その、柔らかな旋律は…【ARIA×ガンダムSEED クロスオーバー 習作】 作:鳥和気沙羅
ARIAだけ知っていても、なんとなくニコルのプロフィールが分かるようにSEED世界のことも書いています。
ARIAのことはこの作品の中心になっていくので自ずと分かるよう書くつもりですが、SEED世界にはこれ以降そこまで詳しく触れなくなるかもしれないので。
あとアリシアさんが、というかARIAの女の子はみんな好きなので可愛く書いていたら、初心で女の子に免疫の無い少年ニコル君がドキドキしっぱなしで、完全に予想外かつ早すぎるフラグが立ちそうな勢いです。どこかでちゃんと軌道修正します…
白いゴンドラをARIAカンパニーに横付けするように係留しているフローレンスさんを待っている間、ニコルはどこから何を訊いていくべきなのか整理しようと思った。まずは今日の日付と現在位置か。
自分が地球連合軍の戦艦『足つき』を追って地球へ降下したのは、コズ
自分自身のことが分からないというのが、こんなにも焦燥を煽るとは思わなかった。思わず、右手でこめかみの辺りをかきむしる。母さんが色を選んだというこの緑がかった髪は、自分でもそこそこ気に入っていて、こんな風に乱暴に扱うのはたぶん初めてだった。
世界で最初のコーディネイターであり《万能の天才》と呼ばれていたジョージ・グレンが、自分が遺伝子操作をされて生まれてきたことと、その技術を公開したのがC.E.15年のこと。
この技術によって、親は子供の容姿のデザインを自分の希望によりある程度定めることができたり、自然に生まれてくる子供―――コーディネイターに対しナチュラルと呼ばれる―――よりも、病気や怪我に強い身体、高い運動能力など何らかの才能を持たせ、この世に産み落とすことができる。
革新的なこの技術は、時や場所により法律で禁止されながらも、人々の欲望を抑えることは出来ず、やがて世界に広まっていった。
生命倫理に厳しい人々や、科学で生命の誕生を操れるという事実で自分たちの影響力が薄れることを恐れた、もしくは実際に薄れてしまった宗教家たちは、最初期からコーディネイターの存在に否定的だった。コーディネイターとて人間で、いくら才能があろうが鍛練しなければその才能が花開くことは無いし、ナチュラルでも天才と呼ばれるほどの者が生まれることはあるが、それでもほとんどの場合、二者はスタートライン自体が違い、その伸びしろもコーディネイターの方が大きい。ナチュラルがコーディネイターに対して嫉妬や恐怖を覚え、またコーディネイターにも一種の選民意識が芽生えるのは予め予想できたことで、実際コーディネイターが富裕層の子供に誕生し始め、各界で台頭してからはすぐその通りになった。
地球圏のほとんどで正式にコーディネイターの出生が違法とされた頃、コーディネイターたちのほとんどはナチュラルからの迫害を避け、宇宙空間に浮かぶ数十基の
どちらが悪かった、というわけではないし、今となってはそんなことは分からない。確かなことは、C.E70年2月5日にプラントと地球連合の交渉の場で犯人不明の爆破テロ《コペルニクスの悲劇》が起き、地球連合側の要人だけが複数死亡した。その6日後の2月11日、地球連合はこのテロを理由にプラントへ宣戦布告をした。
そして来る2月14日。プラントに住まう全ての人々にとって忘れえぬ日、そしてピアニストとしてデビューしたばかりだった僕も、ザフトに志願する最大の理由となった惨劇。《血のバレンタイン事件》が起きたのだった。
……時にコーディネイターを『化け物』とさえ呼び、過激な思想を持つナチュラルが居る。おそらくは、《血のバレンタイン事件》の原因も、そういった一部の非常に強硬な考えを持った指導者の指示だったのだろう。しかし実際起きてしまったことは、一部の独断だからで済まされる事態では、決して、断じて、ない。
C.E.70年2月14日。プラントに迫る地球連合軍艦隊と戦闘機
しかし、地球連合軍部隊全体のうち、たった1発だけ持ち込まれていた核ミサイルを搭載して発艦したメビウスだけは・・だけが。攻撃に成功してしまった。メビウスが放った、そのたった一発が。複数あるプラントのうち、ユニウスセブンと呼ばれていた農業用プラントに命中した。
死者、24万3721名。
その中には、当時のザフトの国防委員長であるパトリック・ザラの妻―――そして同時に、後にクルーゼ隊で僕の同僚、親友になるアスラン・ザラの母―――レノア・ザラも含まれていた。
愛妻を失ったザラ委員長は勿論、怒り狂い憎悪に燃えるコーディネーター強硬派の勢いは止まらなかった。そして、それまでナチュラルにそこまで否定的な感情を抱いていなかった者たちにも、地球への激しい嫌悪を抱かせるには十分すぎる出来事だった。当然、ザフトは全面報復に出ることを決め、戦火は一気に拡大し大戦へとなっていったのだ。
宣戦布告からユニウスセブン崩壊が起きるまで、僕はナチュラルからの度重なる迫害や理不尽な攻撃にこそ怒りは覚えていたけれど、それもナチュラルにほんの少し譲歩すれば、彼らの心情からして無理からぬことでもあると考えていたし、何より戦争や紛争は嫌いだから、和平の道を探ってほしいと願っていた。そしてナチュラルの中には、自然に生まれついた才能で努力して、結果を出している人もちゃんといることを、素晴らしいと思っていた。これは一人のピアニストとして、まだC.E.ではなくその前の
それでも、24万という途方もない数の同胞の命が失われてなお、戦火と流れる血から目を背けて、僕の指が鍵盤に触れることはできなかった。血のバレンタインのニュースを見たその日から、そして国防委員の父、ユーリ・アマルフィの背中を見る度、僕も誰かを……プラントを守らなければいけないという義務感は膨らんでいった。そう時を置かずして、僕はザフトの
士官学校に入学したばかりの頃は、必死で訓練や座学に臨みつつ、一人トイレで嘔吐することも多かったのを思い出す。今まで鍵盤を叩いていた僕の指が、ずしりと重たいザフト制式拳銃のトリガーを引き、ナイフを構え、顔も名前も知らない誰かの命を奪うための動きと知識に馴染んでいくことが怖かった。それでもやらなければ、という一心で取り組んでいるうち、コーディネイター特有の学習能力の高さも相まってか、成績はどんどん上がっていった。卒業時には主席のアスラン、僅差で次席となったイザークに続き、総合成績3位となり、正式にザフトに所属してからは、士官学校の卒業成績上位10人のみが着用を許される赤い制服とパイロットスーツ―――通称『ザフトレッド』―――を身につけることになった。
ザフトきってのエース部隊、隊員の生存率と作戦成功率の高さで群を抜くクルーゼ隊のルーキーかつ最年少隊員で、しかもエリートの証たるザフトレッドの自分。同じ隊に『軍の実質的トップであるパトリック・ザラの息子で、士官学校首席卒』のアスランがいるので、彼に比べれば大したことはないにせよ、隊内外で注目を浴びる時には必ず、それは喜ばしく誇らしいことなのかどうか、疑問が湧いてくる。その度に、戦争ならば仕方ないのだと無理やり自分を宥めるのだった。
「……ニコルさん?」
……いけない、考え事が過ぎたようだ。
フローレンスさんはとっくにゴンドラの係留を済ませて、ARIAカンパニーのドアを開けた体勢で僕を待ってくれていた。
「す、すみません、ぼーっとしてしまって……」
「いえ、記憶が曖昧なんて不安でしょう、無理もないですよ。さあ、中に入ってください。海に浸かったなら大分身体が冷えてしまったでしょうし、温かい飲み物でも淹れますね。」
そう言われて初めて、自分の指先が酷く冷え切っていて小刻みに震えているのを感じた。ひとまず彼女の言葉通り、室内で暖まらせてもらった方が良さそうだ。僕はコクリと頷いてみせて、フローレンスさんの後に続いて建物の中へ入っていった。
「ニコルさーん、甘い飲み物はお好きですかー?」
「ええ、飲み食いに好き嫌いはないんですー。フローレンスさんにお任せしますねー」
「あらあら、うふふ。お口に合うといいのだけれどー。責任重大かしら?」
「えっ!?いや、ほんとに何でもっ!」
「あらあらあら、冗談ですよーっ!……うふふっ♪」
……あ、今のって僕、からかわれたのか。僕にタオルを手渡し、火を入れた暖炉のすぐそばに座っているよう言ってくれた後、簡易キッチンのようなところに行ってしまったフローレンスさんの声で少し赤くなった頬を、僕は隠すように片手で押さえた。さっきまでのフローレンスさんの、とても丁寧な口調と大人びた振る舞いはお仕事モードで、今は解除されたという感じがする。声の感じや口調が、年相応というか……その、居もしない誰かに要らぬ誤解を招きそうな表現ではあるが……近所の優しいお姉さんというような雰囲気に変わった気がする。一人っ子で、母親に溺愛されて育ったニコルには、こういった時の―――自分と年齢が近い女の人と二人きり、とか―――スマートな対応がよくわからない。
そういえばアスランは、あのプラント随一の歌姫にして、プラント全体のトップであるシーゲル・クライン議長の御令嬢、ラクス・クラインが親同士の勧めで決まった婚約者だった。休暇の時には花束を買い、必ず会いに行っていたはずだ。何故か毎回『ハロ』という小型のペットロボットを、カラーリングと機能を変えて自作しては、次々プレゼントしていたらしいが。
「いつのことだったかは忘れたけど、ハロを一つ見せた時に彼女が気に入ったようだったから。他に思い付く物も無いし、休暇中以外でも少しずつ製作できるぶん丁度良くて」
という理由らしい。生真面目で、いかにも恋愛事に不器用そうなアスランらしい話である。いや、自分も人のことを全く言えないというか、少なくとも婚約者がいて、その彼女に贈り物をしている時点で、アスランは僕より遥かに先を行っているのだけれど。今この時の自分にとって参考になるエピソードは、彼にまつわる中にはなさそうだ。
なんだか、だんだんフローレンスさんに失礼な方へ思考がズレていっている。落ち着けニコル・アマルフィ。んんっと咳払いをして座椅子に腰かけなおしていると、フローレンスさんが少し湯気の立つマグカップを二つ持って、暖炉の傍へ戻ってきた。熱いから気をつけてね、といいながら僕に片方のマグを手渡し、彼女も暖炉の傍のクッションへ腰を下ろした。
「お任せされましたので、私のお気に入り、生クリーム乗せココアにしてみたんだけど……男の子には甘すぎるかしら?」
そう言われながら、手元のマグに目線を落とした。おお、確かに白いクリームが上にちょこんと乗っている。ココアの熱でじわじわ溶けていっていて、なかなか甘そうだ。母が色々なお菓子を作る人だったので、甘いものはむしろ好きなのだが、その程度にもよる。感想を待っているフローレンスさんの視線を感じつつ、いただきます、と一口飲んでみた。
「……美味しい。これ、本当に美味しい」
素直にそう口から言葉が出た。身構えていたほど甘ったるくない。生クリームが甘い分、下のココアは糖分控えめに淹れられているみたいだ。喉と胃から温かな温度が全身に沁み渡っていくのも心地好い。もう一口、もう一口と口をつけていると、横でフローレンスさんが良かったぁ、と笑っていた。
「ニコルさん……いいえ、もうお客様ではなくてお友達だから、ニコル君と呼ばせてもおうかしら。ニコル君はとても素直で優しい、綺麗な心の持ち主なのね。お褒めにあずかり光栄だわ」
「え?いえ、本当に美味しかったので!こちらこそありがとうございます。僕、お礼も言わずに一人でごくごく飲んじゃって……恥ずかしいです」
「そんなこといいのよ。美味しそうに飲んでくれるのが一番確かで正直な感想だし、作った人にとって本当に嬉しいものだから。おかわりもあるから遠慮なくグイグイいっちゃって。ね?」
そう言って目を細めるフローレンスさんも、羽織ったセーターの袖を引っ張った両手でマグを包んでふーふーしながら、ちびちびと口を付け始めた。
……最初見たときから綺麗な人だとは思っていたけど、素直で優しいとかド直球で褒められた照れくささも相まってか、ものすごく可愛らしい動作に見えてしまったのは秘密だ、絶対に。いい加減失礼すぎるだろう、僕。
これ以上余計なことを考えないうちに、本題に入るべきだ。そう思い、フローレンスさんの様子を窺うように少しの間チラチラ見ていたら、僕の視線に気付いたフローレンスさんがニコっと笑って、ん?とでも言うように首をかしげた。いや、だから。いちいち可愛いことしないでもらえますか……
内心うっと詰まりそうになりながら、部屋に入る前に考えていた『今日の日付と現在地』の話を切り出すことにした。
「えっと、さっき言ってた一つ一つ確認させてもらうって話なんですけど。馬鹿馬鹿しいことを訊いて申し訳ないんですが、今日って何年何月何日か、確認させてもらってもいいですか?」
「そうそう、そうだったわね。えっと、今日はアクア暦75年の3月28日ね。地球暦で言う2301年の3月28日になるわ。あ、地球暦って言ってるけど、西暦のことよ。アクアは1年が24カ月だから、つい
「……はい?」
ちょっと待ってくれ、色々と突っ込みたいことが多すぎる。まずアクア暦とか地球暦ってなんだ?1年が24カ月?ここは地球ではないのか?マンホームってなに?そして何故C.E.ではなく西暦?
辛うじて聞き覚えがある単語は西暦だけだ。それでもC.E.が導入される以前のものだから、一般的だったのは70年ほど前の話。今でもその表現をする人など皆無だと思っていた。これは、この場所についても詳しく訊く必要がありそうだ。
「……あの、アクアについてから詳しく教えてもらえませんか?そのアクア暦?と地球暦とか、違いが分からなくて……」
「ええ、いいわよ。実は、こういうの私の専門分野だしね。……今、私たちがいる惑星
「……少し、自分で整理してみます。すみません」
専門分野と前置きしただけあって、すらすら分かりやすく解説してくれるフローレンスさんはさすがだった。しかし、やはりどうも僕の中の知識と、彼女の解説は噛みあわない。まず、ここが火星で、アクアと呼ばれているということから決定的に違う。僕の知識の中では、火星はまだまだ開発途中で、テラフォーミングは完了していないし、水の惑星になっているということもない。火星周辺にいくつかのコロニー、俗に言う『マーズコロニー群』を近年築き、希少金属の採掘などが徐々に行われ始めたばかりのはずだ。あそこはナチュラルが事業者となって開発を進めてはいるが中立地帯で、現在は、たしか『マーシャン』と呼ばれる、火星の環境に適応したコーディネイターが実際の開発の中心になっている、と士官学校で習った記憶がある。
なので、もしやすごく未来の話なのかと思えば、『イタリア』や『日本』といった、もうずいぶん昔にC.E.では原形を無くしたはずの国家の名前も出てきた。イタリアには多少馴染みがある。多くの音楽家を輩出していたし、今は『アフリカ共同体』の一部になっているが、そのアフリカ共同体は、地球における強大な親プラント国家の一つだ。日本についてはあまり詳しくないが、昔は小さな島国でありながら、風光明媚かつ高い工業力を持ったアジアの有名な国家だったような。その文化や工業力の一部は、あの中立国家『オーブ連合首長国』に多くの入植者が流れ込んだ影響で、ほぼ受け継がれたと言われている。
暦については、確かに火星の公転速度はそんなものだった。天体観測を普段しないので、自信はそんなに無いが。しかし、公式の暦はプラントも地球もコロニーもほぼ完全にC.E.に統一されているはずで、1年が24カ月などというのは初めて聞いた。火星と同じく周期が異なるはずの月面基地でも、オリジナルの暦など導入されていない。
つまり、どういうことかと言うと。
彼女が、息をするように口から出任せを言えるような人でなければ―――勿論、そんな人ではないと確信しているけれども。『この世界』は『僕の知っている世界』とは、かなり昔の時点から歴史が異なっている、ということになる。
「……
「……え、なんて?何か分からないことがあったかしら?」
フローレンスさんの気遣う声も、ありがたいとは思うけど今は反応する余裕が無い。夢であってほしい。その一心で、ニコルは本当は切るつもりのなかった、最も危険なカードを切ることにした。不思議そうな彼女の目を真っすぐ見て、出来るだけはっきりと、単語を区切りながら言った。
「フローレンスさん。つかぬことを伺いますが、『コーディネイター』、『プラント』、『ザフト』、『コズミック・イラ』、『ジョージ・グレン』という単語のうち、聞き覚えのあるもの、一部でも意味の分かるもの、ありますか?たぶん、僕の記憶の中のとても大事なことなので、よくよく考えてみてほしいんです。何でこんなことを訊かれるのか分からないかもしれませんが、とにかくお願いします……」
もしここがナチュラルが主権を取る場所であれば、僕がコーディネイターであるという事実は何よりも伏せなければならないことだ。命がけと言っても過言ではない。僕の表情がよほど切羽詰まっていたのか、フローレンスさんは笑みを潜めて頷き、目を伏せて考え込むそぶりを見せた。何か、欠片でもいいから知っていてくれ。祈るような思いで彼女を見つめながら返事を待つ。
気の遠くなるような時間が流れた気がした。彼女が、ゆっくりと口を開く。
「……『コーディネイター』というのは、服とか旅行とか、何かのプランニングやコーディネイトをする人のことかしら。それ以外は思いつかなかったわ。『プラント』というのも、植物に関する何かとしか。『ジョージ・グレン』という人も思い当たらないし、『ザフト』と『コズミック・イラ』という単語は、たぶん今聞いたのが初めてよ。……私に言えるのはこれだけだわ。これでも職業柄、常に新しいニュースや知識は身につけるようにしているつもりなのだけれど……ニコル君の期待には沿えそうもなくて、本当にごめんなさい」
本当に申し訳なさそうに言うフローレンスさんの言葉を聞いて、僕はどっと身体の力が抜けるのを感じた。いくらなんでも、ジョージ・グレンの名前すら知らないと言うのは『僕の知っている世界』ならありえない。10つにもならない子供だって、それが《万能の天才》ファースト・コーディネイターの名前だと知っている。
諦めよう。認めざるを得ない。夢だろうがなんだろうが、僕が今存在しているここはC.E.ではなくアクアで、ネオヴェネツィアで、『そういう世界』なのだ。正直に話そう、もうどうにでもなるといい。どんなに変人だと思われようが、おそらくこの世界に『元のニコル・アマルフィ』を知る人はいないのだから。
「……フローレンスさん。どうやら僕、この世界で言うと異世界から来た異世界人みたいです。色々覚えていることはあるけど、そのどれもがフローレンスさんの説明とことごとく違っているから。まあ、突然頭がおかしくなったのかもしれませんけど。どうしたらいいでしょうね」
「……えっ?」
フローレンスさんが固まっている。悪いことをしているとは思うが、こんなめちゃくちゃなことも言いたくなる。しかもこんな内容がある意味、今までの会話の中で、一番嘘の無い僕の言葉だというのだから笑えない。
ぱちぱち、と暖炉の火が弾ける音だけが支配する部屋。ココアはとうの昔に冷めてしまっていた。一度は暖められていた指先の体温が、今度は逆に冷たいマグに奪われていく。
「ぷーいにゅっ」
そんな鳴き声?と共に、どてっという音がしそうな勢いで、不意に目の前に白い大きな毛玉がニコルの前に転がった。
「……アリア社長?」
一拍遅れて、フローレンスさんがそう呼びかけながら毛玉を持ちあげると、蒼い目玉の、タヌキ?いや……一応猫、だろうか?の顔が見えた。しかし、アリア『社長』って。アリアは会社の名前からきているのだろうけど、社長とはまた不思議な名前が付いているものだ。
「それ、猫……ですか?」
「ええ!アリア社長はこのARIAカンパニーの社長さんで、私たちウンディーネ……ゴンドラに乗って水上の案内をするお仕事の会社には必ず居る守り猫なの」
「……え、社長って文字通りの社長なんですか?愛称とかじゃなくて?」
「うん、そうよ。ほらアリア社長の瞳を見て、綺麗な蒼色でしょう?これは『アクアマリンの瞳』って言ってね、海の女神の象徴で航海のお守りである宝石、アクアマリンにちなんで呼ばれているの。ウンディーネの会社では伝統的に、蒼い瞳をしている猫を会社の象徴、つまり社長になってもらうことで、仕事の安全を祈願しているの。それにアリア社長は火星猫でとっても賢いから、私たちが言っていることも結構分かっているし、タイプライターだって使えちゃうのよ」
「蒼い、目の、猫……」
そういえば、海で溺れている時に『にゃーお』いう猫の鳴き声を聞いた。いくらなんでも海の中で猫が鳴く訳がないので、溺れて意識が朦朧としている中での幻聴だと気にも留めていなかったが、そんな話を聞くともしかしたら関係あるかも?と思えてくる。
「……ねぇアリア社長、僕がこの世界に来たとき猫の鳴き声を聞いたんだ。同じ猫同士、僕がこの世界に来ちゃった理由、何か知らない?」
「ぷいにゅっ。ぷぷぷ、ぷいにゅーっ!」
「きゃっ!…あらあらアリア社長、どこ行くのっ?」
僕がダメもとでそう聞いた途端、アリア社長はフローレンスさんの手からスルっと抜けだして、どこかへ駆けていってしまった。呆気に取られてアリア社長が消えていった方を2人で見ていると、何か荷物を咥えたアリア社長が帰ってきた。
「……アリア社長?」
「ぷいぷいにゅ。……ぷいぷい」
アリア社長はフローレンスさんの呼びかけに、まあ待てとでも言うように前足を突き出したあと、持ってきた荷物でお着替えを始めた。……いや、本当に賢いんだな。器用なものだ。
猫用の服だろうか、黒1色の繋ぎのような服に、赤いバンダナをマントのように背中に羽織る。丸く破かれた白い紙を胸に貼りつけて、最後に靴べらを右手に持ち、後ろ足で胸を張って立って、コンコンと床に靴べらの先を打ちつけてみせた。
「ぷっいにゅー!ぷっいにゅー!」
一体何を表現しているのだろう。皆目見当もつかない。助けを求めてフローレンスさんを横目で窺うと、彼女はぽかんと口をあけてアリア社長を見ている。
「……アリア社長、もしかしてそれ『
「ぷいにゅーっ!」
勢いよく靴べらを握った前足を上げて、勢いで後ろにボテンと転んでしまったアリア社長の反応からして、どうやらそれがアタリらしい。ケット・シーというのが何か、僕にはよく分からないが。
「あの、それってなんですか?」
「『ケット・シー』って言うのは、ネオヴェネツィアの昔話に時々出てくる、大きな猫の妖精のことよ。このアクアの全ての猫の王様で、胸に白いブチがあって、人よりももっと大きいんですって。ネオ・ヴェネツィアに猫が多いのは、街の守り神がケット・シーだから、っていう七不思議もあるくらい。アリア社長は、猫妖精が貴方をネオヴェネツィアに連れてきたって言いたいみたい……」
「よ、妖精?いや、まあこんな目に遭ってればそれもことさら不思議なことじゃないかも……」
確かに、妖精くらいファンタジーなチカラでないと、ここまで奇想天外でリアルな夢にもならないか。
「アリア社長。なんで僕はその猫妖精に、アクアに連れてこられたのかな?」
「ぷいにゅ?……ぷい。ぷぷぷい」
アリア社長が困った顔をした、ような気がした。そこまでは分からないのか、それとも僕には言えない理由なのか。気にはなるけど、どうせ夢かもしれないのだ、それなら夢が醒めるまで、もしくは猫妖精が僕に飽きて元の世界に帰してくれるまで、『この世界』を満喫しても罰は当たらないだろう。
元の世界では、殺し、殺されることに疲れてしまっていたんだ。何よりも心が。だから、せめてこの夢が醒めるまでは、血と硝煙のにおい、戦火の光を忘れて過ごしたい。例えば、ピアノに触れたりとか。そう静かに僕の心が固まる。
さて、どうやってフローレンスさんに切りだすかな。
そんなことを考える僕は、諦めたといえば諦めたのだけれど、心は良い意味で余計な全てを捨て去ってしまったような、突然凧糸が切れて空に舞い上がった凧のような解放感に包まれていた。
いきなり文字数が跳ねあがって、驚かせたり疲れさせたりさせてしまっているかもしれません。ハーメルンでの表示によると、1万2000字まで増えてます。
この回は最初期の段階から構想があり、試行錯誤を重ねて色々なことを詰め込んでこうなりました。
あと、警告タグを付けていませんでしたが、「
もし警告タグを付けた方が良いとか、思いがけず警告に無い要素が出てきて不快だったという方があれば、一言お知らせください。気付いた時点で即警告タグを付けさせていただきます。
また活動報告に、このお話には書ききれなかったことや、設定のまた更に裏設定を載せています。
興味を持っていただけた方は、作者の名前のところから飛んでみて下さい。