むず痒くなった鼻を擦り、上擦った息を整える。深く吸い込むとくしゃみがしたくなるような埃臭さと、文字通り山のように積まれた書類。初めて入った時は物置かと勘違いしたが、とうの昔に見慣れちまった。
そんな部屋の主は、中央に鎮座した机の上で肘をついていた。手にしている黄ばんだ紙は、今日行った実験の報告書らしい。
「このままいけば、来月には作戦を実行できそうだ」
「来月……」
告げられた言葉に、ごくりと唾を飲む。力の籠った手は、無意識のうちに首元へ向かっていた。服の上からでも分かる形を、指先でなぞる。
ようやくだ。オレたちが全てを奪われたあの日から、ようやくここまで辿り着いた。それでも、素直に喜んでいられねぇのは。
ギチリ、と噛み締めた奥歯が鳴る。蘇ってきた光景に、触れていた鍵ごと強く手を握った。空気を劈くような雷鳴は、まだ鼓膜に焼きついている。故郷の空を遮る影は、いつの日かの面影。
「まあそれも、硬質化の実験がこのまま順調にいけば、の話だけど……明日も引き続き頼むよ、エレン」
「はい」
脳裏に過った幻影を断ち切り、ハンジさんに頷き返す。そうだ。オレはこんなところでぬか喜びしている場合じゃねぇ。もっと硬質化の精度を上げて、無意識でも穴を塞げるようにならねぇと——奴等が、来ちまう前に。
自戒するつもりで語りかけて、手を下ろしたところだった。扉をノックする音が、意識の外から入ってくる。「いいよ、入って」ハンジさんの返事に答えるようにして入ってきたのは、よく見慣れた顔だった。
「ノエル?」
「エレン」
控えめに押された扉の向こうと、目が合う。まさか、オレがいるとは思っていなかったんだろう。丸く縮んだ瞳は、驚いたように何度も瞬きをしていた。
「訓練は終わったのか?」
「うん。みんな食堂で夕飯食べてるよ」
「エレンも行ったら?ミカサが心配してた」笑いかけてくるノエルの表情に、いつの日か見たような影はない。ヘラリ、と能天気なそれにこっちの気まで抜けてくる。
「じゃあ、お前はどうしたんだ?」
「あ。あたしは……」
安堵しつつも聞き返すと、ノエルの口元が凍りついた。何かを誤魔化すようにせわしなく目線を動かしたあと、「その、ハンジ分隊長にこれを提出しようと」極めて言い辛そうに手にしている紙を仰いだ。
「始末書じゃないか。何やらかしたの?」
小さく肩を跳ねさせたノエルが、前とはまた別の影を落とした。分かりやすくさっと青ざめた顔が、親に怒られる前の子供みてぇに地面へ向いている。唾を呑むような間を開け、ノエルはゆっくりと口を開いた。
「訓練でアンカーを、駄目にしてしまって……」
「アンカーを?」
前のめりで聞き返したハンジさんに、ノエルの目が泳いだ。ついでに顔も引き攣っている。ノエルは口元が何かを堪えるみたく唇を噛んで、苦々しくつぶやいた。
「……槍の練習中に、油断して……木の枝に、絡まりまして。それで」
「へぇ!宙ぶらりんになったの!?ミノムシみたいに!?」
「はい……」
がっくりと項垂れるノエルに、いつの日かの記憶が呼び起こされる。確か、立体機動の自主練に付き合ってやった時も危なっかしいことが何度かあった。いつかやらかすんじゃねぇかと心配だったが、ついに現実になっちまったらしい。
今にも死にそうな顔つきをしているノエルに、「あははっ」場違いなくらいの明るい笑い声がした。
「そんなこと初めて聞いたよ!というか、絡まる方が難しいよね?エレン」
「おっしゃる、通りです……」
「は。ハンジさん、そこまでにしてやってください」
どこがツボにハマったのか。無自覚の追撃に、ノエルがどんどん萎んでいく。血の気を失った顔色も相まって、このまま床に崩れ落ちそうだ。すかさず助け舟を出してやるも、「え?ああ、ごめんごめん」追い詰めた本人は何も分かっていなさそうに頭を掻いていた。
「これは受け取っておくよ」
「本当に、申し訳ありません。貴重な備品を……今後は気を引き締めて訓練に励みます」
「いいよ。気にしなくて」
アイツらにも散々揶揄われたのか、今回のことでノエルは相当堪えたらしい。鎮痛な面持ちのまま詫びた背に、ハンジさんはひらひらと手に持った始末書を振った。
傷口に塩を塗り込まれたノエルには気の毒だが、訓練兵でなかっただけマシだろう。もし、相手がシャーディス教官だったら。文字通り、死ぬまで訓練地を走らされていたに違いない。青っ白いままのノエルを励ましてやろうとして、ハンジさんがケロリと言った。
「私だって、兵舎を爆破したことあるし」
「……ば、爆破?」
突拍子もない単語に、一拍遅れで反応する。口の中で噛み砕いても、意味がわからない。オレたちが目を白黒させているうち、「いやさ」ハンジさんは一人でに話し出した。
「巨人の頸を一体ずつ削ぐのは危険だし、ぶっちゃけ非効率だろ?」
確かに非効率ではあるんだろうが。問いかけるハンジさんに、首を振る奴はいない。それでも構わないとばかりに、弾む声が途切れることはなかった。
「だからまとめて、爆破するか……遠距離から頸だけ爆破できたらいいんじゃないかと思ってね。作ったんだ」
「……爆弾を?」
「うん。そしたらちょっとやらかしちゃってさ」
「いやぁ、あの時は参ったよ」、軽く頭を抱えてみせるハンジさんは、ただの失敗談でも喋っているかのように笑っている。参った、で片付けていいもんじゃねぇ気しかしねぇが、とってつけたような困り顔は崩れない。
「実を言うと。雷槍を思いついたのも、それがあったからなんだ」
上擦っていた声が一段と大人しくなる。わかりやすく曲げていた眉をやめ、ハンジさんは自嘲するように小さく笑ってみせた。
「まあ、その時は威力が足りないし、巨人と自爆するくらいしかやりようがないしで実現できなかったんだけど……結果的にこうして実用化したわけだ」
机の上でゆっくりと手を組んだハンジさんが、別人のように冴えた目でオレたちを見つめ返してくる。その気迫に押され、ごくり、と喉を上下した。
「これまで私たちがやってきたことに、無駄な事なんか何ひとつない」
歴然とした態度で言い切ったハンジさんは、息をつく間もなく続ける。
「君のミノムシもそうだ。きっといずれ、何かに繋がる」
——そうか?
反射的に出かかった言葉を、喉元で抑える。実験の失敗とかならまだしも、あの宙ぶらりん状態が巨人どもに通用するとは思えない。むしろ、格好の餌ってやつじゃねぇのか。オレが首を捻る隣で、「ハンジ分隊長……」ノエルは感嘆の息を漏らしている。さっきの。今にも胃が捻じ切れそうだ、と言わんばかりの横顔よりかいいが、一緒になって頷く気はしない。何故か居心地の悪くなった空間で、どう話し出すべきか悩んでいれば、再びノック音が響いた。
「おお、モブリット!どうしたの?」
「もうすぐ夕飯なので、呼びに来ました」
ドアから覗いたのは、よく見慣れた顔だった。ハンジさんの補佐役兼世話係としていつも奮闘しているモブリットさんだ。今日の実験のあと別れったきりだったが、どうやら戻ってきていたらしい。
「もうそんな時間か……よし!私たちも食べに行こう」
徐に立ち上がったハンジさんを追って、オレたちは部屋を出た。廊下に並んだ松明をたどって、食堂へ進んでいく。壁に取り付けられた窓は、とっくに夜一色だ。あいつらも、食事を終えている頃だろう。
実験の帰りが遅くなっちまった日。真夜中の食堂で座り込んでいるミカサと、船を漕いでいるアルミンとに迎えられたことがある。懲りずにまた馬鹿なことなきゃいいんだが。
「モブリットさんは、夕飯食べますか?」
「いや。もう、済ませたよ」
「そうですか……」
隣を歩いていたノエルが声をあげた。モブリットさんの返事を聞くなり、わかりやすく残念がっている。確か、負傷したノエルを手当てしたのはモブリットさんだったか。妙な落胆ぶりに、頭の中で合点がいく。
「ノエル。モブリットと食べたかったの?」
「え!あ、あたしは」
「モブリット。君も慕われるようになったじゃないか」
「分隊長、やめてください」
ハンジさんが嫌な笑い方をしたまま、モブリットさんの肩に絡む。無遠慮に叩かれている背中を眺めていれば、「そういえば」ハンジさんと目が合った。
いやに輝いている瞳は、実験中に何度も見てきたのと同じもの。その後は大抵、リヴァイ兵長に絞られるのがオチだった。つまりは。すげぇ、嫌な予感がする。
「月光の巨人について新たな仮説を立ててみたんだけど……聞きたい?」
オレの第六感は、一秒と経たずに当たった。「私は、資料の整理があるのでこれで……」モブリットさんも察したのだろう。そそくさと去っていってしまい、オレとノエルだけが残される。
まずい。このままだと。
「じゃあ、エレンとノエルは?」
「ぜひ、お聞きしたいです!」
「エレンは?」口を挟む間もなく、ノエルがオレを見た。揺れ動く瞳は、明らかに期待の色が覗いている。気は進まねぇが、これからどうなるかはわかりきっている。「オレは……」言い訳を探ろうとして、遅かった。
「本当!?じゃあ、まずはこの仮説を説明するにあたって巨人についておさらいからいこうか」
「はい!」
「はい……」
目の前の景色が遠く見えんのは、実験の疲れか。また別の要因なのか。前のめりで返事をするノエルに続き、歯切れの悪い返事をする。全てが予想通りになったのは、まばらになった食堂へと席をついたあとだった。
「まずは、巨人たちについておさらいしていこうか」
「はい!」
前回と同じことを語り出したハンジさんに、ノエルが調子良く相槌をうっていたのは覚えている。訓練兵一年目の春に習うことを喋り終える頃には食堂が空になり、オレが意識を保てたのは夏までだ。
「ハンジさん、質問いいですか?」
「うん、なんでもどうぞ」
「ハンジさんは……」
だから。
「ハンジさんは——あたしに、二人を殺せると思いますか」
あの時のノエルが、そんなことを言っていたなんて。オレは、知りもしなかった。
「エレン、起きて」
微睡の中で、意識が浮上する。「朝だよ」語りかけてきた声に、体がようやく動き出した。机の上で突っ伏していたからか、節々が痛みを上げる。くあ、と漏れ出た欠伸を噛み殺しながら顔を向けて。いつもと違う色がオレを見下ろしていた。
「あれ……ノエル?ハンジさんは」
「話してる途中に新しい仮説が思いついたんだって。飛び出して行っちゃった」
「そ、そうか……」
見回しながら問いかけると、ノエルはそう苦笑してみせた。早朝からほぼ休憩なしで行った実験のあと、一晩語り尽くした上でまだ動けるのは、ハンジさんぐれぇだろう。本当に、いつ寝てんのか謎だ。
「と言うかお前……よく朝まで耐えられ」
感心を口にしようとして、倒れ込んできた頭が肩へぶつかった。すう、すう、と聞こえてくる寝息に、一抹の不安は霧散する。どうやらノエルにも限界が来たらしい。
「ノエル」
起こしてやるのには忍びなくなるほどの寝顔に、続けて乗せようとした言葉は喉奥で留めた。窓から差し込む光は仄白いままで、朝日が登る予兆もない。
オレも、もう一眠りしておくか。腕を組み直し、未纏わりついていた眠気に導かれて瞼を下ろす。
それから数分後。やってきたミカサに二人して躊躇なく叩き起こされることになると。その時は、まだ知らなかった。
「ノエル。エレンと何をしていたの」
「え、えーっと……その」
「何度言ったらわかんだよ。居眠りしちまっただけだって言ってんだろ」
「そ、そうだよ、ミカサ!それ以外のことは何も!何もないから!」
「エレンと居眠りしたこと、以外?」
「あっ……」