前世の因縁が恋へと変わるまで…… 作:六畳仙人(ハーメルン)
聖女が戦場に現れてから、二年の年月が過ぎた。
神聖ルドベキア帝国は王国領からの撤退を開始していたが、その道のりは想像を絶する苦難に満ちていた。
退却するのは、聖女に心を折られた十五万もの軍人たち。
本来、数で押し切れるはずの規模だった。だが、今やその軍勢は“軍”と呼べる体をなしていない。
撤退路は長く、王国の奥深くまで侵攻していたがゆえに、その距離も年月も膨大なものとなった。
移動だけで、年単位。
そして、その道中を容赦なく襲うのが、息を吹き返した王国軍のゲリラだった。
かつての帝国軍であれば、雑兵程度の襲撃など瞬時に鎮圧していたはずだ。
だが今や、兵士たちの多くはすでに剣を握る気力すら失っている。
まともに戦えるのは、かつて魔剣を振るっていた少数の歴戦の者たち——その数、わずか。
戦況は泥沼と化していた。
そして退却は遅々として進まず、日々の消耗は膨れ上がっていった。
その中で、特に退却を支える殿部隊の士気は最悪だった。
——ただ、一人の男を除いて。
そして、そのときは訪れた。
王国軍本隊が姿を現したのだ。
その先頭に立っていたのは、かの銀の聖女。
二年前と変わらぬ美しさを保ったその姿は、戦場に現れた瞬間、帝国軍に再び“恐慌”をもたらした。
殿部隊の兵たちも取り乱し、膝をつき、ある者はその場で剣を放り投げた。
——また、あの地獄が繰り返される。
全員がそう確信した。
だがその時、静寂を切り裂く声が響いた。
「オレの名は神聖ルドベキア帝国皇太子——コレウス・マラカイト・ルドベキアだ!」
騒然とする帝国軍の列から、ひとりの青年が踏み出した。
かつてのあどけなさは消え、背も伸び、整った顔立ちに冷ややかな覇気を宿したその姿は、誰の目にも“英雄”と映った。
「オレと一騎打ちをしろ……サンビタリアの聖女!」
♠︎♠︎♠︎
両軍が睨み合う戦場のただ中。
その中心でコレウスは聖女へと向き直る。
「あなた……もしかしてあの時の子供……?」
聖女の青い瞳がわずかに揺れる。
その視線に見つめられ、コレウスは微かに息を詰めたが、すぐに鋭く言い放つ。
「そうだ。この二年……ずっとお前に勝つために鍛錬を積んできた!」
「でも……一度……死んはずだよね。なんで、まだ戦えるの」
その声は、まるで理解できないものを見るような純粋さだった。
その無垢な瞳が、コレウスの心をざらつかせた。
「……そんなもの、剣を振れない理由になるかよ」
一瞬、目を逸らしそうになりながらも、コレウスは聖女の方を見据えたまま、剣の柄を握りしめる。
鞘から抜かれたその剣は、帝国の国宝である最上位の魔剣。
コレウスの師——聖女に敗れた帝国最強の魔剣使いが『聖女に挑むならこの剣を持っていきなさい』と託したもの。
「お前を倒す。今日、ここで……!」
二年という歳月で練り上げてきたひとつの執念の表明。“勝ちたい”という勝利への渇望。
初めて見た時から、何かを感じた目の前の女より強いことを証明したい。
とにかく、目の前の女にだけは負けたくない。
「その光り輝く剣を叩き折って、お前に言わせてやるよ……『まいりました、私の負けです、皇太子殿下』ってな」
その挑発を聞いて聖女は一瞬、ぽかんとした表情を浮かべた後、
「むう……生意気!」
ぷくっと頬を膨らませた。
そして、あからさまに不機嫌な表情をしながら——そのまま、聖女も腰に手を添え、そっと剣を抜く。
それは一見するとただの剣だった。
だが、聖女が柄に指をかけた瞬間——
眩い光が刃全体を包み込み、まるで天上の気を宿したような、圧倒的な神聖さを放った。
「一応聞いておくね。もう一度、私と戦う覚悟はある?」
神々しい光の剣を構え、聖女は静かに問う。
「当たり前だ」
「そっか。凄いね、君」
そのまま、聖女はふっと笑みを浮かべ——
「じゃあ、神託に従って……もう一度、あなたを殺します」
刹那、彼女の剣が動いた。
美しい一振りだった。
予備動作もなく振るわれた、音を置き去りにした無慈悲な剣の一閃。
——だが。
「なめるなぁッ!」
叫びと共に、コレウスの剣が閃いた。
反射ではない。意志で動いた。
極限まで意識を研ぎ澄ませていたコレウスには、聖女の剣の軌跡が確かに見えていた。
コレウスの剣才が爆発する。
魔剣が軋み、光と光が衝突し、空間が震える。
「嘘……」
聖女の目が驚きに揺れる。
初撃が——止められた。
「お前を倒すために鍛錬を積んできたんだ。この程度造作もない!」
虚勢だった。
膝は震え、息も荒い。
聖女の剣劇は受け止めてなお、壮絶な衝撃をコレウスの肉体へと伝えていた。
それでも、コレウスは倒れなかった。
そのまま、反撃のために——一気に踏み込む。
魔剣が閃く。
帝国の王子が放つ神速の連撃。
もしも、剣の師である剣聖エルシッドがその連撃を見ていたら、コレウスに帝国最強の剣士の座を譲り渡すことを決意していただろう。
それほどに、コレウスが放った連撃は素晴らしいものだった。それこそ、人の剣の極致に達したと思わせるほどに。
だが——
「……やっぱり、すごいね、君」
聖女には届かない。
その連撃を、彼女は舞うように受け止めた。
どれほどの威力、どれほどの速度を持っていようとも、受ける彼女の動きには一切のブレもなかった。
ひらりとかわし、くるりと受け、そして、流す。
光り輝く剣が、容赦なくコレウスの全力を正面から否定していく。
「クソッ!」
やがて剣舞が終わる。
連撃を防がれ、肩で息をしながらコレウスは悔しげに歯を食いしばった。
——だが、戦いはまだ終わらない。
「今度は、私の番」
聖女がそう言った瞬間、空気が一変した。
剣が舞う。
お返しとばかりに繰り出されたのは、一撃一撃が初撃の威力、速度を遥かに上回る超神速の連撃。
美しく、恐ろしく、優美で、無慈悲な剣撃が雨のようにコレウスへと降り注ぐ。
それは、かつてコレウスの剣の師を反応すらさせずに屠った人の域を超えた剣。
けれど、剣の才を爆発させ、極限まで意識を研ぎ澄ませていたコレウスには、確かにその剣の軌跡が見えていた。
時が止まったかのように、すべてが遅く見えた。
己の身体は——動かない。
ただひとり——聖女だけが、止まった世界の中で踊っていた。
優美に、華やかに、絶望的に。
その剣が魔剣を弾き、コレウスの鎧を裂き、肉体を刻んでいく。
——ああ、負けた。
心の奥で、そう認める。
それでも——
美しい。
敗北の中で、コレウスは確かに見た。
彼女の剣は、恐ろしいほどに完璧で。
あまりにも——美しかった。
そして、その剣を振るう少女の姿は……
この世の何よりも、美しかった。
「……お前、名は?」
沈黙を破るように、コレウスの唇が震える。
その声は、今にも途切れそうなほどにかすれていた。
世界が再び動き始めていた。
時間が止まったような剣戟の果て——敗北の余韻の中で。
深く斬られ、地に膝をつき、呼吸すらままならない身体。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
——このまま、死ぬかもしれない。
もう一度、聖女が生き返らせてくれる保障はない。
だが、だからこそ知りたかった。
自分を二度、殺した少女。
その剣を美しいと思った少女。
この世で最も美しいと感じた少女の名前を、どうしても知っておきたかった。
——せめて最期に、名を。
「ライラ」
その願いに、少女は応えた。
蒼穹を宿すような瞳を細めて、慈愛の微笑みを浮かべながら。
「私の名前はライラだよ」
それはあまりに自然で、あまりに優しくて。
それが戦場での会話であることすら、忘れてしまいそうだった。
「そうか……良い名だ」
コレウスの瞼が重くなる。
意識が、深い深い闇の底へと沈んでいく。
だが、その前に——
たしかに彼は、その名を心に刻んだ。
ライラ。
想い焦がれてしまった彼女の名前を……
次にコレウスが目を覚ましたのは、帝国軍の陣地の中だった。
傷は、浅くない。
だが生きていた。意識もある。剣も——握れている。
兵士たちの話では、コレウスの身体は聖女——ライラによって治癒され、戦場から運ばれてきたのだという。
また、生かされた。
——二度目だ。
心の奥がざわめいた。
怒りではない。
確かに、屈辱ではある。悔しさもある。
だがそれ以上に——
「次こそは、勝つ」
その言葉が自然と口を突いて出た。
あの剣に、もう一度挑める。
あの少女と、もう一度向き合える。
その事実が、ただ嬉しかった。
悔しさも、恐怖も、痛みすらも。
すべてを呑み込んで、胸の内に燃え上がるのは、再び剣を握れることへの喜びだった。
あの剣を超えたい。
あの美しい少女に、敗北者ではなく——唯一の“勝者”として、名を刻みたい。
そう強く想いながら、コレウスは静かに立ち上がった。
二度味わった死の恐怖を捩じ伏せて、再び剣を手に取り、歩き出す。
その先にある、たった一人の宿敵——聖女ライラのもとへと。
この湧き上がる想いを、剣を通して彼女に伝えるために。