訓練地の夜はあっという間に更けていく。ベットの淵に腰を下ろして、ダラダラと足を伸ばしていた。今日は水浴びがないし、寝巻きにも着替えたし、寝る準備は万端だが、いつまでも眠気がやってこない。かと言って、枕元に置きっぱなしの本に手を伸ばす気にもなれなかった。アルミンがおすすめしてくれたので借りてきたけれど、難しい文字が多くて背伸びしながら読まないといけない。早く返さないといけないのに、今の気分とは少し噛み合わない、なんて言い訳をつける。何をするわけでもなく、眼下で行われている会話に耳を傾けていた。
「私なんかしばらく恋愛してないよー、いいなあ」
「大丈夫!大丈夫!ミーナならすぐいい人が見つかるって!」
「ほんと?駐屯兵団にいればいいけど」
「年上狙いー?」
自室ではミーナとその友達たちが恋バナを開催している。ここ3年ですっかり見慣れた光景だ。ミーナたちも訓練終わりで疲れているだろうに疲労感は一切感じない。むしろ、目を輝かせて生き生きしている。
「ねえ、アニは恋したことある?」
「ないね」
まさか、とは思いつつもふとしたことを口に出す。どこか望んでいた回答得られて、なぜだか満たされた心地になった。これで頷かれたらあたしはどんな反応をしていたんだろ。
「だから、あんたの先生にはなれないよ」
「先生?」
本に向けられていた瞳がじろりとあたしに向けられるものの、何のことやら見当がつかず小首をかしげる。
「先生、先生ってうるさかったのに。もう忘れたの」
「ああ!」
記憶の底を掘り返されてやっと、弾かれたように顔を上げる。突然の声にミーナたちが怪訝そうな顔をしているので曖昧な笑顔で手を振って誤魔化す。ミーナたちが疑いながらも話に戻ったのを確認してから、話の続きを口にした。
「ベルトルトの力もあって、送り返されなくて済んだからね」
一時期、ベルトルトを先生と呼んで揶揄っていたことがあったっけ。きっかけがあったわけでもないのだが、最近は確かに言わなくなっていた。もう2年前になるのか、考えるだけで恐ろしいけれど、前ほどベルトルトを頼らなくなったので先に成長を喜ぶべきだろう。
「帰ればよかったのに」
「あたしがいなかったら寂しいでしょ」
「全く」
「嘘だぁ」
「嘘ついてどうするのさ」
あんまりな言い草に「ひええ」と小さく悲鳴をあげる。今でこそいい思い出だけど、合格をもらうまでは本当に生きた心地がしなかった。あのまま帰らされていたら、考えたくもない。
「大体、あいつは先生って柄じゃない」
「そうかな?ベルトルトは教えるの上手いよ」
ベルトルトはどちらかと言えば無口な方ではあるけど、教えを乞えばちゃんと丁寧に教えてくれる人だ。何でもできてしまうから多方面のアドバイスを受けられるし、あたしはいい先生になると思っている。
「あんたはさ……なんでそんなに知りたいの?」
「え?ぇ、え……うぅん……」
ひと呼吸おいてから、三白眼がじっとあたしを見つめてくる。急な話題転換に戸惑いながらも、漠然としたものを突いてくる質問に言い淀む。
「だって最近みんながそんな話ばっかりしてるし」
卒業間近でハンナとフランツが付き合って二年目を迎えてから、ミーナたち含めてそんな話ばっかりだ。訓練地では一定の周期で話題が入れ替わるが、恋愛の話は度々訪れる。舞い戻ってきては、訓練地の恋模様をぐちゃぐちゃに掻き回して去っていく。幸いながら、ライナーへの告白を許可する、という奇妙な経験以外はそれと言って被害を被ってない。これだけ盛り上がるし、あたしも興味がないとは言い切れないだろう。それに。
「あたしも知らないと……その」
「……その?」
「まずいかな、って……?」
アニからの白けた目線がひしひしと伝わってくるので「あはは」と乾いた笑いで誤魔化そうとするけれど、逃れきれない。自分でもわかってる。この手の話題についていけない癖して、なんであんなこと言ったんだって。
「そんなに知りたいなら、ジャンでも見ておけば」
「ジャン?ジャンはなんか……ミカサにぞっこんだよね」
いつから始まったのかは知らないけど、あまりにもあからさま過ぎる。昔、あの子と遊んでいた頃もジャンのように話しかけてくる男の子をよく見た。あの子はすごく可愛かったから、よく誘われたり、逆に意地悪されたりしていたっけ。あの子は気づいていなかったみたいだけど、側から見ていればその男の子たちがただの好意で近づいてきていないことくらいわかった。そういえば、いつの間にかいなくなってたな。あたしの見ないうちに振られたか、引っ越したんだろうか。
「ハンナといい……恋愛って人に夢中になることなのかな」
「さあね」
独り言のように呟いたつもりが、アニがさらりと軽く答えた。恋愛代表のハンナとフランツは言うまでもなく夢中。ジャンの入れ込みようをみていたら、そう考えても仕方ないはずだ。それ以外の恋愛を知らないのだから。
「あのバカップルは兎も角、アイツみたいなのを恋愛に数えたら哀れだと思うけど」
「玉砕してるもんね」
ジャンがミカサの心に入り込めてないのは火を見るよりも明らかだ。清々しいほどの砕けっぷりに気持ち良さすらある。残り一年もない訓練兵の間に、ミカサの心がジャンに向くことは奇跡でも起こらない限りないだろう。家族愛か恋愛感情か、真意はミカサにはわからないけど、エレンが一番の優先事項なのは確かだ。
「恋するとみんな、ハンナみたいになるの?」
「知らない」
アニがあたしの方を見ずに即答する。こういう話題に慣れてないから、ミーナたちに聞くのはどことなく気恥ずかしい。頼みの綱は無くなってしまったようだ。そっぽを向いていたアニの瞳孔がじろりとあたしへ向けられ、疑問を感じる間もなく言葉が被さってくる。
「あのさ、そこで集まってる人みたいに観察がしたいならそれで十分じゃないの」
「うー……そうじゃなくて、えっと……」
部屋の中心に集まって途切れることなく黄色い声をあげているミーナたちへ目をやりつつ、アニが言った。もっともな指摘にあたしは目を泳がせながら頭の中をかき回してそれなりの言い訳を引っ張り出そうと粘る。
「あんたさ、人を選んだ方がいいよ」
「ご、ごもっともデス」
あたしが返事を探し切るよりも先に、アニの冷めた双眸が向けられた。返す言葉もなく、そのまま正直に肩を落とす。明らかな人選ミスだということは耳が痛くなるくらい痛感した。
「それこそ、ミーナとかハンナに聞けば?何でわざわざ私に……」
「ミーナたちが盛り上がってるところを邪魔しちゃ悪いし、それに」
返答を待つアニの隣で視線を宙に彷徨わせる。あたしは何も考えずにそれらしい言葉を探し出そうとして、まるで自分の体ではないかのように自然と口が動いていた。
「その、もしアニに好きな人がいたら……やっぱり寂しいし」
「……そ」
アニは肯定も、否定も、しなかった。いつも通り、何も変わらないのに、一抹の不安が心を濁らせる。それこそ、想いを向けられずに嫉妬する乙女のような。妙な歯痒さに口を窄ませた。毛布を手繰り寄せて握りしめる。やり場のない熱を冷まそうとしたら、アニはあたしの顔を見ないままぽつりと溢した。
「なら、今を大切にすることだね」
これ――今は、いないってことで喜んでいいのかな。アニの本心かはわからないけど、こう言ってくれた以上、あたしはその言葉を鵜呑みにして笑っていればいい。
「そうだね、アニみたいなか弱い乙女は大切にしないと」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ!アニが言ってたのに」
紳士的に答えたつもりが、またもやアニの不興を買ってしまったらしい。「まあ、そうだけど」小さく付け加えるようなアニの本音にすぐさま「ほら!」と言い返す。そんなことするものだから、すぐに嗜めるようにして睨まれる。
「調子乗らないで」
「はい……」
すっかり萎縮したあたしは両手を膝において、顔を上下に振った。か弱い乙女の扱いは難しい。簡単に手を出してみるものじゃないな、とっても。
「……恋愛、ね。あんたが頼りにしてるライナーに聞いてみたら?」
「ライナー?」
ふいに出た人物の名に驚いて目を見開く。アニが何かとライナーに対して冷たいのはあたしの中で有名だ。珍しい人物の名前に聞き間違いかと疑ってしまう。アニの表情がライナーに苦言を呈す時と同じだったので、聞き返した口は何も言うことなく閉じた。
「あの様子じゃ……私より酷い回答が聞けるかもしれない」
「酷いんだ?」
自分でなくライナーに聞くべきだと言われる話の流れだったのに。違和感のある息継ぎは気まずさではなく、呆れだったらしい。ライナーには悪いけど、相変わらずなアニのダメ出しにこっそり笑んでしまう。
「ああ、最悪さ。何の役にも立たない」
「そ、それじゃあ、聞く意味ないんじゃ……」
アニがあまりにもキッパリと何の迷いもなか言うので、ライナーが気の毒になってくる。あたしも知らないところでアニに言われているんだろうか。ああ、考えちゃダメだ。答えのない問はするものじゃない。知らない方がいいこともある。
「聞かなくていいよ。あんたが、あんなやつの話」
「あ、アニ?」
あたしの言葉を無かったことにするみたいに、アニは淡々とただ力強くそう口にした。透き通る湖の色がじっと向けられ、あたしはアニが次の言葉を口にするまで、その瞳を見つめ返すしかできなかった。
「……やめた。寝る」
「え。ま、まだ早いんじゃ……?」
視線が断ち切られ、青が視界から消える。緩やかな時間の流れから引き離されて、弾かれたように頭を上げた。そそくさとアニが動き始めるのに面食らって一拍遅れてから声をあげる。意味もなく窓の外に視線をやるも、外はどっぷりと闇に浸かっているままだ。正確な時間こそ分からないが、最後に聞いた鐘の音からしてアニが普段眠りにつくような時間じゃないはず。
「寝る」
戸惑うあたしを前髪の隙間から覗いていたアニがそう言い直してベッドの端に避けられていた毛布を掴む。頭だけ出して包まり、もう終わりだとあたしに視線で語ったっきり寝る体制に入ってしまった。布団の膨らみがミノムシみたいなアニとあたし一人残され、下で行われている女子会の話題は様々な男子に飛び火しながら盛り上がり続けている。あたしの入り込む余地はとてもじゃないがなさそうだ。本を読む気分でもない。規則正しく上下する毛布を見ていると、緩やかな眠気に瞼が重くなってくる。
「アニとノエル、もう寝るの?」
「はやーい!また今度昔のライナーの話とか聞かせてよ」
あたしも寝よう。思い立って毛布を引く。ミーナたちがその衣擦れ音で、下から声をかけてきた。顔を見せないまま返事もあれなので、毛布を体にかけたまま、ベットの淵から少しだけ顔を出す。
「う、うん!おやすみ」
「私も寝よっかな……」
「ノエル、おやすみー!」
眠気に誘われて小さく欠伸をしている子もいるにはいるが、少数派なのが末恐ろしい。ミーナの疲れ知らずな挨拶を聞いてからあたしは再び横になった。なにやら視線を感じて隣に向くと、アニが目を開けていた。
「…あんたもねるの」
「いれてー」
「……はい」
「ありがと!」
アニが開けてくれた隙間に体を入れ込んで、もぞもぞと布団を持ったまま横になる。一度横になると、今日の疲れがじわじわ楽になっていく気がした。
「大変だね、人気者は」
「あはは……ライナーがモテてるから」
さっと寝てしまうつもりが、さりげなくいつかライナーの話をすることになってしまった。四人の中で一番付き合いが短いあたしよりもベルトルトやアニに探りを入れて聞き出した方がいいのに。
「嫌な気分で寝たくないんだけど」
「あ、ごめん……」
アニが端正な顔をくしゃっと歪ませ、寝返りをして不貞腐れるように背を向けてしまった。今のアニは「ライナー」の名前すら聞きたくないらしい。可哀想になるくらいの嫌われようだ。ほんと、一体何をしでかしたんだろう。
「別に。あいつが全部悪い」
今度機嫌のいい時にでも聞こう。そう思ったと同時にアニが背を向けたまま、つぶやく。この様子だと訓練兵を卒業するまでに仲直りしてくれそうにない。アニがライナーを許すのは相当先になりそうだ。