島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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【閲覧注意】二人の間に子供がいます。
全てはライナーの妄想です。


EP. 最哀の悪魔

 窓の外から響いてくる間延びした低い音に耳を傾けつつ、アルミンが持っていた手紙を受け取る。そこで並べられている美しい文字、「何度見ても、ヒストリアの筆跡は美しいな」徐に鼻を動かすと、高貴でいて可憐。そんな香りが鼻腔を巡って、「いい匂いもする……」感想が口をついて出ていた。

 

「何度も言うが、既婚者に劣情を抱くのはやめろ。気持ち悪い」

 

 「いい加減、妻子持ちとしての自覚を持て」ぼやくジャンは、鏡に向かったまま必死に髪を整えている。こちらへ顔を向ける余裕さえないらしい姿に、「誰に見せるつもり?」頬杖をついたピークが言った。

 

「……歴史の教科書を読む女学生に」

「馬の図鑑と間違えてないか?」

 

 「お前の寿命が延びて残念だよ、ライナー」軽口を叩いていれば、部屋の扉が開いた。そこには、外の様子を見てくると数分前に出て行ったアニ。その背後で顔を覗かせているのは、長く伸びた髪を髪紐で括り、淡い黄と灰が入り混じった色の上等なスーツ身に纏った――ノエルだった。

 

「ノエル。あいつはもう寝たのか?」

「うん、もうぐっすり寝てる」

 

 緩く微笑みかけてくるノエルに、浮ついていた胸を撫で下ろす。あの興奮では中々寝付かないのでは、と俺の心配は杞憂に終わったようだ。

 俺たちが子供を授かって、もう三年になる。触れるだけでも億劫になるほど小さくて儚げだった命は、随分と成長していた。

 大勢の人を殺し、贖えない罪を背負ってきた俺たちが新しい命を望む。長い間子供ができなかったのは、愚かな俺たちへの罰だったのかもしれない。それがやっと生まれたのは、エレンが全ての罪を背負い、死んだからだろう。確信はない。だが、最後に話した時。エレンは「ノエルと幸せにな」と言っていた。エレンがこの未来に俺たちを送り出した。他に理由もないので、そう都合良く思うことにしている。

 

「……あのはしゃぎようじゃね」

「ふふ。人生で初めての海だから……」 

 

 息子に手を引かれ、振り回されていたアニがつぶやき、ノエルがくすり、と笑みを溢した。口元へ添えられたすべやかな手の薬指には、指輪が嵌められている。光に反射した輝きは、俺の指にあるのと同じものだ。

 復興支援やら何やらで忙しく、ずっとノエルの指は空いたままだった。ノエルが不満を漏らすようなことかったが、お互いに落ち着いてきた三年目。最近になってやっと渡すことができたものだ。ジャンに、「他の男に近寄られても知らねぇぞ」と急かされた部分もない、とは言いきれねぇが、結果的に渡して良かった。

 大した価値もなく、ただの証としての役割しか果たせない。そんな指輪でも、ノエルは心底愛おしそうに受け取ってくれた。

 

「はしゃぐのも大概にしろ、って言っとけよ。海に落ちられたら堪んねえからな」

「言っとく。でもジャンだって、初めての海にははしゃいだでしょ?」

「……うっせえ」

 

 ジャンに悪態を吐かれても、ノエルの態度は崩れなかった。むしろ、楽しさを発散させるかのように目元を和らげ頬を微かに色付かせている。

 落ち着きのある色香を前に、俺はごくりと隠れて唾を飲む。ここ数年で、ノエルも大人びた。訓練兵の頃。幼なげだった姿と比べれば、別人のようでもあるが、不意に出る表情や仕草は昔のままだ。幼さと落ち着きが丁度良い塩梅で混じり合っている姿には、胸の奥が掻き立てられる。今すぐにでも口角の上がった唇を塞いでやりたくなるが、拳を握って堪える。

 ノエルが纏う雰囲気は、日に日に深みを増してばかりだ。元よりあった危うげな色気と、子を産んだ女の余裕が混じり合った結果なんだろうが、魅力的過ぎるのも問題だ。ノエルが相手を選ばずにそれを振り撒くので、見といてやらねえといけなくなる。今回はジャン相手なので心配ないだろうが、最近の悩みはもっぱらこれだった。愛想が良いのはノエルの美点だが、他の男に惚れられでもしたら困る。自分がどれだけ無防備なのか、近々教えてやる必要がありそうだ。

 

「ライナー」

 

 決意を固めていたら、すぐそばで声がした。その方へ顔を向けると、ノエルが俺の肩口から顔を覗かせている。愛おしい色の瞳と目が合うことはなく、俺の手元を覗き込んでいた。

 

「何持ってるの?」

「ヒストリアからの手紙だ」

 

 無意識のうちに固く握り締めちまったらしい。俺は言って、少し皺のついた手紙を渡してやった。受け取ったノエルは、上質な紙の手触りを確認するように裏表と翻してから、中を仰ぎ見る。「へえ……わ、字が綺麗」数分前の俺と同じような感想を溢すノエルに、「あー……そう言えば、さっきまで別のモンにはしゃいでた奴がいたな」ジャンが語りかけた。

 

「なァ、ライナー」

 

 挑発的に口元を吊り上げたジャンが鏡の前で問いかけてくる。先ほどの仕返しのつもりだろう。馬の割に頭が回るジャンを置き、弁解しようとして「ふぅん……?そうなんだ」ノエルの目つきが変わっていた。口元こそ笑んだままだが、明らかに様子が違う。分かりやすい嫉妬の仕方が愛らしい反面、焦燥感が襲ってくる。

 

「ライナー。いい匂いがした?」

「あ、いや……すまん、ノエル。俺はッ、むぐ」

 

 謝ろうとした口は、柔らかい感触に塞がれた。太陽を良く浴びた洗濯物のようでありながら、俺を酔わせる甘ったるい匂い。何度も嗅いできたノエルの匂いが、鼻腔どころか、顔面を包んでいた。

 顔をあげようにも、頭の後ろへ回された手がそれを許さない。周りの奴らが居るってのに、ノエルがここまで大胆な行動を起こすのは珍しい。そこまでの感情を引き出せた事実を噛み締めたいとこだが、周囲の視線が突き刺さってくる。身じろぐほど、ノエルは手の力を込めて離そうとしない。挟まるくらいはないにせよ、確かな胸の膨らみに顔を埋めたままでいると「どう?」ノエルが耳元で囁いてきた。

 

「ライナー、どっちがいい匂いする?」

「おいおい……人前で何してんだよ、ヘタクソ」

「だってこうでもしないと分かんないんだもん、この人」

 

 頭上で交わされるやり取りに、口を挟む余裕すらない。無理矢理引き剥がせはするが、どうにも離れ難い感触が俺を引き留めてくる。大人しく従ったままでいれば、ノエルの細い指が誉めるように俺の髪を撫でつけた。その傍で、ピークが何やら言ってくる。

 

「あなたも面倒なのを夫にしたよね」

「うん、今にも後悔しそう」 

「後悔してさっさと別れればいいのに」

「え、アニ?……あ」

 

 身を委ねたくなったところで。グイ、と力強く肩を掴まれた。何だと思う間も無く、無遠慮にノエルの元から引き剥がされる。俺とノエルの間、無理矢理空いた隙間にいつもの仏頂面を貼り付けたアニが割り入ってきた。

 

「茶番はそこまでにしな。もうパラディ島が見えてきてる」

 

 話題を切り替えようとするアニの隣で、急な動きに痛んだ自分の首筋を摩る。行き場を失ったノエルの手が物足りなさそうに宙で浮くも、ゆっくりと降ろされた。

 俺たちのやり取りを黙って見ていられないほど、アニの奴は、今だにノエル離れできていないらしい。俺たちが籍を入れてからも、こうして事あるごとに口を挟んでくる。ノエルを見つけた功績があるとは言え、そろそろ好きにやらせてくれたって良いはずだが、どうにもアニは許せないようだ。

 

「……アルミン、本当に上手くいくと思う?」

 

 俺とノエルを遮ったまま、アニが語りかける。胸の奥で燻っている名残惜しさへ蓋をして、俺は耳を傾けることにした。

 

 

「準備はできたか?」

 

 割り当てられた船室の扉を押し開けるなり、俺は中にいたノエルへと問いかけた。

 遠くの海に浮かんだパラディ島。かつては、悪魔の島と呼んでいた全ての始まりの場所。そこを甲板で眺めた後、各自で下船の準備をする運びとなっていた。

 返事もないうちに扉を閉め、部屋を見渡す。散らかっていたはずの衣服も纏められ、使用前と同じくらいに片付いていた。流石は俺の妻だ。誇らしさを覚えつつも、ノエルへと近づく。もう何の気兼ねもないはずだが、ベッドの淵に腰を下ろしたノエルは浮かない表情をしていた。

 

「うん。あとは、あの子を起こさないと。なんだけど……」

 

 歯切れ悪く言ったノエルの視線の先にあるのは、不自然に膨らんだ布だ。合わせて、規則正しい呼吸も聞こえてくる。ジャンの言う通り、はしゃぎ過ぎたのだろう。

 

「なんだか、忍びなくて」

「……だな」

 

 微笑みつつも、困ったように眉を下げているノエルと頷き合う。ここまで見事に熟睡されると、起こそうにも起こせない。

 

「本当に……連れてきてよかったのかな。この子のこと」

「あそこまで駄々を捏ねられたら、置いていく訳にもいかねえだろ」

 

 生きて帰れる保証もない船旅だ。最初こそ、俺だけがパラディ島へ向かうつもりだったが、ノエルは自分だけが残れないと譲らなかった。

 まだ幼い息子を俺たちのいざこざに巻き込む訳にもいかない。母さんのところに預けたまま行こうとして、勘付かれてしまったのだ。

 絶対に離れたくない。あまりにも切実な願いで泣かれ、騒がれて仕舞えば、なす術はなかった。挙げ句の果てに俺たちが折れ、息子はすぐそばにいる。

 

「……誰に似たんだろうね」

「お前じゃないか?俺が城から飛び降りそうになった時、いくら言っても離さなかったよな」

 

 あの時のノエルは、それこそ聞き分けの悪い子供のようだった。何度言っても嫌々と首を振るばかりで、困り果てたもんだ。記憶に鮮明に刻まれているあの姿を口にすると、ノエルが頬を赤らめる。

 

「だって、あれは……!ライナーが悪い」

 

 言い訳でもするように口ごもって、ノエルは恨みがましく付け加えた。責めるような視線に晒されるも、反省を促されるどころか、もっと言ってしまいたくなる。

 

「ほんと、どうにかなりそうだったんだからね。あたし……」

「……ノエル」

 

 拗ねるような言い方に、耐えきれなくなって名前を呼んだ。自分で煽ったことだが、こうも良い反応を見せてくれるとは思っていなかった。つい責め立てそうになる加虐心を抑え込み、膝の上で組まれた手を絡み取ろうとして。ノエルの方が先だった。

 

「キスしてくれたら、許してあげる」

 

 伸ばされた指が、導くようにしてネクタイを引き、俺を前屈みにさせる。思いっきり蕩けた目元、強請るように浅く開かれた唇を目に入れてすぐ、俺は許しを乞うていた。

 唇に触れた、また別の柔さ。何度味わっても癖になるそれを食んだ。ベッドが軋むのにも構わず、ノエルが座っているすぐそばで手をつく。「ん、」ノエルの鼻につくような吐息がして、口内に広がっていく甘さが増した。このままだと、どうにかなっちまいそうだ。息子が寝てるってのに、ノエルを組み敷いてしまいたくなる。それは、駄目だろ。言い聞かせ、途切れそうな理性をどうにか繋ぎ止める。頭どころか、全て溶かしてしまいそうなそれに唇を離しかけ。

 

「足りない。もっと」

 

 ノエルが、不満げにつぶやく。ああ、どうすりゃいいんだ。心臓を痛いくらいに締め付けている熱を、適当に悪態をついてどうにか発散させようとしてみる。こいつは、ノエルという人間は、とことん俺を狂わせるのが得意らしい。それなら、期待に応えてやるのが夫としての責任ってもんだろう。

 ノエルの肩を引いて、俺は先程よりも深く口付けた。驚いたように丸く縮んだ瞳を楽しみながら、ノエルの体に手を滑らせる。お互いの熱を分け与えるように。角度を変えて何度も繰り返していれば、ノエルの頬は赤みを増していた。もっと、してやったらどうなるのか。突き動かされるまま、手を下にずらした。手のひらでまろい形をしたものを抱き寄せるようにして掴む。

 びくり、と正直に跳ねるしてくる体は、いつまで経っても初心なままだ。ノエルの体に合わせて作られたスーツが、滑らかな手触りと共に体のラインを伝えてくる。見立て通り安産型だった尻は、よく手に馴染んできていた。

 ここ数年の幸福な生活からだろう。兵士の頃よりも肉感のある尻を堪能しようとして、手首を掴まれた。

 

「ッ……!」

「こら。やり過ぎ」

「すまん、つい……」

 

 夢中になって、好き勝手やり過ぎちまったようだ。ノエルに嗜められ、惜しみながらも手を離す。「もう」ノエルが呆れたようにそう洩らすが、ネクタイは摘まれたままだ。しばしの無言を経て、視線を隅に落としたままのノエルが、ポツリと呟いた。

 

「……あたしだって、我慢してるの。それ以上はダメ」

 

 ノエルがいじけるように言って、首を引いていた力がなくなった。重力に従い垂れた俺のネクタイを、ノエルがスーツの中へと戻す。ついでと言わんばかりに襟ぐりを正し、整えてくれている。ノエルの夫である俺しか見ることのできない光景を、目に焼き付けていたくもあるが、今は。

 

「ノエル」

「ぇ、」

 

 下へ向いていた顎をとると、真剣だったノエルの表情が崩れた。小さな驚嘆を耳にしつつも、まとめて口で塞いでしまう。突然のことに対応しきれていない唇を舌でこじ開け、逃げようとするノエルを抱き寄せる。合わせて舌先もつついてやれば、面白いくらいに肩が震えた。

 とっくに初めては済ませたはずだが、ノエルの体は素直だ。内心ほくそ笑んで舌を絡め、覆い被さるようにして狭い口内を荒らす。「ふ、ぅ」ノエルが口端から熱い吐息を零す。途切れ途切れなそれは、上手く酸素を吸えてなさそうだ。そこまでヘタクソなのか、とジャンがいたら揶揄われていただろうが、生憎にもこの部屋には俺と息子しかいない。

 助けのない状況へか、この頭を麻痺させるような快楽に対してか。苦しげに瞳を潤ませているノエルが、また俺を焚き付けてくる。角度を変えようと身を引いて、「ん゙。らぃ、な」舌足らずな呼び声に唇を押し付ける。溢れそうな唾液を嚥下しつつ、抵抗しない舌を裏から舐めあげた。痺れるような感覚を貪っていれば、段々と支えていたノエルの体から力が抜けていく。久々にしては、やり過ぎちまったらしい。「はぁ、は、……は……」ノエルは垂らした糸を拭いもせず、俺の腕の中で浅い呼吸をしている。ずくり、と情欲が誘ってくるのに、奥歯を噛み締める。性懲りも無く痛んでいる下腹部といい、これ以上はキスだけで終われる気がしない。

 

「ダメ、って、言ったのに」

「……許せないか?」

「許さ、ない」

 

 息も絶え絶えといった様子のノエルに聞けば、不貞腐れたように言い返される。澄まし顔で分かりやすくそっぽを向いているが、逆効果だ。眼前に晒された耳は、まだ色が抜けきっていなかった。

 

「なら、……続きはお預けだな」

 

 その矛盾を指摘せずに目で堪能していると、「お預け……」逸らされていたノエルの瞳が揺れる。どうやら。息切れこそしていたものの、ノエルもかなり良かったらしい。物惜しげな一言に意地悪がしてやりたくなり、「我慢するんだろ?」と笑いかけて。

 

「……ねえ」

 

 普段よりも一段と低い、咎めるような声がした。同時にノエルが俺の腕を掴み、前へと誘導する。胸元まで手繰り寄せられたあと。ぎゅう、と上から覆うようにして押さえつけられた。

 

「ライナーのせいで、あたしのここ。こんなになっちゃったんだけど」

 

 なだらかな膨らみの奥。音を刻んでいるのは、波打つような心臓の鼓動だった。絶え間のなく続いている振動と。育てた甲斐もあってか、以前より一回り大きくなった胸の暖かな熱が俺を急かしてくる。じっくりとそれを聞かせるような間を空け、ノエルが口を開く。

 

「責任、とって…っ、ん。ぁ」

 

 言葉を止めたのは、ノエル自身の悩ましげな吐息だった。「ちょっ、と!」与えられる快楽から逃れるよう身を捩って、弱々しい抗議の声をあげる。その原因である俺の手を引き留めたノエルは、凄みのない睨み顔を作った。

 

「お預けなんじゃなかったの」

「そりゃあ、……やるしかないだろ」

 

 ここまでお膳立てされ、何もせずにいられる男がいんだろうか。くらりと目眩がしそうな誘い文句を、上目遣いで告げてくるノエル。手のひらには、どうぞ揉んでくださいと言わんばかりに膨らみが押しつけられていて。

 悪戯心がなかったとは言えないが、もはや期待に応えてやったと感謝されるべきだ。

 

「忍耐力は?」

「巨人の力は、もうないからな」

「関係ないでしょ、それ」

 

 不満そうなノエルの尋問に、適当な言い訳を並べてみせるも、すぐ看破される。その様子が可笑しかったらしく、ノエルはふっと綻ぶような笑顔になって、しばらく肩を震わせていた。釣られ、俺まで口角を上げてしまう。

 そう笑い合っていると、熟睡したまま動かずにいた息子が寝返りを打った。静かな寝息を聞くに、まだ起きる気配はなさそうだ。

 

「ふふ。ねぼすけなのは、ライナーにそっくりだね」

「いつも悪いな……」

 

 レベリオの頃も起きるのはノエルに任せっぱなしだった。結婚してからも、それは変わらないままだ。毎朝の手間を増やさせているんだが、朝一番で目に入ってくるノエルの姿を俺は気に入っている。

 

「ううん。お疲れの旦那様を起こすのも、妻の役目だもん」

 

 ノエルは俺の懸念も意に介さず、「……労うのも、ね?」と含み笑いまで浮かべてみせる。欲を駆り立てるような仕草を見せつけてくるノエルに、燻った胸の粗熱を噛み殺す。これが素なのか、理性に抗っている俺の様子で愉しんでいるかは知らんが、のちのお預けで確かめるしかないだろう。

 そう言っても、危うい状況は変わらない。今すぐノエルのネクタイを解き、一丁前に旦那を誘惑してくる悪妻を懲らしめたいところではあるが、これ以上は。

 堪らず顔を逸らせば、何も知らずに寝こけている息子が視界に入ってきた。窓辺から差し込む日光を浴び、丸まった背中を上下させている。俺の血を色濃く残した髪色が、布団からはみ出たままチラチラと輝いていた。

 緩やかに過ぎていく時の流れ。それに身を任せて気持ちよく眠っている小さな姿の前で、言葉が口を衝いて出ていた。

 

「ノエル。お前は、……もう少し賑やかになっても良いと思うか」

「二人目が欲しいの?」

「む、無理をさせるようならいいんだ……だが、」

「だが?」

 

 出産は、命の危険を伴う行為だ。復興したてのマーレで母子共に無事だったのが、どれだけ幸運だったかも理解している。それでも、と。愚かにも願ってしまう俺を見透かすように、ノエルが反芻して首を傾げた。その答えを待つ瞳に向かって、喉奥に溜まっていたものを絞り出す。

 

「……欲しい」

「欲張り」

「うっ……すまん」

 

 最もな返事をされ、何も言えず謝罪だけを口にする。一人目をこさえるまでの苦労と時間を考えれば、間違いなく俺はノエルの言う通りだ。全て分かっていながら、こうして諦めの悪い男を演じているのには理由があった。

 

「もし……娘が産まれていたら、お前に似ていたのかと思うと……」

「そんなに、生き急がなくたっていいんじゃない。ライナー」

 

 欲深い願望を吐露する俺に、ノエルは幻滅するでもなく、にこやかに笑いかけてきた。いやに懐かしいような単語を使って嗜めると、離さないでいた俺の手に顔を擦り寄せてくる。その触れた温度を味わうようにノエルが瞼を閉じ、少しして再び目が合った。

 

「まだ……もう少し二人で楽しみたいし」

 

 そんなことを軽々しく言ったノエルが「ね、あなた」と、俺の気も知らずに追撃してくる。発散しようのない衝動を飲み込んで、「……そうだな」俺はただ頷いた。

 色々と誤魔化すのにも限界がき始めたとこで、示し合わせたように部屋の扉が叩かれる。遠慮のないノック音のあと、廊下から響いてきたのはピークの声だった。

 

「早めに来てくれる?そろそろアニが殴り込みに行きそう」

 

 ピークの脅しは、おそらく冗談ではないのだろう。ノエル絡みだと謎の熱意を見せるアニのことだ。扉を蹴破ったって可笑しくない。ノエルも同じ考えに至ったらしく、顔を見合わせてくる。ふ、と二人だけで小さく笑ってから、俺の手が解かれた。身を離したノエルはベッドの上で寝ている息子の元へ向かう。

 俺はその様子を目にしながら、前屈みになっていた腰を伸ばした。そういや、アニは俺たちの結婚式でも付き添いの癖に腕を離そうとしなかったり、号泣したりと散々だったな。

 

「難儀な奴だな……あいつも」

「アニ、あたしのこと大好きだから」

 

 まだ目覚めていない息子の背を撫でながら、ノエルが当然のように呟く。こうやって、なんの恥ずかしげもなく言っちまうとこが、俺たちを深みに嵌らせてきたのだろう。

 

「俺は?」

「もちろん、大好きだよ」

 

 「ライナーは?」と肩越しに振り返ったノエルは、俺の答えを待たずにゆったりと目尻を綻ばせる。

 

「俺も……愛してる」

「うん。あたしも」

 

 ノエルが相槌を打って、応えるように息子が起き上がった。眠たげに目を擦っている息子の涎をノエルが拭い、「おはよう」柔らかな声をかける。急かされたばかりだが、今はこの心地よさに浸っていてもバチは当たらんだろう。ベッドの縁へ腰を下ろし、俺はしばらく二人のやりとりを見守っていた。

 

 

 清々しい晴天の下、盛り上がった斜面を踏みしめていく。無事にパラディ島へと上陸した俺たちは、ミカサに案内され、とある丘を登っていた。戦士としての役目もなくなり、以前よりも衰えた体は若干の疲労を訴えている。俺でさえこうなのだから、色々と連れ回された息子は尚更だろう。少しの間なら、との提案に甘え、預けてきた判断は間違いでなかったらしい。息子の安否が気にならないわけじゃないが、あのジャンの家族となれば、心配はいらないはずだ。別れ際までノエルに抱きついていた息子の姿を思い返しつつ、足を動かした。

 

「良いところだね、ミカサ」

「うん……子供の頃。よく登っていた」

 

 肌を撫でるようなそよ風に紛れ、歩いている二人の話が耳に入ってくる。よく考えてみれば、この場所――シガンシナ区はノエルの故郷でもある。大使としての仕事が落ち着いたら、ノエルが生まれ育った場所に三人で行くのも良いかもしれん。俺が考えを巡らせている前で、「実は……」とノエルが言い淀んだ。

 

「……私も来たことあるんだ、ここ」

「そうなの?」

「エレンと、話した時にね」

 

 大きく息を呑む音がしてくる。おそらく、ミカサのものだろう。エレンとノエルが、どんな話をしていたのか。聞いてみたいところでもあるが、肩越しに見えたノエルの横顔は、懐かしむように目を窄ませていた。

 

 やっとのことで頂上まで登り終え、順々に用意してきた花を備えていく。大きな木の根元にあった素朴な墓は、色とりどりな花束に囲われている。俺がそれを見下ろしたまま動かないでいると、「どうしたの?」ノエルが横から顔を出してきた。その怪訝そうな表情に、鈍く凍りついていた口が溶かされていく。

 

「俺が、していいのかと……思って」

 

 これが、エレンの望んでいた運命。俺たちに遺した未来だとしても。いざ目の前にしてみると、手が止まってしまう。

 行き場のない花束を抱えたまま、躊躇していた俺の腕に「ライナー」そう言って細い指が絡んできた。

 

「あたしがそばにいるから、一緒にやろう?」

 

 ノエルが言って、あの頃から変わりのない笑顔をみせる。翳り始めていた心が晴れていき、「ああ……そうだな」釣られて自分の口角が上がっていく。

 長い睫毛に縁取られた瞳には、俺の影が映っていた。世界で最も愛おしいその色に見守られ、手を添えられながら、花束をそなえ「すみません」

 

 

「君は……ノエルの知り合いかい?」

 

 呼ばれた方へ、首を動かす。そこにいたのは、見たこともない中年の男だった。「は、……」中途半端な自分の吐息が、やけに大きく聞こえてくる。咄嗟に手を仰ぎ、買った時よりもよれた花束があった。

 

「俺、は……?」

 

 そこには、俺を支えてくれる手も、笑みもない。唐突な乾きに動かされ、周囲を見渡す。

 

「あ」

 

 空に張り付いていたのは、晴天とは真逆の、澱み切った黒い雲。今に降り出してもおかしくないような、曇天だった。平坦な地形に並べられた墓石が、景色を覆い尽くしている。

 

「あ……」

 

 全身から、血の気が引いていく。戦慄の走った唇を開いたまま、何度も酸素を求める。いくら呼吸しても、胸を締め付けるような息苦しさが増していく。

 ノエル。重くなった額を手で抑え、叫ぼうとして、無駄だった。喉を焼かれたように、一言も発せない。こんな異常を止めてくれるはずの妻が、そばにいたはずのノエルが、どこにも。

 代わりにあるのは、他と同じ。真四角の、無機質な石板だけ。歪んだ視界で、刻まれた文字を追って。やっと、理解した。

 刻まれているのは、俺が追い求めた最愛の名前。かぶりを振って、捻じ切れそうな熱をあげていた脳みそが冷めていく。

 そう、そうだ。

 

「……俺は。ノエルの墓参りに、来てたのか……」

「え?」

 

 困惑し切った声色が耳朶に触れ、俺は顔に這わせていた手を外した。いたのは、俺に話しかけてきた男と、同じくらいの年の女。

 あからさまな不信感を露わにする二人へ、粘ついた唾を飲み込んで、口を開く。

 

「ライナー・ブラウンと言います。ノエルとは、将来を誓った……恋人でした」

 

 間柄を明かしても、向けられる視線は変わらなかった。突然現れた見知らぬ男が、恋人を名乗ったのだ。すぐに受け入れられる訳もない。そう頭で理解していても、戸惑いとまた違う様子の二人に焦燥感が駆り立てられる。

 

「俺は。ここに墓があると聞いて、花を……」

 

 焦る気持ちを抑え、どうにか言葉を吐き出す。行きの花屋で買ってきた花束を持ち上げようとして、「その子は……」男の背後にいる女が喋り出した。

 

「その子は、ここじゃないわ」

「は……?」

 

 手に込めた力が、抜けていく。別の言語で語り掛けられているように、まるで理解ができなかった。ノエルがここじゃないなら、目の前の墓は何なのか。

 

「ここだよ」

 

 問い直すこともできず、立ち尽くしていた俺を見兼ねてか。案内をする、と申し出た男がやっと立ち止まった。随分離れた場所まで来たが、あるのは、ノエルとまた違う墓だけだ。

 つい最近建てられたような、真新しい石に素朴な野花が献花されている。隣に並んでいるのは、父親だろうか。手入れの行き届いていない墓石の文字は、名字しか読み取ることができない。

 何にせよ、聞いたことも見たこともない人間だ。俺はノエルの名前をはっきりと口にしたはずだが、何か勘違いでもしてんだろうか。

 

「これは……?俺は、……ノエルに、」

 

 手向けずに来てしまった花束を、今度こそ両手で抱え直す。花はノエルに似合いそうなものを選んできた。俺がレベリオで贈った服は気に入っていたようなので、好みを大外しはしていないはずだ。花が萎れる前に届けてやりたいが、俺をここへ連れてきた男は神妙な面持ちで黙ったままだった。

 ぽつ、と振りはじめの雨粒が額に落ちてきたところで。男はようやく、話し始めた。

 

「この子は……うちの娘の名前を騙っていたそうだ」

 

 一体。何を――言ってんだ?

 

「自分のせいで死んだと、責任を感じていたんだろうな。だから、こんなこと」

 

 訳の分からない話をしてくる男に、問おうとして。「は、」掠れた吐息だけが、漏れていた。もう一度、と仕切り直そうが、変わらない。異様な熱が増すばかりで、何の音も発さなかった。懲りずに繰り返し、「あたしが……」別の声が割り込んでくる。

 

「あたしが……言ったせいなのよ。あたしのせいで、この子は」

「何度も言ってるだろ、君のせいじゃない。きっと、こういう運命だったんだ……」

 

 目元を押さえたまま、泣き崩れた女の背を男が支えた。どこか遠くのようなやりとりを眺め、途切れ途切れの呼吸を整えようとする。重苦しい空気を呑み込んで、覚束ない指先で服を掴む。じわり、と垂れてくる嫌な汗。頭の中で鳴っている警鐘を無視して「あの」喉を焦がすように、絞り出した。

 

「娘?自分のせいで死んだって、何を……ノエルは。ノエル・ジンジャーは、どこに?」

 

 向けられる四つの目玉にそう捲し立てると、沈黙が落ちた。俺が言葉を重ねる前に、二人が顔を見合わせる。一拍置いて「あなた……」啜り泣くのを止めた女が、言う。

 

「恋人だったのに、何も。知らないのね」

 

 

 降り始めた雨が、全身に打ち付けている。絶え間なくつたい落ちていく雫が石に滲んで、色を変えていく。

 歪んだ視界の端にあるのは、ひしゃげた花束。泥と雨に濡れたそれは、お世辞にも綺麗と言えない。今すぐにぞんざいな扱いをやめ、汚れを拭ってやるべきなんだろう。漠然と思い浮かべて、膝から伝わってくる冷たさに遮られる。

 残っていた熱すら奪われていく感覚に、「ノエル」声が洩れていた。「ノエル、ノエル……!」歪み切った現実を正すように繰り返して、みっともなく震えている手をつき直す。

 「ノエル……」お前しかいないんだ。お前だけが、この寒さを温められる。こんな姿を晒す俺にも、腕を広げてくれる。どんな時でも。最初から、お前だけがそうだった。

 

「ノエル……いや。ちが、う……」

 

 お前にとっての俺も、そのはずだと。そう、願っていただけだったのか。

 

「お前は……どこに、行ったんだ……?」 

 

 「答えてくれ」地面に擦り付けた拳が痛む。喉を潰すように言っても、返事がされることはない。そこにあるのは、無害な静寂だけだった。

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