留年生ビワハヤヒデ   作:daidains

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いよいよ本格レースです、変なこと書いてたらすみません。
勘違いでレース一本成立させるの難しすぎだろ!

投稿期間が空いたので、これまでのように両視点同時投稿ではなくできた方から先に投稿してしまいます。ビワハヤヒデ視点ものちのち投稿します!

ー追記ー
本作の独自設定ですが、ハヤヒデは留年した結果タイシンと同じ学年になった=ハヤヒデが1年先に生まれた、という関係です。
そのため、本作開始時点でのタイシン・チケットとハヤヒデの関係は赤の他人状態に変更しています


タイシン!【トレーナー・タイシン視点】

 レースが始まってからも、雨はまだ降っていた。

 

 ポツポツ、から、しとしと。しとしと、から、ざわざわ。風もないのに濡れた芝が揺れているような、そんな曖昧な雨だった。

 

 コース脇に立つフジサワは、手にしたストップウォッチをちらと見やり、軽く舌を打った。

 

「ちょっと……」

 

 隣で傘を差していたオカベが、バツの悪そうな顔で肩をすくめる。

 

「いや、いくらなんでも……これは……」

 

 二人が目を向ける先、芝コースでは二人のウマ娘――ビワハヤヒデとナリタタイシン――が、信じられないほどの()()でコーナーを曲がろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

「ぎにゃあああああ!!!!」

 

 ひたり、と突如首元に押し当てられた冷たさにオカベは突如跳ね上がった。

 

「おひさ、元気してた?」

 

 オカベが振り返るとフジサワが缶コーヒーを二本持って立っていた。おそらく先ほど首に押し当てられたものの正体はあれだ。

 

「先輩! 普通に声かけてください!」

「アハハ! ごめんって。最近暑いから、つめたーいアイスコーヒーを差し入れしてあげようと思ってさ」

「今日はブラックすか。……そういえば、先輩の差し入れって毎回コーヒーですよね」

「なにぃ、贅沢者め。バラエティを要求しだしたか」

「あ、いや! そういう訳じゃなくて。もしかしてコーヒー好きなのかな、と思って」

「……! ほほう、ようやく私のことをわかってきたようで」

 

 季節は夏。今年のジュニア級に参加登録を済ませたウマ娘たちのデビューがいよいよ迫り、トレセン学園にも徐々に熱が満ちてきていた。熱気、とまではいかないが、ざわめきのようなものが日々のあちこちで目につく。誰がデビュー一番乗りを飾るか、どの子がどんな走りを見せるか、誰がクラシックを狙えるのか。名のあるトレーナーや有力な家系にまつわる話題が、学園のあちらこちらでちらほらと飛び交っている。

 

 だが、そんな中で。

 

「……それで。オカベくんの方はどうなの?」

 

 フジサワがふいに表情を引き締め、缶コーヒーのプルタブを開けながら尋ねてきた。

 

「ハヤヒデ? ……まあ、ぼちぼち、ですかね」

「“ぼちぼち”、ねえ?」

 

 缶から一口啜ったフジサワの目が、じろりと鋭くなる。

 

「いや、悪くはないんですよ。……ただ、何ていうか……スピードが……」

「スピードが出ない?」

「正確には“出そうとしない”って感じです。トレーニングも中等部の体力測定レベルの強度までしかやりたがらないんですよ。無理に追い込ませようとすると、“いや、今はまだ時期尚早かと”って……」

「言いそう~。あの子、何だかんだ自分のペース守るタイプでしょ?」

「ええ。でも、やっぱり変なんですよ。クラシック狙うような子が今の時期に実戦トレ避けるって、普通じゃない」

 

 フジサワは何かを考えるように、ふっと目線を遠くにやった。

 

「……ふうん。でも、うちのタイシンだって、相当じゃじゃウマだよ?」

「タイシン?」

「ええ。ナリタタイシン。知らなかった? 私、あの子スカウトできたんだ~」

「マジすか!? あのナリタタイシンを!?」

 

 ナリタタイシンの名前をオカベは知っていた。どうにも彼女は体格の小ささ、遅生まれ、荒めの気質などの要素が重なり今のところ世間ではそこまで評価されてはいないようだが、オカベはそれでもなお彼女のことを世代のホープの一人だと見ていた。

 

「フフ、まあね。大変だったけどさ。……でもあの子、実力あるのに、どうも他と馴染まない。自分のやり方にこだわりが強くてね」

「へぇ……でも、それって」

「――つまり、お互い手を焼いてるってことよ」

 

 そのときオカベは、嫌な予感がした。

 

「で、何が言いたいんですか、先輩」

「決まってるでしょ。ちょっと、勝負させてみない?」

「……マジすか」

「フフ。マジよ」

 

 

 

 

 ──そして、その話はあっという間に決まった。

 

 雨は、降り続いていた。

 

 もう何時間も前から、練習場にはぽつぽつと水音が鳴っていた。放課後の自主練が一段落し、他のウマ娘たちはとっくに引き上げている。今、この芝コースに残っているのは、コーチ陣と数名の関係者だけ。誰もがこの“試運転”に少しだけ興味を持って、しかし距離を取っている。

 

 水を吸った芝は重く、コースのところどころが抉れている。晴れなら一級品の足場も、今日はいつもより癖がある。

 

 でも、そんなの関係ない。

 

 勝てばいい。今日、ここで──相手をねじ伏せてやればいい。

 

 ナリタタイシンは、スタートラインに立ち、隣に立つ相手をちらと見やった。

 

 ビワハヤヒデ。

 

 それが彼女の名前だ。デビュー前から模試満点、大天才と評判で、トレーナー複数からスカウトがかかっていたという逸材──なのに一時期学園から姿を消していたかと思えば、突如自分の世代に『一年遅れ』で割り込みしてきた、奇妙なウマ娘。

 

(でも、見た目は……普通)

 

 ハヤヒデは何も語らない。ただ、髪をなでるような動作を続けていた。集中しているような、していないような。目線は伏せ気味で、スタート地点に並んでいても、気圧されるような気配はない。

 

 ──それが逆に、妙だった。

 

 お高くとまってるつもりか?

 あるいは……アタシのこと、眼中にないってか?

 

 小柄な自分がナメられることなんて、もう慣れている。背が低い、声が低い、睨みがち。勝手に“気が強い”とか“トラブル起こす”とか、勝手に決めつけて、勝手に距離を取られて、勝手にバ鹿にされる。

 

 でも。

 

「……ねぇ、『ビワハヤヒデ』」

 

 フルネームで呼びかける。声をかけたのは、そういう“勝手”を壊すためだった。

 

「アタシのこと、どう思ってる?」

 

 ハヤヒデは、少しだけ目を丸くした。タイシンは、視線をそらさない。

 

「見た目で決めてるんなら、やめときなよ。アタシ、思ってるより速いよ。見返してやるために走ってる。それだけ」

 

 ハヤヒデはしばらく黙っていたが、やがて──ぽつりと呟くように返した。

 

「……見返す? なるほど。なるほど、そういう動機か。参考になる」

 

(……なんだそりゃ)

 

 その言い草に、タイシンはまた少しむっとする。アタシの話、伝わってんのか?

 

「……ふぅん。ま、いいよ。あんたがどんな思惑でも関係ない。アタシはただ、勝つだけだから」

「了解した。全力で分析させてもらおう」

 

 ハヤヒデの声は、やはりどこか他人事のようだった。

 けど──タイシンは、内心で決めていた。

 こいつに勝てば、自分はもっと前に進める。ちょっとでもいいから、何かを証明できる。

 

 スタート位置に立つ。雨音がまた強くなる。

 遠く、コースの外では、フジサワとオカベが並んで様子を見ていた。

 

「……しかし、雨の日にやるってのもまた、風情あるわね」

「風情、って。コース荒れてますよ? 滑ったらどうするんですか」

「それを含めて“実戦勘”でしょ? ま、あの二人になら、任せられると思ってる」

「……(フジサワ先輩の“そう思ってる”って、だいたい放任の言い換えなんだよな)」

 

 そんな会話を背に、タイシンは小さく息を吐いた。

 雨に濡れた前髪を指で払って、目を細める。

 

(いける……いや、“いく”)

 

 笛の音が鳴った。

 

 ──レースが始まった。

 

 

 

 

 

 スタート直後の違和感は、今もまだ身体の芯に残っていた。

 

 ナリタタイシンは一度、呼吸を整えながら首を少し回す。泥をかぶった襟元がずっしりと重くなっていた。

 

(……落ち着け)

 

 感覚が狂いそうだった。スタートは悪くなかった。悪くなかったどころか、ほぼ完璧だった。蹄鉄は芝を掴み、反応は俊敏。ビワハヤヒデを“追う”つもりで飛び出したのに──。

 

 いなかった。前に。

 

 ビワハヤヒデが、数テンポ遅れてスタートを切ったのだ。

 

 出遅れ、というほどのものではない。ほんのコンマ数秒の“間”だ。ただ、その“間”は、追い込み型のタイシンにとって致命的だった。なぜなら、それによって彼女は、前に出てしまったからだ。

 

(……ふざけんなよ。なんでアタシが前走ってんの)

 

 おかしい。計画と違う。追うつもりが、追われる側になっている。

 

 タイシンは舌打ちし、ペースをゆるめた。ビワハヤヒデの後方──数バ身離れた、最も“見やすい”ポジションへ戻るためだ。

 

 しかし。

 

(……あ?)

 

 気配が遠い。──遅れてくる気配が、まったくない。

 

 しびれを切らして、もう一段階ペースを落とす。その瞬間、ようやく背後に──淡い灰の髪と、無表情の眼差しが見えた。

 

 タイシンは前を向き直し、ペースを一定に保つ。よし、このまま来てくれれば──

 

 ──ビワハヤヒデも、ペースを落とした。

 

(……おい)

 

 なんなんだ、その動きは。

 

 自分がペース落とすたび、ぴったりくっついて、同じように緩めてくる。まるで「追い込み」の“後ろ”に、さらに追い込む気でいるかのように。

 

 いや、ないないない。そんな戦法があるか。自分の後ろから来る追い込み型なんて──

 

(そんなの、戦術じゃなくて……ただの……)

 

 ──「脚がないだけ」じゃないのか?

 

 頭の隅を、冷たい疑念がかすめる。

 

 だが、まさか。ビワハヤヒデだぞ? あの“測定不能”のウマ娘だ。桁違いの頭脳と、唯一無二の思考回路。走りにも何か、常人の理解を超えた戦術があると、そう思っていた。

 

 しかし現実は──

 

「……おっっっっっそ!!」

 

 コースのすぐ脇。フジサワの叫びが、雨音を突き破って響いた。

 

 傘を肩に引っかけたまま、腕を組んでいた彼女が、半ば呆れたように笑っている。

 

「何このタイム。第一、第二コーナー合わせて、あたしの朝のジョギングより遅いんじゃないの」

「いや……え、いや、いったいどういう展開……?」

 

 オカベが慌ててストップウォッチを覗き込む。秒針が、明らかに異常な数字を示していた。

 

「っていうか、タイシンも何してんの……追い込みとはいえ、いくらなんでも遅くしすぎ」

「マジで“デッドロック”ですね」

 

 スピードのかけひき。けれど、そこには火花の飛び交うような競り合いはない。ただただ、両者が前へ出ようとせず、互いに“譲り合っている”ように見える。

 

「……これ、二人とも“後ろにつきたい”と思ってるよね」

「追い込みのタイシンはともかく、ハヤヒデはそんなタイプではないはずなんですけど」

 

 オカベの額に、しずくとは別の汗がにじんだ。

 

 

 

 

 

 

 (──もう、付き合いきれない)

 

 ナリタタイシンは、決意した。

 雨粒が瞳に入りそうなほどに視界を霞ませるが、迷いはなかった。

 

 第一・第二コーナーを抜けてからのスローペース。これは明らかに不健全だ。体温も上がらず、脚も温まらない。何より、集中が切れる。泥に足を取られぬよう、あえて穏やかに踏み込んできたが、もう限界だ。

 

(こんな遅さじゃ、レースにならない)

 

 ビワハヤヒデのことは一度、忘れる。

 後ろを気にしない。合わせない。自分のタイミングで、自分の脚で──進むだけ。

 

 最終コーナーが迫ってくる。タイシンは、ふっと鼻から息を抜いた。背筋を伸ばし、腹に力を入れる。

 

 内は荒れている。他のウマ娘たちが練習で何度も通り、掘り返され、雨水が溜まった、まるで畑のようなコンディション。タイシンは内ラチ寄りの最短距離を捨てるように、コースの外側へと滑らかに膨らんでいく。

 

 脚が──動く。

 

 音が──変わる。

 

 雨音と、蹄の跳ねる水音。コースに打ちつけられた泥の感触が、明らかに自分のものになった。エンジンが回りはじめるのを、全身で感じる。

 

(──ここからだ)

 

 そう思った。

 

 だが、その一瞬後だった。

 

 前方、左斜め上──視界の端に、ちら、と。

 

 白い髪が、濡れた重力に引かれながら、ゆるく揺れていた。

 

(……!?)

 

 ビワハヤヒデが──加速していた。

 

 まるで、タイシンが動くのを読んでいたかのように。外に持ち出そうとしたタイシンの進路の、わずか斜め前に。その白い影は、音もなく差し込んでいた。

 

 雨に濡れた眼鏡が、わずかに光を反射する。体格差は歴然。にもかかわらず、まるで“進路を読み取って先に立った”かのように、彼女は斜め前方、外ラチ寄りのポジションを先に奪っていた。

 

(は……?)

 

 急激な減速もない。ギクシャクとした動きもない。まるで最初から“そこを塞ぐつもり”でいたかのような、自然な挙動。

 

 あのスローペースに付き合っていたはずのビワハヤヒデが、今。

 

(……やられた!!!!)

 

 ──その動きはタイシンにとって致命的だった。

 

 加速中に進路がふさがれた。その一瞬の迷いが、バ場状態の悪さと相まって、脚に鉛のような負担をかける。

 

 内側はぐしゃぐしゃ。散々走られて削れ、足跡の窪みに水がたまり、蹄がすべる。外に出るには、いったん減速して位置を下げなければならない。しかし今のタイミングで減速すれば、加速に必要な時間と距離が大きくロスする。

 

(クソッ……! コイツ、わかってやってる……!?)

 

 感情が熱くなる。熱くなったところに、冷水をぶっかけられたようだった。

 

 彼女は最初から、こうするつもりだったのだ。

 

 スローペースでこちらのペースを狂わせ、脚を温めさせず、体力を無駄に蓄えさせ──そして、ラストスパートで“封じる”。

 

(アタシの脚を、殺す気か……!)

 

 選択肢は──一つ。

 

 荒れた内ラチ沿いを突っ切る。

 

 もはや後には引けない。勝ちたい。見返したい。何より、負けたくない。

 

 ナリタタイシンは、足場の悪さを無視して踏み込んだ。蹄がめり込み、泥が跳ね、脚が沈む。

 水飛沫が頬を打つ。砂混じりの雨が目尻に入り、視界がかすむ。

 

 だが、もう迷っている暇はなかった。

 

 ナリタタイシンは歯を食いしばり、ビワハヤヒデが進路をふさいだその外ではなく、真逆の内側へと、むしろ蹴り飛ばすように飛び込んだ。

 

 ──ぐちゃっ。

 

 一歩目で、蹄が沈んだ。膝が埋まりかけ、バランスを崩しかける。だが脚力で押し返し、姿勢を戻す。二歩目。滑った。三歩目、泥が跳ね、足首まで汚泥をかぶる。

 

 (いいよ、やってやるよ……!)

 

 最短距離を通る代償は、想像以上に重かった。

 

 足元が、重い。一歩ごとに力が吸われる。跳ね返りがない。着地した瞬間、そのままズブズブと押し込まれていく。

 

 (でも……!)

 

 それでも──行く。

 

 最終コーナーを抜ける瞬間、コースが一気に開ける。視界が開けた先に、まっすぐな直線が伸びている。ラストスパートの“舞台”だ。ここを逃しては、何も残らない。

 

 タイシンは咆哮をあげるように、体全体に力を込めた。

 

 ──だが、重い。

 

 脚が、思ったほど上がらない。雨が、泥が、想像より深い。

 

 くそ、ダメだ。これじゃ──

 

 その瞬間、ナリタタイシンの脳裏に、ひとつの“賭け”が閃いた。

 

 (下がって、外に出す……!)

 

 ──最終直線で速度を緩めるなど、常識では考えられない。けれど、今は非常時だ。ハヤヒデが外を封じているとはいえ、あくまで“先行”している状態での斜め前方。後ろからの進路変更なら、進路妨害も取られないはず。

 

 脚を止めてでも、外へ。

 

 一度、ギアを抜く。

 

 ──そのときだった。

 

 前を走っていたビワハヤヒデが、速度を──緩めた。

 

 (……は?)

 

 ナリタタイシンの全身に、ありえないほどの冷たさが駆け抜けた。

 

 前を走っていたはずのビワハヤヒデが、こちらが“減速した直後”に、まるで──まるで背中に目でもついているかのように──そのスピードをぴたりと落としたのだ。

 

 (いやいや、なんで!? アタシ、今、後ろにいるんだよ!?)

 

 ビワハヤヒデは、最終直線の入り口──まさにスパートの開始点に差し掛かりながら、ありえないタイミングで減速をかけた。進路変更を仕掛けようとしたタイシンが、スッと内から外へと持ち出す“その瞬間”に。

 

 ちょうどその直前の“減速の刹那”に反応したかのように──その白い影は、滑るようにタイシンの進路に“再び”割り込んでいた。

 

 (そんなの……ありえない……!)

 

 前半戦、ビワハヤヒデは「後ろから」タイシンの動きに合わせてきた。たしかにそれは、合わせようと意識すれば誰でも可能だろう。だが、今のこれは違う。今、前を走っているのはビワハヤヒデだ。

 

 背後にいるタイシンの減速に、なぜ──なぜこのタイミングで反応できる?

 

 (どうやって……“察知”してんの……!?)

 

 にわかに足取りが乱れる。

 

 視界の中で、ビワハヤヒデの背中が、揺れない。まるで定点カメラのように、等速でコースの外寄りを占拠し続けている。乱れた足音も、呼吸の荒さもない。ただ、静かに、しかし確実に“その位置”を制し、塞ぎ続けている。

 

 (……アタシが、後ろにいるのに……)

 

 前方を走るビワハヤヒデは、あくまで直線をまっすぐに、ぶれることなく走っている。進路を妨げる素振りも、後ろを振り返る気配すらもない。だが──

 

 (動けない……!)

 

 タイシンが進路を外そうとするたび、ビワハヤヒデは“まっすぐのまま”、その“わずかなタイミング”でわずかに減速し、追いつかせない。

 

 追い込み型の脚質を持つナリタタイシンが、最終直線で持ち味を活かすには、「外へ出る」しかない。荒れた内は使い物にならない。脚を引っ張られ、タイムも落ちる。だが──外へ出ようとすれば、彼女が“そこにいる”。

 

 まるで、未来が見えているかのように。

 

 まるで──自分の“走り方”そのものを、すでに読まれていたかのように。

 

 (くっそ……ッ! なんなんだよ、コイツ……ッ!!)

 

 口の中に、鉄の味が広がる。知らないうちに舌を噛んでいたらしい。だが、構っていられない。もう、目の前のこの“封鎖線”を突破するしかない。

 

 ──脚を踏み込む。

 

 強引に、もう一度、内を突破しようとする。だが、内は“沼”だ。泥が蹄を吸い込み、脚の返しが鈍る。思ったようにスピードが出ない。

 

 ──ふと。ナリタタイシンの頭に、理解とは別の感情が芽生える。

 

 

 

 ――怖い。

 

 

 

 自分の走り方を、全部知ってるみたいに、邪魔をしてくる。

 

 何も言わず、何も威圧せず、ただ“そこにいる”だけで。

 

 (……アタシの全部が……見透かされてる……)

 

 脚が、重い。

 

 いや、体力は残っている。荒れている内ラチ沿いを走ったとはいえ、前半が異様なスローペースだったのだから。

 

 でもスパートができない。

 

 ゴールは、すぐそこにある。だが、遠い。

 

 後ろからくる者はいない。二人の距離はほとんど詰まらず、そのまま泥の芝の上を──

 

 ビワハヤヒデが、ほんのわずかに──先に、ゴール板を通過した。

 

 

 

 

 

 

 ──ゴール板を過ぎた瞬間、ナリタタイシンの肺は、泥水を吸い込んだように苦しくなった。

 

 呼吸が整わないのは、酸素が足りないせいじゃない。体力も、出し切っていない。全身に張りついた泥のせいでもない。違う。自分は、負けたのだ。

 

 けれど──

 

(ただの“負け”じゃない……)

 

 全力を出して、歯を食いしばって、それでも一歩届かなかった、ってんならまだ納得できる。悔しさはあっても、それは前に進む糧になる。でも今回のレースは──何も出せなかった。

 

 ぐちゃぐちゃの重バ場。末脚自慢の自分にとって、本来は苦手なはず。だけど、それでも、走れないはずじゃなかった。実際、あのペースなら──もっと速く走れていた。

 

(……封じられたんだ、全部……)

 

 ビワハヤヒデの、あの妙に緩急のあるペース。スパートをかけようとすれば速度を落とされ、様子を見れば引き離される。決して斜行せず、進路も塞がず、ただ“まっすぐ”走っているだけで、全ての選択肢を潰してきた。

 

 (頭だ……戦術だ……それを、考えすぎた……!)

 

 思えば、最初から間違っていた。天才だと評判の相手だからといって、自分まで戦術だの、頭脳戦だの、考える必要があったのか? ない。自分は“脚”で勝負できたはずだ。

 

 それを──“勝ち筋”にこだわりすぎた。追い込みというスタイルに固執して、どうにかその型に持ち込もうとして、その型ごと利用された。

 

 (……勝てるわけ、なかった。頭で勝負したら……相手の方が頭がいいんだから……)

 

 だとしたら。やるべきだったのは、なにも考えず、ただのレースだった。走るだけ。脚のままに。戦術なんてクソくらえ。そしたら──この時計よりは速く走れてたはずだ。少なくとも、あそこまで全く何もできずに終わることはなかった。

 

 体力は余ってる。息もそれなりに残ってる。──なのに、こんなに悔しいのは、戦わずしてハヤヒデの“頭ひとつ”で完敗させられたことだ。

 

 タイシンは唇を噛み、濡れた前髪を振り払って、一歩踏み出した。

 

「ねえ、ビ……いや、『ハヤヒデ』」

 

 フルネームで呼ぼうとして、思い直し、呼び方を変える。ちょっとした意地だった。

 

 いま目の前にいるのは、自分を完封してきた、れっきとした強者だった。

 

 だから、あえて敬意もへったくれもなく、呼び捨てにする。

 せめてもの意地だ。負けっぱなしじゃ終われない。

 

「──アタシ、頭でっかちになってた」

 

 ビワハヤヒデが、ぴくりと反応した。

 

「……なに?」

「勝ち筋だの戦術だの、変に考えすぎて。結局それに引っ張られて、全然脚を使えなかった。アタシ、頭なんて使わずに走りゃよかった。バカみたいに」

「…………ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

 タイシンが言い終える前に、ハヤヒデがズカズカと数歩詰め寄ってきた。

 レンズの奥の瞳が、ほんのりと濡れた怒りの光を宿している。

 

「今、なんて言った? “頭でっかち”になってた、って?」

「は? ……いや、それが?」

「……誰が頭でっかちだって!?」

 

 その瞬間、タイシンの脳内で、理解と困惑が同時に起きた。

 

「いやいやいや! 物理的な意味で言ってない! しかもアンタにじゃなくて私自身に言ってて――! っていうか、アンタそれ気にしてたの!?」

 

 膨れっ面のハヤヒデが、濡れた髪を無言で後ろにかき上げると、たしかにそのシルエットは、少しボリュームがあるようにも見える。くせ毛のふくらみか、はたまた知性の象徴か──本人には重大問題らしい。

 

「くせ毛のせいなんだからな……! 髪のせいなんだからな……! 中身じゃないからな……!」

「知ってる! ていうか別に気にしてないし、それに関して何も言ってないし!!」

 

 

 

 

 レース終了から、数分。雨は止まない。コースサイドで、オカベは手元のストップウォッチを睨みつけていた。

 

「……2分21秒3……って……これ、計測ミスとかじゃないですよね?」

 

 かろうじて聞き取れる声量で、震えるように言う。

 

 横でフジサワが苦笑しながら、濡れた髪をラフにかき上げた。

 

「いや、私も測ってたけど……合ってる、それ。雨かつ重バ場とはいえ、芝2000mでその数字、原付でも勝てるんじゃない?」

 

 言い草は軽いが、目だけは鋭かった。

 

「でもまあ、勝ち負けの内容がアレなら、タイムなんてどうでもよくなるのが模擬戦の不思議よね」

 

 そう言って、スタート地点のほうへ目をやる。ちょうど、泥まみれのまま並んで歩いていく二人の背中が見えた。

 

 一人は、全身に悔しさを抱えたまま、前だけを見ている少女。

 もう一人は、眼鏡越しに静かな距離感をたたえながら、しかし歩調を揃えている少女。

 

 ──ナリタタイシンと、ビワハヤヒデ。

 

「タイシンが“誰かと並んで歩く”なんて、前のあの子からは考えられなかった」

 

 フジサワがつぶやく。

 

「誰にも頼らず、誰のことも信用せず、ただ一人で勝ちを狙ってた子が、よ? こういうことが、意外と人生の分岐点だったりするのよ」

「……先輩、時々ポエムみたいなこと言いますよね」

「やめてよ、照れるじゃん」

 

 それでもオカベは黙ってはいなかった。もう一度、タイムの表示を見つめたあと、今度はハヤヒデの背中へ視線を投げる。

 

「でも……あの勝ち方、本人は“普通に走っただけ”って顔してるんですよ。こんな異常なレースの後で、さっきから平然としてて……」

 

 喉の奥に引っかかるように、言葉を続ける。

 

「──いったい、どこまで計算してるんですかね、あの子」

 

 フジサワは肩をすくめた。

 

「そこが怖いとこよね。走らせておいて“走らせなかった”ように見せるのが、一番タチ悪い」

「しかも、タイムがこれじゃ……まだまだ余力があるってことになりますよ」

「ま、手綱握ってるのがあの子自身だってとこが、また厄介ね。誰も読めない」

 

 背丈の全く違う二人の背中が遠ざかっていく。雨粒を弾くその姿は、対照的でありながら、不思議と釣り合っていた。

 

「まったく……」

 

 フジサワは苦笑した。

 

「この先、どうなるやら」

「──けど、ちょっと楽しみですね」

 

 オカベがそう呟いた時、ふたりの視線は、すでに濡れたゴール板を越えて、次のステージを見据えていた。




フジサワトレーナーの裏設定①:
実はそんなにコーヒー好きではないが、頼れる感じを演出したくてコーヒー飲む姿を見せる機会をそれとなく設けている。一話時点では微糖を飲んでいたが、最近一本ならブラックを飲めるようになった。
最近聞きかじった「焙煎したてのコーヒー豆は、ガスを多く含んでいるため、抽出が難しく、味が落ち着いていない」という豆知識を披露する場を虎視眈々と待ち続けている。

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