帝国暦487年10月、オラニエ星系 side: リリーナ
リリーナは激怒した。
おそらく旗艦の執務室にある机は、その生涯で初めて主に蹴られるという名誉にあずかった。
「気でも狂ったの!!!!」
叫び声が部屋に響き、壁の戦術スクリーンが一瞬だけ振動した。
リリーナがここまで嘆いた理由は他でもない。
金髪の戦争大好き気狂いが、よりにもよってこのタイミングで結婚を提案してきたのだ。
それもリリーナにだ。
こちらが勝手にとはいえ、帝国軍が本来対処すべき同盟軍と激闘を繰り広げている最中である。
ダゴン星域では艦隊戦を行い、帰路でも遭遇戦を繰り返し、アムリッツァでは五万隻以上の大規模艦隊と衝突したばかりだ。
それを何とか切り抜け、ようやく艦隊をまとめ直しているこの状況である。
その裏で、帝国軍の総司令官が色恋沙汰に熱を上げている。常識的に考えれば、呆れて笑うところだろう。
だが、問題はそこではなかった。問題は、そのやり方だった。
あろうことか帝国軍を率いた戦争狂いは、リリーナの愛するメルゲントハイム伯領に堂々と居座り、輸送艦隊を大量に徴用した。さらに造船所や補給施設の一部にまで手を入れ、帝国軍の兵站基地として利用している。
そこまでは、まだ理解できる。想定はしていなかったが、非常時の帝国軍への協力は帝国貴族としての義務の内だろう。
だが、その次が許せなかった。ラインハルトはリリーナの母親ヘレーネを呼び出した。
呼び出しただけではない。帝国法を持ち出し、勝手に婚約の形式を整え、ややこしい条件を山ほど付けたうえで、母親からの呼びかけという形で結婚を迫ってきたのである。
あまりにも露骨な外堀の埋め方だった。
宮内省を通すことすらないというのも、結婚という形で取り込みたいのがどの集団なのかというラインハルトの意図を示す一つの証左なのだろう。
「卑怯者……!」
リリーナは吐き捨てるように言った。
姉狂いだと思っていたが、意外にロリコンだったというのはこの際見なかったことにしても、ヘレーネを引っ張り出してくるのは、どうしても許し難い行為だった。
リリーナの父が戦死したとき、ヘレーネはちょうど下の妹を妊娠していた。
そのため、表向きは静養という名目で領主館に留め置くことができた。実際には、政治や軍事から遠ざけるための措置だったが、それでもリリーナにとっては都合がよかった。
それ以来、リリーナは可能な限り顔を合わせないようにしてきた。
父は違った。リリーナの異常性を理解していた。むしろ、それを面白がっていた節すらある。
常識外れの構想を語っても、叱るどころか興味深そうに聞いていた。造船所に入り浸り、設計図をいじり、軍人や技術者と議論していても、止めようとはしなかった。
だがヘレーネは違う。彼女は典型的な帝国貴族だった。
礼儀。作法。責務。家名。
貴族令嬢としてあるべき姿を、幼いリリーナに徹底的に叩き込もうとした。それらはすべて、メルゲントハイム伯爵家の娘として当然の教育だった。だがリリーナにとって、それは拷問に近かった。
軽いトラウマと言ってよかった。
だからこそリリーナは、父の死後すぐに政治と軍事を握り、母を遠ざけた。それが最も合理的だったからだ。そして今。その母親を、よりにもよってラインハルトが連れ出してきた。
もちろん、内容についてもリリーナにはそのまま受け入れがたいものだった。
突き付けられた内容をリリーナはもう一度読み直す。
『メルゲントハイム伯爵領の内政および外交については、当面の間ラインハルト・フォン・ローエングラムおよびメルゲントハイム伯爵夫人ヘレーネが摂政としてこれを代行するものとする。また、伯領における司法権、通信網および星域航路の管理権についても同様に摂政の権限に属するものとする。ただし伯爵位そのものおよび伯領の最終的な統治権はリリーナ・フォン・メルゲントハイムに帰属する。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、メルゲントハイム伯艦隊司令長官として艦隊の統帥権を持つ。ただし艦隊の編成および戦術運用においてはリリーナ・フォン・メルゲントハイムの意見を尊重する。
メルゲントハイム艦隊の艦艇整備および補修については、従来と同等以上の水準を維持するものとし、その管理責任はリリーナ・フォン・メルゲントハイムに帰属する。
メルゲントハイム伯領における軍艦の新規建造数は年間百隻以下とし、計画及び艦種についてはリリーナ・フォン・メルゲントハイムがこれを決定する。これを超える建造を行う場合には、ラインハルト・フォン・ローエングラムの許可を得るものとする。
メルゲントハイム伯領で開発された軍事技術のうち、ラインハルト・フォン・ローエングラムが認めたものについては、帝国軍技術局との共同研究開発とする。その研究費用の半分は帝国軍技術局が負担する。
ラインハルト・フォン・ローエングラムはメルゲントハイム伯領の領土保全を保証する。メルゲントハイム伯領の継承権は、リリーナ・フォン・メルゲントハイムの子もしくは妹のみに認められるものとし、その他の者の継承は認めない。
メルゲントハイム伯領におけるリリーナ・フォン・メルゲントハイムの研究および実験については、領民の安全および経済活動を著しく阻害しない限り、ラインハルト・フォン・ローエングラムはこれを妨害しない。また、メルゲントハイム伯領の技術官僚および技術職員の任免権はリリーナ・フォン・メルゲントハイムに帰属する。
メルゲントハイム伯領で開発された軍事技術および兵器体系は、帝国軍が必要と判断した場合、帝国軍に優先的に供与されるものとする。また、技術供与先の選定は外交として扱う。
劣悪遺伝子排除センターを始め領内のあらゆる施設において、裁判なしの処刑及び刑罰とそれに相当する処置を行うことを禁止する。
メルゲントハイム伯領は帝国への反逆行為を行わないものとし、帝国軍に対する敵対行為を禁ずる。
本協定の内容は両者の合意なく第三者に公開しない。』
艦隊の制限。特に、武力に関しては何が何でも取り上げようという意図を感じる。
それは形式上は結婚であっても、実質的にはメルゲントハイム伯領をミューゼル……ローエングラム伯の秩序の中へ組み込む取り決めに近い。
要するに自分に従えという命令だろう。
試射も終わってない恒星間誘導弾をオーディンにでも叩き込みたい気分だが、通信妨害を考えると、この距離から遠隔でセットするのは難しい。
しかし、よくよく読み直してみると、完全に受け入れられないものでもなかった。
幸いにして、政治的な要求にまみれていて、全くもってリリーナのことを女だとは思っていなそうな内容だ。別に、幼女趣味というわけでもないとすれば、手を出される前に目的を達成して離婚なり処分するか、子供が欲しいなら妹との子供でもいいはずだ。
そもそも、婚約騒動の時に家臣らが調べた際、ラインハルトに浮いた話一つないことにリリーナは疑問を感じていた。寵姫たる姉に子供ができないことと併せて考えると、弟のラインハルトにも精神面または肉体面の機能に問題があるとしてもおかしくない。
そして、見方を変えれば、リリーナにとって面倒な管理業務を丸投げするようなものでもある。別にリリーナは好きで領主業をやっているわけではない。内政外交など丸投げできるなら丸投げしたいほどだった。
リリーナは机の上で指で叩きながら、ふと考えた。
……まあ、考えてみればやっていることは帝国と変わらない。
リリーナが帝国に忠誠を捧げていることにしているのは、ひとえにリリーナが好き勝手にすることを許してくれるからだ。
帝国は形式さえ整っていれば細かいことは問わない。緊急時の軍役と多少の税と名目上の忠誠。
その三つを満たしていれば、領内で何をしていようとほとんど干渉してこない。
だからこそ、リリーナは好きなように造船所を拡張し、研究施設を作り、艦隊を整備することができた。
もし仮にリリーナがうっかり帝国を滅ぼしたとしたら、その瞬間から帝国領を管理する必要が出てくる。
無数の惑星と無数の航路、無数の行政と利害関係。それを全部、自分で処理する羽目になる。
リリーナは顔をしかめた。
……絶対に嫌だ。
つまり帝国という存在は、言ってしまえばリリーナの代わりに周囲の変な領主どもを管理してくれていたのだ。
それがローエングラム伯に変わったところで、別に困ることではない。
しかも、今回に限っては、一部の貴族が自身の領内でリリーナの資産を差し押さえたり、破壊行為を行ったものまでいるようだった。それに対して帝国がやめさせるようなこともなかった。リリーナにとって国家は手段であり、使えない国家になんの存在価値をも感じなかった。
リリーナはふと考える。
あの金髪の戦争狂いなら、帝国の面倒な政治連中をまとめて黙らせてくれる可能性すらある。
少なくとも、リリーナの研究が役に立つ限り。管理業務を代行してくれて、安全保障を提供し、ついでに研究予算まで出してくれるのなら。多少の不自由は受け入れてもいいのかもしれない。
どうせ、借金まみれの自転車操業なうえに、プロジェクト管理を任せられる人材は払底している。その上、自由惑星同盟の領域やこれから拡張していく銀河の各領域の管理をリリーナが一手にやるのは現実的ではない。
そして、実力行使に出てきたとしても、いつでもオーディンを吹き飛ばせるようにしておけば、そうそう手を出してくることはない。何より、メルゲントハイムの中性子衝撃砲艦隊は近距離なら主砲の安全装置を作動して無力化できるようになっている。数隻でもこちらの手元に残しておけば、反駁は十分可能だった。
いくつかの条件を織り込めば、むしろリリーナにとって楽ができる可能性の方が高い。書類を眺めながら、リリーナはそんなことを考えていた。
そして何より、家臣たちは、ここで戦いたくないだろう。彼らの家族はかなりの数が帝国軍が占拠しているトワングステにいる。
ラインハルトは今のところは「断ったらどうする」とは一言も書いていない。だが暗黙のうちに、それをちらつかせているのは明らかだった。少なくとも、自分ならトワングステに熱核兵器を叩き込むだろう。
そして、それをやられて困るのはリリーナも同じだった。
トワングステ。そしてトルン。この二つは単なる拠点ではない。メルゲントハイムという国家そのものを支える中枢だった。
このどちらか一つでも破壊されれば、現在の艦隊の維持すら難しくなる。まして両方が戦場になれば、メルゲントハイム伯領そのものが崩壊しかねない。
そしてその状況で無傷の帝国軍主力と正面から戦う。
リリーナはアムリッツァでの戦闘を思い出した。あれは偶然の遭遇戦だった。それで小型艦中心とはいえ、百五十隻以上の艦を失っている。
もしラインハルトの主力艦隊と正面から衝突すれば、戦い方を変えてもそれなりに被害が出かねない。
勝てるかどうかではない。国家として耐えられるかどうかの問題だった。リリーナは椅子に深く座り直す。
そもそも、ラインハルトなんかに構っている暇があれば、正直言えばリリーナへの資源調達を妨害している貴族たちを叩きのめしたいのだ。
そして、リリーナの最終目的を考えるならば、人類宇宙は一つに統一されていることが望ましい。その規模を自らの手で管理しきることは困難である以上、破壊によって人類社会そのものを縮減することでそれを達成する。それがリリーナの想定だった。
だが、それを他者が成し遂げるのであれば、リリーナにとってはそれでも構わなかった。
最後に、リリーナは条件をもう一度読み返した。
……まあいい。
諦めるところは諦める。
リリーナはそういう性格だった。
一時間ほどかけて条件をいくつか加える。
研究の自由。
一部の艦隊指揮権。
辺境区の扱い。
それらが保証されるなら受け入れてもいい。
リリーナは端末を引き寄せた。
内容は簡潔だった。
結婚は受け入れる。ただし、いくつかの条件を追加する。それが守られるなら問題はない。
「これらの全ての条件から結婚だけを外してくれるのが最適なのだけど…………」
送信ボタンを押したあと、リリーナは小さく呟いた。
「……ほんと、最悪の
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