島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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第15話 夢追人

 

 彼女と出会ったのは、数年前。ただ純粋に夢を語っていられた訓練兵の頃だ。

 入団して間もない夕食時だった。まだ立体機動装置で飛ぶことすらしていなかったが、周囲は兵士になったと言って浮き足立っていた。その同期たちが、まるで幾多の修羅場をくぐり抜けてきた猛者のように、将来の夢を語り始めたのも自然なことだった。

 夕食時の軽い余興は皆を巡り、やがて私の番になった。そうして話し出した私もまた、浮かれている者の一人だったのだろう。

 

「さっきの話、詳しく聞かせてよ」

 

 数刻前よりも閑散とした食堂。冷えたスープを掬っていた私の前に、彼女は現れた。白けた様子で去っていった同期たちとは真逆の、爛々とした光を瞳に宿して。

 

「だから、人類の記憶が改竄されている——って?」

「ああ、そうだ」

 

 「へぇ……」頬杖をつき直した彼女は、あからさまに好奇心を削がれたらしかった。今日だけで幾度となく見てきた反応を、いちいち気に留めている暇はない。他の用でもあるのかと問う前に、彼女の方から視線を合わせてきた。

 

「結構面白かった。作り話にしては」

「作り話ではない。これは可能性の話だ。実際、王政が配布した歴史書の記述はどれも――」

「でも」

 

 あまりにも軽率な切り捨てに反論しようとして、またも遮られる。中途半端な言葉の余韻を飲み込んでいれば、「まあ。そうやって妄想してる方がマシかもね」と、彼女は続けた。

 

「ただ、何も考えずに壁の中で生きてるより……ずっと」

 

 内地で快適に暮らしたい。先ほどまで隣にいた同期たちは、口々にそう話していた。特段可笑しなことではない。脅威から逃れようとするのは、生き物としての本能だ。それだけに、彼女の呟きは特異だった。息を潜めていた己の好奇心を疼かせるほどに。

 

「君は、壁の外に出たいのか」

「なに。異端だって、笑う?」

 

 彼女も理解しているのか。もしくは、嘲笑の的にされてきたのか。私が聞き返すと、彼女はあからさまに警戒してみせた。鋭く細められた瞼が、じっくりとこちらを吟味するように動く。

 

「いや。特に、何も言うつもりはないが」

「そう……つまんないね、あなた。えっと、なんだっけ」

 

 本心を吐露すれば、彼女は拍子抜けしたようにため息を落とした。指先で頭をつつき、記憶を掘り返そうとしている姿に、一言付け加える。

 

「エルヴィン・スミスだ」

「あ、そうそう。エルヴィン」

 

 手を止めた彼女は、今思い出したとでもいうように目を瞬かせた。同時に、夕飯の終わりを告げる鐘が鳴る。その音に追い立てられ、同期たちが席を立ち、食堂の外へ捌けていく。後に続こうと立ち上がった私の前で、彼女は緩慢に伸びをしてみせた。

 

「じゃ、訓練の時はまたよろしく。脱落しないためにも」

 

 去り際に、彼女はひらりと手を振った。細まった瞳が私を見上げ、不敵な笑みを浮かべる。

 

「お互いの、夢のためにも、ね」

 

 類は友を呼ぶ。このような迷信めいた言葉が、あながち間違いではないと。私は、この時に気づいていたのだろう。

 

 

「心臓を捧げよ!!」

「はッ!」

 

 それから時は経ち、私は新兵として壇上を見上げていた。

 掲げられた拳に、纏りのない声が応える。知らぬ間に代替わりしていたらしい。新しい顔ぶれの調査兵団団長が解散を告げ、残ったのは数名の同期だけだった。

 

「調査兵団にしたんだ。まあ、あれだけ言ってたし。あんまり驚きはないけど」

「ああ、同意見だ」

 

 訓練兵団を卒兵することは容易ではない。数多くの仲間たちが脱落し、時には死んでゆく。そんな苦労を乗り越えた果てで、調査兵団を選ぶのはごく少数。だが、ここ数年の振る舞いを無くしても、初対面から確信していたのだろう。彼女が残っていたのは、そう驚くべきことではなかった。

 

「じゃ、夢半ばで死なないようにね」

「お互いに、な」

 

 そう軽口を叩けば、彼女は目を丸くした。可笑しなことを言ったつもりはないが、彼女はそう捉えなかったらしい。

 

「エルヴィンって、そういうこと言うんだ。七三なのに」

「それは、関係あるのか?」

「……まあ、別に何でもいいけど」

 

 欠伸をした彼女は、退屈そうに目尻の滴を拭った。潮時と判断したのか。彼女はそのまま背を翻して、離れてゆく。数少ない同期たちも動き出し、兵舎へと戻るようだった。この場に残る理由もない。後を追うように歩き出すと、地面には先を進む同期たちの影が伸びていた。松明の灯りに照らされたそれらは、闇夜との曖昧な境界線をゆらゆらと行き来している。

 数年後には、視界に映っている者の殆どが姿を消すだろう。見慣れた顔ばかりだと知っていながら、怯えも恐怖もあまりなかった。

 それは、単に現実感を欠いていただけだったのか。仲間を弔うよりも、優先すべきことがあったからなのか。今となっては分からないままだが。

 

「生き残ってたんだ」

 

 初の壁外調査から帰還した時の空は、よく覚えている。網膜に焼きついた赤を、煮詰めたような夕暮れ。腐りきった死骸のような、鉄のような血生臭さ。行きよりもまばらになった列が、今にも溶け消えそうな影を引き連れていた。騒々しいの囲いから抜け出し、辺りを重苦しい静けさが包んだ。カラカラと回る車輪の音を頼りに進んでいると、彼女が隣に並んできた。

 

「その腕は?」

「動かせないが……大事には至っていない」

 

 彼女の視線を辿り、首から吊られた腕を見下ろす。寸分も動かせないが、痛みはなかった。肘から先を亡くすことがあれば、似た感覚になるだろうか。漠然とした感想を抱き、薄汚れた包帯から目をあげる。

 

「他の新兵はどうなった」

「半分、以下だってさ。私のとこは班長も食われた」

 

 彼女は肩をすくめ、躊躇いなく答える。半ば投げやりのような言い方は、今目の前にある現状から逃避しているようでもあった。

 

「エルヴィンのとこは?いたでしょ、ほら。敬礼の仕方でケチつけてくる真面目くんが」

「彼は……巨人に喰われた」

「……そう」

 

 普段から飄々としている彼女にしては、酷く重い相槌だった。僅かな沈黙の間を、馬の足音が埋める。掠れた息遣い、痛みに喘ぐ声。彼女は、それらへ被せるように語りかけてきた。

 

「私のとこの班長。奥さんの惚気がしつこくてさ。帰る場所があるのは素晴らしいんだー、とか。うるさかったから……せいせいした」

 

 言葉の割に、その顔色は変わらなかった。彼女は薄ら笑いを浮かべたまま、地面から少し顔を上げる。

 

「壁外調査のあとは、必ず本部まで出迎えに来てくれるんだって言ってたけど……今日も、来てるのかな」

「どうだろうな」

「……忘れてるといいね」

 

 それきり、彼女は口を閉じた。重苦しい沈黙だけが残り、騒々しさが蘇ってくる。視線を落とせば、足元を覆う影は一層暗く、空の色と溶け合うように赤黒く染まっていた。

 

 

 戦場を共にする仲間ならば、朝食くらいは共にすべきだ。そう言ったのは、人一倍使命感に燃えていた彼だったか。

 時が経ち。また一人。また一人と同期達が姿を消していく中、その習慣だけは残っていた。

 

「なんか、少なくなった?」

 

 昨日よりも一人分広くなった長机を一瞥して、彼女はそう溢した。

 

「命あるうちに移籍、懸命な判断だろう」

「ミケに嗅がれるのが嫌になったんでしょ」

「フッ」

 

 寝癖のついた髪を掻きあげ、彼女が向かいの席へ腰を下ろす。寡黙な口を開いたミケに、彼女は寝ぼけ眼を細めて言い返した。

 調査兵になって一年。立場も、周囲も目まぐるしく変化した中で、この二人の仲は、訓練兵時代から変わらずだ。立体機動術の成績を競い合った間柄であることを差し引いても、彼女はミケの癖がどうにも看過できないらしい。

 

「エルヴィンは辞めないの?」

 

 彼女が不貞腐れたようにパンを食べ始め、私の器が殻になった頃だ。彼女は片手間に食事をとったまま、私へと喋りかけてきた。

 

「お前こそ、辞めるのか」

 

 言いながら、一ヶ月前までは埋まっていた席を見やる。調査兵が減っていく理由は殉職だけではない。次の壁外調査の日程が発表されると、あの光景が現実味を帯びるのだろう。次の日の食堂がやや閑散とするのは、よくあることだった。

 

「いや?」

 

 私が問い返せば、彼女は小さく首を傾げた。考えたこともなかった、というような反応に、どこか息が緩む。「まあ……確かに。いっぱい死ぬし、私もいつ死ぬかわからないけどさ」パンを咀嚼し終えてから、彼女は頬杖をついた。

 

「だけど……だからかな。思わない?」

 

 何かを考えるように目を落とし、持ち上げる。

 

「生きてる、って」

 

 

 似た者同士だと、自覚したのはいつだろうか。調査兵団の、同じ志を持つ仲間としてではない。私たちの間にあったのは、もっと別の。歪な繋がりだった。

 

「妊娠した」

 

 数日ぶりに現れた彼女は、開口一番にそう告げた。先ほど団長に却下された戦略の提案書類が、一枚腕を抜け落ちる。それが、左右に揺れてから廊下の床に着々するまで、私は何も言わなかった。

 彼女が何かを言い出すのは、いつも唐突だ。数年の付き合いで慣れていたつもりだったが、この時ばかりは言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

 

「……相手がいたのか」

 

 立ち話は身重に酷だろう。場所を変え、私たちは空室だった応接間の机を挟んで向かい合っていた。腰がソファへ沈むより先に問いかけると、彼女は罰の悪そうに表情を歪めた。

 

「エルヴィンも知ってるよ。ほら、立体機動術がヘタクソで、足をダメにして脱落した」

 

 脳裏に、一人の人物の姿が浮かび上がる。言葉を交わしたことも、特出した噂を耳にしたこともない。だが、思い返せばそうだ。訓練兵団内で孤立していた彼女が誰かといる時は、いつも彼の姿があった。

 

「あれ、幼馴染。ついてくるなって、言ってたのに……本物のバカだよ。いや、アホ?ドベかも」

 

 彼女は悪態を吐いて、私の記憶に浮かんだ人当たりの良さそうな笑顔をなじる。散々な言いようだが、いつもの彼女のような刺々しさはない。むしろ、呆れながら笑っているような彼女の表情は、今までに見たことのない。新鮮なものだった。

 

「おめでとう」

「どうも……」

 

 人に媚を売るのだけが上手い、お人好しの駄目男。昔からそういうやつだった。なのに。なんで、私は。

 名も知らぬ彼の文句をひとしきり言い終えたあと。一足遅れて懐妊を祝うと、彼女は頭を抱えたまま返事をした。

 

「調査兵は続けるのか」

「わからない」

「……そうか」

 

 項垂れたまま、彼女は首を横に振った。その表情を窺い知ることはできなかったが、探るつもりもなかった。

 

「ね、エルヴィン」

 

 穏やかな昼下がりだ。応接間の豪勢な装飾を目でなぞり、陽気な鳥の鳴き声に耳を傾けていると、彼女が呼んだ。やっと聞き取れるような、か細い声だった。

 

「帰る場所があったら、壁内も……少しは良くなるのかな」

 

 翌日から、彼女の姿を朝食で見ることはなくなった。他の兵士たちと同じだ。誰が死のうと、消えようと、日々は変わらずに。残酷に過ぎてゆく。そんな時間の流れに身を任せていれば、彼女との再会はほど遠いことではなかった。

 

「まだ、生きてたんだ」

 

 分隊長として与えられた部屋。最初の訪問者は、彼女だった。相変わらずの無遠慮さで扉を開け放ち、棚が足りずに積まれている本を物色して回っている。彼女が二冊目の本をパラパラとめくり、興味なさげに閉じたところだった。再会の余韻もなく問いただそうとした私を、先読みしたように、彼女は言った。

 

「私、今週から復帰するから」

「体は平気なのか」

「前ほどじゃないけど、心配はいらない」

 

 出産から数ヶ月は経っているとは言え、体力面の衰えも考慮すれば、些か早計ではないか。真っ先に問いかけた私へ、彼女は間髪入れず答えた。

 

「家族がいる調査兵なんか沢山いるでしょ?私だけじゃない。大体、もう母親の役目なんて終わってるし……」

 

 彼女はそこで、声を途切らせた。昼時にしては沈んだ空気が、あたりを包んでいた。

 

「私は、まだ夢が見たい」

 

 じっと黙り込んでから、彼女は何かへ怯えるように腕を取った。覇気のない瞳が、私を見上げてくる。

 

「見ていたいの」

 

 

 宣言通り、彼女はその日から調査兵団を復帰した。兵団内では驚く者も多かったが、人手不足の調査兵団からしてみれば、壁外へ出た経験のある兵士は貴重だ。彼女は次第に受け入れられ、壁外調査にも同行するようになった。

 

「お陰で生き残れたよ。もうずっとエルヴィンの班がいいな」

「だが、班員を二人失った。より多くの人数で、この陣形を組むことができれば……」

「シャーディス団長は頭硬いもんね」

 

 「そのうちハゲるよ。あれはさ」くだらない世間話で、壁外調査後の帰路を誤魔化す。彼女のやり方は、私としても有り難かったのだろう。雑談を挟みながら道を歩いていれば、兵舎がすぐそこまで見えてきていた。

 

「どうした」

 

 ようやく、少しは息をつけるだろう。そう、気を緩めた時だ。前を歩いていた彼女が、足を止めていた。視線の先は、兵舎の入り口。すぐそばには、誰かを待ち受けているような人影があった。

 

「まだ待ってるんだ。班長の奥さん」

「……ああ、もう三年になるな」

 

 何度説明しても認めないんだ、と弱ったように話していた分隊長もとうに殉職している。当時の班長と親しい人物もいなくなり、いつしか、触れないことが暗黙の了解となっていた。

 

「帰る場所、か」

 

 ぽつり、と溢された一言を、私は気にも留めなかった。

 結局は、私が勘違いしていたのだろう。夢を見ているのは、自分だけではないのかもしれない、と。言い逃れることで、この罪から少しでも逃れようとしていた。

 だが、違った。いや、最初から私の思い込みに過ぎなかった。だからこそ、彼女はあの選択をしたのだ。

 

 あれは、支援者との会談の帰りがけだった。馬車への支払いを終えて振り返ると、見慣れた姿が兵舎の入り口に座り込んでいた。体調でも崩したのか、と回りかけた脳を否定するように啜り泣く声がする。足音で察したのだろう。僅かに傾いた顔を目にして、私は胸ポケットから取り出していたものを差し出した。

 

「一度も使っていない。使うか?」

「なんで。わたしが結婚できて、あなたが結婚できないんだろうね」

「……さあ、なぜだろうな」

 

 惚けてみせれば、嗚咽の合間に微かな笑い声が混じった。渡したハンカチで顔を拭っている彼女を横目に、隣へと腰を下ろす。そうして、互いに無言のまま、どれほどの時が経ったのか。鼻を噛む音も、啜り泣く声もしなくなった頃に、彼女は喋り始めた。

 

「家に帰って。そしたら、娘が一人で留守番をしていて……」

 

 彼女が区切り、息を飲み込むような間を開けた。その光景を思い出したのか。潤み切った瞳は揺れ、雫が一筋の線となって、流れ落ちていた。

 

「誰?って、言われた」

 

 歪な作り笑いが、再び崩れる。その表情は、泣き方を知らぬ子供のようだった。

 

「ずっと、無視してきたのは私なのに。それだけでこんなになっちゃったなんて……笑う?」

「……いいや」

 

 相槌をうつと、彼女は口元を緩めた。濡れた目尻から、溢れるものはない。

 

「私……次の壁外調査で、兵団をやめる」

 

 彼女は、小さく笑った。呆れたように眉を下げ、自嘲するように。「手土産なしってわけには、いかないからさ」いつもの毒気などは微塵も感じられない。純粋な笑顔に、たまらず息を呑む。

 私には、目の前にいる女性が。まるで知らない他人のように見えていた。

 

「最後に。成果を持ち帰りたい……それで、あの子に謝りたい」

 

 彼女の声が、遠く切り離されたもののように聞こえる。

 そこにいたのは、ただ一人の。子を慈しむ母親だった。

 

「私の名前を、教えてあげたい」

 

 そして。それが、彼女と交わした最期の言葉だ。

 

 

――

 

 

「母は、巨人に?」

「帰還途中、巨人の群れが現れた。彼女の班はその囮となり……帰ってこなかった」

 

 想像通りの結末に、いっそ笑ってしまえればよかった。処理の遅い脳みそが上手く働かず、途切れた単語を吐くしかできない。

 

「じゃあ、あの紋章は」

「…恐らく、誰かが気を利かせたのだろう」

「ああ…」

 

 自分の息遣いが、やけに大きく聞こえた。

 だって、わたしは知っている。お酒を飲まないパパが、お母さんの命日だけはひとり晩酌していたことを。お母さんが描いた丘の絵。奮発して買ったという婚約指輪。埋めるものがない空っぽのお墓にお母さんの痕跡を全て入れても、紋章だけは捨てなかったことを。パパが、肌身離さずにあの紋章を持っていたことを。

 紋章を贈った人間は、幼子ひとりと残された父親に同情したのかもしれない。けれど、それはあまりにも痛々しい善意。残酷な嘘だ。

 

「君は。彼女の名を知っているか?」

「いいえ」

 

 「……でも、知らなくていい」叫び散らしたい衝動を抑え込んで、あたしはどうにか吐き捨てた。目の前が点滅して、うまく息が吸えない。脳みそに蓄積した熱をぶち撒けるみたいに、口を動かした。

 

「そんな、自分勝手な人の名前なんか!知りたくも、ありません」

 

 パパが、名前を教えてくれなくて正解だった。だって、もし知ってしまっていたら。あたしは同じ名前の人間が、全て嫌いになっていただろうから。垂らしている拳が、ギチリと鳴る。

 お母さんが、お母さん・・・・のまま死んでくれて、本当によかった。

 

「自分勝手、か。そうだろうな……」

 

 焼けこげそうな熱の中で、団長の声がしてくる。何かを思案するように、手を組み直して。あたしの中でやけに目障りな、憂いを帯びた瞳がこちらを向いた。

 

「それで。君は何故、名を騙っている」

「ッ……母が遺した罪を、贖うためです」

 

 話しながら、服の裾をぎゅうと握りしめる。胸元を抑え、心臓の鼓動に耳を傾ければ。わたし、という罪の証が、騒々しく蠢いている。

 

「そうか」

「もう、いいでしょうか」

 

 静かな相槌のあと、すぐに声をあげた。心臓は、とっくに限界まで熱をあげて、いっそ止まった方が楽なくらいだ。そっと逆撫でするような碧からも目を逸らし、息継ぐ間も開けずに言った。

 

「訓練に遅れるので……失礼します」

 

 返事も聞かずに背を向ければ、呼び止められはしなかった。ノブから手を離し、パタンと扉が閉まる。なんでだろう。廊下に差し込む光が、やけに眩しい。壁にもたれかけたのを押し留め、やりきれない苛立ちに舌打ちを堪えた。いっそ、物に当たれたらよかったのに。軋む歯を食いしばり、あたしは急かされるがままに歩き出す。突き当たりの角を曲がろうとして、見慣れた人影が現れた。

 

「遅かったじゃねぇか」

「じ、ジャン。どうして」

「お前が団長室に行ったっきり帰ってこなかったら、何かやらかしたと思うのが普通だろ」

 

 みんなで朝食をとったあと、あたし以外のみんなは訓練へ行ったはずだ。疑問をそのまま口にすれば、目の前の人物はケロリと答えてみせた。

 

「そっ、か」

「で……何だったんだよ。まさか、兵団を辞めろって言われた訳じゃねぇんだろ?」

 

 普段なら笑って返すような冗談が、大袈裟に肩を揺らした。声まで引き攣りそうになったのを、どうにか押し留めて。あたしは、首を横に振ってみせた。

 

「ううん、ちょっと雑談をしてただけ」

「訓練前に呑気なもんだな、ったく……」

 

 いつものように悪態をつくジャンが、今だけはありがたかった。薄ら笑いを浮かべながら、ぎこちなく手足を動かす。あの部屋から逃げるように出てきたはずが、いつまで経っても胸のつっかえは取れないままだ。これから、訓練もこなさなきゃならないのに。この不調を諫める材料が、何ひとつ見当たらない。

 

「なあ、ノエル」

 

 ただ、唇を噛むしかできないでいたら。ふと、名前を呼ばれた。幾度となく騙ってきた名が、今だけは別物みたいで。遅れて首をもたげると、ジャンの瞳が真っ直ぐにあたしを見つめていた。

 

「あん時は……助かった」

 

 柔らかな逆光の中で、ジャンが控えめに頬をかく。らしくない仕草に、声が出なくなる。流し目を探るように宙を行ったり来たりさせながら、ジャンは口を止めなかった。

 

「俺がヘタクソに庇われるなんぞ、万が一にもあるはずねぇと思っていたが……最近は、可笑しなことばっか起きやがる」

 

 「大体はあの死に急ぎ野郎のせいだがな」最後まで言って耐えられなくなったのか。ジャンはくしゃりと大袈裟に歪ませる。それでも、頬の色は仄かに色づいたままだ。

 

「だから……ありがとな、ノエル」

 

 肩を叩かれる。見上げた先で、切れ長の目元は、柔らかく笑んでいた。ほんの数秒、目が合って。ジャンの顔はすぐそっぽを向いた。

 

「……ジャン」

「んだよ」

 

 しん、と静まり返った空気。廊下を二、三歩進んでから、あたしは声を出した。ぶっきらぼうな返事。未だ頬が赤いような横顔を目で追いながら、高鳴っている胸のあたりを抑える。別の生き物みたいに波打つ鼓動は、さっきとはまた違う音。

 

「あたしこそ、ありがとう。色々と」

「……まあな」

 

 応えるように笑顔をつくると、ジャンが言った。いつもより控えめな返事につい笑みを零してから、前を向く。一歩、一歩と確実に。さっきまでの震えは、もうすっかりなくなっていた。

 そうだ。あたしは、あの人と同じじゃない。わたしは。夢を追って、罪から逃げ出したあなたとは違う。あたしは、ノエル・ジンジャー。あの人とは、違うんだ。

 

 

――

 

 強い風が吹くたび、応えるように軋む音がする。先代から継承されてきた団長室の窓は、自分が継いだ時からこのような調子だった。四方のネジを軽く閉めてはみたものの、原因が判明せずに今日まで放置されている。おそらく、先代も同じようにしてきたのだろう。

 キィ、と鳴く声に耳を傾けながら、手元の紙面へ目を落とす。そこには、今期入団してきた新兵の名が連なっていた。

 

「気になる匂いの奴はいたか」

「例の新兵含め、どれも青臭い輩ばかりだ。まあ、強いて言えば……だが」

 

 一通り目を通した紙束を机上に戻しながら聞くと、しばらく壁にもたれていた影が動きをみせた。私は椅子に深々と座り直し、旧友が言い淀んだ言葉の先を代わりに紡ぐ。

 

「ノエル・ジンジャー、だろう?」

「フ……」

 

 名簿欄に書かれていた名を口に出せば、ミケは微笑を浮かべた。やはり、この友人は鼻が効くらしい。娘の匂いまで嗅ぎ当てるのは気色が悪いと、彼女なら文句を言っていただろうが。

 

「父親似のようだが、俺の鼻は誤魔化せん」

 

 鼻を鳴らすミケに、先日の記憶が蘇る。ミケの言う通り、容姿は父親を継いだらしい。壇上から見下げただけでは分からなかったが、対面してようやく彼女の面影を見つけた。あの、危うげな無邪気さを孕んだ瞳の色は母親譲りだ。

 

「処分するのか?」

「出自は分かっている。今は、目先の目標を優先した方がいいだろう」

 

 巨人化する青年に、我々に擬態した人類の敵。偽名を名乗る旧友の娘。調査兵に入ってくるのは一癖ある者ばかりだが、今年の新兵は、変わり種が多いようだ。

 

「子は親に似る、か」

「……そのようだ」

 

 窓から吹き込む風に紛れ、またどこかでキィと鳴いく音がする。風が強くなってきたらしい。導かれるように外へ目を向ければ、真新しい深緑の群れがいた。先頭には、よく見慣れた白い鉢巻。壁外調査に向けた新兵の教育は、ネスの担当だ。ここからでは分からないが、今さっき話題に挙げていた人物もいることだろう。最後尾にいる三人組の後ろ姿が、徐々に小さくなってゆく。

 先の壁外調査を終えた後、この群れが半数以下になっても驚きはしない。作戦のことも加味すれば、一人として残らない可能性もあるだろう。そうなれば、境遇どころか、最期まで親を追うことになる。

 

――奇行種が複数接近!このままでは追いつかれます!

――エルヴィン!あの巨人は私の班が引きつける。あなたは団長に伝達して。

――だが、お前は。

――いいの。

 

 彼女は、娘の今を悲しむのだろうか。或いは。

 

――エルヴィンは、夢を叶えてね。

 




ノエルの得意技「自分のことは棚に上げてブチギレ」です。
イエス!これが、ノエクオリティ。
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