キングダム ー黒龍の炬火ー   作:丸の内 幹太郎

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いざ


一話 黒き将星

 

 ──……春秋戦国時代。

 

 聖者の時代は終焉を迎え、人の欲望が解き放たれた。百を超える小国は併呑され、やがて七つの大国が覇を競う乱世となる。

 今日もまた、交わることのない「正義」がぶつかり合い、狂気と熱が渦巻く戦場に、一つの旗が高く掲げられていた。大国・秦。その下の元の丘上から、戦場を見下ろす一人の青年がいた。

 全身を漆黒の鎧に包んだその姿は、若く、そして目を引くほどの美貌を備えていた。しかしそれ以上に、容貌に不釣り合いな威圧感を纏う。周囲の空気をも歪ませるその姿は、他の将とは一線を画していた。

 

「我が息子よ、どうだ。今回の戦は」

 

 青年の傍らに並んだのは、馬の背にあってもなお巌のようにそびえる大男。外見こそ似てはいないが、この男こそ青年・貴皇の実父にして、秦軍左翼を率いる大将──貴羅であった。

 朗々とした声に、青年──貴皇は目も向けず、戦場を見下ろしたまま答えない。

 

「やはりお前に本陣を任せて正解だった。お前の指揮なら、戦がずいぶんと楽になる」

 

 その言葉にも、貴皇の顔に変化はない。貴皇は目を細めた。遠くで立ち上る煙が、戦の勝敗を告げている。

 

「お前の拾ってきた尚相という男、中々のものだ。本陣を落とした」

 

 歓声が本陣を駆ける。

「本陣が落ちましたぞ! 流石は若君!」

「これで貴家も安泰ですな!」

 

 だが、貴皇の表情は変わらず、ただ冷静に命じた。

 

「伝令。作戦通り、次の計画を総大将に伝えよ」

 

 伝来が思わず問い返す。

「総大将とは……中央本陣へ? しかし何故に?」

 

「このまま敵本陣に向かい、敵の予備兵力を我々に集中させる。そうすれば、中央に余裕が生まれる」

 

「すぐに陣を立て直せ」

 

「ハッ!」

 

 とはいえ、貴皇の軍もまた敵残兵との交戦で陣形が乱れていた。動くには厳しい。

 

 そこに、貴羅が馬を一歩進めて言った。

「いや、本陣の立て直しは私がやる。お前は先に行け」

 

 貴皇は振り返りもせず、短く名を呼んだ。

「尚深、尚角」

 

 二人の若き副将が即座に応える。

 

「ハッ、騎馬二千、出ます!」

「出陣だ!」

 

「オオッ!」

 

 尚角隊が槍を構え、先頭に立って山を下る。貴皇のその背を、貴羅はじっと見送った。

 

 ──皇。

 

 心の中で息子の名を呼びながら、彼はつぶやく。

「……やはり、何か悩んでいるな」

 

 その言葉に、傍らの老練な騎馬将たちが目を見交わす。

 

「殿、若様に何か……?」

 

「いや……」

 

 思い返すのは、数年前のことだった。戦場に出るようになってしばらく後、秦の首都で行われた論功行賞の場において、貴皇は大王の前で直訴した。周囲が慌てて止めようとする中、大王はその言葉を静かに受け止め、数言、言葉を交わすと、貴皇は静かに膝をついた。

 

 それ以来、貴皇は変わった。

 

「肝を冷やしたが……あの後の奴は、どこか──」

 

 報告の声が遮った。

「貴皇様、総勢四千の兵を率いて、敵右翼本陣を抜け敵中央本陣へ攻撃を開始されました!」

 

 砂塵が上がる。その動きを見届け、貴羅は声を張った。

「全軍、再編を急げ! 貴皇へ合流する!」

 

 だが敵本陣の兵力は八千。単純な兵数では倍の差。戦いはここからが本番だった。

 

 貴皇は尚角隊に先陣を命じた。正面から突破し、敵を攪乱する。

 完璧な陣形──そのはずだった敵の布陣は、尚角の突撃であっさりと崩れ始めた。

 尚角隊の突破は、まさに雷霆のごとき威力であった。

 敵の前衛が一瞬で崩れ、混乱が後方まで波及する。

 

「尚角、よくやった」

 

 貴皇が一言つぶやくと、馬上の尚深がすかさず声を張った。

 

「第二陣、我に続け!」

 

 騎馬千、山を駆ける。砲煙の向こうに見えるのは、敵本陣の幕。未だ中央の指揮系統は保たれている──だが、それも時間の問題だった。

 

 貴皇の眼差しが鋭くなる。敵の混乱は想定以上。尚角が正面を押さえ、尚深が左翼を衝く。自らは右翼を抑え、包囲の輪を狭めていく。

 

 だが、敵将もまた凡庸ではなかった。陣中より旗が翻る。

 

「……動いたか」

 

 貴皇の顔に、ほんの僅かな緊張が走る。敵の第二陣が動員された。密かに温存されていた二千の騎馬隊が、戦場の左翼へ突進してくる。狙いは尚深隊。

 

「尚深殿が危うい!」

 

「尚角に伝えよ。左翼へ回りこませろ。尚深には一時後退を命ずる」

 

「はっ!」

 

 貴皇の指示は、速く、的確だった。指揮系統が崩れない限り、この戦いは勝てる。

 

 ──だが。

 

 敵の第二陣が、予想以上の突進力で尚深隊を押し返す。砂煙の向こうで、味方の旗が倒れるのが見えた。

 

「尚深……」

 

 そのとき、貴皇の目が鋭く光った。

 

「私が行く」

 

 周囲が息を呑む。

 

「本陣の指揮は尚角に任せる」

 

「し、しかし若君、自ら前線に……!」

 

「尚深を失えば、挟撃の形が崩れる。それでは包囲が瓦解する」

 

 一言一言が鋼のように冷たい。

 だがそれは、ただ冷酷な判断ではない。尚深は、貴皇が最も信を置く将だった。

 

 馬を駆る。黒の鎧が風を裂き、戦場を奔る。

 

 敵の騎馬隊と、尚深隊の衝突点。混乱のただ中へ、貴皇は疾駆した。

 

 ──そして、その姿を見つけた。

 

 尚深が矢を放っていた。敵を押し返している。

 

「尚深!」

 

 叫びとともに貴皇は槍を構えた。数騎の敵を斬り捨てながら、尚深のもとへ駆け寄る。

 

「申し訳ございません。この敵は中々やりますな、責任は取りますゆえご容赦を……」

 

「口を閉じていろ。まだ戦は終わっていない」

 

 敵の騎馬が迫る。貴皇が槍を振う、尚深の前に立つ。

 

「尚深、敵の力量を測るな。一撃必殺だ」

 

 その背で、尚深は目を見開いた。

 後方から尚角の隊が到着する。左翼が再び盛り返し、敵騎馬は押し戻された。

 一息つき、彼は空を見上げた。煙と血と土の匂いが混ざる空の下、ひとつの戦が終わりを迎えつつあった。

 

 だが、その眼には安堵はない。

 

 ──戦は、まだ終わらない。これは序章にすぎない。

 

 どこか遠くで、再び戦鼓が鳴っていた。

 




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