春は、希望と不安を等しくはらんだ季節である。咲き誇る桜の下に集う新たな顔ぶれの中で、ある者は未来を描き、ある者は過去を背負い、それぞれの歩幅でスタートラインに立つ。そのすべてを見届けようとする立場にある者にとって、春は常に試練の季節だった。
シンボリルドルフは、トレセン学園の生徒会長である。規律と自治、励ましと監視、そのすべてを背負う立場にあるこの役職は、彼女にとって単なる肩書きではない。それは彼女自身の、願いの形だった。才能に恵まれ、栄冠を積み重ねてきた自身だからこそ、見下ろすのではなく、見守ることのできる高みに立たねばならないと、彼女は固く信じていた。
だからこそ、噂には敏感だった。実力者たちの名が囁かれれば耳を傾け、問題を抱える生徒がいれば水面下で情報を集める。そのすべては、誰かが取り残されないために――そして、逸材を見落とさぬために。最近、彼女の耳に届いたのは、久方ぶりに登録された一枚の育成申請書だった。そこに記された名は――ビワハヤヒデ。
かつて模試で歴史的な――自分でさえ不可能だった――満点を叩き出し、学園長をして「成績とは未完成な者に必要な行為」と言わしめた天才。評価不能、別枠、規格外。あらゆる言葉が彼女の名に添えられたが、いつしかその姿は学園から姿を消していた。表向きには「進級留保」、つまり留年という形で処理されたが、その理由を知る者はいない。ただ、噂だけが残った。あまりの天才性ゆえに孤独を選んだのだとか、あるいは己の理想に到達するための“再構築期間”なのだとか。
しかし、その天才が戻ってきた。しかも、ジュニア級への参加申請を自らの手で提出したという。その報せは、ルドルフの中に久しく抱いていた直感――ある者が“動き出す”瞬間を察知する、あの鋭い感覚――を呼び起こした。
彼女はその名を耳にしてから数日間、様々な資料を確認した。登録の記録、登校履歴、模試の当該答案……だが、どれも記録としては確かでも、人物像を伝えるには曖昧だった。文章には正確な文言が並び、答案は完璧な模範だった。だが、そこに“人”はいなかった。どこまでも整い過ぎていて、むしろ不気味だった。
これは一度、話をしなければならない――そう思った。
情報網を通じ、ビワハヤヒデが昼休みに足を運ぶことがあるという中庭のベンチを特定するまでに時間はかからなかった。そこは人通りが少なく、桜の木に囲まれた静かな空間で、聞くところによれば、彼女はときおりそこで読書をしているという。
ルドルフはその日、予定を一本だけ削り、ベンチの向こうにその姿を確認したとき、ほんのわずかにだけ息を整えた。
そこにいたのは、葦毛の髪を長く伸ばし、書籍を膝に置いたビワハヤヒデの姿だった。風に揺れる髪の一筋が光を弾き、彼女の横顔を柔らかく縁取る。鋭くも整った目元には、静かな威圧感がある。何故か“苦虫を嚙み潰したような顔”をしており、ただそこに座っているだけで周囲を沈黙させる、そんな空気を纏っていた。
(やたらと険しい顔をしている――思索に耽っている最中か?)
ルドルフは一歩、また一歩と歩み寄りながら、心の中でひとつ問いを立てた。
――この“静寂の一年”を経て、彼女は何を得たのか。
思考の海に沈んでいるところ申し訳ないが、こちらも多忙の身なのだ。このタイミングを逃せば、一対一で話せる機会は長らくやってこないかもしれない。その答えを今から尋ねに行く。そう決めて、彼女はビワハヤヒデの前で立ち止まり、声をかけた。
「失礼。君が――ビワハヤヒデだね?」
「……はい。貴女は、生徒会長の」
落ち着いた声。過度な緊張も、媚びも見せない態度。ルドルフは、その一挙手一投足にほのかな気品を感じ取った。なるほど、あれだけの噂が立つのもわかる。
「突然で申し訳ないが、少し時間をもらえるだろうか。実は以前から、君に興味があってね」
「……私に、ですか?」
ハヤヒデは、膝の上の本をそっと脇に置く。読む気があるのかは不明だが、扱いは丁寧だ。
「ジュニア級登録書に、君の名を見つけたとき、目を疑ったよ。――“測定不能”と呼ばれたウマ娘が、自ら再びスタートラインに立とうとしている。それを聞いて、私はただの好奇心では済ませられなかった」
ルドルフは隣のベンチに腰を下ろす。その動作にも、舞台俳優のような所作があった。
「君が沈黙を選んだ一年に、私はいくつものレースを見てきた。勝者も、敗者も。鼻は良い方だと思うんだがね、それでもなお、君の不在は明確な“穴”として私の中に残っていた」
「……光栄なことです、生徒会長にそう言っていただけるなんて」
穏やかな声。だが、その裏に何かを隠している気配もある。ルドルフは探るように問いを重ねた。
「君はこの一年、“沈黙”の中で何を掴んだのかな?」
「……何も」
即答だった。ルドルフは、ほんのわずかに眉をひそめる。
「“何も”? 君ほどの者が、一年を無為に過ごしたと?」
「ある種、そうとも言えるでしょう。何もせず、ただ考えていた。あるいは、何も考えずに、考える“ふり”をしていた……のかもしれない」
その曖昧な言葉の選び方が、ルドルフには哲学的にすら聞こえた。単に過去を美化するのではなく、苦悩を経てなお言葉を持とうとする、成熟した在り方だ。
(……自己認識と距離を取れる姿勢。やはり只者ではない)
「だが君は、再び走ろうとしている。ならばその先、どこを目指す?」
「目指す場所……」
ハヤヒデは一瞬だけ遠くを見る。木立の向こうに、誰もいないトラックの一部が見えた。
「勝ち負けなど、眼中にありません。ただ、自分の走りをするだけです」
「勝敗などではない境地、ということか」
(勝ち負けなど考えるまでもない――つまり、すでに勝利は前提で、その先を見ているのだな……)
ルドルフの胸中に、かすかな興奮が湧く。しばしの沈黙。
「……そういえば、昔誰かが言っていました。『三位一体』、と」
「三位一体?」
ルドルフが眉を上げると、ハヤヒデは指を三本、すっと立ててみせた。
「走りを構成する三つの要素です。“速さ”“運”そして“強さ”。どれか一つでも欠ければ、ウマ娘は本質的に走りを失う。私は、そう思っているだけです」
「速さ、運、強さ……」
その順番、言い回し――ルドルフの中で、記憶の糸がはっきりと結ばれた。
(速さは皐月。運はダービー。強さは菊花)
(――クラシック三冠)
まさか。偶然か? 否。否、違う。ここトレセン学園において、これほど象徴的な語順を意味なく並べるウマ娘がいるだろうか?
「なるほど……三位一体、か」
ハヤヒデがこちらを見つめ返す。だが追及しようとはしない。ただ、静かに頷くだけだった。
(この沈黙……確信の証明と受け取るべきだろう)
その言葉を口にしたとき、ルドルフの胸には、確信めいた熱が宿っていた。偶然ではない――偶然であるはずがない。
(速さで皐月、運でダービー、強さで菊花。それら三つを一体とする意志。……つまり、彼女は三冠制覇を視野に入れている)
この春、あらためてターフに戻った者の中で、ここまで鮮やかな意志を示した者がいただろうか。しかもそれが、かつて“測定不能”と称されたウマ娘であればこそ、その意味は計り知れない。
一方のハヤヒデは、沈黙を保ったまま頷いていた。だが、その頷きにはやや戸惑いが混じっていた――ように、ルドルフは解釈した。
(……意図をあえて明言しないのは、奢らぬ賢者の慎み。ならば、こちらが言葉にして示そう)
ルドルフは、静かに、だが確かな声音で言葉を継いだ。
「速さ・運・強さ。君はそれを三位一体と見なし、走りの本質を一つに結ぶつもりなのだな。なるほど、その視座には敬意を払わねばならない。私も同感だ」
ハヤヒデはほんのわずかに首を傾げた。やや返答に困っているようにも見えたが、ルドルフはそれを、「深く思慮している」と受け取った。
(彼女は今、言葉よりも走りで語るべき段階にある。ならば私が、その言葉を代弁しよう)
「理想とは、遠いものだ。だからこそ、誰かが歩いて見せねばならない」
自らの口から語られる言葉が、彼女の眼差しに確かな響きを与えている――ルドルフはそう信じていた。
「私が目指した頂は、誰かが登れると信じさせるためのもの。道を作るのが私の役目なら、歩むのは君たち自身だ。君がその“歩み”をもって、理想の三冠を形にするというのなら、私は迷わずその背を支えよう」
「……ありがとうございます」
その声は、どこか淡い。だがルドルフには、それは「謙遜」と映った。
(己の覚悟を、軽々しく語るべきではないと知っているのだな……まったく、大した逸材だ)
「不撓不屈。夢に仕える者にとって、困難は“従者”に過ぎない。どうか迷わず進むといい。学園の未来は、君の脚にも懸かっている」
そう言い切ってから、ルドルフは静かに立ち上がった。制服のスカートが風に揺れる。春の柔らかな空気の中に、桜の花びらが舞い落ちていた。
「……それでは、また」
ハヤヒデは、その背を見送るだけだった。
その場に取り残されたように見えるその横顔に、ルドルフは最後まで気づかない。
彼女の“頷き”が、自分の見立てを肯定しているわけではなかったことを。
そして――
その日の夕方、生徒会広報委員が急ぎ仕上げた掲示の一枚が、校内の掲示板に張り出される。
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【速報】
ビワハヤヒデ、三冠路線始動か!?
生徒会長ルドルフが“速さ・運・強さ”を評価し激励
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「三冠って……なに……?」
掲示板を前に、ハヤヒデはぽつりと呟いた。
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