帝国暦487年10月、メルゲントハイム伯爵領 首都惑星トワングステ side: リリーナ
劣悪遺伝子排除センターにおけるラインハルトの精密検査は、リリーナが当初想定していたほど劇的な結果をもたらすものではなかった。
「少なくとも、今すぐ死ぬようなことはないわね…………」
むしろ、その内容は拍子抜けと呼ぶべきか、あるいは予想の範囲内と評するべきかいずれにせよ、即座の措置を必要とする類のものではなかった。
検出されたのは、胸腺の軽微な形成異常と、いくつかの抗原に対する特異な免疫反応にとどまる。腎臓をはじめとする主要臓器には明確な異常は認められず、代謝系、神経系ともに正常域に収まっていた。
自覚症状が存在しなかったという事実とも整合する結果だった。
無論、遺伝的要因を含む以上、長期的な予後について断定することはできない。環境や加齢、あるいは外的要因によって、潜在的な異常が顕在化する可能性は排除できなかった。
だが少なくとも現時点においては、急を要する治療の必要性は認められない。もう一つの目的は達成できたものの、現時点では使う予定もなかった。
「まあ、定期的な検査はする必要はあるけど…………いますぐどうこうは難しいわね。ストレスや過労を避けることくらいかしら…………」
その言葉を口にしている張本人こそが、ラインハルトにとって最大級のストレス源の一つだった。
その一方で、この検査過程は、別の意味での障害を伴っていた。なぜか同行していたオーベルシュタインが、施設の研究内容の一部に対して強い異議を唱えたのである。
オーベルシュタインが問題視したのは、断種および安楽死を前提とした遺伝子管理計画であった。特に、胎児段階において他の遺伝子異常を検知し、自発的な死を誘導するよう設計された遺伝子機構については、マウス実験の段階まで到達していたにもかかわらず、その倫理的・制度的妥当性を根底から否定された。
しかし、リリーナは自然なプロセスの拡張であるとして抵抗し、最終的にはラインハルトを遺伝子研究の一環として丸め込んだリリーナに軍配が上がった。
当然の帰結だった。
この一件で、リリーナは確かな手応えを得てしまったのだ。
以後、リリーナの予算要求は加速した。
遺伝子と精神の相関を解き明かすための新たな軌道上施設。
広域サンプル採取を目的とした巨大な武装調査船。
陽電子標的技術を用いた変異誘導のための大規模加速器。
エネルギー供給を担保するためのダイソンスウォーム。
銀河放射線と遺伝子応答の関係を探るための、銀河外縁への観測回廊の構築。
名目はすべて、遺伝子研究のため。
「素晴らしい世界だわ!!!」
そして、次に手をつけるべき対象。それは、予算の根拠となるもう一つの存在。
「まあ、とりあえずはグリューネワルト伯爵夫人を調べたいのだけど…………」
リリーナは静かに呟いた。ラインハルトの姉、アンネローゼ。彼女は皇帝の寵姫であり、オーディンを離れるということは難しい。ましてや、リリーナの統治する領地に送り出すということはしないだろう。しかし、珍しい遺伝子変異がどう発生しているのかを知る手がかりになる存在であることは間違いない。最低限、サンプルは手に入れたかった。
そして、リリーナにはそれ以外にも悩み事があった。
「それで、日取りはどうしましょうか?」
ヘレーネは当然のように言った。すでに決まっていることの、次の段階を確認する口調だった。
「日取り、ですか」
リリーナはわずかに間を置く。
「ええ。貴女の結婚をいつ公表するのか、ということよ。領内へのお披露目は最低限必要ですし、その後は帝都でも正式な式を挙げることになるでしょう」
淡々としているが、選択肢は提示されていない。順序の確認にすぎない。
「……あの。この結婚は、あくまで契約のようなものですので、その……形式的な儀式は省略できるのではないでしょうか」
リリーナは言葉を選ぶ。公表するのはいいが、式だなんだというのは断りたいというのが正直なところだった。
だが、ヘレーネは即座に首を横に振った。
「いいえ、リリーナ。それは順序が逆なの」
声は柔らかいが、否定は明確だった。
「貴女は政略結婚だから形式は不要と考えているのでしょうけど、そもそも貴族の結婚において、政略でないものなど存在しないのよ。結婚とは、家と家の関係を公に確定させる政治行為。だからこそ、それを周囲に示す儀式が不可欠になるの」
「ですが」
リリーナは食い下がる。
「契約内容さえ履行されれば、目的は達成されます。わざわざ大規模な儀式を行う合理性は――」
「あるわ」
遮る。
「むしろ、それが本体よ。契約は当事者の間で完結する。でも、貴族の結婚は違う。周囲にそうなったと認識させることで初めて効力を持つの」
リリーナは黙る。論理としては理解できる。だからこそ厄介だった。
「それにね」
ヘレーネは少しだけ声を和らげる。
「最初は契約のように見えても構わないのよ。だからこそ、儀式を通して関係を形にしていくの。相手を愛する、というのは結果なの。最初からある必要はない。でも、そのための環境を整える必要はあるでしょう?」
リリーナはわずかに視線を逸らした。
「私には……早いと思います」
小さな抵抗。
だがヘレーネは動じない。
「リリーナ、心配しなくていいのよ。今は形式だけ整えればいいの。もしやりたいのなら貴女が本当に大人になったときに、もう一度きちんとした式を挙げればいいのだから。あなたも大人しくしていれば立派な淑女なのですから、ローエングラム伯の隣に立つというのが気後れする必要はありませんよ」
逃げ道になっていない逃げ道を用意する形で押し切るヘレーネにリリーナは、ほんのわずかに息を吐いた。
「疲れたわ…………ラインハルト様に研究の邪魔になるといったら、帝都に連れていってもらえないかしら…………」
リリーナは椅子に身を預けたまま、低く呟いた。
ヘレーネによる結婚式談義は終わる気配がない。日取り、形式、招待客、帝都での儀礼。いずれも重要であるという主張をことさら否定する気もないが、それを一つ一つ積み上げていく作業は、リリーナにとって耐えがたい種類の消耗だった。
このまま領内に留まれば、同じ話が繰り返されるだけだ。
「もういいわ、私が先に外でやることを済ませるわ」
リリーナの思考は、そこで切り替わった。
ちょうど、メックリンガー、ケンプ両艦隊は撤収段階にあり、ラインハルトらもまたオーディンへの帰還を予定している。ラインハルトもまた、いつまでもとどまっている訳には行かなかった。
「なら、ついでに処理してしまいましょう」
結論は早かった。
結婚はさっさと公表する。
その上で、リリーナはメルゲントハイムの経済支配から離脱しようとして攻撃してきた辺境貴族の討伐に向かうことでラインハルトと合意した。
もっとも、この決定は単なる逃避ではない。
ラインハルトにとっても、リリーナをメルゲントハイム領に残すという選択は、決して望ましいものではなかった。リリーナが領内で自由に動ける環境に置かれれば、主導権は結局リリーナが握ることになる。それならば、過度な破壊行為を禁止したうえで、辺境巡りをさせているほうがはるかに安全だった。
艦隊編成も、それに合わせて調整された。
メルゲントハイム艦隊は新造艦と整備中の艦艇を多く抱えており、全力での外征には適さない。したがって戦力を分割する必要があった。
リリーナは新鋭のプロシア級戦艦七十隻を抽出し、自らの指揮下に置く。機動力と火力を兼ね備えた、即応可能な部隊である。
同数の戦艦を、ラインハルトが帝都への随行部隊として引き受ける。
そして、残る艦艇はすべてメルゲントハイム領の防衛に回されることになった。
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