始まりは偶然――それも天文学的な、奇跡的な、ある意味では最悪の偶然だった。
私は、九九が七の段が言えない。
いや、正直に言おう。六の段も無理。
七八……五十三? あってる? 九九表を見ずに言えるのは、せいぜい二の段まで。三の段すら、途中から口ごもる。
だから、テストではいつも「選択肢の中にそれっぽい数字があるかどうか」で答えを決めていた。
なのに。
私は、“天才”になってしまった。
*
すべてのきっかけは、中等部に入学した春のことだった。
入学して最初の週、机に配られた一枚の紙。それが「全国統一マーク模試・希望調査票」だった。
“全国”って書いてある時点で、何か大変なものだというのは察した。
その下にずらりと並ぶ選択肢――「中等部進学基礎/中等部応用/高等部基礎/高等部応用/高等部進学準備/高等部大学進学コース」。
……長い。読む気が失せる。しかも全部、似たような名前してる。
(えーと……進学……応用……?)
途中で頭がふわっとした私は、よくわからないまま一番下のやつに○をつけた。
多分いちばんカッコいい名前だった気がするし、「コース」って書いてあると高級っぽいから。
それが、「高等部・大学進学コース」。
つまり、高校三年生相当の模試だった。
でも、その時の私は、もちろん気づいていなかった。
模試の案内書が配られた時点でもまだ、「あれ、なんか紙厚くない? ペラじゃないんだ」くらいの感想しか持っていなかった。
*
試験当日。
教室の空気が妙に重いことにだけは気づいていた。
あれ、周りの人、誰も見たことない人たちだな……? みんな大きいし、なんか眼光が鋭い。
そもそも中等部、私しかいなくない?
でも、私は気づかなかったフリをして座った。
試験監督も何も言わなかったので、「あっ、やっぱりこれでいいんだ」と思い込んだ。
配られた問題冊子を開いた瞬間、私は絶望した。
一問目の日本語の意味が分からない。
「次の空欄に最も適当な語句を」……適当って、どのくらい適当? いやそうじゃない、これは比喩……? 小学校では丁寧語で聞いてくれてたじゃん。なんで急にこんな命令口調に? 物言いがキツすぎじゃない?
英語に至ってはもう、序盤の「Choose」の時点で白旗。
でも、時間は進む。鉛筆は握っている。誰も止めてはくれない。
(……じゃあ、塗るしかないな)
私は、鉛筆を握り直した。
塗った。心のままに。いや、むしろ無心で。
ときに縦に連続して、ときに斜めにパターンを変えて、意味はないけどリズム重視。
最終的には五問ずつのグループを作って塗りを揃える謎のマイルールまで発明した。
そうして、全部を塗り終えた。
そして、忘れた。
ほんとうに、ただそれだけの話だった。
*
「――満点でした」
「は?」
満点である。
この宇宙の因果律は、どこで壊れたのか。
それを説明できる者はいなかった。私を含めて。
結果として、私は「測定不能の天才」として、学園中にその名を知られることとなった。
模試の運営はざわつき、答案用紙は再点検され、試験監督の聞き取り調査も行われた。
でも、不正はなかった。というか、しようにも何の技術も持っていなかった。
「じゃあ、これは本物か……」
「我々の尺度では測れない……!」
そんな声が、どこからともなく広がった。
私自身は――というと。
(え、バレてない!? っていうか逆にすごいって思われてる!?)
私は当初、内心でそう震え上がっていた。だが、その震えはすぐに“都合の良さ”へと変わっていった。
数日後、学園側から呼び出しがかかった。私は正直、「ついにバレたか」と思っていた。
ところが、対面した教員の口から出てきたのは、思いもよらない内容だった。
「……通常の学力測定では、もはや評価が困難だと判断しました。よって、今後の定期試験や課題提出は“原則免除”とします」
「成績欄には『評価対象外』と記載されますが、これは例外的な措置です。前例はありません」
「ご本人の意向があれば、学術研究系の外部コンペに推薦もできます」
えっ。なにそれ。
逆に、どこの国の天才プログラムなの? 怖い。けど……最高じゃん。
だって考えてみてほしい。
テスト、なし。宿題、なし。誰も中身を聞いてこない。
こんな楽な学生生活、ある?
私はとっさに頷いた。
「……異論は、ありません」
なるべく、知的に見えるように言ったつもりだった。
ちょっと声が震えてたかもしれないが、教員たちは納得したように深く頷いていた。
こうして私は、“謎の天才”としての立場を得た。
模試で偶然満点を取ってしまっただけの馬鹿が、制度の隙間で神格化されるという、世界の裏側みたいな出来事が、静かに完了した。
*
だが、当然のように、すぐに苦しくなった。
最初の頃は、本当に楽だった。みんなが「宿題が多い」だの「英語のリスニングが鬼畜」だの文句を言っている横で、私は何もせずに済んだ。
「さすがハヤヒデさん……」
「理屈が違うんだよなあ……」
周囲のそんな声に、最初はくすぐったさすら覚えていた。
だが、それが日を追うごとに――重くなっていった。
「さすが」「すごい」「理論の人」。
勝手に背中に貼り付けられたラベルのせいで、誰もが私を“高みにいる存在”として扱ってくる。
そして当然、話しかけてくる内容も高度になった。
時には、難解な学問書の話題を振られ、時には答えのない問いに「ハヤヒデさんならどう答えますか?」と尋ねられる。
無理。九九の七の段も言えないのに。
だが、引くに引けなくなっていた。
私はそのたび、適当な名言集から拾ったセリフを引用してやり過ごした。
なるべく意味を考えず、音だけが知的に聞こえるやつを。
「言語は思考の道具であり、時に迷彩でもある。そうは思わないか?」
とか。
「観測されることで初めて、真実は形を得る。それは走りにも通じる」
とか。
よく分からない。
でも、それっぽく言えば、それっぽく聞こえるのだ。
ただ、その“それっぽさ”を維持するために、私は毎晩必死だった。
用語集を読み漁り、話題になりそうな本の冒頭だけを丸暗記し、「人類の英知」みたいな顔をしながら口を開く。
寝落ちして本が顔に落ちてきたのは一度や二度ではない。
でも、限界はすぐに来た。
「この論文、読んでくれませんか? 感想を聞きたいんです」
「ハヤヒデさんって、やっぱり普段どういう思考回路で走りを組み立ててるんですか?」
「言葉の裏にある意図が気になるっていうか……ね、なんかない? こう、座右の銘とか!」
――やめてくれ。
――やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
何度もそう思った。
でも、「わかりません」とは言えなかった。
気づけば、登校の足は重くなり、教室のドアの前で立ち止まる日が増えた。
そして、私は――学校に行けなくなった。
学校に行けなくなったのは、ある日、些細なきっかけだった。
「……おはようございます、ハヤヒデさん。これ、気になってて……」
登校中、すれ違いざまに手渡されたのは、分厚い原書。
背表紙には英語でこう書いてあったことを後で知った――『統計的決定理論とベイズ的推論の交差点』。
(読めない。というか、英語の時点で読めない)
「あの、その……ご感想、今度、ぜひ」
(無理です!!!)
けれど、私は笑って頷いてしまった。
もう反射だった。体が勝手に、“わかってる顔”をしてしまう。
ありがとう、って受け取ったけれど、正直、手が震えていた。
次の日も、学校に行った。
でも、その本がカバンの中で重くて、ランドセルに鉄球を詰められたようだった。
その翌日から、私は布団から出られなくなった。
*
起きて、食べて、机に向かっている“ふり”をして。
でも何も頭に入ってこないし、覚えた格言も、もう言葉の意味すら怪しい。
誰にも責められてないのに、ずっと怒られている気がしていた。
「賢く見えるために、黙っていればいい」
そう信じていたのに、いつの間にか、“黙っていること”さえできなくなっていた。
出席日数は、静かに足りなくなった。
学校からの通知が届いたのは、春休みのはじめだった。
「進級要件を満たさなかったため、次年度も同学年としての所属が継続されます」
ようするに――留年、だった。
その紙を見たときの、母の表情は今でも思い出せる。
驚いていた。でも、怒らなかった。
父は「まあ、そういうこともある」とだけ言って、妙に静かだった。
私は、ただ、机に突っ伏していた。
重力が三倍になったみたいに、体が動かなかった。
そして、次の考えに思い当たった途端――ハッとした。
――次年度はナリタブライアンと同学年となる。
ナリタブライアン。
私の妹。寡黙で、強くて、理屈抜きで格好いい。
そして、誰よりも私の“本当”を知っている存在。
あのブライアンと――同じ学年になる?
「それは、ダメだ」
声に出ていた。
私はその場で立ち上がった。
三日ぶりに風呂に入り、ぼさぼさの髪をとかし、制服に袖を通した。
「行く」
誰に言うでもなく、そう言った。
*
学校に復帰した私は、すぐに気づいた。
噂は、変わっていなかった。
誰も、「あの人、留年したんだ」なんて言ってこない。
むしろ、「自身の身体理論を再構築するための選択的留年」「意図的なリセット」など、勝手な“深読み”が広まっていた。
……バレていない。
(……じゃあ、やるしかないか)
私は決意した。
「本当に賢いわけじゃない。でも、賢く見られたい」
その一心で、“演技”を始めることにした。
歩き方、話し方、眼鏡の位置、表情の角度、語彙の選び方。
「賢いっぽい人間とは何か」を、参考書のように分析して、体に叩き込んだ。
早口では話さない。間を置いて語る。
難しい単語を混ぜる。ラテン語由来だと尚良し。
眉間に皺は寄せるが、口元は静かに。
名言は“前置きなしで引用”する方が、それっぽい。
そうやって、私は「仮面」としての自分を作った。
中身は空でも、外だけでも構築すれば、人は勝手に信じてくれる。
そう信じていた。
その信念だけを頼りに、私は――ジュニア級への登録用紙に、名前を書いた。
制服の襟は、完璧に整えた。
リボンの結び目は三回鏡を確認した。眼鏡も、伊達じゃない。伊達だけど、意味はある。
私は、今ここに――“再起動”された。
校舎のドアをくぐる瞬間、たぶん私の足音は三割くらい硬質だったと思う。
なぜなら、緊張で足首が笑っていたからだ。
でも、驚いたことに。
誰も、驚いていなかった。
「おはようございます、ハヤヒデさん」
「……あ、戻られたんですね。やはり留年は意図的な……」
耳に入ってくる言葉のすべてが、肯定と解釈でできていた。
「彼女の思考スピードなら、“時間”を再構築する選択も当然ですね」
「ナリタブライアンと同学年になることで、“新しい走り”の定義を模索してるんだな……!」
違う。私はただの馬鹿だ。
でも今さら「九九七の段が無理です」とか言ったら、全員が“騙された!”ってなる。
そんなの、無理だ。絶対に無理だ。
私は、学園の誰よりも速く考えた。
そして出した答えは――「黙って、それっぽく振る舞え」だった。
*
キャラ設定は、重要だ。
まず私は、歩くスピードを“賢そうな人が歩きそうなスピード”に設定した。
速すぎず、遅すぎず。あえて人と目を合わせないことで、「思考している風」を演出する。
これが思った以上に好評だった。
「ビワさん……また何か仮説を考えてる」
「今、計算してる顔してた……!」
ただの方向音痴で迷ってただけだったのだが、そういうことにされた。
廊下で肩がぶつかった時も、
「すみませんっ!」
と反射的に言いそうになったが、私はそれを堪えた。
代わりに――
「衝突とは、相互作用の始まりにすぎない。観測できるなら、失敗ではない」
って言ってみた。
よく分からなかった。でも、効いた。
「……深い」
「今の、名言すぎて泣きそう」
泣きそうなのはこっちである。
*
こうして私は、“キャラを演じる”というより、“キャラに取り憑かれた”ような日々を始めた。
参考書代わりにしたのは、
・思想名言集(中身は割とパチモン)
・『一日一論語』
・英語の格言ポスター
・歴代名トレーナーのスピーチ原稿
そして、覚えたものを隙あらば投入する。
「人は皆、意味を問う存在だ。だが、意味とは本質ではなく“距離”なのだよ」
「走りとは、思考の延長にある“加速度の詩”だ」
意味は分からない。たぶん、言ってる側の私も分かってない。
でも、大丈夫。言い終わったあとに眼鏡をスッと押さえて黙れば、それっぽくなる。
……たぶん。
*
そして、あの日――私は提出した。
ジュニア級への登録申請書を、自筆で。
理由は簡単だった。
(ブライアンと、隣の席になったりしたら死ぬほど気まずい)
このままだと、完全に“姉の威厳ゼロ”。
さすがにまずい。なんかこう、姉としての矜持がバグる。幸い私たちは学年は同じだが、ブライアンはまだジュニア級に参戦するつもりではないらしい。一足先に参加してしてしまえば、ギリギリ威厳は保てる……と思う。
だから私は、動いた。
走るとは何か?
勝つとは何か?
賢く見せるとは何か?
それはすべて――私にとって、
「誤魔化し続けること」だった。
次に誰が私に声をかけてくるかは分からない。
けれど、その時はきっとまた、“それっぽい言葉”で包んで答えるだろう。
それが、私のやり方だ。
今のところ、ばれてない。
そう、今のところは。
*
校舎裏、中庭のベンチ。
私がよく使う場所――日当たりがよくて、静かで、Wi-Fiも強い。
私は今日も、例の分厚い本を膝に乗せていた。
……が、読んではいない。
正確に言えば、開いているだけ。ページは、五ページ目で止まっている。
なぜかというと――一ページ目の文字が多すぎて、心が折れたからだ。
いや、内容もなにも、最初にあった「ごあいさつ」の時点で“なんか難しそう”ってなって、それきりだった。
だから私は、“読み込んでるっぽい風”にするため、
最初の数ページをパラパラとめくったあと、五ページ目を「定位置」として固定していた。
なんかそこ、図表があったし。図って、知的っぽいじゃん?
(※図の内容はよくわからなかった。というか回路っぽい何かが描いてあって目が滑った)
にしてもわっかんねぇな。
そこへ――足音。
(来た)
気づいてないフリをして、神経は総動員。
背中の気配、歩幅、靴音の重量感。男性トレーナー。若手。緊張してる? あ、靴がちょっと擦れてる。
そして、一歩。
(近い。喋るな。まだ喋るな……)
「……私に何か?」
ついに言った。
ついでに、目も合わせた。
表情は崩さず、語尾はやや下げて――賢そうに。そう、いかにも“測定不能の存在ですけど?”みたいなテンションで。
彼は名乗った。
「あの、オカベといいます!」
語尾にびっくりマークを感じる元気さ。
やっぱり若い。汗かいてる。喉もごくりと動いてる。
(これは……完全に誤解してるな)
私は、本を閉じた。
そして、難易度の高いセリフを探し始める。
「選択の意思は、評価に値する。だがそれは衝動か、戦略か。そこが問題だね」
いけた!
出だしの「評価に値する」が自分でもかっこいいと思った。
しかも「戦略か?」とか言っておけば、なんとなくチェスやってそうに見える。良い。
彼は戸惑ったが、真面目に答えた。
「今のところは、意志です……」って。
(かわいいなこの人)
でも、ここからが正念場だ。
「君が私に育成を申し出た理由を、簡潔に」
これ、地味に言うの難しかった。噛みそうになったけど、バレなかったと思う。
彼の返答は、思ってたより熱かった。
「誰も見たことのない走りを、あなたと作りたいです!」
(えっ、……えっ!? 何そのセリフ!? ラブコメ!?)
正直、ちょっと胸に来た。
……いや、ほんのちょっと、だけどね?
けど、ここでニヤけたら全部が終わる。
私は表情を抑え、眼鏡を押し上げ、冷静に返した。
「……奇抜ではあるが、否定はしない」
出た。この言い回し、語感が強くて助かるやつ。
“奇抜”って言葉、なんか強いよね。意味よくわかってないけど、“すごいけど微妙”ってニュアンスらしいし。
あとは、立ち位置を確保するだけ。
「条件がある。“余計な質問はしないこと”」
これ。これが命綱。
中身に踏み込まれたら、終わる。
九九の七の段のことまで聞かれたら、即死する。
だから、これは本当に大事な契約だ。
“余計な質問はしない”――
これは防壁であり、黙認であり、最後の砦。
彼は、頷いた。
(……よし! 契約成立……! これで、“中身のこと”は聞かれずに済む!)
眼鏡を押し上げ、再び本を開く。
“定位置”である五ページ目の図を一度だけちら見し――
(うん、よくわからん)
それから、うっかりページを戻してしまった。
ぺらり、と一枚。
すると、目に飛び込んできた文字。
「この書籍はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません」
(……あっれぇ!?)
このとき初めて、私は“表紙がダサかったからカバーを外していたこと”を思い出した。
どうやら私は、SF小説の前書きを五日間ずっと、哲学書として開いていたらしい。
油断すると描写が暗くなりがちで難しいですね。続くかは未定。
【追記】
続きました。次話から勘違いものっぽさを上げているつもりです。
投稿形式はどうするのがいい?
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従来通り視点ごとに分けて投稿する
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2視点をまとめて一話にして投稿する
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長さに応じて柔軟に使い分ける