帝国暦487年10月、メルゲントハイム伯爵領 首都惑星トワングステ side: ラインハルト
たった半日で返答が来たこと。そしてその内容が、ほとんど同意に近いものであったことは、軍事的な脅迫や威圧が前面に現れてからがスタートと考えていたラインハルトに少なからぬ驚きを与えた。
それを受け取ったラインハルトはすぐに端末を閉じ、キルヒアイスを呼び出した。
「お呼びでしょうか、ラインハルト様」
「これを見ろ」
ラインハルトは机の上に書類を投げるように置いた。
キルヒアイスはそれを手に取り、ざっと目を通す。
そして眉をわずかに上げた。
「……もう返答が?」
「条件をいくつか付けてきたがな」
ラインハルトは椅子に深く腰を掛けながら言う。キルヒアイスは書類を一度読み直し、それが許容範囲であることを理解する。そして、静かに口を開いた。
「おめでとうございます」
ラインハルトは意外そうな顔をした。
「……何がだ」
キルヒアイスは虚を突かれたように驚き少し笑った。
「ご結婚です」
その言葉に、ラインハルトは一瞬だけ言葉を失う。今まで戦略や条文として読んでいた書類の意味が、急に現実のものとして意識に浮かび上がったからだった。
立ち直ったラインハルトはキルヒアイスとともに、机上に並べられた条文を一つずつ目で追っていった。最初に記されていたのは軍事条項だった。
『メルゲントハイム伯領に対する攻撃、又はその発生が不可避と認められる勢力との戦闘については、当該戦闘の終結まで、リリーナ・フォン・メルゲントハイムに指揮権を認めるものとする。ラインハルト・フォン・ローエングラムは、これを妨げない。』
「これは……暴発した馬鹿貴族どものことか」
ラインハルトは小さく呟いき、キルヒアイスも頷いて答える。
「ええ。いくつかの辺境惑星で、一部の若手貴族が討伐令を期待して勝手に軍を動かしたようです」
メルゲントハイムの急速な台頭は、当然ながら周辺の領主たちを刺激していた。そして、それ以上の数の領主たちを経済的従属化におき、リリーナが必要なものを吸い上げていた。
そんな帝国貴族の中には、オーディンでいずれ討伐令が出ると踏み、先に武功を立てようと動いた者もいたのである。ラインハルトは鼻で笑った。
次の条項へ視線を移す。
『メルゲントハイム艦隊の二割を親衛艦隊として編成し、その指揮権はリリーナ・フォン・メルゲントハイムに専属するものとする。』
「いいだろう」
キルヒアイスが少しだけ驚いた顔をする。
「よろしいのですか。メルゲントハイム艦隊の規模を考えれば、二割でも相当な戦力になります」
ラインハルトは軽く笑った。
「完全に艦隊を取り上げれば、納得しないだろう。あれほどの艦隊を自分で作り上げた人間だ。いきなり丸裸にされれば、どんな条件を付けても反発するに決まっている」
むしろ二割程度で満足するなら安いものだ、とラインハルトは思った。その艦隊戦力ならば、戦ってラインハルトが負ける道理はない。大事なのはラインハルトがいざとなったら力でもってそれを止められるかどうかだ。
さらに読み進める。
『メルゲントハイム伯領に対する討伐令、封土没収、もしくはそれに準ずる政治措置の発布をラインハルト・フォン・ローエングラムは阻止する。』
「……」
オーディンでは馬鹿まじめに検討されているようだったが、いざ艦隊戦力が帰還すればオーディンの何者が討伐令を受けるだろうか。
そして次の条項。
『爵位を継いでから新たに開拓または征服した領土については、メルゲントハイム領から千光年以上の遠方に限り、その開拓および施政の執行権はリリーナ・フォン・メルゲントハイムに帰属する。これに要する費用については、当該遠方領土の収入の範囲内において賄われる限り、ラインハルト・フォン・ローエングラムはこれを妨害しないものとする。』
ラインハルトは一瞬だけ目を細めた。
「……ずいぶん遠いな」
書面から視線を上げる。
キルヒアイスは静かに星図を広げ、机の上に滑らせる。 ラインハルトの前に示されたのは、帝国領の広大な星域図だった。
キルヒアイスは一点を指し示す。
「ここがメルゲントハイム伯領です」
ラインハルトはそれをしばらく見つめていた。
当然ながら、メルゲントハイム伯領のほぼすべては、その千光年のはるか内側に収まっている。ラインハルトからすれば、産業基盤以外についてはそこまでの興味を抱いていなかった。
大方、なにかの試験場でも欲しいのだろう。そう考えたラインハルトはわずかに口元を緩めた。
「まあいい。このくらいの譲歩は必要だろう。」
ラインハルトとしては中枢を抑えることが先決だった。逆に、辺境の開発惑星まで文句をつける気もなかった。
次の条文。
『資源およびエネルギー資産の管理はラインハルト・フォン・ローエングラムの権限に属する。ただし技術開発および艦艇建造のため必要と認めたものについては供与を拒まない。技術開発予算は前年と同等の水準を維持する。』
「……なるほど、強欲だな」
ラインハルトは軽く息を吐いた。
「研究者というのは、どこでも金を食うものらしい」
「ラインハルト様……」
キルヒアイスが静かに声をかける。
ラインハルトも、その有用性については十分承知していた。無駄になる金は嫌う。だが、有効に使われるものに過剰な制限をかけることもまた、彼の好むところではない。
むしろ、技術に対する投資はこれまで帝国が軽視してきた分野でもある。
とはいえ、現状の詳細な財政状況までは把握できていないものの、提示されるだろう額が相当に大きいことだけは明らかだった。
「……このままでは多すぎるな」
しばらく考えた後、ラインハルトはそう結論づけた。
結局この条文については協議の結果、今年度に限り予算は三分の二とするという形で決着することになる。
ラインハルトは最後の条文に目を移した。
『夫婦生活および家庭内の事柄については、リリーナ・フォン・メルゲントハイムが取り仕切る。ラインハルト・フォン・ローエングラムはリリーナ・フォン・メルゲントハイムの身柄の拘束、暗殺および排除を試みない。』
ラインハルトは思わず眉を上げた。
「夫婦生活というのは……これはどういうことだ」
しばらく沈黙が流れる。
キルヒアイスは条文をもう一度読み、少し考えてから口を開いた。
「おそらく……」
言葉を選びながら続ける。
「政治的な意味合いもあるのでしょうが、直接的には……その……なんというかお二人のお子をどうするかに関する条項ではないでしょうか」
ラインハルトは一瞬黙り込んだ。
「子供だと……」
彼は呆れたように言った。
「結婚するとはいえ、俺は十二か十三の少女に手を出すつもりはない」
書面を指先で軽く叩く。
キルヒアイスは静かに言った。
「ですが、あちらから見ればそうは分からないのでしょう」
ラインハルトは視線を上げた。
「どういう意味だ」
「ラインハルト様は、彼女の領地と艦隊を事実上掌握することになります。彼女の立場からすれば……最悪の場合を考えるのも無理はないかと。」
ラインハルトはしばらく何も言わなかった。
条文をもう一度見下ろす。
『夫婦生活および家庭内の事柄については、リリーナ・フォン・メルゲントハイムが取り仕切る。ラインハルト・フォン・ローエングラムはリリーナ・フォン・メルゲントハイムの身柄の拘束、暗殺および排除を試みない。』
「……そうか」
ふと理解した。
「分かった。これも認めよう」
それは決断というより、確認に近い口調だった。
しかし、書類を閉じたあとも、ラインハルトの表情はどこか釈然としていなかった。しばらく黙っていたあと、ぽつりと言う。
「……妙なものだな」
キルヒアイスが視線を向ける。
「ラインハルト様……」
ラインハルトは窓の外の星々を眺めながら言った。
「私はこの手で宇宙を手に入れるつもりだった。それが結婚一つでその一歩手前まで手に入るとはな」
その声には、皮肉とも戸惑いともつかない響きがあった。
ラインハルトにとって、ついこの間まで宇宙とは奪い取るものだった。艦隊戦で勝ち、敵を屈服させ、その上に築くもの。だが今、目の前にあるのは違う。
戦って奪ったのではない。一人の少女と婚姻することで、帝国最大の危険な勢力が味方に回る。それで宇宙の均衡が一気に変わる。ラインハルトの素の能力をもってすればそう遠くない未来に、宇宙は手元に転がってくる。
あまりにも、戦いとしては奇妙だった。
「それにしても…………」
ラインハルトはリリーナがあれでも少女だということにようやく思い出していた。
「皇帝が姉上を連れ去ったのは、姉上が15の時だった…………宇宙を手に入れるために、あれと同じ悪行を為すとはな」
「ラインハルト様…………」
キルヒアイスは少し考え、それから静かに言った。
「ラインハルト様はただ宇宙を手に入れたわけではありません」
ラインハルトが振り向く。キルヒアイスは続けた。
「宇宙を守ったのではないでしょうか」
ラインハルトは眉をわずかに動かす。
キルヒアイスは穏やかに言う。
「それは宇宙を手に入れることとは、また別の偉業です」
ラインハルトはしばらく黙っていたがやがて頷いた。
「キルヒアイス」
「はい、ラインハルト様」
ラインハルトはキルヒアイスの目を見つめる。
「俺はあれを御することができると思うか」
赤毛の副官は答えた。
「ラインハルト様以外の何者に、それが叶いましょう」
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