帝国暦487年10月、メルゲントハイム伯爵領 首都惑星トワングステ side: リリーナ
母ヘレーネによって特大の精神的打撃を受けたリリーナを、ラインハルトは奇妙なものを見るような目で眺めていた。
しかし、あれよあれよという間に話は進み、「夫婦の絆を深める」という大義名分のもと、気が付けば、リリーナがラインハルトの手の甲に口づけをし、そのまま二人で地上の領主館で夜を過ごすことになっていた。
巧みな話術というのは時には戦艦をも凌駕する力になる。そして、夫婦生活という盾でもってローエングラム陣営最大戦力のオーベルシュタインが撃退されれば、キルヒアイスすら引き下がらざるを得なかった。
だが、艦上生活が長すぎたせいか、あるいはそれ以外の理由か、屋敷の広い廊下を歩いていてもリリーナはどこか落ち着かなかった。足音が石の床に静かに響き、壁に掛けられたはずの古い額縁や由緒ある甲冑がおかれていた跡が、まるで久しぶりに戻った主を観察しているかのように並んでいる。
幼い頃から見慣れているはずの場所なのに、どこかよそよそしく感じられた。わずかに機械音のする生活に慣れすぎてしまったのかもしれないし、何よりリリーナの性には会っていなかった。
ラインハルトがその様子を横目で見ながら、ふと呟いた。
「よくあの母親を七年も幽閉できてきたものだな」
リリーナはすぐさま顔をしかめる。
「よくも解き放ってくれたわね」
振り返りもせず、即座に言い返した。 声には、ほんの少しだけ本気の恨みが混じっている。妹たちの世話をしている分には害にはならないが、こうして干渉されるのはリリーナにとって不服だった。
ラインハルトは肩をすくめた。
「閉じ込めたままというわけにもいかないのだ」
ラインハルトはそう言って肩をすくめた。そして改めてリリーナの姿を見た。
伯爵家の令嬢として整えられたドレス姿だった。
ソファに腰かけるその姿は、先ほどまで艦の運用や主砲のメカニズムを語っていた人物とは思えないほど静かで、いかにも貴族の令嬢らしく見える。
下ろした髪は淡い色で、燭台風の照明から光を受けて柔らかく光っていた。その光が頬の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、どこか儚げな印象さえ与えている。
淡い色のドレスの裾は床をかすめ、わずかに揺れている。静かな室内では、その動きさえも控えめな仕草のように見えた。
ラインハルトは少し目を細めた。
「こうして見ると不思議だ……貴女もなかなか見事な令嬢ぶりだな」
呆れるような、現状を諦めるような感想を漏らす。
それが必ずしも肯定的な評価ではなく、頭にゼッフル粒子が詰まっているのに……というような逆説がつきそうな評価であることをリリーナはうっすらと感じ取っていた。
その言葉を聞いた瞬間、リリーナはぴたりと動きを止めた。一瞬だけ黙り込み、何かを思い出したような顔になる。
わずかに口元が歪んだ。何か企んでいるときの表情だった。そして静かに侍女を呼び寄せると、耳元でこっそりと何かを命じた。
しばらくしてから、リリーナは振り返る。
「ところで」
少し涼しい顔で言う。
「家庭生活については私の管轄ということで異存はないわよね」
ラインハルトは肩をすくめる。
「一度交わした約束を破る気はない」
リリーナは満足そうに頷いた。ちょっとした苛立ちがリリーナの中を占めていた。
「ということで……持ってきなさい」
侍女たちが、いくつかの衣装と小物を運んでくる。
ラインハルトは眉をひそめた。
「……どういうことだ」
「どういうことも何もないでしょう」
リリーナは平然と言った。
「家庭内でのことについては私に従う、と言ったはずよ。それとも、ロー…ラインハルト様は交わした約束をその日のうちに破る方なのかしら?これでも同盟領については妥協したつもりなのだけど…………それほど私が信用できないのなら残念だわ」
ラインハルトは一瞬黙り込む。
「……だからと言って、なぜこの俺がこのような装いを」
「黙りなさい。なにがふさわしい装いかは私が決めるわ」
リリーナは即座に言った。
侍女たちはすでにラインハルトに衣装を合わせ始めている。
「前から思っていたのよ。むさ苦しい男のような軍装よりも、可憐なドレスの方が似合うわ。こんなこともあろうかと用意させておいてよかったわ」
リリーナは腕を組み、満足そうに眺めた。
「お姉様のグリューネワルト伯爵夫人と並べたら、さぞや美しい花でしょうね」
侍女が最後のリボンを整える。リリーナは一歩下がって眺めた。
金の髪は肩口で柔らかく波打ち、光を受けて淡く輝いている。碧い瞳は、まるで宝石のように澄んでいたが、その奥には強い意志が隠れているのがわかる。
着せられているのは、淡い深紅のドレスだった。
柔らかな絹で仕立てられたもので、胸元から肩にかけては白いレースが幾重にも重ねられている。腰の部分には細い金糸の刺繍が入り、伯爵家らしい控えめな紋章が小さくあしらわれていた。帝都であれば少し流行から遅れたと見なされるそれも、素材の良さを良く引き立てていた。
手首には小さな真珠の飾りが縫い込まれており、動くたびにかすかに光った。
最後に結ばれたリボンは、濃い赤。その色が金の髪と不思議なほどよく合っていた。
リリーナはしばらく黙って眺めたあと、満足そうに頷いた。
「……素晴らしいわ」
くすりと笑う。
「戦争狂いの生意気な少年とは、とても思えないわね」
リリーナは、先ほどまでの鬱屈を少しだけ晴らした気分になっていた。
小さな復讐心とでも言うべきものだ。
もっとも、ラインハルトの方も今さら条件を覆すわけにはいかなかった。そしてリリーナが多少恨んでおり、政治に影響しないような小さな復讐であるということに、察しがつかないはずもなかった。
とはいえ、ラインハルトはその場に立たされながら、明らかに落ち着かなかった。普段は堂々としているはずの彼が、裾をつままれて整えられるたびにわずかに身を引く。
「……もう十分だろう」
小さく言う。
侍女がさらに襟元を整えようとすると、思わず肩をすくめた。
頬が、わずかに赤い。
そのとき、リリーナの端末が小さく振動した。
侍女たちからの報告だった。
姫様、頭髪回収成功しました。爪片と表皮細胞も確保しております。
体温や呼吸センサーの取り付けも完了。データの取得も成功です。
生活排出物の回収準備も整いました。
リリーナは一瞥する。
「分析班に回しなさい。軍服への仕込みも忘れないように」
短く指示を打ち込んだ。
もちろん、リリーナはラインハルトを直接どうこうするつもりはない。少なくとも今この場で、害意を向けているわけではなかった。
だが、いずれ主導権を争う時は来るだろう。夫婦であれ同盟者であれ、力ある者同士が対等のままでいられるとは限らない。リリーナは便利な道具が欲しいのであって、不便さまでは受け入れても、その先に付き合う気はなかった。
その時のために、相手の弱みになり得るもの、隙になり得るものを一つでも多く知っておく。それはリリーナにとって、ごく当然の備えだった。
だからこそ、ラインハルトに気取られぬまま、徹底した調査を進めさせているのである。
癖、体質、嗜好、反応、そして身体の情報、集められるものは、集めておくに越したことはない。
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もう少し破壊のないパートが続くかもです。