミカサを見つめてみるも、視線が交わらない。他のことで精一杯のようだ。

 

「まる、……ライナーがみたら泣くぞ」

「泣くのはやだな、泣き止まないと抜いてくれないから」

 

 一度泣き出すと、ライナーはいつもそうだ。好き勝手にあたしを貪った癖して、涙を堪えようともしない。中に出しても、何をやらせても治らないから、あたしがあやさないといけなくなる。甘ったるく誘って、胸の内に抱き込めば大抵はどうにかなるけれど、面倒でしかない。

 涙と汗と他の何やらでぐちゃぐちゃになった夜の翌日。大量の洗濯物を一人で干した時の虚無感が蘇ってきて、体が怠くなる。

 

「はあ?抜くって何をだよ」

「コニー。そんなの決まって、」

「あああ!!ヘタクソ、お前が散々な目にあったのはわかったから一旦黙れ!」

 

 首を捻るコニーにもっと分かりやすく伝えようとして、ジャンが遮ってきた。あたしは聞かれたから答えただけなのに。納得がいかなくて、ムッと口を尖らせる。

 

「聞いたのはそっちでしょ」

「バッカ、生々しいんだよ!子供もいるんだぞ!」

 

 ちょっと鬱陶しいくらい喚いているジャンを尻目に、あたしは椅子へ座り直す。不貞腐れたまま、仕返しのつもりで唇を引き結ぶ。ツンとそっぽを向いていれば、いつの間にか静けさが戻ってきていた。

 

「それで、俺たちはここでことの成り行きを見ているだけか」

 

 ポルコが出ていって、どれくらい経ったのだろう。新たな客人もなく時は流れ、出そうになった欠伸を噛み殺す。サシャの父親から配られた紅茶がなければ、寝こけていたことだろう。

 

「奴が正気だとしたら、何の意味もなくそんなことをするとは思えない」

 

 エレンの話に耳だけ傾けながら、カップに口をつける。ミカサを傷つけたとか、クソ野郎になったとか。みんなも色々とエレンに因縁があるらしい。完全な部外者であるあたしには関係のないことだけど、同じ境遇の人間が増えたようで嬉しくもあった。「何か、そこに奴の真意があるんじゃないのか」話し合いのすぐそばで、香りの良い紅茶を喉へ流し込んだ。

 

「お久しぶりです。シガンシナの英雄の皆さん」

 

 ほっと一息つけたところで、客人がやってきた。牢の前で立ち止まるなり、そう言ったのは、いつかの兵士。イェレナと呼ばれていた長身の女だった。両脇にいるのは知らない顔だが、アルミンたちにとっては違っていたらしい。

 

「あの売女は穢れた悪――」

 

 耳を劈くような銃声がして、手の内にあるカップの中身が波を立てる。名も知らぬ彼の脳みそを地面に散らした張本人は、特に動揺も見せず、「彼の非礼をお詫び致します」それどころか頭を下げてみせた。

 

「進み隠さず、全てをお話しします――世界を救うジークの秘策、安楽死計画の全てを」

 

 ふいに出されたのは、覚えていたくもないあの名前。不穏な雰囲気を纏った言葉にカップの縁から唇を離し、机へ置いた。どうやら、退屈凌ぎにはなりそうだ。 

 

「子供が、生まれなくなる?」

「そうです。それがジークの、安楽死計画」

 

 難しい話は得意じゃないので、詳しくはわからなかったが、どうやらジークとエレンが接触するとエルディア人の体が作り替えられるらしい。ジャンを含めたみんな乗り気でないようだが、あたしには吉報だった。憎まれ、殺されるはずの命が減るのだから、これ以上ないことのはずなのに。ヒストリアとか言う女王様には悪いが、世界から憎まれる悪魔の島が束の間の平穏を享受するには、それしかないように思える。みんなには別の何かが見えているのだろうか。わからない。それより、なんでもっと早くやってくれなかったんだろう。さっさと体を作り替えてくれれば、あたしが余計な罪を重ねずに済んだかもしれないのに。今頃恨み節を言っても、ジークには届かないだろうけれど。

 

「この先、何千年も語り継がれる象徴となるのです」

 

 薄くなってしまった爪を弄りながら、イェレナのつまらない与太話を聞き流す。エレンとジークが神だとか、歴史に刻まれるとか、酔狂にも程がある。だって、たまたま出会ったばっかりに「これから夕飯?俺も着いていこうかな」などと宣ってくるような髭面が、神様だったら堪らない。それこそ、この世の終わりだ。

 

「そのような、尊いお考えがあったとは……感動、致しました…」

 

 安楽死計画とやらは勝手にやってくれて構わないけれど、獣を崇拝している時点でイェレナとは気が合わなそうだ。初めて会った時から、あの眼の色は不気味だったし。涙声までつくってあからさまな態度で震えているアルミンを見ながら、そう独りごちる。

 

「イェレナ!すぐに来てください!侵入者が!」

 

 紅茶のお代わりでも貰おうかと腰を上げかけ、廊下を掛けてきた兵士の呼び声で阻まれた。ポルコが見つかるようなヘマを犯すとは思えない。だとしたら、別の誰かが。この3年間、嫌ってほど一緒にいた人物の顔が浮かぶ。もし予想が当たっているなら。乾いた唇を噛み締める。じわりと広がっていく苦い味を、粘ついた唾と共に飲み下した。

 

「何だ!?」

 

 イェレナたちが慌てた様子で階段を駆け上がっていったのがついさっき。大地を震撼させる雄叫びによって、パラパラと土塊が天井から落ちていた。レベリオの強襲時に屋上で聞いたものと同じ。エレンだ。

 

「始まったんだ……巨人たちが、動き出した」

 

 地響きが地下を揺らしていた。天井が落ちてこないか気掛かりだが、牢の鍵がない以上はどうしようもできない。歯痒さで拳を握り、ひたすらに変化を待つ。もし、兵が降りてきたら、襲いかかるのもありかもしれない。今日出会ってからやたらと血の気の多いコニーを唆そうとして、バタバタと忙しない靴音がした。

 

「おい、外はどうなってる!」

 

 戻ってきたのは、イェレナに殺されなかった方の男だった。大量の汗を垂らしたまま、持っていた鍵束から一本の鍵を取り出す。

 

「マーレ軍が飛行船で空から攻めてきた。約500の兵に、鎧、顎、車力が同時に」

 

 「手を貸してくれ、みんなでエレンを援護するんだ」ガチャンと錠前が地面に落ちた。鎧って、まさか。もう一度確認しようとして、「ふざけんじゃねぇぞ!!」真っ先に飛び出して行ったコニーが男の胸ぐらを掴み上げた。

 

「もう、裏切られるのは飽きてんだぜ俺は!!ライナーに、ベルトルト。アニ、エレン!!」

 

 地下牢に反響したのは、裏切られてきた者の悲惨な叫喚だった。そこに自分が含まれていなかったのは幸運と言うべきか、気を遣っているのか。どちらにせよ、あたしは羅列された名前に入ってもおかしくなかった。

 

「話を聞こうよ、コニー」

 

 牢を出てから鉄格子に背を預けているので、背骨の辺りが痛くなってきた。体制を変えて、話が終わるのを待つ。激昂するコニーがアルミンに引き留められる姿をどこか他人事のように眺めていた。

 

「信じるよ――以前、君はこう言った"ユミルの民を含め、人々は皆求められたから存在する。いろんな奴がいた方が面白いからだ"ってね」

 

 「君は、そう言う奴だよ」男に膝をついて手を差し出すアルミンが、一枚壁を隔てた向こう側にいるみたいだった。人々が皆求められたから存在するなら、あたしは誰に求められ生まれてきたのだろう。母親な訳がない。父親だとしたら、あまりにも悲惨だ。いろんな奴の中に悪魔が紛れていても、面白いからだ、なんて呑気なことを言ってられるのだろうか。子供向けの絵本に書いてあるような綺麗事に、髪を弄りながら嘲笑が溢れる。あたしだって、真っ当に求められたかった。

 

「俺はまだ、奴に死んでほしくねぇ」

「ああ、このまま死なれたら。アイツをぶん殴れねぇしな」

 

 苦々しく顔を歪めて言ったジャンに、コニーが頷き返す。一通りの方針が纏まったらしい。あたしは、体重を預けていた牢から背を離し、「さあ、行こう」と急いで駆け出そうとしたアルミンを呼び止めた。出鼻を挫いてしまっただろうか。困惑の色を隠さないアルミンに、問いかける。

 

「このまま此処にいたら……どうなると思う?」

「一先ずは安全、だと思う……わからない。いつこの兵舎が潰れても、おかしくないよ」

「二度目はやだな……」

 

 気づいたら全てが真っ暗になっていて、漏れ出る光を頼りにもがくしかなくなる。動けるならまだ運の良い方だ。牢に入れられていたあの人たちみたく、瓦礫に呑まれて遺言すら残せない。そんな惨めな最期を迎えたくはなかった。「わかった。じゃあ、こうしてよ」指に巻き付けていた髪を解き、透き通った蒼色を見つめ返す。頭脳明晰なアルミンでもお手上げとなれば、選択肢は一つしかない。

 

「あたしも一緒に戦う」

「君が?」

「うん、エレンを助けるのに協力するよ」

 

 「仲間は一人でも多い方がいいでしょ」首を僅かに傾けてみせるも、丸い瞳は縮んだままだ。驚きはすれど、拒絶されることはなさそうで、こっそり安堵する。

 あたしだって、戦場になんか行きたくない。戦うなんて以ての外だ。だけど、このまま運に身を任せて兵舎に籠っているつもりはなかった。あたしの居場所はもう、壁外にも壁内にも存在しないのだから。どこに身を置こうと同じことだ。

 エレンを助けるのは癪だけど、恩を作ると思えば悪くないし。なにより、立体機動装置を使えば、どさくさに紛れて逃げられるかもしれない。「でもお前、……戦えるのかよ」アルミンの返答を待っていたら、ジャンが割り込んできた。

 

「外にいんのは巨人じゃねぇんだぞ。お前に、人を殺せんのか?」

 

 何を言われるのかと思ったら、あたしを危惧してくれているらしい。そう純粋に心配されれば、今更過ぎると笑う気も起きなかった。罰の悪そうにしているジャンへ、あたしはにこりと笑いかける。

 

「心配しないで。初めてじゃないから」

「お前…」

 

 まだ何か言いたげにしているジャンの視線を断ち切り、「それで?」改めてアルミンへと向き直ってみせた。巨人たちの攻防はまだ終わっていないらしく、地鳴りのような音が遠くから響いてくる。

 

「あたしも付いていっていい?」

「わかった」

 

 アルミンが頷いて、無意識のうちに硬く握りしめていた拳を解く。どくどくと控えめに鳴っている鼓動で脳を揺らしながら、みんなに続いて階段へと足をかけた。

 

「ジャン。このベルトはどこにつけるの」

 

 地下牢をどうにか脱出したあたしたちは、同じく囚われていた兵士たちを解放し、戦の前準備をしていた。手際よく立体機動装置を取り付けていくジャンに、正体不明のベルトを差し出してみせる。「それはここだ」とよく分からなくて放置していた紐の輪っかを指さされ、巻きつけていく。あたしが知らない間に、立体機動装置まで新しくなっていたらしい。ガスを噴射する機構などは変わらないらしいが、戸惑ってしまうのは勘弁して欲しかった。訳の分からないベルトや金具が出てくる度に、ジャンから教えてもらって今のところはどうにか順調に進んでいる。旧式があるならそれでもいいと言いたいところだけど、外から雪崩れ込んでくる爆発音を鑑みるに、探している暇も残されてなさそうだ。

 

「なあ……髪、切って良かったのか」 

 

 訓練兵の時よりも何個も奥のベルトの穴に喜ぶべきか、悲嘆に暮れるべきなのか。内臓が圧迫して、気持ち悪くなるくらいベルトを締めたあとに、おずおずとジャンが喋りかけてきた。

 

「別に。好きで伸ばしてた訳じゃないし」

 

 妙に余所余所しい視線を浴びつつ、軽くなった頭を傾けてみせる。立体機動をするのなら、髪の毛は括るか短くするのが定石となっている。わざわざ括るのも面倒だったので、そこらにあった整備用の鋏で切ってしまったのだ。長年鬱陶しかった重さに解放されて、気分がいい。

 

「ライナーが伸ばせって言うから伸ばしてただけ」

「げ……奴のシュミかよ」

 

 正直に答えれば、ジャンの表情があからさまに歪んだ。あたしもそれくらい潔く言えていれば、邪魔くさい髪をそのままにしなくて済んだんだろうか。即席で切り揃えたので、酷い出来になっているであろう髪先を、意味もなく梳いてみる。ライナーもよく、髪を触りたがってたな。ミカサやアルミンのみたいな艶もないのに。自嘲して、うねっている髪の毛から指を離す。

 

「あ。ジャンも好きだった?」

「ッちが…!!同じにすんな!」

 

 悪戯っぽく笑いかけてみたら、ジャンの苦い顔が一気に赤みを帯びた。息を荒げてはいるものの、完全に否定しないあたり、言い当ててしまったらしい。狼狽えている様子がなんだか愉快で、装備する手も止めてにやりとしてしまう。丁度よくそれを目にしてしまったのだろう。「冗談言ってないでさっさと準備しろ!ヘタクソ」ジャンがギャンギャン騒いでくる。都合が悪くなると、早口で捲し立ててくるのは変わらないみたいだ。なんだか、訓練兵の頃に戻れたような気さえして、装置を身につけ終わるまで笑うのをやめられなかった。

 

「シガンシナ区の門が、塞がれた」

 

 そう呑気にしていられるのも、少しの間だけだった。黒煙をあげ続ける飛行船が放射線状に落ちていき、真っ赤な炎を巻き上げる。やはり、そう簡単には逃してくれないようだ。最善手だった望みが潰え、隠れて悪態をつく。安全な壁上で戦闘が終わるのを待つ、という選択肢も厳しそうだ。それなら、なるべくみんなの周りを離れないで、守ってもらう方がいいか。あのミカサもいることだし、ジャンもあたしを守ってくれそうだ。ここまできたら、戦うしかない。自分に言い聞かせ、街中を見下ろすと、今まさにエレンへ突っ込んでいく巨人の姿が飛び込んできた。

 

「ライナー……」

 

 どこか、あたしの知らないところで死んでいてくれればよかったのに。あたしの願いは、どこまでも聞き入れてもらえないらしい。

 ジークの投擲によって、鎧の体が易々と地面に投げ捨てられる。尋常じゃないほどの煙が立ち上り、視界を悪くしていった。忍耐力がああだこうだと自慢げだった割には、あっさりと吹き飛ばされてしまったようだ。

 

「エレンとジークを助けてください。信じていますよ」

 

 アルミンの演技で、どうにかイェレナを説得はできたらしい。この世のものとは思えないようなイェレナの形相を胸の内にしまって、あたしはジャンを追うように地面を蹴った。

 

「いけるか!ヘタクソ!」

「いける!」

 

 頬に絶え間なくぶつかってくる風の中、半ば叫ぶような形で返事をした。立体機動装置特有の浮遊感に、懐かしむ間はない。勘を頼りに次のアンカーを射出し、一歩前をいくミカサたちに喰らいつくのが精一杯だ。

 重力に引かれるまま体を滑らせ、屋根の上を飛び越える。今のところ、地面に叩きつけられたり、建物に激突しそうにはなってない。3年間叩き込まれた挙動を、体が覚えていて助かった。

 先頭のアルミンが足を止め、雷槍とか呼ばれていた爆弾を眼前の建物に打ち込む。燃え上がった窓を目にして、ワイヤーを巻き取った。煙突のそばに手をついて、数軒先で並んでいるマーレ兵を盗み見る。まだ、気づかれていない。ブレードと共に与えられた武器を取り出し、トリガーに手をかけた。

 一発目、狙っていた場所から逸れた。血飛沫をあげた兵士が足を抑える。異変に気づいた兵士たちが立ち上がった。振り返ろうとする背中に、すかさず銃弾を撃ち込む。さっきので要領は掴んだ。気持ち標準を上に構え直し、片方の兵士の頭が弾ける。狙い通りだ。仲間が撃たれ、もたついている兵士に3発目をくれてやった。残っているのは、足を抱えて座り込んでいる兵士だけ。当てやすい的に向かって最後の引き金を引く。

 

「はーっ、はーっ。あ…!」

 

 焦げついた鉄の匂いに包まれ、銃弾を装填し直そうとして、大きな影がそばを通った。普通の巨人とも違う異形。それが誰かは何故だかすぐに分かった。立体起動よりも軽々と屋根を超えていく巨人が視界から外れ、一人で首を振る。今はそんな場合じゃない。

 

「ジャン!こっち!」

「ああっ」

 

 手をあげ、たった今マーレ兵を退かした道にみんなを呼び寄せる。目指すは、幾つもの通りを挟んだそのまた遠く。ずっと、ずっと行った先。憎たらしい、旧友の元へ。

 

「下がるぞ!こっちはダメだ!!」

 

 先陣を切っていくジャンに続いて、再び立体機動に移る。周囲を警戒しながら、ガスを強めに蒸した。

 こうでもしないと、直ぐにでも置いていかれそうだ。新しい装置のせいもあるだろうが、違う。圧倒的な戦闘経験の差だ。今にもひっくり返りそうな内臓を噛み殺し、アンカーを射出する。役立たずな体でも、進むしかない。

 

「ッく……」

 

 とは言っても、何処かしこも敵だらけだ。残像のように過ぎ去っていく景色には、白い点々ばかり。蟻みたいにわらわらと湧いてきたマーレ兵が、屋根の上。家の中にまで潜んでいる。これじゃあいつまで経ってもエレンに近づけないままだ。どうにか現状を打開する策が浮かんでいないかと、前を飛ぶジャンに声をかけようとして、眼下を馬が駆け抜けた。「回り込め!敵兵の背後を捉えよ!!」高らかに叫びと共に、戦場を突っ切っていく。

 

「ピクシス司令の言う通りだ!敵の背後に回り込もう」

「よし、お前ら二人はあの壁から回り込んで車力をやれ。俺たちはエレンを援護する!」

 

 車力の討伐に向かった二人を見送り、エレンの所へ急ぐ。アルミンの言う通りだった。中心を突っ切ろうとするよりも、回り込んだ方が何倍も早い。敵兵も壁沿いにまで配備されてはいないようだ。時折顔を覗かせる敵兵にはあたしが鉛玉を撃ち込み、二人の武器の消耗を抑える。順調だ。絶えることなく上がっている灰色の蒸気も、より濃く、大きく見えてきた。あそこの下に、エレンが。ライナーも、いるはず。

 

「後もう少しだ!」

 

 屋根で擦れた靴底が痛む。足が攣りそうだが、ここで止まっていられない。両手の柄を痛いくらいに握り直して。

 

「ぐおおおおおッ!!」

 

 大地に轟くような雄叫びが鼓膜を揺らした。異常な量の粉塵と突風が、目的地の方から流れてくる。今のが何かわからないうち、背後の景色で夥しい量の光が破裂していた。あの色には見覚えがある。人間が、巨人化した時の。

 

「っく、」

 

 遠い昔の記憶が蘇りかけ、ガクンと視界がブレた。ガスの圧が弱まってる。アンカーを射出し直しても、駄目だ。あと、目的地まではあと少しだったが、やることはやっただろう。急に速度を落としたあたしを、心配してくる二人へ叫ぶ。

 

「もうガスがない!二人とも行って!」

「ああ!」

「死ぬなよ、ノエル!」

 

 二人見送ってから、適当な建物へと降り立った。ボンベを軽く叩いてみれば、予想通り。あと一回強く飛べるかどうかだ。流しっぱなしだった汗を拭い、ドクドクと鳴り止まない心臓を服の上から抑える。万が一のためにも、ガスは残しておきたい。残り銃弾も少ないから、何処かの死体で拾うしかない。

 動き出そうとして、また大掛かりな銃声が鳴った。反射的に耳を塞いでいた手を離す。エレンたちの方向だ。目的地は、もう数軒先。歩けば、間に合うだろうか。

 

 「ッ!?」

 

 その瞬間、雷鳴が轟いた。視界が真っ白に塗り替わる。有無を言わさずに身を包んだ眩い光が、瞼を閉じさせる。全身を揺らす振動と強風。それに抗って、片目を開く。

 

「な、……」

 

 広がっていたのは、夕焼けだった。深く沈んでいくような、赤黒い空。

 それと共鳴するよう、壁に亀裂が入った。煙をあげ、瓦礫と共に崩れ落ちていく。その間から現れたのは、あの日と同じ。神様みたいな大きさの、巨人。

 膝が、地面にぶつかる。「は、」それが、一人じゃない。取り囲むようにして、並んでいる。何十、いや。何百も。大地を揺らし、建物を蹴散らして、進んでいく。

 

「一体、何が」

 

 現実とは思えないような景色を前につぶやいて、「――全てのユミルの民に告ぐ」声がした。辺りを見回して、誰もいない。

 

「いま、」

 

 確かに、聞こえた。エレンの。

 

「――俺の名は、エレン・イェーガー」

 

 瞬きをしたら、別の場所にいた。月光とも違う、青白い異質な光。それを浴びながら、頭の中で響いている、エレンの語りを聞いていた。

 

「壁の巨人は、この島の外にある全ての地表を踏みならす――そこにある命をこの世から駆逐するまで」

 

 声が途絶えてからも、現実には目覚めなかった。まだ何かあるのか。嫌な予感のする心臓が、焦燥感を掻き立てる。パラディ島以外の脅威を消し去ってくれるとかいう、都合の良い話ならまだいい。さっさとここから抜け出して、どこか知らない町にでも紛れたいのに。無音の世界に取り残された体は動かない。

 どこまでも続く、砂の雪原。いつの日か、アルミンに教えてもらった景色。

 

 その固定された視界に、影が割り入ってくる。砂を踏みつけているのは、幼い子供の靴。

 

「ぁ…」

 

 知ってる。ずっと羨ましかった、淡い色。お母さんに買ってもらった、と嬉しそうにしていた。これ、は。この、靴は。

 

 ノエル、の。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。