島の悪魔【本編完結】   作:死にかけの細菌

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訓練兵団編:困難③

 

 肌寒い風が頬を撫で去っていく。分厚い雲に気分が引っ張られる間もないまま、104期生は薄暗い空の下に集められていた。そんな集団の先頭に立ったシャーディス教官が注意事項と訓練内容を話している。対人格闘術は基本することがほぼ同じなので、端々が端折られて教官の叱咜を一心に受ける場と化していた。号令の仕切り直しを耐え切ってやっと離散の命令が降る。みんなが真面目組とサボり組でバラけ、周囲で続々とペアができていくのをなんとはなしに眺めた。

 

「ノエル!」

 

 そうしていたら、唐突に名前を呼ばれて振り返る。アニとはまた違う、さらりとしたブロンドを揺らすアルミンが眉を下げたまま駆け寄ってきた。思わず、大きく跳ねた心臓はこっそり落ち着ける。髪質からしてまるで似ても似つかないのに、アニかと錯覚してしまいそうだった。重症だな、ライナーに言われた言葉が身に沁みる。

 

「どうしたの?」

「ノエルはもう組む人決めた?その、ちゃんとやる人が残っていないから……」

 

 気まずそうに声を潜めたアルミンの言葉で辺りを見回してみるも、確かに真面目組が残っている様子はない。真面目筆頭のマルコはトーマスと何やら話しているし、クリスタはその小さい体でユミルに立ち向かうつもりのようだ。それに反し、ジャンなんか二人組を早速つくってグタグタの攻防をしている。そういう約束でもしてるんだろうか。対人格闘訓練では大半がこんな感じで、マルコやあたしたちが少数なのだけど。サシャとコニーの異例を除いては。

 

「エレンかミカサは?」

「今日はミカサに勝つまでやるらしいんだ」

 

 ペアを作った人たちに目をやっていたら、丁度ミカサの美しい羽交締めで動きを封じられているエレンがいた。アルミンがすっかり慣れたみたいに肩をすくめてみせる。対人格闘でトップのエレンがミカサに挑むのはそこまで珍しいことではない。ただ、勝つまでと宣言したからにはどうなるか。アルミンの怪訝そうな横顔からして大体予想はつく。目的意識が強いエレンのことだ。自分の限界を越えるまで挑戦し続けるんじゃないだろうか。エレンが木剣を振り翳すもミカサは涼しい顔で避けている。成績上位者の余裕に反して、エレンは遠くから見てもわかるくらい悔しさを滲ませていた。訓練は始まったばかりなのに、もう既に飛ばしているみたいだ。また、フラフラになったエレンを担いだミカサが食堂で登場して、ジャンと一悶着あるだろうか。ジャンは冷静頓着にいて欲しいものだ。

 

「ごめん、アルミン。今日はアニとやるって決めてるから組めない」

「アニと?」

 

 手を合わせて目線を低くしたら、アルミンが信じらないと言った表情であたしを見る。当然の反応だ。今の今までアニが誰かと組んでいるのは見たことないし、組もうなどと考えたのもエレンくらいだ。案の定、ボコボコにされているエレンの姿で更に近づく人が減っていっていった。唯一立ち向かえるのは物凄い形相でアニを凄んでいるミカサくらいだ。

 

「アニは何を言っても手合わせしてくれないんじゃなかった?」

 

 アルミンが不思議そうに首を傾げながら問いかけてくる。流石アルミン。随分前にあたしがごねていたことを持ち前の記憶力で憶えていたようだ。アルミンの前で言動には気をつけた方がいいかもしれない。

 

「それがまあ色々あってさ」

「色々……」

 

 この騒動を丸ごと上手く説明できる気もしなかったので、言葉を濁す。目を泳がせながらヘラリと微笑みをつくるも、アルミンは納得してなさげに丸い瞳を瞬かせた。どうしたものかと首を傾げかけ、肩に重みを感じて振り返る。瞳に映ったのは今にもため息をついてしまいそうな顔をしたライナーだった。

 

「おい、アルミンとのんびり喋ってる場合か」

「アルミンに事情を説明してたの!」

「説明しきれてしなかったような気がするけど……」

「ベルトルト、そこは言っちゃダメだから」

「あ、ごめん」

 

 ベルトルトの聞き逃せない一言へつっかかったら、くすりと笑みをつくって軽く謝られる。アルミンも一緒になって微笑むので、半分本気だったあたしは複雑な心境に口をへの字で曲げた。様子を見ていたライナーがそんなあたしを笑いながら言う。

 

「尻込みしてなきゃいいけどな」

「してない!……と思う」

 

 言い切ってから語尾が小さくなっていく。もし、ここまでして何も進展しなかったら。あの食堂が最後のチャンスだったらどうしよう。抑えても溢れ出すどうしようもない悩みが足を地面に縫い付けようとしてくる。ぐずぐずと弱気に落ち込んでいく思考を断ち切ってくれたのはライナーだった。

 

「今度はお前が答える番なんだろ」

 

 言いながら、ライナーに背中を手で押されて一歩前へつんのめる。丁度、視界の遠くで映ったのは流れるようなブロンドを背後で束ねた一回り小さな影。アニだった。胸の内で心臓が大きく響く。アニはあたしを信じて待ってくれていた。だから、そう。あたしが答える番だ。足の指先に込めていた力を緩めて振り返ったら、ライナーがゆっくり頷き返してくれる。なんとなく事情を察したであろうアルミンの微笑みを最後に背中を押され、あたしはアニの元へ駆けよった。

 「アニ」独り言のような小声で名前を呼ぶ。覚悟を決めたくせに心臓がじんじんする。肝心なところで度胸なしの自分が嫌になりながら、息を深く吸った。いつもみたいに人混みの間を縫うように歩いているアニの背へ向かって口を開く。

 

「アニ!」

 

 呼びかけに反応した青空色の澄んだ瞳とバッチリ視線が交わる。そのまま足を止めてくれるのかと思ったけれど、そう上手くことが進むはずも無く、アニはあたしを冷え切った目で一瞥したきり背を向けてしまった。焦燥感が喉の奥から迫り上がってくる。これじゃいつもと同じだ。離れていくアニを追って、腕を目一杯に伸ばす。声で届かないなら、行動で示すしかない。こうなる前は何度もやっていたのに指先が震えた。

 

「アニってば!」

 

 緊張を隠すように笑顔をつくって明るく呼びかける。アニはまだ振り返らず、何も聞こえていないかのように服の裾を人差し指と親指で挟もうとして、唐突にアニの目が合った。

 

「ぐぅ」

 

 瞬きをしたら、あたしは大声で呻いて地面で突っ伏していた。アニに殴られた。現実を咀嚼する間もなく、膝をついたまま地面へ崩れ落ちる。腹の芯がじんじんと熱を訴え、体が喉から空気を押し出そうとしてえずく。

 苦しい、痛い。でも、どうしてだろう。この場には不釣り合いな。おおよそ、あたし以外には理解できないような感情が意思と関係なく湧き上がってきた。アニの技は誰よりも的確で容赦がない。浅く呼吸を繰り返しても、痛みが引くことはなく、殴られた箇所が悲鳴をあげている。それなのに、きっと、あたしは笑みを浮かべてしまっていた。アニに構われた。その事実だけが残って、あたしの頬を緩ませる。本当に久しぶりで、懐かしくさえ思えてしまう。ユミルがクリスタとの訓練に夢中でよかった。見られたら、揶揄われるどころじゃないだろうから。

 

「あに」

 

 すべてを押さえ込んで、そのふた文字をじっとつぶやいた。僅かに瞳孔を見開いたアニが困惑の色を浮かべている。アニの様子がなんだかおかしくて「アニ、あのね」と微笑みながら言葉を続けようとした。

 大人しく話を聞いてくれるはずなく、あたしの言葉でアニが弾かれたように背を向ける。明確な拒絶を受けても引き下がらず、あたしはアニの足首へ手を伸ばした。

 

「……離して」

 

 足首を爪が肉に食い込むくらいぎゅっと握りしめる。指先で掴んでいたのを手のひらで、両手で覆う。体を起こさないまま、アニの足を離さない。駄々をこねる子供のようだろう。滑稽な姿を晒すくらい、アニと話せるなら安いものだ。返答はなしに、何かを思案するような瞳が見下ろしてくる。衝動的に引き止めてしまったから、声を忘れてしまった。アニの瞼が細められ、額にひやりと汗が流れる。直接引き止めたって殆ど意味はない。不味いと思った頃には背を向けられ、指先が引き攣って衝動的にあたしの悪い癖が出てしまった。

 

「き、教官に見つかっちゃうかもよ」

 

 「あたしが、ずっとこんなことしてたら」視界の先にいたのは、何やら話し合っている教官たち。通りですぐに見回りが始まらないんだ。教官が見ていたら今頃あたしは怒鳴られていただろうから思わぬ幸運だった。アニの足が止まる。流石に教官の名前を出されれば、足を止める他ないようだった。

 

「……私を脅すんだ?」

「ちが……ううん、脅してる。それでいい」

 

 否定しかけて、ひとり首を横に振る。話が逸れてしまうところだった。嫌われたくないばっかりに。大切なのはそこじゃない。こんなのはアニと話すためのただの手段なのだから。

 

「アニと話せるなら、なんだってする」

 

 微かに息の詰まるような音が聞こえた。目の前のアニから発されたのか、あたし自身の息遣いか。アニを引き留めるには、都合の良い解釈して言葉を続けるしかなかった。瞳を刺すような太陽の影がアニの表情を隠している。

 

「アニの言う通りだった」

 

 意を決するようにして、ごくりと固唾を飲んでからあたしは口を開いた。人の心配をする前に自分の心配をしろって?過去の自分が馬鹿らしくて仕方ない。人にばかり言っておいて、自分はまるでそうするつもりなんかないのに。

 

「あたしに、アニの心配する資格ないよ」

 

 あの時、アニに突きつけられた言葉。何の反論も抱かなかったし、苛立ちも覚えなかった。その通りだったから。なのに、あたしが誤魔化そうとしたからここまでズルズルと事が歪んできてしまった。

 

「でも、ちゃんと話し合うまで手を離すつもりもない」

 

 もう一度、アニのブーツを掴んでいる手に力を込める。アニと喧嘩別れなんてしたくない。最悪、絶交だって受け入れてるつもりだ。最後に、目を見て話したいから。そのためなら、何をされようと、嫌われようと、手は離さない。逆光でアニの反応を伺うことができないまま、時が過ぎていく。周りの掛け声や取っ組いが籠って遠くから聞こえる。力を込めている手のひらが震えてきても顔だけはあげたまま、答えを待った。

 

「わかった、チャンスをやるよ」

 

 アニは奴隷みたいに這いつくばっているあたしを見下ろしたまま、ゆっくりと含みのある言葉をつぶやく。あたしがぬか喜びする間もなく、急かすようにアニが続けた。

 

「私を負かしたら、聞いてやってもいい」

 

 「ずっと私に付き纏ってただろ」予想だにしていなかった展開で身動き一つとれないでいると、アニが鬱陶しそうに付け加えた。あたしは込めていた力を緩め、アニの足首から手を離す。するりと抜けた足首はそのまま遠くへ行ってしまうことなく、振り返ってつま先をあたしに向けた。誰からしても、結果は目に見えている。だからと言ってチャンスを逃すわけにも、別の方法に変えてもらうにもいかなかった。

 

「わかった」

 

 ずり、靴を滑らせて地面から膝を離す。食い込んでいた石がぽろぽろと落ちる音がした。溜まった唾を喉に押し込んで、片足でふらつきを耐える。

 

「あの時、私が来なかったらどうなってたのか。世間知らずのあんたに教えてあげる」

 

 そう言ったっきり、アニがスッと両手を胸の前に構え、両手の隙間から冴え冴えとした瞳があたしの出方を伺っている。立ち姿から放たれた威圧感に押されて、足が後ろへ逃げようとした。浮いた足を地面に縫い止め、片足を前へ出す。

 対峙したまま、一定の距離を空けて睨み合う。作戦だ。作戦を立てなければ、アニに勝つなんてことできない。僅かな勝ち筋を手繰り寄せない限りは。

 アニの方が小柄だから頭突きはできない。逆に、体格差では優っているということでもある。ベルトルトと組むから小さい側の気持ちはよくわかる。体格差のある相手と戦って一番困るのは腕の長さだ。ベルトルトほどの差がないとは言え、距離を取ればこちらが有利なはず。心の中でイメージを膨らませる。アニの蹴りをどうにか持ち堪え、バランスを崩せば押し倒せるかもしれない。ずっと見てきたからわかる。アニがよく使うのは足技。足さえ封じて仕舞えば。希望の光がちらついて、ようやく深呼吸をした。握り拳をつくって胸の前に構え、丸めた唇から酸素を出し切る。さっき蹴られた部分が思い出したように痛みを訴え出した。それを忘れるよう、緩やかに瞬きをする。アニから詰めてくる気配はない。淡々とあたしが向かってくるのを待っている。まだ、まだだ。このまま突っ込んでも、近づくことすらできないだろう。上下する肩の動きにまで気を割いて、機会を伺った。すると、強いそよ風が地面を巻き上げる。細かい粉塵が舞い散り、アニが鬱陶しそうに瞼を細めた。

 好機を逃さず、大胆に距離を詰めてアニの懐に飛び込む。やはり、そう易々とはいかない。

 

「ッく」

 

 蹴りを受けた腕先から付け根まで、稲妻のように痛みが走り、声が漏れた。予想していた通りだ。アニの素早い回し蹴りが腹部に繰り出され、構えていた腕で受け止める。普段のあたしは突っ込んでばかりだから、意表を突けたんだろう。目を丸くしたアニと視線を交わる。あたしはアニの軸足を思いきり引き倒した。地面に倒れ込むと同時に薄い砂埃が散る。アニの上を陣取ったまま、押さえつけるために力を込めた。下にいるアニが舌打ちをしてもがく。この調子で参ったと言わせられれば。まだ痺れが残っている腕をアニの両手ごと腰に回す。苦しそうな息遣いが聞こえても、緩めるつもりはない。アニの腕一本でも自由になったらおしまいだ。

 

「あ、に!何も、できないでしょ。諦めな、よ!」

 

 返事はない。けれど、急に抵抗の動きが止んだ。まさか、本当に?アニの腹に埋めていた顔を、恐る恐る上げる。と、どこからか伸びてきた手に肩を掴まれ、背中の衝撃と共にあたしの世界は一回転した。皮肉なほど真っ青な空が人影の奥で揺れている。さっきとは真逆だ。諦めの嘲笑を一人こぼす。あたしの上に跨ったアニは残酷な色をたたえながら、冷たい手のひらを伸ばしてきた。

 

「誰が、諦めるって?」

 

 蛇のように滑らかな指が、容赦なく首元へ添えられる。その唇を揺らしながら、あたしを覗き込むアニの瞳は静かに燃え続ける焚き火のようだった。

 

「あんたなんか虫ケラ同然なんだよ」

「ア、ニ」

 

 懐かしい息苦しさだ。添えられていただけの手が首に沈んでいく。形だけだったそれは、あたしの言葉で急速に変化していった。細い指で喉が潰され、纏っていた息苦しさが本物へ変わる。いやだ。引き剥がそうとして腕を掴むけれど、うまく力が入らない。

 

「弱っちくて、鈍くて……」

 

 溺れているみたいだ。かひゅ、かひゅ、とする音があたしの喉からなのかもわからない。確かなのは、結果を覆せる望みも薄いということだけだ。ひくつく喉から込み上げてきた生理的な涙が滲む。ぼやける視界の向こうに、あたしの首を手にかけながらもまるで何かを恐れているような不安げな面影のアニが覗き込んでくる。

 

「一瞬で、死ぬ」

 

 アニの声が遠くから響いてきた。苦しい。声を出すための酸素も、隙間も塞がれてる。気管に指を押し込まれてるせいで何度もえずく。指先の感覚が。身体が、暑さと苦しさを残したまま奥深くの何かに引き摺り込まれそうになる。あたしの首を絞めているはずの手がどこへいったのかわからなくなって。カクンと腕が地面に打ち付けられる感覚だけ拾った。

 

「っは!はぁッ」

 

 新鮮な空気が傾れ込んでくる。酸素が一気に身体中を巡り、意思と関係なく呼吸を強制する。解放された拍子にアニの下から這い出ていたあたしは体を丸めて地面に手をついたまま、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。熱を持った喉に指を伸ばす。宥めて声を出そうとしたけれど、忙しく動く別の生き物みたいなそこは言うことを聞かない。

 

「あんたはただの偽善者だ」

 

 あたしが地面に這いつくばって息を整える間も待たず、アニの声が鼓膜を揺らした。偽善者。アニの言う通りだ。何もない地面の一点を見つめて屁理屈をさがすけれど、ああ。やっぱりだめだった。全く反論する言葉が思いつかない。

 

「自分の欲求を満たすためなら、なんだってするんだろ」

 

 「私が何度言ったって」首を動かして、声の主を仰ぐ。違う、と叫ぼうとした声を飲み込んだ。前のあたしなら何も考えずに反論していただろう。淡々と波打っている怒りの中に澱んでいる、アニの揺らいだ心を見抜けていなかったら。真正面から感情論で殴り合ったって、同じことの繰り返しだ。

 

「あんたのせいで私は、変わっちまったんだ」

 

 さもう取り戻せない選択を嘆くかのように、アニが震える声色で呟くのを前にして、胸の内がどきりと跳ねる。会わなければよかった、そう暗に言われていても気にしなくなってしまう。小さな弾みだった。常にあたしを引っ張ってくれたのはみんなで、みんながいたからあたしは色んな意味で成長できた。その逆は?あたしの存在はただの足手纏いとしか思えなかった。ふとした時に過ぎっては心に靄をかけていた懸念が、アニの怨言で払拭される。

 

「なんとか言ってよ」

 

 密かに喜び滲ませるあたしと正反対に、アニが声を荒げた。その声で現実に引き戻される。微かに口角を上げてしまったんだろう。アニが場違いなあたしの反応を嗜めるように瞳を細める。

 

「これだけ私をぐちゃぐちゃにしといて、"関係ない"?」

 

 ギュッと心臓を掴まれたような心地がした。確信を突かれ、アニに向けていた目線を落とす。あなたには関係ない。焦っていたとはいえ、心配してくれていたアニに向かって、ずっと一緒にいてくれたあなたに、一番残酷な言葉で距離を取った。

 

「どの口が言ってんのさ」

 

 下手な言い訳一つがここまで尾を引いているのは、それだけアニの心を深く抉ってしまったからなのだろう。顔に重なる影を見上げることはできなかった。

 

「こんなになるなら、最初っから……」

 

 独り言のようにアニの口から溢れた声が鼓膜を震わせる。訓練に励む仲間の声だけがあたし達の沈黙の中で響いた。何も口にできない。なにを、言えば前のように戻れるのか。アニは許してくれるのか。ライナーの前で散々意気込んだはずが、なにも思いつかない。

 ざり、と靴の擦れる音がした。あたしは地面についていた手を離し、去ろうと動いた背中へ手を伸ばす。

 

「ごめん。アニ」

 

 頭をぐるぐる回転させて考え抜いた結果、結局口にしたのは謝罪の言葉だった。アニの体を背後から手繰り寄せて抱きしめる。触れた先の体温に不思議と安心感を覚えた。

 

「……もういい、聞きたくない」

 

 アニはそんなあたしを振り払う素振りなく、ただ顔を見ようとはしないで淡々と失望の色を滲ませる。抱きしめてすぐ放り投げられると覚悟していたから、少し拍子抜けしてしまった。いつまで許してくれるかわからない。アニの気が変わらないうちにあたしは胸の内を明かした。

 

「これからも、あたしは変わらないと思う」

「……は」

「自分でもわかってる。アニより弱っちいあたしに何ができるのかって」

 

 呆れと軽蔑を含んだ嘆息に構わず、ありのままの感情をぶつける。言っていることはやっぱり言い訳じみているけれど、一つ一つの単語を噛み砕いて咀嚼する余裕があった。指先にアニの体温が伝わってくるからだろうか。

 

「こんなのただの偽善で、"真似事"、自己満足」

 

 悲劇的に聞こえないよう、事実をぽつぽつと呟き、言いながら内心で自ら頷く。全くもってその通りだ。身の丈に合わない真似事ばかりしている。

 

「現にアニを心配させるだけさせて、何も貢献できてないし」

「心配なんてしてない」

 

 そのままの調子で続けたら、間髪入れずにアニが反論の声を上げ、もがいてあたしの腕が振り払われた。無理矢理留めておけるはずもなく、指先に名残惜しさだけが残るけれど、顔を合わせたアニの頬は微かに赤くなっているような気がした。それを隠すかのようにアニが前髪をくしゃりと握る。

 

「私は、あんたのバカな行動に苛々させられてるだけ」

 

 前髪の間から覗く瞳はどこか遠くを見ていて、嫌味にしてはどことなく覇気がない。急に勢いを無くしたアニが弄っていた髪を耳にかけながら深い深いため息混じりに呟く。

 

「偽善者な自分にも……」

「あたしたち似てるのかな?」

 

 あたしは置いておいて、アニが偽善者だとは思わないけど。真意を図らないまま、ひとりで自戒するようなアニに便乗して笑いかけてみる。

 

「似てない」

「わあ、即答」

 

 少しの間も与えられないまま、あたしの言葉はアニにバッサリと切られた。なんとなく予想できたのであからさまな反応をしてみたら、アニの表情が一層曇る。

 

「アニ、あのね」

 

 じとりとした目線に晒されつつ、一言いってから覚悟を決める。偽善者でも、真似事でもいい。あたしはこのやり方をし続けなければならないから。駄々っ子のように意見を押し通す自分が嫌になってくるけれど、あたしには選択の余地がない。

 

「あたしは。これからも同じことを繰り返すよ」

「……誰があんたを操ってるの?」

 

 アニらしい嫌悪感たっぷりな言い方に乾いた笑いが溢れてしまった。あたしの反応でアニの顔がさらに険しくなるものだから、慌てて口を引き締める。

 

「自分の意思」

「ほんと、あんたって……気持ち悪い」

「あははっ、そうかも」

 

 口をへの字に曲げ、悪態をつくアニが可笑しくて軽く笑いながら頷いてみせる。笑われるのは気に食わなかったようで、ジロリと睨まれた。「あの。あのさ」アニの視線から逃げるよう、変に明るくしようとして声が震える。

 

「お願いで、強制じゃないけど。本当に」

 

 「聞くだけ、聞いて欲しいんだけどね」しつこいくらいの念を押さないと、アニを正面から見つめられなくて。視界を段々とずらしていく。

 

「こ、こんなあたしだけど一緒にいてくれる?」

 

 自分でもわかるくらい滑稽な震えのある声だった。笑いとばす気はさえ起こらず、ただアニの返答を待つ。さっき殴られた場所がじわじわ傷んでくる。数多のあるかもしれない未来が脳裏を過ぎった。沈黙が長引くほど最悪の結末ばかり現実味を帯びていく。

 

「はっ」

 

 だんだんと青ざめていくのが分かったんだろう。不安げに返事を待っていたあたしをアニは鼻で笑い飛ばした。ずっとしていた凄み顔でなく、うっかり笑ってしまった、そんな色の表情で。

 

「何て顔してんの、あんた。必死だね」

「だ、だってえ。アニと絶交したくないから」

 

 揶揄い混じりで言うアニにふっと張り詰めていた緊張の糸が解けた。懐かしい空気感を感じつつ、涙目で言い訳する。

 

「は?絶交するなんて言ってないけど」

 

 あ。間違えた。すぐに後悔する。告げた途端、再び空気が凍った。解れていたアニの表情が険しくなり、問い詰めるように聞き返される。

 

「したいの?」

「したくない!したくない!」

 

 ありえない問いに向かって必死で横に首を振る。せっかく許してもらえそうなのに。ばか。あたしの馬鹿。自分を叱りながらへりくだるけれど、アニは顔を逸らしてしまった。艶やかなブロンドを指に絡め、瞼を伏せる。何かを思案するような素振りを見せたあと、口を開いた。

 

「謝るよ……あんたを、無視したこと。あれは私が子供だった」

 

 前髪の間から覗く瞳がこちらを伺うように見上げる。ぽつり、ぽつりと吐露された謝罪へあたしは首を横に振って口を開いた。

 

「ううん、最初にしたのはあたしだよ。避けてたし、ベッドまで分けて……傷ついたでしょ?」

 

 その謝罪を受け入れるにしたって、まずはあたしが謝るべきだ。頑なにアニを拒んで逃げ続けたのはあたしなんだから。自分が今までやってきたことを思い浮かべ、アニの気持ちを思うと心が痛い。

 

「私は広くなってよかったけど」

「えッ」

 

 確かめるように聞いたはずが、アニはケロッとして平然とそう言ってのけた。こうなるとわかっていたのか。予想外の返答に間抜けな声をあげてしまった。固まるあたしを前にしても顔色ひとつ変えないまま、アニが淡々と続ける。

 

「鬱陶しく抱きついてこないし」

 

 聞き返さなくても本心とわかる口ぶりであたし抜きの快適さを語るアニに口を塞ぐのも忘れた。散々後悔していた仕打ちを思わぬ形で一蹴りされ、数秒の思考停止を経てやっとのことで喋り出す。

 

「待って待って」

「なにさ」

「寂しがってたのあたしだけ?」

 

 そんなまさか。いやでもこの口ぶりは。むくむくと増大する嫌な予感を無理やり押し潰して、期待の眼差しでアニの答えを待った。

 

「……当たり前でしょ」

「違う違う、アニは照れてるだけ。そうだよね」

 

 あたし一人だけ寂しがっていたなんてことは。思い上がっていただけだと考えたくなくてアニの声に慌てて声を被せる。

 

「はっ」

「あたし、あんなに寂しかったのに……」

 

 現実逃避しようとしたところを鼻で笑われてガックリ肩を落とす。そういえば、あたしがアニを避けている間。二人分のベッドを横断して優雅に過ごしていたような気がしなくもない。使う気になれなくて端で丸まっていたあたしとは大違いだ。なんだかんだ仲直りできたけれど、手を叩いて喜ぶ気にもなれず、新たにできた小さな胸のわだかまりにつられて地面をみた。

 

「よっ、ノエル。その様子じゃ上手くいったみたいだな」

 

 軽く肩を叩かれて顔を上げる。ライナーと目があって、想像していた表情じゃなかったんだろう。ほんの少しだけ怪訝そうな顔をする。あたしとアニに目線を向けてから、雰囲気を察したライナーは溌剌と笑った。

 

「や、やあ。二人とも……」

 

 控えめに挨拶するベルトルトの声色が心なしか弱々しい。アルミンの姿がないので周囲を探ると、遠くで蹲るエレンを介抱するように並んでいた。ミカサは何度も近づこうとして振り払われている。あたしも落ち込んでられないと切り替えて、二人に向かって大きく頷いてみせた。

 

「うん、どうにか仲直りできたよ。ね、アニ」

「それにしちゃあ、随分とボロボロだな」

 

 ライナーがあたしを上から下まで見てから言うので、なんの意味もなく頬を擦る。全く気にしていなかったが、あれだけもみくちゃになれば汚れるか。納得しつつも、まだ鈍い痛みを持っているお腹の辺りを服の上から手で隠した。首に手の跡が残ってなかったのは幸運だったかもしれない。

 

「ひどい怪我はしてねぇみたいだが、話し合うだけでそんなになるもんか?」

 

 一番重症な箇所をライナーに気づかれずやり過ごせたので内心ほっと息を吐く。指摘されないうちに洗面所で冷水でもあてて冷やそう。

 

「まあ、いろいろあってね」

「あんたが今日来たのは、コイツの差し金ってこと?」

 

 誤魔化すためにヘラリと笑ったあたしをアニが睨んだ。さっきまで機嫌良さそうだったのに。情緒不安定、とまではいかないけど、今日は気分が変わりやすいらしい。

 

「うん、ライナーのアドバイス」

「……へぇ、そう」

 

 冷め切った言葉と切れ長の瞳がスッとライナーに向けられる。なぜかアニはライナーの扱いが辛辣だ。何が原因なのかは謎で、聞いてもなんとなくはぐらかされてしまう。二人の方が付き合いが長いはずなのに。敵意とも取れるような空気を纏わせたまま、アニが皮肉っぽく続ける。

 

「良かったじゃん、またあんたはコイツに兄貴面ができた」

「お前……何をまたイライラしてんだ。いい加減落ち着けよ」

「落ち着く?あんたに言われたくない」

「待って、アニ!教官が」

 

 バチバチと火花を散らしている二人の間に割り込めるはずもなく視線を泳がせていたら、四人で固まっているのは流石に目立つのか、視界の端に教官が向かってくるのが見えた。黙っていられなくなって注意を促す。どう言い訳しよう。頭を回転させかけたところで、ライナーが空を舞った。

 

「がッ!」

 

 あっと声をあげる間もなく、大きな影が太陽の光を遮って綺麗に一回転する。一緒に眉を顰めてしまうような声が上がった。アニは両手を払ってから鈍い音を立てたっきり地面で伸びているライナーを見下ろしている。

 

「調子にのってるからこうなるんだ。覚えときな」

 

 アニの完璧な投げ技による誤魔化しが効いたのか。はたまた運が良かっただけなのかわからないが、こちらへ向かっていたはずの教官は背を向けコニーとサシャの二人を捕まえていた。

 

「いッ……俺を投げ飛ばす必要あったか?」

 

 教官の目から逃れられたのを確認したライナーが腹部を摩りながら起き上がる。とばっちりにしてはダメージを負い過ぎているようなライナーの不満に真っ直ぐとした瞳は揺れることなく、言葉を返すこともない。

 

「どうなの、アニ」

「投げ足りないくらいだけど」

「だって」

 

 このままではだめかと助け舟を出したつもりが。アニが呟いた恐ろしい宣告でライナーは明らかに目を色を変えて慌てふためいた。気の毒だけど、アニから恨まれるようなことでもしたんだろうか。

 

「いっ、いや、もういい。俺はベルトルトとやるからな」

「あ、ああ。うん……」

 

 先ほどの技が相当効いたらしく、ライナーはアニの申し出をキッパリ断った。肩を引かれたベルトルトが何か言いたげにしつつも、首を縦に振る。

 

「お前ら、仲良くしろよ。もうあんなんはゴメンだからな」

「チッ」

「わあ」

 

 瞬発力のある舌打ちが聞こえて返事よりも先に仰天してしまった。空気が抜けたような声を出してしまった焦りより、ライナーの方が心配になる。あたしが知らないところで、やっぱり何かやらかしたんだろうか。元々こんな扱いだったっけ。去り際に「お前ら本当に仲直りしたんだよな?」と小声で聞き返してきたライナーには頷くことしかできなかった。

 

「よぉし!アニ、どっちがならず者やろっか?」

「もうあんたとはやらない」

 

 気を取り直し、あたしは意味もなく腕まくりしてから木刀を拾い上げた。さっきのは誰の目に見てもあたしの負けだったけれど、一度はアニの体制を崩せたし、また別の方法があるはず。今度こそアニを負かすんだ。

 

「だから、やらない」

「え、嘘」

 

 燃え上がっていた火が急にその勢いを落とすように、構えていた両腕をだらんと下げて聞き返す。アニはそんなあたしにも目の色を変えることなく、小さなため息を落とした。

 

「嘘だろうが本当だろうがやらないから」

「どっ、どうして!」

 

 そんなバカな、と諦めきれずに食い下がる。さっきまでやってくれていたし、てっきり今日からは組んでくれると思い込んでいたものだから。

 

「あんたとはやらないし、やりたくない」

「そんなぁ」

 

 こうなってしまったアニはいくら頼み込んだところで首を縦に振ってくれない。どうしようもなくもどかしい。もどかしいけれど、アニの隣にやっと戻ってきた。そんな感覚もあって、不満はそれっきり湧き上がってこなくなった。

 

「あたし、どうすればいい?」

「適当な人でも探せば?知らない」

 

 と言っても、組む相手がいなければどうしようもない。このまま居ては、教官に怒鳴られるのも時間の問題だ。助け舟を拒否した当の本人に聞き返すも、真冬の水のように冷え切った言葉が返ってくる。

 

「冷たい!」

「……なんで笑ってるのさ」

 

 指摘されても、口角は上がりっぱなしで比例してアニの表情が強張っているようだけど、ちっとも気にならなかった。こうやって軽口を言い合えるのがどれだけ貴重でかけがいのない時間かわかったから。

 

「いや、嬉しくて」

「あんた、変だよ」

「いいもん、アニと話せるだけで幸せ」

「安い幸せだね」

 

 呆れた。そう言いたげなアニを脇からひょいと覗き込む。自分でも鬱陶しいと思うくらい過剰なかまいに不機嫌そうな瞳があたしを映すも、すぐ気怠げによそへ向いた。

 

「うん、幸せ。アニは?」

「……普通」

 

 予想外に嬉しい言葉が飛び出して、面食らってから表情が緩む。胸を昂らせる衝動に身を委ねてアニに抱きつこうとしたけれど、いつの間にか地面の上で転がっていた。足先を蹴られたのが勢い余ってこけたらしい。あたしが現状を把握している先で、アニがさっさと離れていってしまう。その背に情けない声を投げ、引き留めようとするけど、効果があるはずもなく。心配そうな顔をしたマルコが手を差し伸べてくれるまでそんな調子だった。

 

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