――アルミンなら後悔しない道を選べるよ、絶対に。
君がそう言ったのは、いつだっただろう。まだ幸せでいられた訓練兵の頃。進路を悩む僕を、君は励ましてくれた。
その時の自信がなかった僕は、きっと曖昧な返事しかできなかったと思う。これからの未来がどうなるかなんて、考えずに。
「聞こえてるんだろ」
今なら、ちゃんと答えられる。
後悔しない日なんて、ないよ。僕が団長の代わりに生き残り、飛行船ではサシャを弔った。ハンジさんが僕たちを送り出すために犠牲となって、エレンは遥か遠くへ行ってしまった。
そして、今。
「目を、開けてくれ」
君、までも。
「ノエル……」
ようやく飛び立った飛行艇の船内。エンジン音さえも霞んでしまうような。恐ろしいほどの沈黙に紛れて、「ノエル」何度目か分からない名前が響いた。
「まだ、俺は……お前の返事を聞いてない」
その、視線の先。椅子に乗っている影は、何の反応も返さない。
「生き残るって、言っただろ?死ぬまで……俺の、そばにいるって」
先程言っていたのと同じことを、ライナーは繰り返していた。僕が、止めないと。頭では分かっているはずだけれど、まるで体が動かなかった。それは、隣にいるミカサも、みんなも同じだ。
「約束、したよな……?」
何もできないうちに、消え入りそうな声がした。横たわった体へ、ライナーの手が伸ばされる。ここから見ても青白い頬を、その指が支えた。覆い被さるように湾曲していた背をさらに曲げ、ライナーが叫ぶ。
「なあ、ノエル!!」
「ライナー」
はじめに動いたのは、ジャンだった。一歩前へと出て、体を抱き上げようとしていたライナーを止める。肩に手を置かれたライナーは、ゆっくりと振り返った。焦燥に濡れた瞳を揺らしたまま、肩で息をしている。
「もう、……やめてやれ」
今すぐに崩れ落ちてもおかしくないようなライナーに、ジャンが苦々しく呟いた。「は……?」訳もわからないと言いたげな嘆息が自分の鼓膜を震わせる。いっそ、耳を塞いでしまえれば。ジャンがライナーに突きつけたのは、そう卑怯に願ってしまいたくなるほどの、残酷な現実だった。
「ヘタクソは、……ノエルは、死んだんだよ」
ライナーの指がするりと落ちて、支えられていたノエルの顔が横にずれる。
訓練兵の頃は、ノエルの笑顔によく励まされていた。一挙一動に合わせてコロコロと表情を変えるから、ずっと見ていても飽きないんだ。再会したあとは、別人のようだったけれど、端々に出る仕草はやっぱり昔と変わっていなかった。
影が落ちているその場所に、以前のような表情はない。浅く開いた瞼から覗くのは、濁り切った瞳。青紫の唇が中途半端なまま、半開きになっている。張り詰めた僕の心臓を追い立てるように、赤黒い血痕がノエルの口元を。頬を、汚していた。
「な、に……言ってんだ。ジャン、ノエルは……ここに、」
大粒の汗を垂らしたライナーが、困惑を隠さずに狼狽する。
確かに、ライナーの言う通り、ノエルはすぐそこにいる。あの混乱の最中、ライナーが飛行艇の中へ体を運んだからだ。だけど。
「……ッ、だから。見りゃわかんだろうが……!!」
「そうだ。ライナー……ノエルは、」
「違う!ノエルが、俺を残して逝くはずないだろ!」
コニーが一緒に宥めようとしたのを振り払うような勢いで、ライナーは間髪入れずに反論した。動いた拍子に、影の中にいたノエルが光に晒される。願いとも似たライナーの咆哮を嘲笑うように、鮮やかな赤色があった。
あまりにも無慈悲なその色が、サシャの時と同じように。いや、それ以上にノエルの服を染め上げていた。
「約束、したんだ……!こいつと……」
「ずっと、そばにいるって……!!」ライナーが血に塗れた手のひらで拳をつくり、自分の額へあてる。
ジャンやコニーに続いて、僕も何か言うべきだ。ノエルの友人として、団長としても。
ハンジさんなら、どう言ったんだろう。余計なことばかり脳裏に過ぎって、かける言葉が見当たらない。
「ッそんなの分かってんだよ!だが今は、……ッエレンが優先だ!」
僕が迷いを捨てきれない間に、ジャンがライナーへ掴み掛かった。ノエルの血に塗れた服が伸び、膝を折っているライナーは、宙吊りのような形になる。焚き火を囲った時のような体制を止めようとして、ジャンが振り払う方が早かった。
「ライナー。お前の力がなきゃ、始祖は止められねぇんだ!ノエルのことはッ……後にしろ!」
「ジャン、あなた……」
静かに様子を窺っていたピークが、ミカサのような黒髪から覗かせた目を瞬かせる。
ジャンの主張は、この場で何よりも正しかった。ライナーも、理解しているのだろう。ずっと動かし続けていた口を閉じ、視線を床へ落とした。
「アルミン」
それから、何分経ったのか。舞い戻ってきた静寂を打ち破ったのは、またもライナーだった。脈打っていた鼓動が跳ねて、胸のあたりを抑える。俯いていた顔をあげたライナーは、先程とは打って変わって平然としていた。異常なくらいの落ち着きように、内臓が浮つくような違和感が混じる。
僕は、見たことがあるはずだ。この、曇りのない眼を。
「ベルトルトを食ったお前なら……見たんじゃねぇのか」
記憶を探ろうとした僕に、ライナーが言葉を重ねてくる。ベルトルトから受け継いだ景色の中に、そんな光景はなかった。僕と話していた時よりもお転婆なノエルと、振り回されているベルトルトがいたくらいで。
「ノエルは、言ってただろ……?」
「あ……」
ライナーの助けを乞うような響きに、息が溢れる。
――アルミン、助けて!
――フランツが、息をしてないの!!
脳内で反響した、過去の記憶。そうだ。僕は、知っている。既視感の正体が、やっと。やっとわかった。
「ノエルは!最期まで俺といるって!!」
「ッライナー、テメェいい加減に!」
「ジャン」
掴みかかろうとしたジャンの背を引き止める。「は?アルミン……?」怪訝そうな視線へ頷いてみせ、ライナーの側まで近づく。
あの時の僕は、ただ懇願することしかできなかった。非情な現実に打ちひしがれ、やめてくれ、と頼むことしか。だから。
「うん……見たよ」
僕が首を大きく振ってみせると、ライナーの瞳から一筋の涙が溢れた。強張っていた顔つきがあからさまに緩んで、安堵の息さえしてきそうだ。
他のみんなは、ライナーと真逆だった。愕然とした視線が突き刺さってくる。「アルミン」ミカサが心配そうに呼びかけてくれるけれど、返事はしなかった。
「ライナー、ノエルを安静にしてあげよう」
ごめん、ノエル。
胸の内でそっと謝罪して、開きっぱなしだったノエルの瞼に触れる。硝子玉のように空虚だった瞳を隠せば、ノエルは眠っているようだった。頬を流れていた涙の跡もはっきりと残っていて、そう錯覚してしまいそうになる。この、指先から伝わってくる温度さえなければ。
「まだ、息はあるんだ。エレンと話したら、始祖の力でどうにかしてくれるかもしれない」
「そうだ……!そうだよな」
いくら始祖の力を使ったとしても、死者を甦らせることはできないはずだ。囁いてくる本心に蓋をして、その場凌ぎの偽りを重ねる。僕の思惑通り、落ち着きを取り戻したライナーが、ありもしない希望を自分で反芻している。
「取り乱して、すまなかった……まずは、エレンを止めねぇとだよな」
罰が悪そうにしながらも、ライナーは壁に手をついて立ち上がった。ジャンとのやり取りが嘘だったかのように、すんなりと事が運んだ。エレンを止める話し合いをしなければならないのに、どうしてか喉がつっかえる。
捻じ曲がったまま進んでいく時の流れ。僕が生み出した軋轢を呑み込んで、口を開く。
「……じゃあ、作戦を話し合おう」
結局、僕は何も成長できていないままだ。それが証明されたのは、すぐ後の事だった。
無限に広がる砂の雪原で、子供の姿をしたエレンに目掛けて走ったけれど、距離は縮まらなかった。元の位置へと戻ってきてしまい、動かずにいた兵長たちと顔を見合わせる。息を切らしながら、エレンの話に耳を傾けようとして「エレン!!」僕らに背を向けたライナーが、叫んだ。
「ノエルが、重症なんだ」
ふらり、とライナーの体が傾く。どこへ向かうでもなく。一歩、二歩。前へ歩き出した背中を、止める人はいなかった。
「傷を、ノエルを……治してやってくれ。始祖は、なんだって、できるはずだろ!?」
僕。僕が、もっと別のことを言えていれば。後悔が身に滲んでいくよりも先に、ライナーは続けた。
「俺は……どうなったっていい!だから、」
「――ノエルは死んだ」
「あ……」前へ進んでいた体が、立ち止まる。聞こえてきたのは、ライナーのものなのか。それとも、他の誰かのものか。確かめる術は残されていなかった。
「――ノエルは、自由を求めて死んだ。お前らも、好きにすればいい」
追い立てるようにエレンが告げて、遠くの方に二つの影が現れる。二人は光る木の根本で佇んだまま、「――戦え」と僕たちに言い渡した。 宙に浮くような感覚がして、僕たちは現実へと戻ってきていた。手を仰いだジャンの横顔がぐしゃりと歪んで、「どうしても、ダメなのか……?!」喉を潰すように叫ぶ。それを耳にしながらも、 乾き切った唇はなんの音も発しない。床に手を付くのすら、精一杯で、立ち上がれなかった。
これで。これで、本当に交渉の望みが潰えてしまったのだとしたら。僕たちは、エレンを。
「ノエル、行ってくる」
ふと。のしかかってくる重たい空気の中で、場違いな声色がした。ライナーだ。視界の端に映り込んだその姿は、ずるずるとしゃがむ。力無く垂れていた腕が、ノエルの頭を掬って、唇を重ねていた。
窓枠から漏れる光に照らされた二人は、しばらくそうしていて。顔をあげたライナーが、名残惜しげにノエルの前髪を撫でる。その愛おしげな目線に、ノエルが応えることはなかった。
「帰ってきたら……返事を聞かせてくれ」
目を逸らしたくなるほど美しくて、残酷な光景を。僕はただ、見ていることしかできなかった。
それを思い出したのは、全てが終わったあと。マーレ兵との交渉を終え、肩の荷を下ろした時だ。一先ずは怪我人の手当てを行うことで合意して、一息吐こうとしたところで「ねえ、アルミン」隣にいたアニが話しかけてきた。辺りを見回しているアニの姿に、嫌な汗が背筋を流れていく。
「ずっと気になってたんだけど、ノエルは……どこにいるの?」
「アニ」
「ノエルのことだし……直前で何かやらかして、飛行艇に乗ったままとかなんでしょ?どうせ」
まただ。僕を映している瞳は、澱みひとつなかった。信じたくない可能性から、逃れるように。
エレンは、どこまで知っていたんだろう。ノエルが死んでしまうことを。こうなる未来まで、視えていたのだろうか。何にしても、今はまだ問い直せない。エレンが待っている地獄に行くまでは。
粘ついた唾を嚥下して。今度こそ、偽りのない真実を口にした。
「ノエル。ノエルは……死んだんだ」
「…………は、?」
「隠れていたフロックに、……撃たれて」
アニの瞳が縮まり、表情が色を失っていく。痛々しい反応に目を窄めながらも、真実を伝えるのはやめなかった。
「血が、止まらなくなって……それで」
血飛沫あげて、傾いた背中。僕が駆けつけた頃にはすでに、赤い水溜まりができていた。錯乱したノエルが動くたびに、どろどろとしたそれが流れ落ちていって。包帯を巻こうが、無駄だった。生きようと足掻く不自然な呼吸音だけが、残っていて。
「そのまま……」
「嘘だ」
最後まで言い切ろうとして、遮られる。本当は、ずっと下を向いていたいけれど。足先に落としていた視線をあげれば、今にも泣き出してしまいそうなアニがいた。
「どうしてそんな嘘を付くの、アルミン」
「アニ。いや、違うんだ」
「何が?違うっていうなら、証拠を出しな。ノエルが、本当に死んだって証拠を!」
青ざめたアニが詰め寄ってきて、靴底が後ろにずれる。アニも、どこかで分かっているはずだ。いつだってアニに引っ付いていたノエルが、アニのことを大好きなノエルが、いつまで経っても姿を表さない理由なんか。ひとつしか。
「ねえ、答えて!!」
答えを認めたくないかのように。アニが、揺れる瞳から大粒の涙を流し始めた。それを拭ってあげることは、できない。
いつまで、そうしていたのだろう。砂を擦るような音がしてきて、縫い止めていた視界を動かす。
近づいて来ていたのは、さっきまでアニと一緒にいた男性だった。片足を不自由そうに動かしながら、何かを抱えている。
「アニ。それはもしかして……この子の、ことか?」
「ノエル!!」
そこには、飛行艇に遺してきた、ノエルの亡骸があった。「ノエル、さん?」どよめきの中を、ライナーが真っ先に駆け寄ってくる。男から受け渡された体を抱え直し、ライナーは何かを確かめるように額を合わせた。
その夥しい血の量と、投げ出されている腕の形。証拠には充分過ぎるくらいのそれに、アニが地面へ膝をついた。
「やっぱり…殺せばよかった」
ぽつり、とアニがか細い声を出す。
「私が、殺してやればよかった……!!」
もう一度。アニは嗚咽混じりの悲鳴をあげて、それきり、何も言わなくなった。
――やっぱり。後悔しない日なんて、ないよ。
僕が選択を間違えたから、こうなってしまったのか。それとも、全ては最初から決まっていたことなのか。わからない。けれど、間違いないのは。
ライナーも、アニも。もう二度と、君に会えないこと。君がいなくなった世界で、生きていかなくちゃならないことだ。