留年生ビワハヤヒデ   作:daidains

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こちらはビワハヤヒデ視点です。先に前話のトレーナー視点を読むことをお勧めします。


スカウト!【ハヤヒデ視点】

始まりは偶然――それも天文学的な、奇跡的な、ある意味では最悪の偶然だった。

 

私は、九九が七の段が言えない。

いや、正直に言おう。六の段も無理。

七八……五十三? あってる? 九九表を見ずに言えるのは、せいぜい二の段まで。三の段すら、途中から口ごもる。

だから、テストではいつも「選択肢の中にそれっぽい数字があるかどうか」で答えを決めていた。

 

なのに。

 

私は、“天才”になってしまった。

 

 

すべてのきっかけは、中等部に入学した春のことだった。

入学して最初の週、机に配られた一枚の紙。それが「全国統一マーク模試・希望調査票」だった。

 

“全国”って書いてある時点で、何か大変なものだというのは察した。

その下にずらりと並ぶ選択肢――「中等部進学基礎/中等部応用/高等部基礎/高等部応用/高等部進学準備/高等部大学進学コース」。

 

……長い。読む気が失せる。しかも全部、似たような名前してる。

 

(えーと……進学……応用……?)

 

途中で頭がふわっとした私は、よくわからないまま一番下のやつに○をつけた。

多分いちばんカッコいい名前だった気がするし、「コース」って書いてあると高級っぽいから。

 

それが、「高等部・大学進学コース」。

 

つまり、高校三年生相当の模試だった。

 

でも、その時の私は、もちろん気づいていなかった。

模試の案内書が配られた時点でもまだ、「あれ、なんか紙厚くない? ペラじゃないんだ」くらいの感想しか持っていなかった。

 

 

試験当日。

教室の空気が妙に重いことにだけは気づいていた。

 

あれ、周りの人、誰も見たことない人たちだな……? みんな大きいし、なんか眼光が鋭い。

そもそも中等部、私しかいなくない?

 

でも、私は気づかなかったフリをして座った。

試験監督も何も言わなかったので、「あっ、やっぱりこれでいいんだ」と思い込んだ。

 

配られた問題冊子を開いた瞬間、私は絶望した。

 

一問目の日本語の意味が分からない。

「次の空欄に最も適当な語句を」……適当って、どのくらい適当? いやそうじゃない、これは比喩……? 小学校では丁寧語で聞いてくれてたじゃん。なんで急にこんな命令口調に? 物言いがキツすぎじゃない?

 

英語に至ってはもう、序盤の「Choose」の時点で白旗。

でも、時間は進む。鉛筆は握っている。誰も止めてはくれない。

 

(……じゃあ、塗るしかないな)

 

私は、鉛筆を握り直した。

塗った。心のままに。いや、むしろ無心で。

 

ときに縦に連続して、ときに斜めにパターンを変えて、意味はないけどリズム重視。

最終的には五問ずつのグループを作って塗りを揃える謎のマイルールまで発明した。

 

そうして、全部を塗り終えた。

 

そして、忘れた。

 

ほんとうに、ただそれだけの話だった。

 

 

「――満点でした」

「は?」

 

満点である。

 

この宇宙の因果律は、どこで壊れたのか。

それを説明できる者はいなかった。私を含めて。

 

結果として、私は「測定不能の天才」として、学園中にその名を知られることとなった。

 

模試の運営はざわつき、答案用紙は再点検され、試験監督の聞き取り調査も行われた。

でも、不正はなかった。というか、しようにも何の技術も持っていなかった。

 

「じゃあ、これは本物か……」

「我々の尺度では測れない……!」

 

そんな声が、どこからともなく広がった。

 

私自身は――というと。

 

(え、バレてない!? っていうか逆にすごいって思われてる!?)

 

私は当初、内心でそう震え上がっていた。だが、その震えはすぐに“都合の良さ”へと変わっていった。

 

数日後、学園側から呼び出しがかかった。私は正直、「ついにバレたか」と思っていた。

ところが、対面した教員の口から出てきたのは、思いもよらない内容だった。

 

「……通常の学力測定では、もはや評価が困難だと判断しました。よって、今後の定期試験や課題提出は“原則免除”とします」

「成績欄には『評価対象外』と記載されますが、これは例外的な措置です。前例はありません」

「ご本人の意向があれば、学術研究系の外部コンペに推薦もできます」

 

えっ。なにそれ。

逆に、どこの国の天才プログラムなの? 怖い。けど……最高じゃん。

 

だって考えてみてほしい。

 

テスト、なし。宿題、なし。誰も中身を聞いてこない。

 

こんな楽な学生生活、ある?

 

私はとっさに頷いた。

 

「……異論は、ありません」

 

なるべく、知的に見えるように言ったつもりだった。

ちょっと声が震えてたかもしれないが、教員たちは納得したように深く頷いていた。

 

こうして私は、“謎の天才”としての立場を得た。

 

模試で偶然満点を取ってしまっただけの馬鹿が、制度の隙間で神格化されるという、世界の裏側みたいな出来事が、静かに完了した。

 

 

だが、当然のように、すぐに苦しくなった。

 

最初の頃は、本当に楽だった。みんなが「宿題が多い」だの「英語のリスニングが鬼畜」だの文句を言っている横で、私は何もせずに済んだ。

 

「さすがハヤヒデさん……」

「理屈が違うんだよなあ……」

 

周囲のそんな声に、最初はくすぐったさすら覚えていた。

 

だが、それが日を追うごとに――重くなっていった。

 

「さすが」「すごい」「理論の人」。

勝手に背中に貼り付けられたラベルのせいで、誰もが私を“高みにいる存在”として扱ってくる。

 

そして当然、話しかけてくる内容も高度になった。

時には、難解な学問書の話題を振られ、時には答えのない問いに「ハヤヒデさんならどう答えますか?」と尋ねられる。

 

無理。九九の七の段も言えないのに。

 

だが、引くに引けなくなっていた。

私はそのたび、適当な名言集から拾ったセリフを引用してやり過ごした。

なるべく意味を考えず、音だけが知的に聞こえるやつを。

 

「言語は思考の道具であり、時に迷彩でもある。そうは思わないか?」

 

とか。

 

「観測されることで初めて、真実は形を得る。それは走りにも通じる」

 

とか。

 

よく分からない。

でも、それっぽく言えば、それっぽく聞こえるのだ。

 

ただ、その“それっぽさ”を維持するために、私は毎晩必死だった。

 

用語集を読み漁り、話題になりそうな本の冒頭だけを丸暗記し、「人類の英知」みたいな顔をしながら口を開く。

寝落ちして本が顔に落ちてきたのは一度や二度ではない。

 

でも、限界はすぐに来た。

 

「この論文、読んでくれませんか? 感想を聞きたいんです」

「ハヤヒデさんって、やっぱり普段どういう思考回路で走りを組み立ててるんですか?」

「言葉の裏にある意図が気になるっていうか……ね、なんかない? こう、座右の銘とか!」

 

――やめてくれ。

 

――やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。

 

何度もそう思った。

でも、「わかりません」とは言えなかった。

 

気づけば、登校の足は重くなり、教室のドアの前で立ち止まる日が増えた。

 

そして、私は――学校に行けなくなった。

 

学校に行けなくなったのは、ある日、些細なきっかけだった。

 

「……おはようございます、ハヤヒデさん。これ、気になってて……」

登校中、すれ違いざまに手渡されたのは、分厚い原書。

背表紙には英語でこう書いてあったことを後で知った――『統計的決定理論とベイズ的推論の交差点』。

 

(読めない。というか、英語の時点で読めない)

 

「あの、その……ご感想、今度、ぜひ」

 

(無理です!!!)

 

けれど、私は笑って頷いてしまった。

もう反射だった。体が勝手に、“わかってる顔”をしてしまう。

ありがとう、って受け取ったけれど、正直、手が震えていた。

 

次の日も、学校に行った。

でも、その本がカバンの中で重くて、ランドセルに鉄球を詰められたようだった。

 

その翌日から、私は布団から出られなくなった。

 

 

起きて、食べて、机に向かっている“ふり”をして。

でも何も頭に入ってこないし、覚えた格言も、もう言葉の意味すら怪しい。

誰にも責められてないのに、ずっと怒られている気がしていた。

 

「賢く見えるために、黙っていればいい」

そう信じていたのに、いつの間にか、“黙っていること”さえできなくなっていた。

 

出席日数は、静かに足りなくなった。

学校からの通知が届いたのは、春休みのはじめだった。

 

「進級要件を満たさなかったため、次年度も同学年としての所属が継続されます」

 

ようするに――留年、だった。

 

その紙を見たときの、母の表情は今でも思い出せる。

驚いていた。でも、怒らなかった。

父は「まあ、そういうこともある」とだけ言って、妙に静かだった。

 

私は、ただ、机に突っ伏していた。

重力が三倍になったみたいに、体が動かなかった。

 

そして、次の考えに思い当たった途端――ハッとした。

 

――次年度はナリタブライアンと同学年となる。

 

ナリタブライアン。

私の妹。寡黙で、強くて、理屈抜きで格好いい。

 

そして、誰よりも私の“本当”を知っている存在。

 

あのブライアンと――同じ学年になる?

 

「それは、ダメだ」

 

声に出ていた。

 

私はその場で立ち上がった。

三日ぶりに風呂に入り、ぼさぼさの髪をとかし、制服に袖を通した。

 

「行く」

 

誰に言うでもなく、そう言った。

 

 

学校に復帰した私は、すぐに気づいた。

 

噂は、変わっていなかった。

誰も、「あの人、留年したんだ」なんて言ってこない。

 

むしろ、「自身の身体理論を再構築するための選択的留年」「意図的なリセット」など、勝手な“深読み”が広まっていた。

 

……バレていない。

 

(……じゃあ、やるしかないか)

 

私は決意した。

 

「本当に賢いわけじゃない。でも、賢く見られたい」

その一心で、“演技”を始めることにした。

 

歩き方、話し方、眼鏡の位置、表情の角度、語彙の選び方。

「賢いっぽい人間とは何か」を、参考書のように分析して、体に叩き込んだ。

 

早口では話さない。間を置いて語る。

難しい単語を混ぜる。ラテン語由来だと尚良し。

眉間に皺は寄せるが、口元は静かに。

名言は“前置きなしで引用”する方が、それっぽい。

 

そうやって、私は「仮面」としての自分を作った。

中身は空でも、外だけでも構築すれば、人は勝手に信じてくれる。

 

そう信じていた。

 

その信念だけを頼りに、私は――ジュニア級への登録用紙に、名前を書いた。

 

制服の襟は、完璧に整えた。

リボンの結び目は三回鏡を確認した。眼鏡も、伊達じゃない。伊達だけど、意味はある。

 

私は、今ここに――“再起動”された。

 

校舎のドアをくぐる瞬間、たぶん私の足音は三割くらい硬質だったと思う。

なぜなら、緊張で足首が笑っていたからだ。

 

でも、驚いたことに。

誰も、驚いていなかった。

 

「おはようございます、ハヤヒデさん」

「……あ、戻られたんですね。やはり留年は意図的な……」

 

耳に入ってくる言葉のすべてが、肯定と解釈でできていた。

 

「彼女の思考スピードなら、“時間”を再構築する選択も当然ですね」

「ナリタブライアンと同学年になることで、“新しい走り”の定義を模索してるんだな……!」

 

違う。私はただの馬鹿だ。

でも今さら「九九七の段が無理です」とか言ったら、全員が“騙された!”ってなる。

そんなの、無理だ。絶対に無理だ。

 

私は、学園の誰よりも速く考えた。

そして出した答えは――「黙って、それっぽく振る舞え」だった。

 

 

キャラ設定は、重要だ。

 

まず私は、歩くスピードを“賢そうな人が歩きそうなスピード”に設定した。

速すぎず、遅すぎず。あえて人と目を合わせないことで、「思考している風」を演出する。

 

これが思った以上に好評だった。

 

「ビワさん……また何か仮説を考えてる」

「今、計算してる顔してた……!」

 

ただの方向音痴で迷ってただけだったのだが、そういうことにされた。

 

廊下で肩がぶつかった時も、

 

「すみませんっ!」

 

と反射的に言いそうになったが、私はそれを堪えた。

 

代わりに――

 

「衝突とは、相互作用の始まりにすぎない。観測できるなら、失敗ではない」

 

って言ってみた。

 

よく分からなかった。でも、効いた。

 

「……深い」

「今の、名言すぎて泣きそう」

 

泣きそうなのはこっちである。

 

 

こうして私は、“キャラを演じる”というより、“キャラに取り憑かれた”ような日々を始めた。

 

参考書代わりにしたのは、

・思想名言集(中身は割とパチモン)

・『一日一論語』

・英語の格言ポスター

・歴代名トレーナーのスピーチ原稿

 

そして、覚えたものを隙あらば投入する。

 

「人は皆、意味を問う存在だ。だが、意味とは本質ではなく“距離”なのだよ」

「走りとは、思考の延長にある“加速度の詩”だ」

 

意味は分からない。たぶん、言ってる側の私も分かってない。

でも、大丈夫。言い終わったあとに眼鏡をスッと押さえて黙れば、それっぽくなる。

 

……たぶん。

 

 

そして、あの日――私は提出した。

ジュニア級への登録申請書を、自筆で。

 

理由は簡単だった。

 

(ブライアンと、隣の席になったりしたら死ぬほど気まずい)

 

このままだと、完全に“姉の威厳ゼロ”。

さすがにまずい。なんかこう、姉としての矜持がバグる。幸い私たちは学年は同じだが、ブライアンはまだジュニア級に参戦するつもりではないらしい。一足先に参加してしてしまえば、ギリギリ威厳は保てる……と思う。

 

だから私は、動いた。

 

走るとは何か?

勝つとは何か?

賢く見せるとは何か?

 

それはすべて――私にとって、

 

「誤魔化し続けること」だった。

 

次に誰が私に声をかけてくるかは分からない。

けれど、その時はきっとまた、“それっぽい言葉”で包んで答えるだろう。

 

それが、私のやり方だ。

今のところ、ばれてない。

 

そう、今のところは。

 

 

 

校舎裏、中庭のベンチ。

私がよく使う場所――日当たりがよくて、静かで、Wi-Fiも強い。

 

私は今日も、例の分厚い本を膝に乗せていた。

 

……が、読んではいない。

正確に言えば、開いているだけ。ページは、五ページ目で止まっている。

 

なぜかというと――一ページ目の文字が多すぎて、心が折れたからだ。

いや、内容もなにも、最初にあった「ごあいさつ」の時点で“なんか難しそう”ってなって、それきりだった。

 

だから私は、“読み込んでるっぽい風”にするため、

最初の数ページをパラパラとめくったあと、五ページ目を「定位置」として固定していた。

 

なんかそこ、図表があったし。図って、知的っぽいじゃん?

 

(※図の内容はよくわからなかった。というか回路っぽい何かが描いてあって目が滑った)

 

にしてもわっかんねぇな。

 

そこへ――足音。

 

(来た)

 

気づいてないフリをして、神経は総動員。

背中の気配、歩幅、靴音の重量感。男性トレーナー。若手。緊張してる? あ、靴がちょっと擦れてる。

 

そして、一歩。

 

(近い。喋るな。まだ喋るな……)

 

「……私に何か?」

 

ついに言った。

 

ついでに、目も合わせた。

表情は崩さず、語尾はやや下げて――賢そうに。そう、いかにも“測定不能の存在ですけど?”みたいなテンションで。

 

彼は名乗った。

 

「あの、オカベといいます!」

 

語尾にびっくりマークを感じる元気さ。

 

やっぱり若い。汗かいてる。喉もごくりと動いてる。

 

(これは……完全に誤解してるな)

 

私は、本を閉じた。

 

そして、難易度の高いセリフを探し始める。

 

「選択の意思は、評価に値する。だがそれは衝動か、戦略か。そこが問題だね」

 

いけた!

出だしの「評価に値する」が自分でもかっこいいと思った。

しかも「戦略か?」とか言っておけば、なんとなくチェスやってそうに見える。良い。

 

彼は戸惑ったが、真面目に答えた。

「今のところは、意志です……」って。

 

(かわいいなこの人)

 

でも、ここからが正念場だ。

 

「君が私に育成を申し出た理由を、簡潔に」

 

これ、地味に言うの難しかった。噛みそうになったけど、バレなかったと思う。

彼の返答は、思ってたより熱かった。

 

「誰も見たことのない走りを、あなたと作りたいです!」

 

(えっ、……えっ!? 何そのセリフ!? ラブコメ!?)

 

正直、ちょっと胸に来た。

……いや、ほんのちょっと、だけどね?

 

けど、ここでニヤけたら全部が終わる。

私は表情を抑え、眼鏡を押し上げ、冷静に返した。

 

「……奇抜ではあるが、否定はしない」

 

出た。この言い回し、語感が強くて助かるやつ。

“奇抜”って言葉、なんか強いよね。意味よくわかってないけど、“すごいけど微妙”ってニュアンスらしいし。

 

あとは、立ち位置を確保するだけ。

 

「条件がある。“余計な質問はしないこと”」

 

これ。これが命綱。

 

中身に踏み込まれたら、終わる。

九九の七の段のことまで聞かれたら、即死する。

 

だから、これは本当に大事な契約だ。

 

“余計な質問はしない”――

これは防壁であり、黙認であり、最後の砦。

 

彼は、頷いた。

 

(……よし! 契約成立……! これで、“中身のこと”は聞かれずに済む!)

 

眼鏡を押し上げ、再び本を開く。

“定位置”である五ページ目の図を一度だけちら見し――

 

(うん、よくわからん)

 

それから、うっかりページを戻してしまった。

ぺらり、と一枚。

 

すると、目に飛び込んできた文字。

 

「この書籍はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません」

 

(……あっれぇ!?)

 

このとき初めて、私は“表紙がダサかったからカバーを外していたこと”を思い出した。

どうやら私は、SF小説の前書きを五日間ずっと、哲学書として開いていたらしい。




油断すると描写が暗くなりがちで難しいですね。続くかは未定。


【追記】
続きました。次話から勘違いものっぽさを上げているつもりです。

投稿形式はどうするのがいい?

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