帝国暦487年10月、メルゲントハイム伯爵領 首都惑星トワングステ side: ラインハルト
翌日からは内政面の引き継ぎが行われた。というよりも、リリーナがそこにいた人材を研究のためにすぐに引き抜こうとしたので、ラインハルトは急いで内政の各種状況を把握する必要があった。
「……なんだこれは」
スクリーンの上に展開されたデータを見て、ラインハルトは思わず呟いた。
「ラインハルト様……」
隣に控えていたキルヒアイスが声をかける。
「見てみろ、これを」
ラインハルトは端末の表示を指し示した。驚くのも無理はない。
行政の効率そのものは、システムとして見れば驚くほど高かった。多くの処理は自動化され、人の意志が介在する余地が極端に少ない。そのため、不正が入り込む隙もほとんど存在しない。
だが同時に、その仕組みはある意味で常軌を逸していた。
個人情報保護などという概念は完全に踏み越えられており、領内のあらゆる人民、法人、組織について膨大な情報が蓄積されている。
その日の飲水量、睡眠時間、通信履歴、端末アクセス、さらには個人の嗜好や思想傾向に至るまで。企業や行政組織についても同様だった。予算配分、人事考査、資源消費、輸送計画、すべてが軌道上の巨大データベースに統合されている。データベースにないものは文字通り存在しないといってもよいほどだった。
それらの処理を担っているのは、氷衛星を丸ごと改造して作られた衛星スーパーコンピューター群だった。
あまりにも巨大で、そしてあまりにも贅沢なシステム。というよりも、将来の拡張を意識しないと作れないであろうシステムだった。
だからこそ、だからこそ分かる。無茶苦茶ぶりが分かってしまう。
「予算というのは多少は収入の値を参照して決められるものだと理解しているのだが」
画面に表示されている数値を、もう一度見直す。
そこにある予算規模は、税収の百倍を超えていた。
キルヒアイスが思わず息をのむ。
しかし、それはメルゲントハイムでの事情を勘案しない批判だった。
そもそも、この領地では税収という概念自体が希薄だった。工業や輸送業の大半がメルゲントハイム家の直接管理となっており、そこからの収益が領の財政の大部分を占めている。
つまり税を取る必要自体があまりない。というよりも、税以上に他の収入が増えたせいで相対的に小さくなっていた。なにより、帝国に収める税の計算がそれに基づくというのが大きかった。
さらに、大きな黒字を出しているのが、辺境惑星を始めとした多くの惑星との貿易。多くの場合、その惑星の全人口を養えるであろうほどの大量の食糧を輸出していた。
食糧の売却価格は、売り先の領地によって十倍近くも異なっていた。しかもその価格は市場ではなく、相手が供出する資源量によってほぼ機械的に決定されている。事実上の物々交換に近い。
残りの半分以上は領の内外からの多額の借款で賄っていた。
さらに、財務報告の下部には「特別収入」という項目がある。
ラインハルトはその内容を読み上げた。
「……借款不履行による資産回収」
「私掠活動による資源取得」
「美術品売却益」
「艦隊売却益」
キルヒアイスが苦笑する。
「……全てを放り込んでいますね」
ラインハルトは額に手を当てた。
次に目を通したのは支出の項目だった。正直、あまり見たくはない部分である。
案の定、その大半はリリーナの趣味に使っていると言っていいほどだった。いや、むしろそれしかないと言ってよい。
だが、最大の支出は別にあった。借金の返済である。
ラインハルトは思わず画面を凝視した。
「……これは」
メルゲントハイム家が過去に行った巨額の借款というか、リリーナが際限なく使った反動だ。要するに自転車操業を毎年繰り返しているのだった。
そして残りの予算の、ほぼすべてが技術開発、惑星工学、軌道施設、そして艦隊建造・整備に投じられている。
キルヒアイスが画面を覗き込みながら言う。
「領地というより……巨大な軍事研究所のようですね」
ラインハルトは小さく鼻を鳴らした。
さらに福祉予算を開く。
「せめて、これくらいはまともだろう……」
科学教育や医療、移民の同化政策といった、通常の行政支出も一応は存在していた。しかし、それ以上に目立つ項目が並んでいる。
再教育センターや劣悪遺伝子排除センター。それらはすべて軌道上に建設された施設であり、その建造費と維持費が大きな割合を占めていた。
さらに、妙な項目がある。
観艦式。
ラインハルトはしばらく黙って数字を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……あの女、内政でも戦争をしているのか」
キルヒアイスは肩をすくめる。
「少なくとも、平和な行政ではなさそうですね」
財政上の問題は、それだけではなかった。
リリーナは、伯爵家の行政機構で処理しきれない問題を、自らが関与している企業や研究機関へと流し込むというやり方を取ってきていた。
表向きは独立した企業。しかし実態は、リリーナの作った制度や研究網の一部である。そのため、領政府の帳簿には直接現れない資金の流れが数多く存在していた。
「……想像よりは、はるかにましだな」
しばらく資料を精査したあと、ラインハルトが呟く。キルヒアイスも頷いた。
数字だけを見たときには破綻寸前のように思えたが、実際の経済状況はそれほど単純ではなかった。
メルゲントハイムの経済は、良くも悪くも領内でほとんど完結している。外部との取引は、主に資源と食糧の輸出入、それと多少の借款のやり取りだけだ。
それ以外の生産、流通、消費の大部分はメルゲントハイムの領民と、リリーナが作り上げた各種システムの内部で循環している。行政、企業、研究施設、軍需産業。それらが複雑に結びつき、一つの閉じた経済圏を形成していた。
問題は、その構造だった。
本来なら帝国の金融システムを通してスムーズに流れるはずの資金や資源が、領内の独自ネットワークの中で回り続けている。その経済圏の大きさと特殊さゆえに、外部からの資金を入れようにも困難だったのだ。
ラインハルトは画面に表示された資金循環図を見ながら言った。
「……血管が詰まっているようなものだな」
キルヒアイスも同じ印象を受けていた。
外から見れば巨大な経済圏なのに、帝国の経済システムとはほとんど接続されていない。
要するにメルゲントハイム伯領の経済は、目詰まりを起こしているのだ。領内の独自通貨があるものの、その規模は目詰まりを解消するほどのものでもない。
確かに技術は進歩し、生産量も増大している。だが、その成果は帝国の金融構造とまったく噛み合っていない。
結果として、この領地は巨大な工場であり、巨大な研究施設であり、そして帝国経済から半ば孤立した、奇妙な閉鎖経済圏になっていた。
「研究費が2/3になったとして、赤字だとかそういう話ではないな…………」
そのうえで、ラインハルトはリリーナの要求する巨額の研究費と軍事費を捻出する必要がある。すでに、トルンではプロシア級が赤子に見えるような巨艦のドックが建造されつつあり、そこでの建造予定の艦が必要とするものは金属資源だけでも一隻で帝国軍一個艦隊を凌駕する。それをとりあえず十隻といったリリーナの正気をラインハルトは疑っていた。
とはいえ、嘆いていても始まらない。
そして、ラインハルトが次に目を付けたのは、領民管理のシステムだった。
リリーナの改革は、領外から大量の労働者を呼び込むことで成り立っている。だが同時に、その人口を統制しなければ秩序は維持できない。
そこでリリーナが構築したのが、この管理網だった。
領民一人一人の生活は、端末と各種センサーによって記録されている。
食事、睡眠、労働時間、休暇、それらは短期的にはある程度の自由が与えられているものの、長期的に見れば一定のバランスに収束するよう調整されていた。
例えば、数日間働き過ぎれば休暇が自動的に割り当てられ、逆に活動が少なければ仕事が増える。人間の生活そのものを、統計的に最適化しているのである。
「なんというか、機械に対する愛情と同じように領民に接しているように感じます……」
というキルヒアイスの感想にラインハルトも完全に同意していた。
だが、システムの重点は別のところにあった。
危険分子の炙り出し。
行動履歴、通信、思想傾向。
それらを分析し、秩序に対する潜在的な脅威を早期に検出する。判定に引っかかった者には、その危険性の度合いに応じて「再教育」が行われる。
思想的な矯正である。もっとも、必ずしも強硬な方法ばかりではない。
軽度のケースでは、個人端末に表示される情報の傾向を調整することで、徐々に思考を誘導するという方法も取られていた。
ニュース、教育資料、娯楽コンテンツ、それらの選択を変えることで、本人の価値観そのものを修正していく。
強制ではない。だが、完全に自由でもない。
その結果、この領地では社会不安、テロ、犯罪、反乱といったものはほとんど姿を消していた。そもそも、テロを起こすための物資を入手することすら困難を極める。ましてや、通信や果ては異常な心拍の挙動までが監視対象になっている。
秩序は、ほぼ完璧に維持されている。ただし、そこに「自由」と呼べるものがどれほど残っているかは、また別の問題だった。
そして何よりこの仕組みは、無能な権力者にとってあまりにも扱いやすい。
すべての情報が集まり、すべての生活が監視され、すべての人間を操作する手段が揃っている。
善意の統治者が使えば秩序を保つ道具になる。だが、愚かな支配者の手に渡れば、それだけで暴政が成立してしまう。
リリーナは行政にあたる人員を最小限にしており、その力を十全に発揮させるどころか、経済の目詰まりを解消することを難しくするほどの人手不足に陥っていた。しかし、領民を徹底的にいたぶり続けることが可能なだけの力がこのシステムには存在する。
ラインハルトはしばらく黙って画面を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「これは……しばらくかかりそうだな」
キルヒアイスは静かに頷いた。
単純な問題ではない。非効率な制度を改めるのであれば話は早い。だが、ここにあるのはむしろ逆だった。
管理できすぎている。
だからこそ危険なのだ。ラインハルトが考えていたのは、この制度を壊すことではなかった。
設計思想を、ゆっくりとずらしていくこと。
人を縛るための装置を、人を支える制度へと変えていくこと。そして、どんな権力者であってもそれを容易に濫用できない仕組みにしていくこと。
ラインハルトにとってこれは帝国そのものを手に入れる前に試すべき、試金石だった。
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