第1話 ひとりの悪魔
あれは、確か――解散式が間近に迫った厩舎だった。
三年間で日課になってしまった愛馬の世話をしていたら、ライナーが様子を見に来てくれた。世話を終えてからも、たわいもない雑談をして。ライナーと身を寄せ合い、卒兵を惜しんでいた時だ。
「ねえ、ライナーは?」
あたしが振り返った先で、ライナーの唇がなにか言おうとして、手のひらに塞がれた。節張った指が顔面を掴むようにして被さっている。その隙間から見える顔色は、凍えたように青白く変貌していた。
「ライナー?」
様子のおかしいライナーを、あたしは心配になって覗き込んだ。触れた肩が振動を拾って、ライナーの頬を汗がつたい落ちていた。まだ底冷えする春先には似つかわしくないそれが、心苦しさを助長するように、たらりと垂れていく。
「俺、は……今。なに、を……」
ライナーがぶつぶつと言っている中で、唯一聞き取れたのはそれくらいだった。つい頼ってしまいたくなる大きな背が曲がって、荒々しい息切れさえしてくる。
怯えるように縮こまってしまったライナーへ、あたしは狼狽するしかなかった。名前を呼んでも、良くなるどころか。悪化するばかりで。
それがやっと元通りになったのは、少ししてからだった。
「ライナー……?」
「……ああ。もう、大丈夫だ」
丸めていた背筋を正すなり、ライナーが手のひらを伸ばしてきた。大きくて大好きな手が、不安がるあたしを撫でてくれた。ライナーはみんなの兄貴分である反面、背負い込みすぎてしまうきらいがある。
また一人で溜めているんじゃないだろうか、と。明らかにおかしかったライナーを放っておけず、腕のあいだから窺い見ようとして。聞き分けの悪い子供を諌めるような。普段の大らかな笑みは、存在しなかった。
「あ」
あったのは、何の感情ものせていない口元。別人のような、冷え切った眼差しだった。
「はぁッ……」
深く吐き出して、飛び起きる。耳元で激しく波打っていたのは、生きるための脈動。冷えた空気が肺を膨らませ、全身を巡っていく。
瞼を開いた先には、濁りひとつない空が広がっていた。天国にいるのかと勘違いしてしまいそうなほど、不気味なくらいの、真っ青な晴天。
「ここ、は……」
頬を撫で去っていくのは、生温い風圧。なんだか――すごく、長い夢を見ていたみたいだ。額にまとわりついているのは、悪夢ともまた違う、朧げな感覚。いやに重く気怠い眼で、ゆっくりと瞬きをする。「ノエル」ぼやけた景色を馴染ませていたところで、意識の外から話しかけられた。
「……アルミン?」
「目が覚めたんだね」
丸くて大きい瞳が、弱々しく笑みをつくる。鮮明に映ったその姿は、こちらを覗き込むようにして屈んでいた。目を擦って、背後にいる人影も輪郭を取り戻していく。
「みんな、も」
いたのは、何ら変わりのない同期の面々だった。ミカサがそよ風に揺れるマフラーを抑えたまま、様子を伺ってきている。隣には腕を組んでいるコニーがいて、並ぶクリスタは艶やかな髪を靡かせていた。
いつもと違うのは、ジャンやサシャがいないこと。それと、みんなが一様にして濁った表情を浮かべているくらいだろうか。
「……うん。君で、最後なんだ」
妙なざわつきへ小首を傾げると、アルミンが小さく頷き返してくれた。なんでだろう。何気ない日常の動作が、違和感が拭えない腹の底を掬ってくる。出所を何気なく摩ろうとして、中途半端に手を止める。胸の辺りまで持ち上げた腕には、真っ白い包帯が巻かれていた。明らかに新品で、見覚えのないそれをアルミンに聞こうとして。
「君は……どこまで覚えてる?」
待ち望んでいたように、問うてきた。大きな青い瞳を伏せているアルミンに、ドクンと心臓が跳ねる。冷ややかな水でも浴びせられたみたく、体の温度が下がっていく。
「あ、たし……」
滲んでいく、気持ち悪いのざわつき。意思と関係なく広がっていくそれが、刺すような頭痛さえも拾ってくる。「あたしは……」無意味に手を這わせ、前髪を握りしめる。奥歯を噛み締めたまま、それを発散しようと、「あたしは……えっと」混濁した意識を辿ろうとしてみた。
「何、してたんだっけ……?」
そこまでやっても、答えは出なかった。
記憶が飛んでいるわけじゃない。わかってる。ウドガルド城での惨劇も、ユミルが巨人だったのも知ってる。ミカサたちが助けに来てくれて、問題はそこからだった。あまり、覚えていないんだ。壁上までリフトで登って。ライナーに、腕だ。腕を掴まれた。それ以降が、あまり。
先を探ろうとするも、脳みそがズキズキと痛んで先へ進ませてくれない。何らかの異常をきたしているみたいな汗が背筋を流れていくし、丸一日訓練したあとみたいだ。アニやライナーたちと軽口を叩いていたら、すぐに治っていたけれど。
そこまで考えて、今まで受け入れていた居心地の悪さに気がついた。
「ライナーと、ベルトルトは。どこに?」
つい、さっきまでいたはずなのに。鈍い首の動きで左右を見渡しても、直前まで一緒にいた二人が、どこにもいなかった。あたしが寝こけていたら、真っ先に起こしてくれそうなものだけど、どこかへ行っているんだろうか。
周囲を一通り眺めて視線を戻す。みんなの顔つきは、影が差したように暗くなっていた。
「ノエル。落ち着いて……聞いて欲しい」
変なことでも言ってしまったか、と自分の発言を省みようとして。アルミンが改まったように語りかけてきた。真に迫ったような勢いに押され、少しだけ退いてしまう。ごくりと唾を飲むような間を空けてから、アルミンは続けた。
「――ライナーとベルトルト。二人は、巨人だったんだ」
時が、止まる。不気味なほどの静寂の中で、目を見開いた。稲妻が走るように脳裏を駆け巡ったのは、あの信じられない光景。不穏な始まりを告げた雨。降り始めそうな時には、手遅れだった。鮮血が視界を覆って、手を伸ばしたのに、誰も応えてくれなくて。
腕に巻かれていた包帯へ指を這わせる。小さく呟かれた静止も無視して剥がしてみれば。
「ぅ、あ」
晒されたのは、僅かに変色した肌色。大好きな手のひらを形どった跡が、刻まれていた。
「あ、ぁ……」
届かなかったそれに、震撼する手を重ねた。残った跡をなぞる。真実を突きつけられてもなお、理解できない愚鈍な人間に成れればよかった。たまたまだ。都合よく馬鹿になって、信じたくないと喚けたなら。
できないのは、あの劈くような光。雷鳴が、瞳に焼きついて離れないからだ。
「ノエル」
怠慢な動きで顔をもたげれば、澄んだ黒曜のような瞳と交わった。あの子を思わせるような整った顔立ちは、あたしが避けてきたもの。息を詰まらせるあたしにも構わず、ミカサが鼻を近づけてきた。
「貴方は、何か知らないの?あの二人。エレンの行き先を」
「ミカサ」
アルミンが咎めるように呼びかけるけれど、ミカサは離れなかった。むしろ、より眼光を窄ませて、答えを待っている。
「い、行き先?エレン、の……?」
ひとつだって引っかからない単語。求められているものは咄嗟に浮かばず、あたしは動揺をそのまま言葉にのせた。助けを求めるようにみんなへ視線を彷徨わせて、答えてくれたのは、アルミンだった。
「エレンは、二人に連れ去られたんだ。ユミルも一緒に……」
だから、か。
アルミンの一言が、すとんと腑に落ちてくる。思い出した記憶の断片には、エレンが赤い手に掴まれる瞬間があった。あたしが寝坊したら真っ先に揶揄ってきそうなユミルも、ここにはいない。段々と辻褄が合い始め、認めたくない現実が浮き彫りになっていく。
混乱が生んだ幻覚でなければ、あたしにもその手が向けられていたはず。
それが、どうして今。ここにいられるのだろう。
「そう、エレンが連れ去られた。だから、取り戻さなければならない」
疑問を口に出そうとして、肩へのってきた重みが遮った。眼前まで近づいてきたミカサは、自分へ言い聞かせるように呟き、決意の籠った瞳であたしを貫いてくる。
「貴方は、あの二人と仲が良かった。何か、なんでもいい。手がかりは、ない?」
ミカサに詰め寄られても、乾き切った唇を開閉するくらいしかできなかった。二人と仲が良かったって、いつもなら喜んでいるはずのそれが、まるで身に入らない。手がかりなんか、以ての外だった。
目を白黒させるばかりのあたしに、「……ほんの、些細なことでもいいんだ」と、アルミンがつけ加える。
「ライナーたちがよく言っていたこと。場所、とか」
そこまで言われて、あたしは滑稽な動きを止めた。目の奥を傷ませてくる熱を堪え、溜まった唾を呑み込んで。
「故郷」
ぽつり、と。ようやく意味のある言葉を吐き出した。
「みんな……故郷へ帰るために、兵士になったんだって。言ってた」
どうして兵士になったのか、と聞いたら、ライナーは決まり文句みたいにこう言っていた。当時のあたしは、そこまでして帰りたい居場所があることを羨んで。もしかしたら、なんて。邪な思いさえ抱いていた。
「故郷……?それは、どこの」
「わからない」
いち早く反応したアルミンに、首を振る。ミカサの落胆が手を取るように伝わってきているというのに。あたしは、謝れなかった。
「わからないの……アルミン」
大人しくしていたはずの痛みが、思い出したかのように蘇ってくる。こめかみに軽く握った拳を預け、崩れそうなのを耐えた。
そう。みんなには、帰りたい故郷があった。兵士として、命を擲ってでも帰りたい場所が。あたしは、その場所すら知らないで。みんなの何を、分かった気になっていたんだろう。
「あたしには、何も……」
一緒に帰れたらいいな、なんて。相応しくない希望を抱いていたんだろう。
「どうして……?」
答えられることのない問いを、腿に溶かした。無駄な呼吸しかできない肺を潰すように、背骨を曲げる。ざらりとした地面を指で引っ掻いて、行き場のない衝動を擦り付けた。
あたしが厩舎でしていたみたいに「ノエル」と、誰かの声がしてくるけれど、構わなかった。全てぶち撒けてしまいそうな嗚咽を殺して、噛み砕いて。逆流しそうな胃に詰め込む。
弱くて、何もできないあたしは、そこまでしてやっと。顔をあげられた。
「あたし、聞かなきゃ」
仰いだ手のひらは、ところどころ皮膚がめくれて、赤くなっていた。ピリ、とそこから裂けてしまいそうな痛みも纏めて、硬く。いっそ折れてしまいそうなほど、強く。握り締める。
「ライナーに、ベルトルトに」
届くことのない名前を口にして、あたしはみんなを見返した。並んでいたらすぐに見つけられるはずのベルトルトも、溌剌と笑いかけてくれるはずのライナーも、透き通るような碧色も。この場所には、何ひとつ存在しない。
二度と味わいたくなかった、味わうはずのなかった感覚。あの時の違うのは、取り戻せるかもしれないことだ。ミカサの言っていた通り、エレンだけじゃなくて。あたしが知っている二人を。
「じゃないと、あたしは……」
もしも。あたしに居場所をくれた二人が、このまま、いなくなってしまうんだとしたら。想像さえできない未来に恐ろしくなって、唇を噛む。あたしは、襲ってくる震えを断ち切るように、腰を上げた。急に立ち上がってせいでよろけたけれど、どうにか一人で持ち直す。
ここにライナーがいたら、すぐ支えてくれただろう。危ないだろ、と眉を顰めて、叱ってくれるはずなのに。
あたしは耳元の囁きを無視するように、畳まれていた新緑の外套を広げた。破れどころか、ほつれひとつないそれで体を包み、調査兵団の一員へと戻る。
アルミンから軽く事情を共有してもらい、馬を運ぶリフトが到着したのは、その後間もなくのことだった。
「ヘタクソ。お前、本当に行けんのか」
エルヴィン団長も到着して、出発前の最終点検も終えたあたしたちは、順々にリフトへ乗っていく。
あと半分で地面に到着する、というところで。同乗していたジャンが、そう確かめてきた。
「うん。ここまできたら、引き返せないし」
まだ足をつけてはいないが、あたしたちは壁外領域に入っている。今更逃げ出そうとしたって無駄だ。戒めるように、馬の手綱を引く。
まだ何か言いたげにしているジャンから目を逸らして、目的地を見据えた。ライナーたちがいなくなったのは、五時間前。残されたのは大地を踏み鳴らした跡と、ハンジ分隊長の憶測だけ。丘を越えた、遠く向こうの方にあると言われた巨大樹の森。
そこまで辿り着けば、また会える。話ができる。
「待ってて……」
あたしは、聞くんだ。
なんで、黙っていたのか。ずっと、どんな想いでいたのか。あたしとの日々は、どこまでが偽りで、どこまでが本当なのか。どうして、あたしを置いていったのか。
あの日。厩舎で、何を言おうとしていたのか。
考えていると、浮き上がるような、慣れない重力が全身を包んだ。馬を引いてリフトを降りたら、鐙に足をかけ、背中に跨がる。愛馬とは違う座高の高さに戸惑うが、気にしている場合じゃない。
全員が揃うと、団長の号令で進行が始まった。巨人の領域を駆け抜けて、怯むことなく目的地へと向かっていく。前の壁外調査とは、大して日も経っていないはずなのに、どうにも息がしやすかった。不穏な突風を掻き分け、地響きを鳴らして、最大走力で馬を走らせる。
向かうのは、かけがえのない二人の元へ。丘を越え、煙弾が打ち上がっても、前を見据えて進み続けた。
ノエルとライナーにとっての選択は、あの約束でした。といってもイフのイフという体でよろしくお願いします。
ハーメルンでの掲載について、活動報告もあげました(明るいお知らせではないので注意)