キングダム ー黒龍の炬火ー   作:丸の内 幹太郎

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2話 落日

 

 土煙が戦場を覆い、空を裂くように戦鼓が鳴る。

 その音を静かに聞きながら、趙倫は地図の上に指を走らせていた。

 

「……見事だな」

 

 呟くその声音に、慌てはない。

 冷徹な視線と理知的な佇まい──彼は「智慧の趙倫」と呼ばれる将である。

 冷静に戦局を読み、動かし、守り、制す。感情に動かされることはない。

 今もなお、そうであった。

 

「貴皇……。思った以上の器よ」

 

 本陣へ次々と届く戦況報告は、すべて常識の外にあった。

 奇襲は看破され、主力は寸分違わず要を突かれ、伏兵すら逆に討たれる。

 

「正攻法ではない……。だが、破綻のない構成。まるで“敗北から学び尽くした”戦いだ」

 

 趙倫の目に浮かんだのは、貴皇という男の来歴。

 

 ──滅んだ小国の王族。

 ──国を失い、父王は降伏してもなお戦い。

 ──その後、異例の速さで軍に取り立てられ、秦の名だたる将と並び称されるまでになった。

 

「戦い続けた者の軍……か」

 

 敗北を知り、絶望を噛み締め、死地でなお生き残った者たち。

 そういう者たちの軍は、ただ勝利を求める。情も、怒りも、誇りすらも、捨てた末に残った純粋な“勝つための意志”のみ。

 

「……最も危険な型だな」

 

 冷静に、趙倫はその危機を認める。

 だが、彼が本当に恐れたのは貴皇の“戦力”ではなかった。

 

 ──策を読む力。

 

 奇襲を察知し、陽動を見抜き、わずかな布陣の乱れを突く判断の速さ。

 そのすべてが、経験だけでは説明がつかない。

 

「……戦場の“重さ”を、あの若者は知っている」

 

 趙倫は、敵将に対して初めて感情を覚えた。

 それは、興味でも敵意でもない──わずかな畏敬であった。

 

 その時だった。

 

「報告! 中央秦軍、前進!」

 

 伝令が叫ぶ。

 

 その言葉と共に、趙倫は気づいた。

 

「……まさか、王騎か」

 

 伝令が震える声で頷いた。

 

「六将・王騎自ら率いてるのを確認……!」

 

 一瞬、本陣の空気が凍りついた。

 

 王騎──秦が誇る六将。その中でも「最強」と呼ばれた存在。

 彼が、今この戦場にいたのだ。

 

 ──そうか。貴皇は、ただの主力ではなかった。

 

「この隙を逃す男ではないかッ」

 

 趙倫は言葉を呑む。

 貴皇の激しい攻勢は、王騎が動くための“誘い”だったのだ。

 視線をすべて自らに向けさせ、本命の王騎軍が中央から本陣を撃ちに来る。

 

「……面白い」

 

 趙倫は立ち上がった。

 

「兵を下げろ。後方の第二陣に撤退を指示。包囲が閉じる前に、抜ける」

 

 参謀たちが慌てて動く。命令は的確だった。

 最悪の状況にあっても、趙倫は冷静さを失わない。だからこそ「智慧」と呼ばれた。

 

「(今なら立て直しも可能、破れたわけではない!)」

 

 だが──。

 

「!」

 

 風が、揺れた。

 

 本陣の中央に立つ趙倫の背後に、異様な気配が立ち上る。

 

 影。

 

 それは、音もなく、視界を染めるように現れた。

 趙倫はゆっくりと振り向く

 

 馬に跨る黒鎧の将。

 紅い瞳が、何の感情も宿さずに、趙倫を見下ろしていた。

 

「貴皇……」

 

 恐怖がなかったわけではない。だが、それを飲み込み、彼はなお言葉を発した。

 

「お前は、ただの敗残者ではなかったのだな」

 

 貴皇は答えない。

 槍が静かに、構えられる。

 

 趙倫の口元に微かな笑みが浮かぶ。

 

「だが、降伏してなるものかッ!いずれ貴様をーー」

 

 貴皇の瞳がわずかに細められる。

 それをさえぎるように、槍が閃いた。

 

 一閃。

 

 空を裂くような鋭い音が響き、趙倫の視界が真紅に染まる。

 

──命令系統の崩壊、そして本陣を焼き払う紅蓮の業火。

 

 貴皇が放った決断の火は、趙軍の心をも焼き尽くした。指揮を失い、拠るべき本陣をも喪った軍勢に、もはや戦う意志は残されていない。

 抵抗を続けた者は掃討され、剣を捨てた者たちは粛々と投降を選んだ。

 

 戦場には徐々に静寂が戻りつつあった。屍を避け、血に濡れた草を踏みしめながら、各隊が戦後処理にあたる。

 

 尚角が両剣を揺らしながら馬に乗り、尚深もまた弓を背に軽やかに駆け戻ってきた。

 そして、もう一人の副将──尚相も、血の滴る矛を手に、無言で貴皇のもとへ戻ってくる。

 

「尚相、右翼の掃討は」

 

「完了。敵の残兵は抵抗の意思を捨てた。殲滅を避け、捕虜とした方が得策と判断した」

 

 常の如く、簡潔かつ的確な報告。矛に一滴の血が落ちる。

 

 そんななか、風のように一陣の気配が貴皇のもとへと近づいていた。

 

 黒き軍旗を先頭に掲げたその一団。

 馬を進めてきたのは──王騎本人と、彼の副将たち。

 かの名将を中心に、錬成された者のみが立つ、重厚なる軍長たちである。

 

 その存在に気づいた貴皇の陣は即座に反応した。

 

 

 三人の副将が、無言で貴皇の前を塞ぐように前に出た。

 

 敵ではない。味方のはずだ──だが。

 

 空気は、研がれた刃のように張り詰めていた。

 名を知れた軍長たちの一人ひとりからも、歴戦の気配がにじみ出る。目の動き、姿勢の無駄のなさ、その全てが「ただ者ではない」と告げていた。

 

 しかし、それでも。

 

 その後方から進み出てきた二人──貴皇と王騎の姿が現れたとき、空気がまた一段と変わった。

 副将たちすらが息を呑むように道を譲り、二人の将が、静かに対峙する。

 

 凍てつくような静寂の中、馬上で視線を交差させる二人の男。

 貴皇──秦に仕えながら、未だ異邦の気骨を纏う若き猛将。

 王騎──六将と称される怪物にして、戦場そのものを笑うような豪胆の男。

 

 副将たちが醸し出していた緊張など、今やただの“前座”にすぎなかった。

 

 まるで、真の戦がここから始まるかのように。

 二人の間に流れる気配は、戦の残り火よりもなお熱く、鋭かった。

 

 やがて──貴皇が馬を進め、王騎もそれに応じて動く。

 

重く沈黙していた空気を、貴皇の声が破った。

 

「この度の勝利、秦軍総大将・王騎殿の指揮あっての賜物。我が軍一同、深く感謝しております──」

 

 言葉に籠められたのは、形式ばった抑揚。

 まるで口にすべき言葉を、頭の中でなぞっただけのような言い方だった。

 

 その声色に、王騎の背後に控えていた軍長たちが眉をひそめた。

 なかでも録音未と呼ばれる男は、喉奥から何かがこみ上げるのを抑えきれぬように、歯を噛み締める。

 

 だが、当の王騎本人は──微塵も気にした様子はなかった。

 

「フフ……いやいや、こちらこそ感謝しておりますよ。貴皇殿の才に助けられました。見事でした」

 

 あくまで穏やかに、どこか愉快げに王騎は言葉を返す。

 しかし、褒められた本人──貴皇の表情に変化はない。

 

「……我が軍には、出す必要のない損害もありました。もし王騎殿の判断が少し早ければ、無用の犠牲を減らせたかもしれません」

 

 声音はやわらかい。だが、言葉の端々には棘があった。

 その棘が誰に向けられているかは明白だ。

 

 

「まさか──」貴皇は淡々と続けた。「朝廷から、目障りな軍を削れとでも命じられていたのでは?」

 

 その言葉に、王騎の背後が一気に騒然となった。

 

「おい!なんだ今の言い方はッ!まるで殿がーー」

 

 録音未が怒声を放った。馬上で一歩前に乗り出す。

 

 そこに、貴皇の側から尚相が進み出た。

 

「黙ってろ、バカが」

 

 静かながらも鋭く放たれたその言葉に、録音未がさらに反応する。

 

「貴様ッ誰に向かって──!」

 

「お前にだ。誰が他にいるってんだ、短慮」

 

 二人の口論は火花を散らすように激しさを増す──が、王騎が右手を上げただけでその場は静まった。

 静寂が戻ると、王騎の右腕と称される騰が、進み出て貴皇へ視線を向けた。

 

「そのようなことは、断じてありません。王騎様が、味方を無意味に犠牲にするお方でないことは、誰より私が知っております」

 

 誠実な口調に、さすがの尚相も一言返さなかった。

 だが、尚角は不満げに鼻を鳴らす。

 

 再び、場の空気が張り詰めていく──そのときだった。

 

 まるでこの空気を一蹴するかのように、甲高く、透き通った声が戦場を裂いた。

 

「──貴様らいいかげんにしろッ!!」

 

 一同が一斉に声の主へと目を向ける。

 

 そこにいたのは、甲冑すら纏わぬ、戦場には不釣り合いな姿の少女だった。

 腰に細身の剣を一本下げ、白銀の長髪を風に靡かせ、馬を操って駆けてくる。

 

 あまりにも整いすぎた容貌。高貴にすら映るその美しさに、誰もが一瞬、目を奪われる。

 

 だが、少女の瞳は厳しく怒りに燃えていた。その矛先は貴皇に向けられていた。

 




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