島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第48話 悪魔

 太陽の光を反射して、チラチラと輝く青色。眩しいくらいのそれを目にしたまま、ところどころ錆びている柵に身を寄せる。船と寄り添うように並んでいる鳥が、曇りひとつない空を自由に羽ばたいていた。時折。甲高い鳴き声で、他の仲間たちと会話している。あたしはそれに耳を傾けながら、永遠と広がっている海を眺めていた。

 激戦の末に出発した船上では、穏やかな時が流れてる。昼寝でもしたら気持ちよさそうな天気と、子守唄代わりに響いてくる波音。同じ空の下で、何十何百の人々が虐殺されているという事実さえなければ、床に寝っ転がって日光浴でもしていただろう。

 嫌味なくらいの青空から目を背け、もたれ掛かっている鉄柵へ額をつけた。「はあ……」眼下で流れていく海に息を落とす。今まで、呼吸を整える暇さえなかった。何度か繰り返したあと、背後で気配を感じる。

 顔を上げた先にいたのは、アニだった。戦いで負った怪我はすっかり治ったようで、誰の手を借りることもなく立っている。

 

「アニも、気分転換に?」

「……そんなとこ」

 

 聞いたあたしに、アニが短く答える。なんだか懐かしいようなやり取りだ。つい緩んでしまった頬も抑えず、柵に体重を預けるのをやめた。昔のように何の考えもなく踏み出して、垂れていたアニの腕をとる。

 

「あ……」

「気持ちいよ、ほら」

 

 手首を軽く引いて、アニを甲板の縁に誘導した。潮風があたってくる辺りまで来て、掴んでいた指を解く。アニのブロンドが綺麗に靡いていたので、自分の髪を触ってみる。長く外にいたからだろう。ただでさえ乱れている髪の毛が、あっちこっちに癖をつけていた。

 

「綺麗だよね、海」

 

 髪を意味もなく撫で付けて、何処までも広がっている海に視線を動かす。アニの瞳とはまた違った、深い色。こうして海を一望するのは、これで二度目になる。

 

「前は、見れなかったから……新鮮」

「前?」

「ライナーたちと、海を渡った時」

 

 首を縦に振って、一度目の記憶が脳裏に浮かぶ。あの時は牢に囚われていたので、こうして船の上からの景色を見れはしなかった。船内の不均等な揺れに翻弄され、蹲って吐き気を耐えていたっけ。今のところ酔いは回ってきていないが、この調子でオディハまで耐えて欲しいものだ。

 

「アニは、どこまで知ってるの?」

「アルミンから、多少は……聞いた」

 

 前屈みになっていた姿勢を正し、今度はあたしから問いかけてみると、アニはそう溢した。伏せがちだった瞳があがり、「あんたが、馬鹿みたいな選択をしたことも」と言葉を重ねる。

 

「うん」

 

 頷き、言い返しはしなかった。する気すら、湧いてこない。馬鹿みたいな選択。まるで、その通りだったから。

 

「……あたしは、レベリオで暮らした」

「知ってる」

 

 間髪入れずに肯首されて、軽く拍子抜けする。なんだ、アルミンはそれも話してたんだ。驚かせるつもりだったのに、と惜しむ心を抑えつつ、背を柵に預けた。

 

「アニたちの故郷さ。正直……全然良くなかったよ」

「……そう」

 

 思い出として語るには、あまりにも憂鬱な日々。ありのまま声に出せば、相槌は意外にも淡々としていた。

 

「エルディア人がどうとか、戦争がどうとかばっかりで、壁にも囲われてるし……」

 

 アニの反応に躓きはせず、あたしは記憶を掘り返す。腕章の色に囚われ、戦士たちが持って帰ってくる戦果に一喜一憂する。あの場所は、島の悪魔にとってあまりにも生き辛かった。どうしようもない息苦しさを、無理矢理作った自分の居場所で誤魔化すしかなくて。間違っても、良い場所だったとは言えない。唯一良かったところは。

 

「巨人に食べられる心配は……なくて良かったけど」

 

 それくらいだ。冗談混じりに笑ってみせ、ふいに蘇ってくる光景。

 反転した視界、体を襲った不自然な浮遊感。大きな目玉。歪な口が、あたしを飲み込まんとばかりに開かれていた。つま先についた感触は、あの恐怖と共に忘れられないでいる。

 

「壁外調査の日。どうして、あたしを食べようとしたの?」

 

 ライナーがあと一歩遅ければ、あたしの体は女型の胃に落ちていただろう。胴体が真っ二つにならず、自分の足で立っていられるのは。自分のつま先に落としていた視線を、持ち上げる。

 まだ生きていられるのは、アニが躊躇を見せたから。

 宙吊りにされたあたしを捉えていた瞳。巨人になっても変わらないそれを見つめ返すと、逸らされてしまった。前髪の下を覗きはせず、ただ待ってみる。

 

「…………楽になれるだろうって。思った」

 

 深く沈むような沈黙を終えて、アニは呟いた。「私は、」喉奥から絞り出したような叫びが、息を継ぐ間もなく聞こえて。波音に紛れていく。

 

「私は。自分が楽になるために……あんたを殺そうとした」

 

 「それだけじゃない」視界の端で、灰がかったブロンドが左右に揺れる。いっそ全部を吐き出してしまいそうな勢いで、アニは話すのをやめなかった。

 

「あんたに死んで欲しかった……私の、知らないところで」

 

 そこまで言って、アニの言葉は途切れる。余韻を引き摺るように、アニはその場でずるずるとしゃがんだ。

 崩れた足を抱えている隣で、あたしも床に手をついく。膝を折り、こつりと肩がぶつかっても、アニは何も言わなかった。

 

「今も……そう思うの?」

「もう、思わない」

 

 膝に埋められていた顔が上がり、透き通った蒼色が向けられる。今にも泣き出しそうなくらい震えた瞳。あたしの姿を映しているそれが、ぐにゃりと歪んだ。

 

「あんたに、……死んでほしくない」

 

 アニが口にしたのは、祈りに似た悲鳴みたいだった。

 その姿に、胸がドクリと疼く。つま先から駆け上がってきた名前のつかないそれに身を任せかけ、堪えた。衝動を飲み込むあたしを置いて、「でも、」とアニが目を伏せる。

 

「そんなこと言う権利……私には、ないんだろうね」

 

 一気に湧き上がってきていた何かが、その一言で霧散していく。頭上であたしたちを眺めている鳥たちが、何度か鳴いたあと。アニは顔を下に向けたまま、言った。

 

「あんたから……マルコを奪った私には」

「アニ……」

 

 こうしてそばにいなければ、耳に入っていなかったような。掠れ切った泣き声。アニの目尻に雫は溜まっていないけれど、あたしにはそうとしか聞こえなかった。

 

「マルコは、最期に……あんたの名前を叫んでた……」

「マルコ、が」

 

 アニがそう瞼を閉じて、手の力が抜けていく。あれだけ、求めていた真実の癖して。空っぽになっている場所は何ひとつ埋めてくれやしなかった。たぶん。事実がどうであっても、満たされないのだろう。マルコは、いなくなってしまったから。その面影を追ったところで、何も。

 

「ごめん。あんたはこんな話聞いても……どうしようもないのに」

 

 眉間に皺を寄せて、閉じられていたアニの瞼が開く。伝えられた謝罪の言葉に、あたしは何の音も発せなかった。いっそ、ジャンがライナーにしていたみたく。何もかも糾弾できたら、お互いに納得できたかもしれないのに。

 あたしがアニの立場になったとして、迷いなく同じ選択をしていただろう。と、そう思えてしまえるから。このどうしようもない話を、終わらせられない。

 

「結局私は……まだ、あんたのことを利用してるんだろうね。自分の、ために」

 

 ため息を吐くようにして、アニは独りごちた。抱え込んだ膝の中へ、もう何も見たくないかのように頭を埋める。あたしは一拍置いて、首を動かした。隣の肩に軽くもたれると、昔から変わりのない安心するアニの匂いが鼻腔を擽る。つい、擦り寄ってしまいそうになるのを我慢して、閉じていた唇を開く。

 

「あたしもだよ、アニ」

「……え?」

 

 アニの瞳がきゅう、と丸くなる。虚をつかれたような、困惑混じりに見つめ返してくる姿が珍しくて、目が綻んでしまう。口元まで釣られかけるのを抑え、瞬きをした。その瞼の裏で浮かんでいるのは、今でもなお色褪せない、偽りの日々。

 

「可哀想だって、良い人だって、思われたくて……ありもしない善意を語ってた」

 

 助けるといった手はみっともなく震え、いつだって逃げ出そうとしていたのに。自分のために知らないふりをしてた。今回も駄目だった、と言い訳ばかりで。自分を顧みることさえしない。誰かに憐れまれているのは、楽だから。

 すべては、エレンが言っていた通り。あたしは嘘吐きで、みんなを利用してた。愚かな、自分自身でさえも騙して。

 

「今もそう。人類を救うのは……虐殺を止めたいからじゃない。あたしの……あたしのため」

 

 みんなには悪いけど、あたしは名も知らない人々を多く救いたい訳じゃない。関係ないし、興味すら湧かなかった。でも、そうやって傍観していられないのは。遠くの甲板をちらりと見遣る。ノエルが、あたしを見ているから。

 あの日から始まった罪を、終わらせる。あたしは、それだけのために。

 

「お揃いだったんだね、あたしたち」

 

 「ずっと。最初から」お互いを都合の良いように利用して、生きてきた。共生関係と呼ぶには歪過ぎるそれが、あたしたちにとっては良かったんだ。擦り寄るみたく、アニに体重を少しだけかけた。頬が布地に擦れ、触れた部分から馴染んでいく。

 

「ノエル……」

 

 昔なら無様に床で転がっていただろうけど、アニはいつまで経ってもそうしなかった。名前を呼んでも、離れそうとしないあたしが面倒になったのか。それとも、アニもあたしと一緒なのか。都合の良い方で解釈して、あたしは。あたしたちは、しばらく身を寄せ合ったままでいた。

 

「……そろそろ、行こうかな」

 

 何分、そうしていたんだろう。低く唸るような汽笛で、微睡んでいた意識を浮上させる。名残惜しさを感じつつも、腰をあげた。「アニは?」凝り固まった腕を伸ばしつつ、見返してみる。

 

「今は……潮風にあたりたい」

「そっか。じゃあ、また後でね」

 

 甲板に座り込んだままのアニを置いて、動き出す。もう少しそばにいたかったけれど、なんだか。いつまでもしていられそうだったから、良かったのかもしれない。胸の内でそう溢し、船内へ入ろうとして、廊下でアルミンとすれ違った。どこか上の空なアルミンに「アニがまだ外にいるよ」と何となく伝えて、その背を見送る。

 行く宛も少ない船内で、あたしが向かったのは割り当てられた個室だった。いつかの船と同じく、簡素なつくり。机とベッドと、灯りしかないような無機質な空間は、あの病院をも想起させる。

 薄っぺらい上掛けもどかさずに、ベッドへ腰を下ろした。つま先から頭まで、全身を地に伏せさせるような気怠さが襲ってきて、抵抗することなく横になる。

 そう言えば、牢屋を出てまともな睡眠を取っていない。4年ぶりの立体機動で酷使された筋肉が、思い出したかのように痛み出していた。

 ただでさえ、使い物にならない体が、これ以上駄目になっては困る。休める時に、休んだ方がいい。

 適当な理由をつけて、纏わりついてきた眠気に抗うのをやめる。ある程度の柔らかさがある枕を手繰り寄せ、あたしは暗闇に意識を預けた。

 

 次に、目を開いた時。あたしは、丘の上に立っていた。眼前には、色褪せた故郷。崩壊したはずの壁も、破壊された穴もない。何もかもが始まる前の、シガンシナ区が、そこにはあった。

 清々しいそよ風が、足元を吹き抜けていく。幼い頃によく着ていたワンピースの裾が、合わせて揺れた。いつもより低くなった視界で、周囲を見渡す。

 自分の夢にしては、あまり見覚えのない場所だった。一度くらいノエルに連れられて登ったけれど、それきりの丘。確か。草と木の枝が落ちているくらいで、大きな花畑もない。花冠を作るのがお決まりになっていたあたしたちには、通り過ぎるだけの所だった。

 どうせなら、と。少し奥にあるお気に入りの小山へ、歩を進めようとして。去り際に見上げたのは、丘の頂上。青々とした葉をつける大きな木の下で、誰かが立っていた。

 木陰に呑まれている影は、ここからじゃ良く見えない。どこかで、会ったような気もするのに。三歩目を踏み出そうとしていた足を止めて、あたしはその誰かに向き直った。答えを追い求め、導かれるように丘を登っていく。

 なだらかな傾斜面を踏み締めて、頂上まで来るのはすぐだった。木漏れ日が隠していた姿。背中を向けているその人へ、声をかけた。

 

 

「ライナー?」

 

 何の前触れもなく、瞼を開く。ぼんやりとした視界を支配しているのは、よく見知った色だった。その瞳孔が分かりやすく縮まり、すぐさま離される。

 

「す、すまん」

 

 昔も、こんなことがあったな。ライナーが叱られた子供みたいに謝ってくるのを聞きつつ、あたしは上半身を起こした。ギシ、とベッドを軋ませて、立っているライナーを見上げる。もう少しだけ、眠気に浸っていたかったけれど、そうはいかなさそうだ。

 

「返事がなかったから……中で倒れてるんじゃないかと、思ってな……」

 

 ライナーが予想できていたような言い訳を喋り始めたので、「あぁ……うん」と適当に受け流す。手をついてベッドからつま先を垂らせば、立っているライナーがなぜか反対へ退いた。

 あたしの知らない間。好きなだけ眺めていたのに、動き出したら珍獣扱いだ。じとり、と白けた目を向けられたのが分かったのか。今思い出しただけなのか。ライナーは、あたしに注いでいた視線を切って、机の上に置かれている物へ、手を伸ばした。

 

「水を、持ってきたんだ。飲むか?」

 

 ライナーが、おずおずとコップを差し出してくる。手を伸ばして受け取れば、それで良いはずなのに。どうにも、違和感が拭えなかった。

 おそらく、ジャンかコニー辺りが入れ知恵をしたんだろう。じゃなきゃ、こんな小道具をライナーが用意したりしない。あたしのご機嫌をとるような真似なんて。いつまで経っても反応がないからか。表情を曇らせ始めたライナーを横目に、吐き出したくなった息を噛み殺す。挙動不審なのが、その影響だったらいいんだけど。

 

「……じゃあ、もらう」

 

 迷って、ありがたく貰っておくことにした。打算に嵌るのも癪だが、喉の渇きには抗えない。淵まで注がれている水を受け取って、一気にコップを傾けた。よく乾いていた口内が潤って、気持ちがいい。

 妙に美味しい水を最後の一滴まで飲み干し終えたら、待ち構えていたようにライナーが話しかけてきた。

 

「どうだ?」

「うん。水だね」

「そ。それなら、良かった」

 

 素直に言ったら、ライナーは満足そうに頷いた。自分で言うのもなんだけど、それでいいんだろうか。単なる水の感想を求めてくる方が悪いけど。安堵しているライナーを不思議がりつつも、空になったコップを卓上へと戻す。

 

 

「その髪、切ったのか?」

 

 浮かせた腰を落としたあたりで、控えめな声がした。ライナーの視線を辿れば、ざっくばらんな毛先に向いていて「髪?ああ……」と、なんとはなしに毛先を梳いてみる。

 

「邪魔だったから」

「そ、そうか……巻き込まれたら、危ねぇしな」

 

 本心をそのまま口にすれば、ライナーは同調するように首を緩く振った。言葉の割には、寂しげな瞳の色を隠せていない。レベリオではしつこいほど触っていたし、嗅いでいたから、今更って感じだけど。本心をこちらに探らせる癖は相変わらずのようで、空を眺めたくなる。

 

「で。それを言うためだけに来たんじゃないんでしょう?」

 

 その衝動を抑えつけ、あたしは首を傾げてみせた。いつまで経っても本題に入らず、部屋を出て行こうともしない。長くなりそうだから、と空いている隣を手で叩いてやれば、ライナーはすぐさま腰を下ろした。二人分の体重を支えたベッドが、軋む音を立てる。あの家では日常だった、その沈みに懐かしさを感じたところで。

 

「あの日……どうして、俺の前からいなくなった?」

 

 ライナーは、あからさまに声を震わせながら。言葉にするのすら苦しい、と言いたげに問いかけてきた。

 まあ。ライナーがあたしの部屋に居座ってまで聞きたいことなんか、それしかないだろう。これといった驚きもなく、平静さを保っているあたしの横で、ライナーの浅い呼吸音がしてくる。頬骨をなぞるように垂れている汗を捉えても、拭ってやろうとはしなかった。

 

「脅されたのか、それとも……」

「レベリオが襲撃される前。エレンと話したの」

 

 隠していた真実を告げると、ライナーは目を見開いた。もごもごと言い始めていた唇が凍りつき、中途半端に開かれている。その驚嘆が肌へ馴染むよりも先に、あたしは続けた。

 

「あたしは、……エレンに許されたかった」

 

 重ねてきた嘘と、犯してきた罪。全てを、エレンに暴かれたあたしは、逃げ場のない現実へ怯えた。忘れようとしていた過去に、縮こまるしかできなくて。そんなあたしへ。エレンは、笑いかけてくれた。

 

「許されて、戻りたかったから……あなたの前から消えた」

 

 愚かな悪魔は。差し伸べられた手のひらに、二度と取り戻せない過去に、まんまと縋った。

 その結果は、知っての通りだ。

 

「理由なんか、それだけ」

「そうか……」

 

 ライナーは短く言って、視線を落とす。その場には、重苦しい沈黙だけが残った。

 真っ当な人間の振りがしたいなら、ライナーに謝るべきなんだろう。約束を破り、嘘を吐いたことを。もしくは、恋人らしく口付けてやりでもすれば、ライナーは苦々しい顔を止めるに違いなかった。

 あたしは全部知っていて、やらない。それは、ささやかな仕返しだった。好きな時に、好きなだけあたしを貪ってきたライナーへの。

 

「ライナーは、嫌いになった?あたしのこと」

「っ俺が……お前を嫌う訳ないだろ」

 

 いやでも、これだけの裏切りをされれば、流石に愛想が尽きるかもしれない。その考えは、すぐに否定された。「傷つきこそ、したが」何か期待を孕んだ目を向けられるが、あたしは無言を貫く。

 

「それで。ライナーは、あたしに理由を聞きたかっただけ?」

「あ、ああ」

「そう……なんか。拍子抜けしちゃった」

 

 ポルコみたいになるかと身構えていたから、肩の荷が降りた。ライナーがああなったら、絶対に面倒くさい。と避けていたが、こんなあっさりいくならさっさと相手してやれば良かった。

 

「もっと、……何かした方が良いか?」

 

 ライナーはその安心を、物足りなさだと勘違いしたらしかった。返事もしない間に、ベッドが大きく跳ねる。ライナーはベッドに手をついて、こちらへと距離を詰めてきていた。

 

「少しだけなら、俺は……」

「いいよ」

 

 さりげなく欲を滑らせてくるライナーの肩に手を伸ばす。静止しても、だんだんと近づいて圧を増してくる胸板を押し返した。その拍子に、うんざりするくらい嗅いだ石鹸の香りがして、くしゃみがしたくなる。

 

「大勢の人が踏み潰されてるって時に、そんな気分なれないし」

「だ、……だよな」

 

 踏み止まって付け加えれば、流石のライナーも納得したらしい。あたしを囲うようにつかれていた手が撤退していき、ライナーはとってつけたように首肯した。

 内心で呆れていたら、壁に備え付けられた窓が目に留まった。寝ていたから、夕暮れを逃してしまったらしい。差し込んでくる光などはとうになくなって、なんの濁りもない闇だけを映し出している。まるで、あたしたちの未来みたいに。

 

「エレンを止めて、人類を救ったら……ライナーはどうするの」

「お前は、もう決めてるのか?」

「うん」

 

 あたしは膝に乗せていた片手をあげ、手のひらを仰ぎ見た。皮膚の厚みも凸凹で、爪も綺麗に生え揃ってない。何もかも染みついたこの手に、こびりついているあの感触。

 あの子を突き飛ばした、この感触が消えたら。

 

「自由に生きたいの。何のしがらみも、ない場所で……」

 

 あたしは、もうそれだけでいい。ただ、自由に息ができるなら。それで。

 自分のを軽く握ってから、なんとなくベッドの置かれていたライナーの手に重ねてみる。は、と洩らされた驚嘆に気をよくして、笑みをつくった。

 

「ライナーは?」

「俺は……」

 

 微笑んだまま、ライナーと目を合わせる。ライナーは答えが出せないようで、口ごもってしまった。狼狽えるように揺れている瞳がなんだか、面白くて。

 返答を待つ間、ライナーの手の甲を人差し指で撫でてみた。触れた部分が、ビクリと反応を返してくる。正直なそれが愚かしくも愉快で、全体を摩ってみる。「あ」そうやって遊んでいたら。唐突に、指がライナーの手に包まれた。

 顔をあげ直したら、覚悟を決めたような顔のライナーがいた。「俺は、」改めて言い直そうとしたのを、コンコン、と扉のノック音が遮る。

 

「はい」

 

 あたしは大声で言うだけ言って、するりと掴まれていた手を抜いた。脱ぎ捨てていた靴に足を突っ込んで、腰をあげる。あたしに傾きかけたまま、固まっているライナーを置いて、扉の元へ急いだ。

 

「……お取り込み中だった?」

 

 飛びつくようにしてドアノブを回し、分厚い鉄の隙間から顔を出したのは、ハンジだった。扉についた丸い窓で、中の様子が見えていたのだろう。ハンジの気遣いを、「いいえ、全く」あたしは即座に否定する。

 

「何か用ですか?」

「もうすぐ船が着港するから、ライナーに飛行艇を引くの手伝って欲しいんだけど……」

「了解です」

 

 後ろから声がしたと思ったら、ライナーもベッドを降りていたらしい。廊下へと出て、ハンジに指示を受けている。あたしも何かできないかと尋ねたけれど、人手が必要になったら集合をかけるとのことだった。

 

「ノエル。その、」

「わかってるから行って」

 

 言いかけたライナーをあしらい、甲板へと向かわせる。力仕事をするには適任なんだから、大いに働いてもらおう。ライナーが階段を登って見えなくなると、隣にいたハンジが再び確認してきた。

 

「本当に、お取り込み中じゃなかったの?」

「違います」

 

 

 夜風に身を任せ、灯ひとつなく闇に澱んでいる建物を転々と飛ぶ。みんなが飛行艇の整備をする間、あたしは新型立体機動を体に慣らしていた。旧式と大して違いないと言っても、土壇場で不具合があっては堪らない。立体機動術の成績も、酷かったし。不安の芽は、少しでも摘んでおきたかった。

 ガスを一瞬だけ蒸し、格納庫の屋根に着地する。軽く町を一周しただけなのに、体は酸欠を訴えていた。主婦の真似事で訛ってしまった体が一番の問題点だけど、もうこうなったら気合いでどうにかするしかないだろう。決心して、柄に手をかける。地上へと降りようとして、踏み止まった。

 見渡すのは、夜闇に包まれた町。オディハ港と名前がついているらしいこの町は、既に活気を失っていた。どこも異様なほどの静けさに包まれていて、文字通り人っ子ひとりいない。

 これから地鳴らしが来るという場所が、賑やかでも困るけれど。灯ひとつなく闇に澱んでいる建物が、作り物のようだった。

 

「ジャン、何か手伝えることない?」

 

 装備の点検を終えても、格納庫の中ではアズマビトの整備士たちが忙しそうにしている。まだ、出発までの時間はあるらしい。やることもないので、燃料を運ぼうとしていたジャンに近づく。

 

「ミカサじゃねえんだから、非力なヘタクソは大人しくしてろよ」

 

 袖で汗を拭っていたジャンは、顔をあげるなり、あたしをそうあしらった。まだ、燃料タンクに手をかけてすらいない。あんまりな門前払いに、「何それ。あたしだって、燃料くらい持てるよ」不満を隠さないで言い返す。

 

「ああ?バカ言うなよ、ヘタクソ」

「俺がやろう」

 

 もう勝手に動かそうかと、動き出したあたしの肩に手を置かれた。視界外から現れたライナーは、あたしを置いて燃料タンクに手をかける。「ライナー」持ち上げようとする腕を、あたしは引いて静止していた。シャツの袖を捲り、タンクに手を回す。腰に力を入れて抱えると、意外にも楽に浮き上がった。

 

「おお……」

 

 助けなくタンクを並べて、元の位置まで戻ってくる。あたしが運べるとは夢にも思わなかったんだろう。ジャンとライナーが呆気に取られていて、いい気味だ。実は、半分ちょっとくらいしか入っていなかったんだけど、わざわざ言うことはしないで腕を組む。

 

「これでも、8人分の洗濯物運んでたの。あんまり、舐めないでね」

 

 無駄な毎日だと憂鬱だったけど、役立つこともあるらしい。ふふん、と自慢げに鼻を鳴らそうとして、一連の様子を見ていたコニーが、あたしに指を差した。

 

「……野生動物が、二人に」

「え?」

「あ」

 

 徐に歩き出したあたしは、未だ放置されている箱を抱えた。とりあえず、置き場所に困ったのでコニーの運んでいる燃料タンクに追加で乗せてやる。「お、重!!」膝をプルプルさせているコニーの叫びに、あたしはにっこりと笑った。

 

 結局、謎のやる気を出したライナーが燃料タンクを運び終えてしまって、あたしはやることを無くしてしまった。アルミンたちの作戦会議に加わるような頭もなく、一人でいるアニに突っ込んでいくような無神経さも、もうない。必要な道具を取りに走ったり、雑用をこなしたり。整備士たちの補助をすることで、朝日が昇るまでなんとか時間を埋められた。

 

「あと一時間ほどで、離陸準備に入ります!」

 

 格納庫から、オニャンポコンが手を振っている。ハンジの周囲へ集まっているみんなが、何やら準備を始めるのを横目に、あたしはアニが喋り出すのを待っていた。

 

「私だけ、逃げることになるなんて」

 

 昨日の宣言通り、アニは飛行艇に乗らないらしい。寂しさはあるけれど、それを嘆いたって仕方ないんだろう。アニが、選んだのだから。

 伏せ目がちに呟いたアニへ、「今なら背負うものなんて何もないよ」とピークが声をかける。ライナーが次に話し始めて、段々と顔色を悪くしていく。

 

「謝ることすら烏滸がましく思える……」

「うん。何度殺そうとして思い留まったか、わからない」

「よく、我慢できたな」

 

 フッ、とアニが口角を上げ、ライナーと抱擁を交わす。それを一歩後ろで見ながら、ようやく腑に落ちた。

 アニがライナーを嫌っていた理由。昔は幼馴染なのに、と。疑問符ばかり浮かべていた。訳を問いただしても、はぐらかされるばかりで。だけど、今なら分かる。

 膝を突き合わせて、小一時間くらい話したいところだけど、そんな余裕も時間も残されていない。

 

「ガビとファルコを頼んだ」

「了解した」

「アニ」

 

 二人の話が終わるまで待つつもりだったのに。急に呼ばれたアニが、首だけをこちらへ向ける。その瞳。大好きな蒼色を目にした途端、勝手に足が動いていた。アニへ、強請るように腕を広げてみせる。

 

「ライナーばっかりずるいよ、あたしも」

「……あんたは、散々してきたでしょ」

 

 ライナーから離れたアニが、いつもみたいに言い返してくるので、「そうだっけ?」あたしは笑って惚けてみせた。

 お互いに歩み寄り、手が触れる。アニのを手繰り寄せようとして、逆に腰を引かれた。

 

「ん……」

 

 答えるようにあたしも力を込めて、細い肩に顔を埋める。かけがいのない温もりが、体の芯から滲みていく。それを分かち合うように、隙間なく体を密着させて。誰のかも分からない鼓動が、ゆったりと響いていた。それを追い求めて、頬をすり寄せる。

 本当は。ずっと、こうしていたい。この腕を絡めたまま、ベッドに倒れてしまえたら。幸福な夢がみれるに違いないのに。ささやかな願いは叶うことなく、「二人とも、そろそろ」ピークの声が耳朶に触れた。

 最後に、より力を込める。離れるのが、惜しくなるくらいに。骨が軋むのも構わず、抱きしめた。同じくらいの圧が返ってきて、あたしもやり返す。そのやりとりを何度かして、もう数秒だけ。と囁いてくる欲を断つように、あたしは腕の力を抜いた。

 

「……これ」

 

 服から手を離そうとして、アニに引き止められる。あたしの手首を掴んだアニが、導くように手を仰向けにさせて。ぎゅう、と握り締められた。

 

「渡しておくから、私の……宝物」

 

 アニの指が解けた手のひら。そこにあったのは、あたしがいつかにあげた髪紐だった。

 まだ、持っていてくれていたんだ。込み上がってくる喜びに、あたしは目を窄ませた。渡した時よりもずっとくたびれていて、小さくなっているようにも見える。けれど、編み込まれた糸の輝きは失われていなかった。手のひらで転がすと、宝石みたいな光を放っている。

 

「絶対、返して」

「……うん。必ず」

 

 真っ直ぐな瞳に貫かれ、あたしは髪紐の乗った手を硬く握り締める。アニにそこまで言われたら、無傷で返すほかないだろう。決意を込めた手を下げ、アニの瞳を見つめ返す。

 そこにあるのは、いつだって変わらなかった。大好きな色。目に焼き付けるようにしてから、あたしは言った。

 

「じゃあね、アニ」

「……またね、ノエル」

 

 

 船に乗り込むアニを見送って、あたしは集まっているジャンたちの元へと歩き出していた。あと一時間後に、飛行艇が離陸する。エレンを、人類を救いにいく。

 ぞわり。今になって襲ってくる悪寒を逃すように、手首を掴む。アニから渡された髪紐の存在を確かめ、どうにかして震えを押さえた。

 あと、少しで――全てが終わる。これからの戦いを生き残ることさえできれば。それさえ乗り越えれば、あたしは。あの子の方に振り返ろうとして、「ノエル」途中で呼び止められる。

 

「その……話がある」

 

 見ずともわかっていた声の主は、やけに緊張した面持ちをしていた。こんな直前に、なんだろうか。首を捻るも、ライナーはすぐに話し出さなかった。どうやら、あたしの答えを待っているらしい。

 立ち塞がっているライナーの背後。ジャンたちは準備の真っ最中みたいで、まだ時間も残ってる。嫌な予感がしないでもないけど、「うん、何?」一先ずは耳を傾けてみることにした。

 

「昨日の、話の続きなんだが……」

 

 忙しなく動いている整備士たちの隣。誰の意識も届いていないような、格納庫の奥にあたしを連れてきてから、ライナーは言い始めた。

 

「昨日?」

「エレンを止めたあとの話を、しただろ」

「それがどうかしたの?」

 

 ライナーが持ち出したのは、昨晩ハンジに中断させられた会話の続き。わざわざ二人きりの空間を作らなくたってできる話だと思うけれど、どうにもそうじゃないらしい。聞き返してみると、ライナーは分かりやすく動揺した。何故か、薄い暗がりでも分かるくらいに頬が赤くなってる。ライナーはそんな顔を手で覆ったまま、くしゃりと歪ませ「俺は」と零した。

 

「お前と、生きていきたい」

 

 うろうろと彷徨っていたはずの瞳が、正面からあたしを捉える。

 

「だから、全て終わったら……俺と、結婚して欲しい」

 

 絞り出すようにして紡がれた言葉。一世一代の告白をされて、心臓がけたたましく鳴り始める。呼吸すらままらなくなって。深呼吸でしか息を吸えず、頬の熱が治らない――なんてことは、なかった。

 

「……今?」

 

 求婚された事実よりも、重要なのはタイミングだ。空っぽになった町の格納庫。燃料臭い空間で言われても、全く集中できない。

 口を動かしたあたしに、ライナーがサッと顔色を悪くする。

 

「わ、分かってる。本当は、子供ができたら言うつもりだったんだが……」

 

 流石のライナーも不味そうなことくらいは察したらしい。意気込みの割には、婚約者に留まったままだ、と違和感はあったけれど。ライナーは知りたくなかった考えと共に釈明して、罰の悪そうな顔をつくった。

 

「伝えられる時に、言っておきたいと……思って」

「……そう」

 

 あの地慣らしを止めに行くのだ。その気持ちも分からなくはないので、ひとまず責めるのはそこまでにしておいた。相槌を返すあたしに、「それで……ノエル」 ライナーが再び声をかけてくる。

 

「お前は、俺と生きてくれるか……?」

 

 一歩前へと踏み出した体。縋るように伸ばされたライナーの手は、あたしの答えを待っていた。

 あたしの頭を撫でて、崩れ落ちそうな体を支えてくれた手。強張る体を囲い、抱き留めてきた手のひらは。きっと、あたしと同じくらい汚れてる。だからこそ、掴めるのはあたしだけで。あたしたちは、こうやっていつまでも離れられないまま。

 でも。

 

「ライナー」

 

 あたしは、ライナーの手首を両手で包んだ。なすがままのそれを引き寄せ、胸元にあてる。分かりやすく揺れた瞳に、込める力を強くする。余計なことを考えられなくなるくらい、強く。ライナーが触れている下で、絶え間なく鳴っている鼓動。生きている証を押し付けた。

 

「……返事は、全て終わった後でいい?」

 

 答えはとっくに決まっているけれど。あたしは、ライナーにそう問いかけた。いつかの続きを、するみたいに。

 

「あたし、生きてライナーに伝えるから……聞きたいなら、ライナーも生き残って」

「ああ」

 

 ライナーが愛おしげに眉を下げて、どうしてだか目の奥が熱くなる。溢れそうになったものを、微笑んで誤魔化した。恋人みたいにじっと、お互いだけを見つめて。もう充分かと、両手で抱えていたライナーの手を離そうとして「お前ら!!」遠くから、ジャンが叫んできた。

 

「イチャついてないで、さっさとなんか手伝え!」

「いちゃ、……」

 

 あらぬ誤解だが、この距離じゃそう見えてもおかしくないだろう。引いていた頬の赤みを取り戻し、狼狽しているライナーの隣で、あたしは大きく口を開けた。

 

「ジャン!羨ましいなら羨ましいってそう言いなよ!」

「はぁ?!ちっげぇよ、ヘタクソ!」

 

 拳を振りかぶってまで否定しているジャンが、逆に怪しくなってくる。「ふっ」とライナーが笑う声がしたので、「ふふ」あたしもつられて笑ってしまう。

 

「行こっか」

「そうだな」

 

 お互いに顔を見合わせてから、一緒に歩き出す。こんな風に笑えたのは、いつぶりだっけ。口角を上げたまま、一歩、二歩目を踏み出しかけ、背後から変な音がしてきた。なんだろう。ぴちゃり、水滴が落ちるような。足を止め、音の元へと体を向ける。

 

「あ」

 

 真後ろにいたのは、不自然な人影だった。ずぶ濡れになった黒い塊が、ゆらりとその身を持ち上げる。垂れている腕の先。握られている物を視認するより先に、ライナーの腕を引く。その体を盾にしようとして。

 銃口が、こちらに向いていた。

 

「い゙ッぁ――!!」

 

 ぐるり。何もしてないのに、視界が回転する。全身に駆け巡っていく、焼け付くような痛み。立っていられなくなって「ぁ゙は、」膝を地面に打ちつけた。投げ出されてる自分の足。遠くのほうで響いていた銃声が止まっても。なんで、体が動かない。

 

「ノエル!!」

 

 あたしを蝕むような熱。その中心を探っていた手が、胸に触れた。ぬるりと絡みつく感覚。繋ぎ止めている意識の中で浮かび上がったのは、赤黒い色だった。「なに、これ……」噴水みたいに、どんどん溢れてくる。「ぁ、」腕につけていた髪紐まで染み込んで。指の隙間から、落ちていくそれの出所。胸に空いた違和感で。「ぁ、……」やっと、分かった。「ぁ、ああ」これは、あたしの。

 

「どうして、俺を……!!俺を庇った!!」

 

 誰かに体を引かれたかと思ったら、目の前にライナーがいた。背中にまで回された腕が、邪魔なのに。庇ってなんか、いないのに。力が、はいらない。

 

「ノエル、なんでっ……」

 

 心臓のあたりが、ぎゅうぎゅうと喚いてて。ほっといたら、破裂してしまいそう。「ひゅー」そのせいか、ちゃんと息が吸えない。「かひゅ、ー」変な音が喉から漏れ出るばかりで「はひゅぅ、」全然、息苦しさが、取れない。

 誰か、この穴を塞げそうな人。アルミンだ。アルミンの名前を。助けを乞おうとして。

 

「あっ……!!」

 

 ノエルが、いた。

 

「そ、こ。っ、に、……いるの?」 

「ああッ、俺はここにいる!!」

 

 変わらずいてくれたノエルに聞いて、押し潰されそうな熱に抗う。あたしは手を伸ばして、叫んだ。

 

「あたしっ、ねぇ……おねがい!」 

「喋らなくていい!!ノエル、もう」

「だす、げてっ!!あ゙と、あと、少しだから!!」

 

 逃げそうになる足を叱りつけ、臆病者を黙らせた。手が震えてまともに持てない柄を、何度も何度も握り直して。やっと、ここまで。

 

「あと、少しで……!!」

 

 贖罪を、遂に果たしてみせるから。そしたら、あたしは自由に――

 

「良かった」 

 

 伸ばしていた腕が、固まる。「え?」呆気に取られるような、誰かの声がして。身を焦がすような熱が、どこかから抜けてゆく。

 

「やっと死ぬんだ」

 

 代わりに残ったのは、凍えるような冷たさ。その先に、あの子の大好きな笑みがあった。あたしが奪った、太陽みたいなそれ。

 

「この――」

 

 それが。ゆっくりと、静かに。形を変えていって、動いた。

 

「悪魔」 

「あ……」

 

 そうか。

 

「ノエル!」

 

 そう、だったんだ。

 ノエルは、人類を救うことを望んでいたんじゃない。あたしが人類なんて救えるはずない、と。知ってて。この日を。悪魔が死ぬのを、待ってた。

 

「わ、だしが、……」

 

 わたしが、手を離した時から。最初から、全て。「ライナー!止血だ!」「あ、ああ……!」決まってた。覆せるはずも、償えるはずもなかった。あたしは、今まで。なに、を。

 

「ごめん゙、なさい!ごめ、な゙、…ご、ごぼッ、」

「喋るな!ヘタクソ!!」

 

 謝ろうとして、喉奥から迫り上がってきたものが邪魔をした。顎をつたい落ちていくそれに構わず、「ごべ、な、」口を開こうとして、「馬鹿野郎!!喋るなッて、言ってんだろうが!!」ジャンに塞がれてしまう。

 

「ノエル……」

「な、んで。またッ……またなのかよ……!!」

 

 誰、なんだろう。あたしを見下ろしてるけど、輪郭が掴めない。ジャンが手当してくれているのか。景色だけが揺れてる。それなのに、「ックソ!もっとないのか?!」焼けこげそうなほどの熱さが。あたしが、流れてく。

 

「ノエル」

 

 止めないと。感覚のない手で、探りかけたのを、握られた。千切れそうな肺で、息をしようと開いた唇に、かさついた微熱が重なる。すぐに離れて「駄目。駄目だ」冷たい手のひらが、頬を撫でた。「俺が、そばにいてやるから」背を引かれて、もたれる。大きい体に抱きしめられても。その下で、広がっていく。命を奪うような、冷たさが。

 

「ずっと、ずっと……!」

「だ、れ、……か……」

 

 みんな、そこにいるはずなのに。裂けそうな喉を、動かしても、助けが来ない。「ノエル」与えられるのは、生温い熱だけで。あたりには、狂いそうな鉄臭さ。

 

「お前を愛してる!他の、何よりも……!!」

「……だれ゙、かぁ、……ッだれ、か」 

「だから。死なないでくれ……お願いだ」

「いゃ、だ……ゃだ……」

 

 まだ。わたしはこの世界で、なんのひとつも。のこせてない。「は、ひゅ……ぅ……は、」殺してばっかりで。ちゃんと生きたことなんか、一度も。

 

「ノエル」

「わ、たし……」

 

 凍えるような冷たさが、わたしの。まぶたを下ろそうとしてくる。「ゃ、……」抵抗したいのに、かすれた吐息しか。「ゃだ、」まだ息がしたい。「ひゅう」生きていたい。「ひゅ、ぅ」わたしは、それだけでいい。だから、「ひ、ゅ、」おねがい、いやだ。「ひ、」たすけて、だれか。

 

「し。……ぃ、たく、な……」

 

 い。

 

 

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