始祖ユミル。この少女と思わしき名が、巨人たちと深く関係があることは度々される話で知っていた。あのユミルとも同姓同名であるのには何か意味があるのかと思ったが、特に詮索もしなかった。その意識が変化したのは、ライナーに13年の寿命の話を聞かされた後。恐ろしくなったからだ。何千年も昔のちっぽけな少女が、保有者の寿命さえ握っている。あの力の起源であるというだけでも意味がわからないのに。
一抹の不安を濁すよう、あたしは丁度よくうざ絡みしてきたジークへ探りを入れた。始祖ユミルについて詳しく話が聞きたいと。誤魔化されるかと思ったが、ジークは意外にもあっさりと答えた。
それどころか、マーレでは周知の事実となっているような話までも、丁寧に解説してきたのだ。お陰で詳細は知れたが、ジークは最後に変なことを付け加えていた。変な形の眼鏡を意味深に掛け直してから、「ユミルの民は皆一様に同じ「道」で繋がっているらしい」これまたよく分からないことを。「……つまり俺とノエルちゃんも繋がってるってことになるね」気色悪い冗談を言われて、今まですっかり忘れていたけれど。
ジークの言っていた「道」が、この場所なんだとしたら。これは、現実。
「あ、ぁあ……、あ……」
視界に映っている、ノエルも。現実。白昼夢だと逃げられれば良かったのに、違う。壊れたみたいな心臓の鼓動も、捻じ切れそうな痛みをあげる頭も。頬をつたう冷えた汗も。全て――
「なんで。い、きて」
確かに、あたしがこの手で突き飛ばした。感覚は、いつまで経っても消えてくれなくて。皮膚の繊維が覗くまで引っ掻いても、残り続けてた。唖然と目を見開くノエルの表情。丸くて愛らしかった瞳が、裏切ったあたしを見ていた。
そうだ。ずっと、あたしが海を越え、あの地獄を抜け出してからも。ノエルはあたしを、見ていた。あなたの贖罪を放棄して、生きながらえる姿も、ずっと。
「ノエル」
鈴を転がすような響きが、耳朶に触れた。強張った身体が、浅く呼吸する。静止していた影が動き出し、陶器のように白い腕が伸ばされた。
「ひ、……ぃ」
身じろぎ逃げ出そうとして、できない。死体みたいな冷たさの指が肌に触れた。そこから、全身に鳥肌が粟立つ。細長くて、小さな指の腹が首筋を滑り、後ろに回って体を引いた。
ガチガチと歯が軋む音の中で、「は、ぁッ、ふ、は、は」呼吸にもなっていない荒い息遣いがしてくる。体を掴んだ手のひらは、離されない。蛇のように首元へ絡みついて、ゆっくりと。上に。
「調査兵団に入って、人類を救ってあげたいんだ」
「あ……」
それは、いつかの記憶。調査兵団の見送りをするノエルに理由を問いただすと、ノエルはいつもこう言っていた。ノエルらしい、高潔な願い。あたしには叶えられなかった、尊い夢。
「じん、るい」
「そう、みんな!」
場違いなくらいの明るい声色が、脳を揺さぶる。どうして今、ノエルがそんなことを言うのか。聞かなくたって、分かっていた。エレンの話を聞いた時から、ノエルは。ノエルなら、そうするんじゃないか、って。
「人類を救ってあげたいんだ」
ノエルは、望んでる。果たされなかった贖罪の続きを。ノエルが、人類を救うことを。だから今、「道」に現れ、あたしへ語りかけている。
「そんな、……あたし、には」
真っ赤な黄昏を突き進んでいく、巨人たち。あの、無限に立ち並んだ巨人たちを。エレンを止めるなんて、無理だ。
「みてた、でしょ?あたしには、……あたしじゃ、無理だった!」
貴方みたいに成りたくて、何度も何度も救おうとしたけれど、何も得られなかった。積み重ねたのは、血生臭い屍の山。最初から、あたしに人を救うことはできなかった。
「できな、ぃ。できない、よ……ノエル」
首を垂れ、戦慄く唇で訴える。何度も何度も繰り返して、首を振った。それでも、ノエルは答えない。答えてくれなかった。なんで。助けられない、救えない。あたしにできるのは。
「う、うぅ……」
目の奥から、焦げてしまいそうなほど熱が流れ落ちた。誰にも拭われず、砂の地面に沈んでいく。止まらなかった。処刑される前の罪人のように指を丸め、頬を濡らす。
できるのは、自分のために殺すこと。罪を重ねることだけだ。エレンを止め、世界を人類を救うなんて、あたしにはとても。
「死んじゃう、しんじゃうよぉ……あたしじゃ。あたしには、」
あたしは、ノエルに成れなかった。いつまでも、臆病で卑怯な娘のまま。だから、今回もあたしに「救って」は。
「ぁ、」
喉を撫でる手のひらが輪郭を撫で、持ち上げる。飛び込んできたのは、記憶と何も変わらない。ノエルの顔。慈愛に満ちた笑みが、あたしに向けられていた。眉を下げ、口元を綻ばせるような。あたしが大好きだった笑い方。色づいた唇が、動いた。
「救って」
微かに赤らんだ頬が擦り寄ってくる。柔らかい肌、髪の毛が擦れた。宝石みたいな輝きをした瞳が、あたしの姿を映してる。
「ぁ、……」
「救って」
ノエルが口にするのは、いつかのあたしが追い求めた言葉。いや、追い求めていたつもりだった言葉。
「人類を、救って」
生暖かい吐息が、皮膚に溶けていく。長い睫毛に縁取られた眼球は、答えを待っていた。あたしを、待っていた。ずっと、ずっと。この時を。贖罪が果たされる日を。
「ノエル」
「ッはぁ……!!」
大口を開け、息を吸い込む。気がつけば、現実に戻ってきていた。「はー……は、……」身を屈め、慌てる肺に酸素を送り続ける。伸縮して痛むのもお構いなしに、気の済むまで深呼吸をして。地面に手をつきながら、覚束ない足取りで立ち上がる。
「巨人……」
周りには、変わりのない地鳴りと悠然と歩いていく超大型巨人の姿があった。エレンが従え、今から世界の人々を殺しにいくのだろう。ざっと見上げただけでも、止める手段は何も思いつかない。人よりも何倍も大きく、その皮膚は熱で揺らいでるように見える。近づくことさえ、できない。そうなったら、そもそも止められるものなのかさえ、わからない。
口の中に苦いものが込み上げてくる。どうしようもないそれを嚥下して、振り返った。様変わりしてしまったシガンシナ区。その建物の間にいるのは、巨人だった。マーレ兵を食い尽くしてしまったのか、立体機動装置を装備した兵士と戦っているようだ。手元に残っている武器を仰ぐ。刃は残っているが、ガスはほぼ空だ。銃と銃弾も残ってはいるが、巨人にはあまりにも無力。それに、久方ぶりの立体機動の代償で、体が碌に動かない。三日三晩走らされた後のような倦怠感と、プツリと途切れてしまいそうな筋肉の引き攣りが歩く度に襲ってくる。一度、どこかで巨人から身を隠し、体を休めるしかないようだ。
マーレ兵が屋根に引っ掛けていた縄を掴み、重力に潰されるみたく地面へ足をつける。重しになっているガスボンベを外し、全身を引き摺るようにして道を歩いた。辿り着いたのは、瓦礫の被害に遭っていない住宅の一角。筋肉の疲労で痙攣する手のひらで、そのドアノブに手をかける。ドアはキィ、と控えめな音を立てて開いた。よかった、鍵はかかっていない。念の為に構えていた銃を下ろしかけ、押し開ける。
「は……」家の中には、人らしき布の塊があった。あたしの気配に飛び起きたりしてくる様子はない。巨人に見つかってはいけないので、後ろ手で先に扉を閉じる。妙に澄んだ空気を吸って、寝転がっている人物の名を呼んだ。
「ライナー……?」
布に包まれ、硬く目を閉じていたのは、ライナーだった。呼びかけても、反応はない。あれだけ、名前を呼ばせるのが好きだった癖に。ジリ、と胸を焼く衝動に突き動かされて、死体みたいに転がっているライナーの隣へ膝をつく。鎧の体から抜け出して、ここまで辿り着いたのだろうか。
かかっていた布を一度どかして、唇の前に指をもってくる。
「息は、ある」
か細いけれど、呼吸はしているようだ。よろけた兵服の間に手を入れて、心臓のあたりに這わせるも、鼓動が伝わってこない。仕方ないから耳を寄せ、ライナーの胸に当ててみる。音は、遠くのほうで弱々しくも、一定の間隔で響いてきていた。立ち昇っている蒸気といい、死にかけだが、まだ生きてはいるようだ。残念ながら、と言いたいところだけど、事情が変わってしまった。どかしていた布をかけ直してやり、その隣で腰を下ろす。
周りの果実やパンは、誰かが置いて行ったのだろうか。何にせよ、あたしはここでライナーが目を覚ますのを待つしかなさそうだ。
あの地ならしに立ち向かうには、あたしの力じゃ到底敵わない。せめて、顎や鎧の力があれば。どうにかできる、かも。わからない。巨人の力は未知数で、あたしにはわからないことばかりだ。
「ライナー」
何をしても起きない体。汗ばんでいる額を指先でなぞり、無造作に落ちている前髪を梳いた。ふわりとする洗剤の香りが、もはや懐かしくもあった。触れた胸の厚みも、嫌なくらい知っている。
一ヶ月前に捨てたはずの男。もう二度と会わないとまで言っていたはずの男に、また縋るなんて。滑稽だろうが、やるしかない。
だって、そこに。ノエルがいる。
「ノエル」
あの世界から切り離されても、ノエルはついて来てくれるらしい。その証拠に、ずっと視界の中にいた。可愛らしい色のした唇を緩ませて、あたしを見ていてくれている。贖罪を果たす、その時まで。
「見ててね、ノエル」
目の前が朧げだ。一息つける場所まで着いて、体力に限界が来たんだろう。重く沈んでいく瞼をあげ、ノエルに語りかける。
「あたし。本当の、ノエルになるから……」
そこまで言って、涙が溢れた。なんでだろう。堰を切ったように、止まらない。ノエルの方へ伸ばした手が、おかしいくらいに震えている。諦めの悪い体が、全身で抗おうとしているみたいだった。ノエルが、見ているのに。臆病者の手を強く握り込み、やめさせる。
「人類を救って……終わらせるから」
手のひらから流れ出た赤い一筋から目を離し、つぶやく。あたしを見下ろしていたノエルは、首を縦に振ってくれた。安堵が襲ってきて、意識が暗闇に絡みとられていく。瞼を閉じる寸前。ノエルは、笑っていた。みんなに愛されていた、あたしの大好きだった笑顔で。
再び目を覚ました頃、大地を揺るがすような地鳴りは止んでいた。ライナーは、目を覚ましていないようだ。昨日と同じ体制の塊を見遣って、置いてあった林檎を手に取る。投げ出していた足を立て、片手で抱きながら、林檎の皮に歯をたてる。シャリ、と小気味良い音が鳴り、果実の甘味が口内へ広がった。牢で出ていたものより、よっぽど味がついていて美味しい。溢れてくる果汁を服に擦り付け、二口目を齧る。
咀嚼しつつ、昨日は痛みで立てないほどだった筋肉を手で摩った。触れるだけで激痛だったのが、だいぶ和らいでいる。完全回復には程遠いけれど、ここで蹲らずには済みそうだ。後の問題は。
自分の足へ向けていた視線をあげ、隣に移す。恐ろしいほど静かに寝ている男は、寝返りひとつ打っていなかった。あっちでは散々魘されていたのに、呻き声もない。あたしがいることにすら気付かず、すやすやと眠りこけている。
「起きて、ライナー」
食べかけの林檎を床に戻し、頭の上に手をついた。ライナーの顔に、あたしのつくった影が落ちる。光を遮られても、ライナーはピクリとも動かない。
「……いっつも、ねぼすけなんだから」
そういえば、あの家でもライナーはこうだった。あたしより先に起きていることなんか稀だ。後から起きてきては、家事をしているあたしの背に手を這わせてくるのが常で、鬱陶しかった。どうせ何も言えないから、カリナが来るまでそのままだったけれど。
「起きてよ」
耳元で囁いて、ライナーの顔の前で硬く握られた拳に触れる。この手が、あたしのよりどれくらい大きいかはもう嫌というほど知っている。知り過ぎて、しまった。じんわりと、触れた場所から広がっていく熱。指先で、節張っている骨の形を一つずつ追っていく。大好きだったライナーの手。ミカサに切り落とされた時は、目の前が真っ暗になったほどに。あれが夢か幻だったのでは、と勘違いしてしまいそうなくらい、今はもう元通りだ。また生えてきて、良かったのかは分からない。父親代わりに、あたしを撫でてくれていた手のひら。あの頃みたく、そうも言っていられない。あたしたちは、もう純粋じゃなくなってしまった。主にライナーのお陰だけど、何故だか今は怒りをぶつける気がしなかった。
「今度こそ」
あたしたちの関係が、あの。木の上で狂い始めたのだとしたら。もう一度、やり直そう。独りよがりな傷の舐め合いはやめて、今度こそ。お互いの使命のために。
重ねている手を、上から強く握り返す。幅も何もかも足りてなくて、あたしの手のひらじゃ到底包めない。でも、それで良かった。ライナーに顔を近づけ、鼻先が軽くぶつかる。
「今度こそ……人類を、救おう」
だから、ずっと寝てないでよ。早く、目を開けて。鎧の巨人なんでしょう、忍耐力があるって、言ってたでしょ。懇願するみたく、ライナーの横顔を眺める。じっと待っていても、起きる気配すらなかった。巨人特有の蒸気はもう止まっていて、体の修復が原因ではないはずなのに。あたしの知らない条件でもあるのか。そうなったら、お手上げだ。壁に背を預けたまま、頭を抱えようとして。
玄関の壁に取り付けられた窓から穏やかに差し込んできていた光が、揺らいだ。耳をそばだて、足音もしてくる。床に転がしていた銃を手に取り、這うようにして玄関まで移動した。近寄ってくる影は、複数だ。何か話しているようだが、よく聞こえなかった。兵士なら、まずい。ライナーが見つかってしまう。唯一の頼みの綱が。玄関と窓の間、外からは見えない位置で銃を構える。このまま、通り過ぎてくれれば、穏便に済むのに。張り詰めた空気の中で願って、叶わなかった。ガチャリ、とドアノブが回って光の筋が床を照らす。中を覗き込んだ頭へ、銃口を突きつけた。
「ッ……」
「動かないで、抵抗したら殺、……」
言いかけた言葉が、途切れる。中途半端に開いた口のまま、向けていた銃口を下ろした。驚愕に打ち震えて動けないのは、相手も同じのようで。大きく見開かれた胡桃色の瞳が、わなわなと揺れていた。
「ガビ」
船に飛び乗ってきた戦士候補生は、ウォール・ローゼの兵舎で捕えられているんじゃなかったのか。それが、一体どうしてここに。あたしが首を捻る間もなく、少し開けられた状態で止まっていた扉が勢いよく開かれた。同時に、ガビの背後で並んでいた影が家の中へ入ってくる。一番に入って来たのは、ファルコとコニーだった。それに、ミカサ。アルミンと続いて。
「ノエル」
さらりとした灰がかったブロンド。その前髪から見つめ返してくる瞳は、いつか見た海よりもずっと透き通った碧色をしてる。煩く音を鳴らし始めて心臓に従い、「アニ」もはや、懐かしくさえ思えるその名前を呼ぶ。アニの目元が遠くでもわかるくらいに緩んで、つられた肩の力が抜けていく。
解散式の日。正確には、アニに摘み上げられて以来だ。もう死んでしまったとか聞いていたはずなのに、アニは昔と変わらない姿でそこにいた。まるで、記憶の中から引っ張り出して来たみたいに、そのままだ。
昔みたく、その胸に飛びつきかけ、足先を丸めて堪える。ガビたちも見ているんだ。そんな子供っぽいことは、できない。衝動を喉奥へと押し込んで、アルミンに向かって口を開く。
「なんで、みんなはここに」
「ノエルこそ、どうしてライナーと」
「いいや、話は後だ」
答えようとして、コニーが会話を中断させた。「ああ、話はそこの奴を起こしてからだ」アニがコニーに同調して、すたすたとあたしたちの中を通っていく。これだけの人がそばにいてもなお、眠っているライナーの前で足を止めた。アニの片足が地面を離れ、振りかぶる。
「起きな」
「ッかは」
そこそこの勢いがついたアニの足先が、ライナーの顎を蹴り上げた。流石のライナーも蹴られては目を覚ますしかないらしい。「アニ?」数分前のあたしと同じようなライナーを横目に、顔を伏せる。あたしも、蹴って叩き起こせば良かった。
「なっ。ノエル……!」
愕然とした声で呼ばれ、首を動かす。あれだけ熟睡していたのに、もう意識が覚醒したらしい。上体を起こしたライナーと視線が交わったので、ただ曖昧に笑っておく。ライナーが何か言おうと口を開きかけたのを、「時間がねぇ、早く行くぞ」コニーが被せる。
「どこに……」
吐き出されたライナーの問いに、コニーは毅然とした態度で答えた。
「――世界を、救いに」