嫌になるくらいの青空に晒されながら、蝶々を追いかける子供のようにその背中を追っていた。対人格闘に励んでいる仲間たちの間をするすると通り抜け、頭の後ろでまとめられた艶のあるブロンドが輝く。そんな人影を大声で呼び止める迷惑な人間、ことあたしは飽きもせずその影の名前を呼んだ。
「待って!待ってよ、アニ」
「しつこい」
何回繰り返しているかわからない言葉をアニは倦厭さを隠さず真っ向から跳ね除ける。自分でわかるくらいしつこく呼びかけているつもりだが、アニは一向に足止めてくれる気配すら見せてくれない。
「いい加減諦めて」
「一回だけ!アニが手合わせしてくれたら諦める!」
「前にやってやったでしょ」
アニの背中に向かって、懇願するあたし。今まで何回もあったような光景だ。あたしって、ずっとこんなことばかりだ。自分の成長の無さに呆れながら、同じことをしている。アニもわかっているんだろう。心底うんざりしている、と言いたげな嘆息混じりに歩を止めた。無造作に抱えていたライフルを抱え直して、あたしを見上げる。
「それともあんたが被虐趣味なのは本当なの?」
「違う!それだけは本当に違う!」
アニが気持ち少しだけ愉しそうに聞き返してくるので、真っ向から否定する。しばらく聞いてきなかったから油断していた。いつぞやの誤情報をアニがいまさらつついてくるなんて。狼狽えるあたしを前にアニはそっぽを向き、静かに告げた。
「もうあんたとはやらないし、付き合ってやる義理もない」
「ぅう……お願いだから!」
ライフルを落とさないように抱えて、これでもかってくらい頭を下げる。一時の静寂が場を支配するも、アニはいいともいやとも言わずに黙ってたままだ。こうなったら、頷いてくれるまでしつこく絡むしかない。こっそりと胸のうちで決めて、我慢くらべをし始めたところだった。
「またやってんのか、お前ら……」
「あ、エレン」
近づいてくる足音と声をそのままの体制で見上げたら、エレンが立っていた。ライフルを地面に立てて、呆れ混じりにこちらをみている。どうも一人らしく、アルミンとミカサの姿はない。四六時中一緒なわけではないんだろうが、物珍しさを感じつつ名前を呼んだ。懇願しているあたしの姿で大抵のいきさつを察したのだろう。エレンの呆れ顔が身に染みる。
「アニ、なんでノエルとは戦ってやらねーんだ?」
「あんたには関係ないでしょ」
思わぬ場所からの援護に、耳を側立たせてアニの回答を待つ。アニは変わらずエレンの疑問をバッサリと切り捨てた。清々しいほどの返事だ。
「オレとやる分にはいいんだろ?なんでノエルはダメなんだよ」
エレンが腑に落ちない様子で問い直す、その隣であたしはそうだそうだと頷いてみせた。何か理由が諦めがつきそうなものだが、アニは理由さえ言おうとしてくれない。
「これは私とノエルの問題で、あんたに言ってやる義理はないね」
「はあ?俺はただ聞いてるだけだろ」
「しつこい男は嫌い。か弱い乙女に詰め寄って楽しいの?」
「全然似合ってねぇからその冗談やめろよ」
エレンが釈然としない様子で物おじせず言い返す。アニの眉間に皺が増え、あたしの背筋には悪寒が走った。キュウと瞳孔を小さくしたまま、アニは体を真正面に向ける。
「……確かめてみる?」
普段のあたしみたいな無神経さでアニの地雷を踏み抜いたエレンは、流れでアニと一戦交えることになった。距離をとり、向き合う二人。アニは静かな怒りを纏ったまま、すらりと立ち、エレンは好戦的に目を輝かせている。羨望と恐ろしさの混じった眼差しで二人を眺めて、一人取り残されてしまったあたしは外野からヤジを飛ばした。
「エレンばっかり、いいなー……」
「別の人と組みな」
同じ訓練兵でも、あたしは知り合いが多い方じゃない。アニやライナーの背中を追っかけるのに大半の時間を使っていたから、3年目にもなってこの結果だ。アニはエレンに取られ、ベルトルトもライナーも姿が見えない。初期の頃よりも真面目に取り組むようになったジャン含めた真面目組は全員相手がいるようだ。
「アニの意地悪。いいもん、観戦するから」
「ノエルはそれでいいのか?」
「うん。盗んだ技でアニを投げてやるんだから」
足を組んで座り込むあたしを気遣ってくれたんだろう。エレンが確かめるように言ってくれるが、大きく頷き返した。アニがライナーを宙に投げたように、それはもう美しい投げを習得してやる。習うより慣れろ、習うより見ろ。だ。
「……あんたには無理」
「ひどい!」
あたしの覚悟も軽々しく切ってしまうのがアニだ。表情ひとつ変えずに言ったアニへあたしは非難の声をあげた。やってみなきゃわかんないのに、アニはいつもこうやって諦めさせようとする。
「お前、やけに冷たくねぇか」
「これには十分でしょ」
「あたし、これ呼ばわり……?」
遂に「あんた」とすら呼ばれなくなってしまった。まるでペットの犬か何かみたいだ。エレンが気の毒そうな視線を向けてくる。こうなったら。やるべきことは一つしかない。
「エレン、勝てー!!!負けるな!!!」
「後であんたも蹴られたいんだ、わかった」
「あ、アニもガンバレ……」
ささやかな仕返しのつもりが、今のアニには逆効果だったらしい。凍てついた声色で心臓が鷲掴みにされたような錯覚に陥る。幾度となく受けてきたアニの蹴りは、冗談にならないくらいの威力だ。痛みを覚えている体が芯からぶるりと震える。引き攣った笑みを浮かべたまま、取り繕おうように声援を送った。
「いくぞ!」
エレンが掛け声と共に走り出し、アニが構えをとる。ライフルがぶつかり合って、乾いた音を立てた。流石に真正面からの力勝負では部が悪いのか、アニの体が徐々に後退する。まさか、このまま力で押し切るのか。アニが負けるかもしれない。エレンを応援していたはずなのに、複雑な気持ちが湧き上がり唾を飲んだ。同時に、エレンの体が前へぐらりと傾いた。アニが予めそう決めていたかのように、支えを失ったエレンの脇に回る。
「あっ」
声を出す頃には、ライフルがあたしの足元に転がってきた。アニのライフルがエレンのお腹にめり込むのが、やけにゆっくりと流れた。それからは早かった。エレンが痛そうな声をあげ、あたしが顔を顰める間もなく体が地面に転がされる。まさに、流れるような動きで決着がついてしまった。
「もう少し手心ってもんが人にはあんだろ!」
痛みに呻きながら言うエレンの文句はもっともだった。ライフルを取り上げた時点でやめにしても良かったはずなのに。アニは格闘術を披露してる時が一番生き生きしているから、しょうがないのだろう。夢中になるくらい楽しいなら、教官の目を掻い潜ってサボるのをやめて手合わせするか、あたしとやってくれればいいのに。エレンの嘆きとアニの返答を聞きながら、あたしはこっそり口を尖らせた。
「あんたも、知ってて損はしないよ」
「わかった!少し休憩しよう。ノエルも待ってるしよ」
からん、とライフルが投げ捨てられた音で顔を上げた。慌てた声を上げるエレンと視線が交わる。アニがいつもの構えをして、エレンを見据えていた。何が気に障ったのか、アニはやる気らしい。やけに好戦的なアニを止めようと立ち上がって、すでに遅かった。「うわっ」エレンの体がくるりと回転して、宙に投げ出される。聞くだけでも痛そうな音で地面に投げ出され、あたしの数メートル先で止まった。それでも力が緩むことはなく、アニはエレンの首を締め上げている。
「ぐう、う!アニ!降参だ、降参する!」
「降参?降参なんかしないで学習しなよ。力の使い方と女の子との話し方を!」
「アニ、やりすぎだよ!」
駆け寄ってきたあたしにちらりと目をよこしても、アニはエレンを締め上げ続ける。「わかった!覚えるから話せって!!」エレンが呻き声のように叫ぶ。アニは怪訝そうな顔をしているであろうあたしからの視線を断ち切って、顔を真っ赤にして苦しそうなエレンに囁いた。
「そう、そんなにもっとしりたいの?」
「ねえ、アニってば!」
攻撃の手を緩めないアニの背を引こうとして、「ぐああっ」また別の声が聞こえてきた。空から飛んでくる、物。いや、ライナー?金髪を視認しかけ、後ろから強く引っ張られた。「うわあっ!」「ぐっ」阿鼻叫喚と砂埃が舞っている光景を前にして、尻もちをついて、目を白黒される。引っ張られた方向へ振り返ると、アニが白けた目であたしをみていた。
「ありがとう、アニ」
「あんたがアレに挟まれて、死んだら困るんだよ」
あたしはアニのおかげで潰されなくて済んだらしい。笑顔でお礼を言うも、アニの返答は冷ややかだ。もっとありがとうって伝えたいのに、すっかりそっぽを向いてしまった。
「何でライナーが空から降ってくんだよ……」
「ねえ、アニ」
エレンの嘆きが悲しく響いたかと思ったら、一つの足音がその場を支配した。今まで見たことないような、暗闇のような瞳をたたえたミカサがこれまでにないような低い声で、アニを見据えている。
「私にもそれ、教えて」
「どうかな」
ミカサがエレンのことになると恐ろしいのは知っていた。でも、こんなに怒っているのははじめてかもしれない。アニの隣にいたあたしも必然的にその覇気を喰らってしまい、ただ黙り込んで動けなくなる。アニは置物のようになったあたしの肩を使って、ゆっくりと立ち上がった。
「この技は人間用なんだ。あんたに必要あるとは思えないけど」
アニは軽い足取りであたしの前へ出て、ミカサの前に対峙した。その足取りは全く臆することなく、ただ平然としている。ちらりと覗いた口元が少しだけ愉しげだったのには、きっとあたししか気づいていないだろう。
「ただ。猛獣に通用するかどうか、興味はある」
アニが構えをとった途端、緊迫した空気が塗り替わる。ミカサとアニ、この二人が戦うなんて。恐さよりも、誰もが想像したその結果にみんなの関心が注がれる。
「おいおい!あいつらがやんのか!?」
「夢のカードが!」
サシャとコニーが声をあげたのを皮切りに、みんな口々に声をあげ始めた。手合わせをやめ、ライフルを片手に二人の周りを囲む。肝心の二人は周りの騒めきにも一切の視線をよこさず、ただ睨み合っていた。
「やっぱりアニかな…?」
「ハッ!?馬鹿が!俺はミカサに晩メシ全部だ!!」
マルコの声を掻き消すようなジャンの大声で、あたしはふと我に返った。「エレン、お前はどっちだ」ライナーの言葉を自分ごとのように考える。エレンが結論を悩むかのように何かを呟いた。
「ノエル」
ライナーがあたしの方へ向く、その瞳が何を言いたいかは、言われなくてもわかっていた。迷うまでもない。ミカサには悪いけれど、あたしの心はもう決まっている。
「もちろん、アニ!」
そう声を出したら、アニの持つ蒼色の瞳があたしの方へ向けられた気がした。
「貴様ら!何をしている!?」
一発触発、そんな空気を壊したのは怒気を背負った教官だった。ピリピリとしていたその場の緊張感が別のものへと切り替わり、真っ二つに割れた群衆の間から出てきたキース教官の姿で完全に変わる。
「私は対人格闘訓練を開始すると言った。私闘をしろとは言っていない!」
キース教官の怒りは最もだ。青筋を立てて説教する教官に反論するものはおらず、話題の中心だった二人も睨み合いを辞めている。
「貴様らは、訓練と私闘の違いもわからんのか!」
教官は完全に怒り心頭の様子だった。全員への説教がやっと終わったかと思えば、夏真っ只中な今の時期に全員で訓練地を何周もさせられた。当然、ライフルは抱えたままだ。簡易的な兵補行進にアニとミカサの出来事など考えている余裕なく、解放されたのは夏の空が黒一色に染まってからだった。
「おつかれ、アニ」
倉庫にライフルを片付けてからの食事、それも訓練時間を大幅に過ぎているとなれば夕飯がどんな状態かは想像できる。悲しくなるくらい冷え切ったスープとパンを手に、いつもの席へ着席した。冷たいスープと僅かな風味が喉を潤す。夏の暑さからしたら、悪くはないかもしれない。あたしと同じくスープを空にしているアニに向かって、昼間のことを口にする。
「あたし、関係ないのに気圧されちゃったよ」
「どうなるか知りたかったなあ」アニが傷つくのは嫌だけど、二人の手合わせの結果を知りたかったのはあたしだけじゃないはずだ。訓練中にあんな人だかりができて、教官が見逃してくれるはずもないので、必然だったのだろう。惜しく感じながら、パンを一切れ口に放り込む。うん、普通。
「……あんたは」
「んー?」
やけに湿気ているパンをもぐもぐと噛み切りながら、アニの言葉の続きを促す。アニは一度そう言い淀んで、真っ直ぐにあたしを見ながら言葉の続きを紡いだ。
「あんたは。アイツとわたし、どっちが勝つと思った?」
アニの口から聞かれると思っておらず、咀嚼が止まる。その間も、アニはあたしの返答を待っていた。慌てて食べていたパンを喉奥へ追いやり、嚥下してからにっこりと笑ってみせる。
「そんなの当然!アニだよ」
「最初はエレンを応援してた癖に」
「そ、それは……」
「言葉の綾というか流れというか……」言い訳を始めたあたしをアニがため息混じりの視線でみてくる。逃げ場のなくなったあたしは、目を右往左往に泳がせた上でとある結論に辿り着いた。
「あ!……アニ、もしかして妬いて」
「なんか、言った?」
「な、ナンデモナイデス……」
凍りついてしまいそうな声で聞き返してくるアニに、あたしは片言で返答する他なかった。