帝国暦487年10月、メルゲントハイム伯爵領 首都惑星トワングステ side: リリーナ
依頼していたラインハルトの遺伝子検査。その結果は、衝撃的なものだった。
リリーナはしばらくスクリーンを見つめたまま動かなかった。表示されている遺伝子配列の解析結果。その横に並ぶ、いくつもの警告マーク。
あり得ない。その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
弱みを握るつもりで行った検査だった。身体的な欠陥、遺伝性疾患、あるいは精神的な傾向、何か一つでも把握できれば、それだけで十分だと思っていた。しかし、それは短期中期でラインハルトの命に係わるような問題とあっては話は別だった。
「これは……」
思わず声が漏れる。
そして次の瞬間、リリーナは振り返った。
「すぐローエングラム伯……いえ、ラインハルト様をお呼びして!!」
命令を受けた家臣が慌てて部屋を飛び出していく。
リリーナはスクリーンを消すこともできず、その場で立ち尽くしていた。指先がわずかに震えている。
やがて扉が開いた。
「何事だ!!」
鋭い声と共にラインハルトが入ってくる。軍務の途中だったのだろう、軍服の上着すら脱いでいない。背後にはキルヒアイスとオーベルシュタインの姿もあった。
だが、リリーナはそれに気づいていない。それほど動転していた。
「座って」
短く言って椅子を指す。あまりに切迫した様子に、ラインハルトも眉をひそめながら席に着いた。
リリーナはその正面に立つ。深く息を吸った。
「……落ち着いて聞いて頂戴」
少し間を置く。
「結婚にあたって貴方の遺伝子検査を行っていたのだけど……かなり厄介な変異が見つかったわ」
部屋の空気が、一瞬で冷えた。ラインハルトの遺伝子を検査をしていたことをリリーナは悪びれもなく告げる。
ラインハルトの青い瞳が細くなる。
「……なんだと」
低い声だった。
「その変異というのは……どういうものだ」
リリーナは一瞬言葉に詰まる。
「具体的にどうなるかは分からないわ。この手のものは遺伝子以外の要因にも影響されすぎるから、正確な予測は難しいの」
スクリーンを指さす。
「だから、とりあえず劣悪遺伝子排除センターで集中的な検査を受けてもらうわ」
劣悪遺伝子排除センター、それはリリーナが作らせた最先端の遺伝子疾患と遺伝子操作技術の研究所であったが、その言葉は劇物といってよかった。
三人の表情が同時に変わる。
ラインハルトの視線が鋭くなり、キルヒアイスが小さく息を呑む。そして、オーベルシュタインの義眼を光が巡る。
「分からない……だと?」
ラインハルトがゆっくりと言った。
「なるほど」
静かに口を開いたのはオーベルシュタインだった。
「遺伝子を理由に離縁し、さらに軍権を手放せという――」
「貴方は黙ってもらえるかしら」
リリーナが即座に遮った。振り向きもせずに言う。
「そういうくだらない政治の話をしている時間はないの。この時期に見つけられて幸運なんだから」
ラインハルトの目が鋭く光った。
「幸運……だと?何の幸運をもって、その怪しい施設に押し込められなくてはならないのだ」
リリーナは深いため息をついた。
「はぁ……」
こめかみを押さえる。
「早期発見以上の幸運はないでしょう」
淡々と言う。
「遺伝子に変異があるのは、そもそもあるんだから。早く見つかった方がいいに決まってるじゃない」
腕を組んだ。
「あなた、敵と戦うときに索敵で分かった敵兵力が多いことを不幸だと嘆くの?運が絡むのは発見時期であって、索敵しようがしまいが敵の兵力が増えたり減ったりするわけじゃない。どちらにしろ敵がいるなら、早く見つけた方がいい。私はそう言っているのよ」
ラインハルトは椅子の背にもたれた。
「そんな話をしているのではない」
声は低い。
「その検査とやらで遺伝子に問題が見つかれば、俺をどうするつもりだと言っているのだ。その劣悪遺伝子排除センターというおぞましい場所で」
リリーナは眉をひそめた。少し苛立ったように言う。
「だから遺伝子に異常な変異があるのはもう分かっているのよ」
指でスクリーンを叩く。
「問題は、それがどういう状態かを調べること。それに施設の名前は今度優良遺伝子推進センターに変更する予定だったのだけど……そんなこと、今どうでもいいでしょう」
その時だった。
「あの……」
遠慮がちな声が割って入る。三人が同時に振り向く。
「少しよろしいでしょうか」
キルヒアイスだった。
彼はリリーナとラインハルトを落ち着かせるようにゆっくりと視線を巡らせる。
「まず、ラインハルト様にどのような遺伝子変異があり、現時点でどこまで分かっているのでしょうか?」
リリーナは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにスクリーンを指差した。
「ええっと……だから、この画面に映っているとおりよ。制御性T細胞、つまり免疫のブレーキ役をしている細胞の遺伝子ね。そこに未知の変異がいくつも見られるわ。それもこのとおり複数箇所」
スクリーンには複雑な遺伝子配列と変異箇所が赤く表示されている。
「それから胸腺髄質上皮細胞。自己抗原を提示して、免疫が自分の体を攻撃しないよう教育する細胞ね。そこの遺伝子にもいくつか変異がある。ここの繰り返し構造だとかね」
指先を滑らせ、次の項目を拡大する。
「最後にシグナル系。炎症反応を引き起こす物質に関係する遺伝子にも変異があるわ」
キルヒアイスは少し困ったように笑った。
「えーっと……つまり?」
リリーナは腕を組んだ。
「ええ。体内の免疫の司令塔になる細胞と、それを訓練する場所、その両方の遺伝子にかなりの変異が入っているということよ。おまけに、その結果として起きる炎症反応の制御がめちゃくちゃになる可能性があるわ」
そして淡々と言った。
「今は具体的な症状はない。でも、自己免疫疾患を発症する可能性は高い。具体的にいつ、どんな形で発症するかは分からないけど……。いっそここまで来ると、造物主が悪意をもって作ったとしか思えないレベルよ」
部屋の空気が重くなる。
「なんだと…………」
ラインハルトの低い声が響いた。リリーナは手を振った。
「軍で例えるなら士官候補生が全員、知能に問題を抱えているようなものよ。しかも士官学校の教育課程がめちゃくちゃで、通信も壊れていて、攻撃命令が勝手に出る」
そしてさらりと言った。
「その結果、自国の首都に熱核兵器を撃ち込むようなことになるわ」
キルヒアイスが思わず顔をしかめる。
「ですが……具体的にはなんという病気になるのでしょうか?」
「そこなのよ。全くの未知の変異だわ!!」
リリーナは一瞬、抑えきれない興味に引かれるようにスクリーンへ視線を戻した。研究者として、未知に触れたときの昂りは避けがたいものだ。瞳の奥がわずかに輝く。
だがすぐに、はっとしたようにその色を引き戻し、慌てて表情を整えようとした。口元に浮かびかけた高揚を押し殺し、代わりに慎重さを装った困惑を形作る。
「遺伝子変異とそれに対応する病気のデータベースにも記録がないの。一部の変異は確かに自己免疫疾患に関連しているみたいだけど…………」
少し眉を寄せる。
「まあ、銀河連邦時代のデータベースしか残っていないし、それも不完全だから仕方ないのだけど……現状では何とも言えないわ。明日発症するかもしれないし、一生発症しない可能性もある。発症しても病気にかかりやすくなるだけかもしれないわ」
ラインハルトは腕を組んだまま黙っている。
リリーナは急に顔を上げた。
「私もこの病気について詳しいわけじゃないけど、検査が終わるまでとりあえずいくつか禁止事項を決めるわ」
指を一本立てる。
「まず紫外線。これは絶対に避けること」
そして唐突に聞いた。
「それから、あなたキスしたことあるのかしら?」
「……は?」
ラインハルトが目を細める。リリーナは真面目な顔で続けた。
「もしなければキスも禁止ね。口移しで感染するウイルスが引き金になることもあるのよ」
部屋の空気が一瞬凍る。オーベルシュタインの義眼までもが微妙に光った。リリーナは気づかない。
「そのうえで、劣悪遺伝子排除センターで集中的な検査を受けるべきだわ」
ラインハルトがゆっくりと立ち上がる。
「それで」
声は低かった。
「もし治療できそうもなければ、殺すか断種手術でもするというのか?」
「はあ?」
リリーナは露骨に呆れた顔をした。
「あのねえ、なんで仮にも自分の夫に対してそんなことをしなくちゃならないのよ」
まあ、確かに切り取ってしまうのはいいかもしれないと考えたが、すぐに手を振る。いくつか埋め込んでおく予定なのは確かだが、それができれば今切り取る必要性は薄い。
「言っておくけど、ルドルフ大帝の時代は遺伝子技術が衰退していたし、その前の時代には遺伝子研究そのものが忌避されていたの。だから個体単位で雑に遺伝子プールを統制するしかなかった。つまり社会的で外科的な排除ね」
指で机を軽く叩く。
「でもここでは違う。多少は遺伝子疾患への対抗策もあるし、それを次世代に受け継がせない技術も育ててきてる。同じ結果を得られるなら、わざわざ個体そのものを排除する必要はないのよ」
リリーナは少し熱を帯びた声で続けた。
「その人間の一部が悪いからって、その人間を取り除くなんてあまりにも非効率だわ。何でもかんでも排除していたのは、技術が未発達な時代だから成立していただけよ。なんでもかんでも有害物を取り除くという型に当てはめるほど暇じゃないわ。虫が食った柱だからといって切り倒せば、家そのものが崩壊するわ」
一息置いてオーベルシュタインを見た。
「例えば貴方のように先天性の視覚異常があるからといって、完全に無能なわけじゃないでしょう。視覚さえ補えば、むしろ優秀かもしれないし、遺伝子から直接は推定しにくい……例えば人格面でより大きな問題を抱えているかもしれない」
勝手に人格面に問題があることにされたオーベルシュタインを無視して、そして言い切った。
「それに人間を“健常”と“劣る異常”に分類するのは間違っているわ!!目指すべきなのは、良い方の異常に近づくことなのよ」
リリーナの声は、いつの間にか完全に演説の調子になっていた。
「これからはこれを優良遺伝子推進法にまで発展させるべきよ。それが、きっと人類の守護者たらんとしたルドルフ大帝が帝国貴族へ与えた責務なのよ」
部屋の中はしばらく沈黙した。
そして、リリーナがルドルフを持ち出したことには大した意図はない。
そう理解していたキルヒアイスはゆっくりと息を吐く。そして小さく呟いた。
「……ラインハルト様。どうやらこれは政治問題ではなく、純粋な医学の話のようです。従ってみてはどうでしょうか」
「ああ……」
ラインハルトはまだ納得しきれていない様子だったが、ひとまず頷いた。
その時だった。リリーナが思い出したように言う。
「それに、ラインハルト様のお姉様、グリューネワルト伯爵夫人も同様の遺伝子変異を抱えている可能性があるわ。一度検査してもらわなくてはね」
「姉上が!?」
「アンネローゼ様が!?」
ラインハルトとキルヒアイスが同時に声を上げた。
「それにしても、早めに気づけて良かったわ。こういう病気はホルモンの影響が大きいの。もし妊娠していたら、発症を早める可能性もあるわ」
「治療法はあるのか?!?」
ラインハルトは椅子から身を乗り出す。
リリーナは少し困ったような顔をした。
「病気になりそうかどうかすら、まずは調べてみないと分からないわよ。でも、基本的には正常な造血幹細胞を作って免疫系を再構築すること、それから胸腺を人工胸腺で補うことになると思うわ」
もっとも胸腺についてはどこまで必要かは分からないわね……と呟きながら、リリーナは腕を組む。
「要するに体内の警察組織をまるごと作り直すような方法よ。かなり大がかりな治療になるし、今の段階で実施するのはリスクが大きすぎるわ。遺伝子まわりは、分析にしろデータベースにしろ、もう少し調査と研究が必要ね」
ラインハルトの表情がわずかに険しくなる。リリーナは続けた。
「それに、研究の優先順位から言うと、まだ領民全員の遺伝子情報と病歴の対応データも十分に蓄積されていないの。さらに帝国とか同盟のデータを集めるだけでも大変なのに、それを管理する組織も人手不足でどうにもならないわ。それに、治療することで社会のケアコストを小さく出来る疾患とか、治療法の確立が容易かつ一般性が高いものからやっているの。こんな希少疾患を相手にしている場合ではないのよ。予算も人員も全く足りないわ」
ラインハルトがいらついたように言う。
「それでは……悠長すぎる。なんとか出来ないのか?」
リリーナは少し呆れたように彼を見た。
「あのねぇ。これは艦隊戦じゃないのよ。敵の正体が分かったからって、すぐ決戦というわけにはいかないの。相手は体の中の問題よ。焦っても、できることは限られているわ」
少しだけ声を落とす。
「それとも、医療に関して私が好きなだけ予算と人員を使っていいとでもいうのかしら?」
部屋の空気は再び静まり返った。ラインハルトはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……分かった」
その青い瞳がリリーナを見据える。
「ならば、その研究とやらを進めろ…………いや、進めて欲しい。必要な資源も人材も、可能な限り用意する。それなら可能なのだろう?」
リリーナは、その言葉に触れた瞬間、胸の奥がかすかに跳ねるのを感じた。
気づかぬふりをする間もなく、熱はゆっくりと頬へ広がっていく。それが自分のものだと悟ったとき、わずかな動揺が、遅れて静かに胸の内へ沈んでいった。
お気に入り・評価よろしくお願いいたします。
医学もよく分からんのでテキトウです。悪しからず。