日間ランキングに載っていたみたいです。応援ありがとうございます。
帝国暦485年7月、ヴァルハラ星系 帝国首都星オーディン
噂や流言にとって宮廷ほど住み心地の良い場所は無い。皇帝の意向は驚くべき速度で人から人へと伝達され、瞬く間に貴族社会の隅々にまで広がっていった。
ただし、それが正確に伝えられるとは限らない。
「ラインハルトに貴族家を継がせる」との話は、当初こそ絶えた家名の継承や養子入りといった案が入り混じっていたが、やがて「どこかの伯爵家に婿入りさせる意向」という形で一つにまとまりつつあった。
そうなると、次に話題となるのは“どの家か”という点である。
この問いには、多くの者が一様に同じ答えにたどり着いた──メルゲントハイム家。
当主は女子であり、ラインハルトとは面識がある。加えて、あまりにも都合の良すぎる“タイミングの一致”が噂の成長に拍車をかけた。
ある者は「帝国軍が同家を掌握しようとしているのだ」と囁き、またある者は「他に婿の宛てもないだろうから、受け入れるに違いない」と憶測を重ねた。
そしてそれが“単なる噂”を越えたのは、宮内省までもが静かに動きを見せたときだった。
これを、噂に踊らされたと見るか、それとも噂を意図的に流布させ貴族社会の反応を探ったものと見るか、それは立場によって解釈が分かれるところだろう。
だが、いずれであろうと一点は確かだった。
両者へ内々に打診が行われたこと、それは紛れもない事実であった。
帝国暦485年7月、メルゲントハイム伯爵領 自由浮遊惑星トルン side: リリーナ
リリーナがヴァンフリート星域に出向いていたことでストップしかけていた各種プロジェクトの立て直しが一通り終わり、メルゲントハイム領に戻ってきてから初めて落ち着きを取り戻したリリーナのもとに吉報と凶報が届いていた。
吉報というのは帝国軍からのもので、中性子衝撃砲搭載艦とその製造設備まで含めて買い取りたいという申し出であった。リリーナも提案しようとしていたところでまさに渡りに舟であったが、それ以上にその買い取り価格がリリーナの頬を綻ばせた。帝国軍が提示した金額は破格のものであり、艦艇は一隻あたりが普通の戦艦の五十倍で何隻でも、造船所もそれに応じた高額での買い取りだった。
喜び勇んだリリーナは、ヴァンフリート星域に供出した百隻のみならずその後に次々と完成した追加の百五十隻も全て売却することを即座に決断する。そして、そのまま二百五十隻の艦隊を帰りの使者とともに帝国軍に送ることにした。それに加えて、造船所についてもトルンの軌道から移動させた後で、高調波ワープエンジン数十個を取り付けて帝国軍工廠に送りつけた。
帝国軍からは艦艇五十隻分と造船所以外の支払いが遅れることについての陳謝と性急すぎることへの苦情が長々と送られてきたが、ご機嫌モードで鉱物資源を買い漁っているリリーナにとってそれは蚊に刺されたようなものだった。
しかし、その穏やかなご機嫌も、宮内省からの一報が届くまでのことだった。
「……私に、婚約ですって?」
声には驚きというより呆れが滲んでいた。リリーナにとって、帝国宮内省などまず関わりのない存在である。それだけに、その連絡がどれほど例外的かを認識できていなかった。
そして、その相手はよりによってラインハルト・フォン・ミューゼル。ヴァンフリート星域でリリーナが共に戦った若き准将であり、確かに年齢的にもおかしく無いのかもしれない。
確かに今のリリーナは女性であり、貴族当主であり、政治的に見れば縁談は理にかなっているのかもしれない。だが内心では、自分は依然として“男”のままだという感覚が半分抜けていなかった。その上、ラインハルトはリリーナが前世から苦手なタイプ、気が強く怒りっぽい気質が見え隠れしており、人としても相性が悪そうだった。
「ただ、見た目はいいのよね.......」
一つ心惹かれるものがあるとすれば、それは彼の容姿であり、今世か前世かは分からないがリリーナの好みに良く合致していた。いっそのこと皇帝の寵姫であるという彼の姉だったら喜んでそばに置きたいとすらリリーナは思っていた。いっそのこと婚約の条件でラインハルトに女装させてみてはという投げやりな思考が浮かぶも、流石に口に出さない程度の分別はついていた。
ところが、家臣たちはこの話に案外乗り気だった。
「ですが姫様、これは好機とお考えになってもよろしいのでは? ミューゼル准将の姉はグリューネワルト伯爵夫人ですし、この婚約も陛下のご意向とか.......」
言いよどんだ後、家臣はほんの少し口元を緩めた。
「……本人も、なかなかの器量よしと評判でございます。お若いながら軍功もあり、見た目も整っておられる。お似合いかと」
リリーナは静かに頭を抱える。まずい、このままじゃ進められかねない。
それに、相手は宮内庁ということもあって、適当な理由で誤魔化すのも難しそうだ。それに何とか体よく断ることができたとて、今後も似たような話はそこらから湧きだしてくるに違いない。
そして、リリーナとしてもラインハルトとの個人的友誼を断ち切る必要はない。そのためには能力主義者であろう彼にとって最も納得のいく方法でこれを解決すればいい。そう、こんなこともあろうかとリリーナはとある秘策を準備していたのだった。
もとは他の用途のためのものだったので少し不安だが、実行するしかない。リリーナはしばらく頭を抱えた後、それを実行に移したのだった。
帝国暦485年7月、ヴァルハラ星系 帝国首都星オーディン
「この俺がどこぞの門閥貴族の娘と婚約だと!!」
帝都オーディンの下士官向けの下宿、壁の薄いその一室でラインハルトは伝えられたその報に驚いていた。成人後に伯爵に叙されることに関しては前向きに考えていたラインハルトであったが、それが名家の令嬢との婚約によって成されるとあっては冷静ではいられなかった。
「彼女たちは、皮膚の外側はまことに美しいが、頭蓋骨の中身は空っぽか、さもなくばクリームバターでできている。俺はケーキを相手に恋愛するつもりはないし、ましてや婚約など――!」
そう吐き捨てるように言いながら、ラインハルトは報告書の紙束を乱暴に放り投げた。乾いた音を立てて、それは薄い木製の床に舞い落ちる。
キルヒアイスは何も言わず、それを拾い上げ、整えると、最後の一枚をそっと差し出した。
「ラインハルト様……その、お相手のお名前です」
ラインハルトは一瞬、目を細めたままキルヒアイスの手元を見た。その名前に視線が止まり、金色の睫毛がぴくりと動く。
「リリーナ・フォン・メルゲントハイムだと....」
名前を見たラインハルトは一転して落ち着きを取り戻し、ゆっくり腰かけてから考え込み始めるのだった。
そして、それから数日、ラインハルトは珍しく思考の渦に呑まれていた。
読んでもいない報告書を前に、ずっと机に肘をついていたラインハルトに一通の書簡が届けられた。手紙の差出人はメルゲントハイム伯爵リリーナ、ラインハルトがまさに頭を悩ませていた相手であった。
「まさか……返答か?」
紙封を裂き、中身を広げたラインハルトは、思わず眉をひそめた。
手紙は便箋数枚に渡っており、そのほとんどが数式で埋め尽くされていた。中性子衝撃砲の出力モデル、粒子収束の相関解析、場の歪み計算、非線形加速率……どの式も異常なほど整理され、定義や前提条件まで丁寧に書き添えられている。だが同時に、内容の高度さは並の技術将校では到底太刀打ちできないレベルだった。
そして、最後の一文。
「これらを用いて、以下の理論式を導きなさい。なお、複数人での計算を推奨します。
――メルゲントハイム伯爵 リリーナ」
「……は?」
ラインハルトは一瞬、目を瞬かせ、それから口元に苦笑を浮かべた。
「まさか、婚約の返答が……宿題か?」
内心は複雑だった。子供じみた悪戯とも思えるが、内容は本物だった。これは明らかに理論物理の訓練を積んだ者の仕事だ。生半可な知識では太刀打ちできない。ラインハルトはキルヒアイスと数人の技術士官を招集してこれにあたることになる。
かくして、帝都の一角、古びた下宿の一室で、若き准将と数人の技術士官たちによる“静かな決戦”が幕を開けた。
式は複雑だった。前提条件に引っかかり、導出過程で行き詰まり、想定されている数学的トリックに気づくまでに二日を要した。そして三日目の明け方、ようやく最後の証明が紙の上に完成した。
「……ふう」
疲労と達成感が同時に押し寄せる中、ラインハルトは一枚の紙を見つめたまま呟くのだった。
お気に入り・評価・感想・ここすき等々どうぞよろしくお願いいたします。