こんにちは。
待望であったら良いなと思う最新話です。
いつも通り
拙い作品ですが楽しんでいただければ幸いです。
それは、死すらも生温い絶望の円環だった。
終わりがあるだけまだ救いだと、そんな風に思えてしまうほどに、これは終わらない。終わらないからこそ、余計に質が悪い。
日常の中でコイツラが笑う。それは、あり得ないのに。
あり得るはずがないのに。
脳が、記憶が、常識が、それを全力で否定しているのに───目の前の光景だけが、それを嘲笑うように肯定してくる。
それを見た緑の女が、背後で口角を裂く。
音もなく、気配も曖昧なまま、それでいて確かに“そこにいる”と分かる存在感。視界に入れていなくとも、背中に張り付くような違和感が消えない。
何を笑ってる?何が可笑しい?何故嗤う?
問いは尽きない。けれど、そのどれもが届くことはない。
そもそも、答えるつもりなど最初からないのだろう。
いつ知られた?いつ記憶を解析された?
いや、それ以前の問題だ。これは“知っている”とか、そういう次元じゃない。
もっと深い。もっと根源的なところを───覗かれている。
嗚呼、それはまさに 奇怪な跡のような
脳裏に焼き付いたその言葉が、意味もなく反復される。理解したくないのに、理解させられる。
違う、違う。これは、呪いだ。幻だ。夢だ。まやかしだ。幻想だ。
現実じゃない。俺はもう失った。俺は助けられなかった。
必死に否定を積み上げる。言葉で塗り潰す。
そうしなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
違う違うちがうちがウチガウチガウ。
思考が乱れ、言葉が歪み、輪郭が崩れる。
それでも尚、目の前の光景だけは、あまりにも鮮明だった。
趣味が悪すぎる。なんだこれは。
余りにも現実味のあるまやかし。もはや、一つの〝世界〟を創造しているにも近しい馬鹿げた力だ。
呪い?まじない?呪術?祟り?
そんな単語で片付けられるものじゃない。
それはまさに 奇怪な跡のような
そんなものなんかじゃないんだ。
音も光景も手触りも、何もかもが現実。
空気の重さすら、肌に触れる温度すら、すべてが“本物”だと錯覚させる。
反応も声もツッコミも痛みも何もかもがリアル。
笑い声が耳に残る。呼びかけが胸に刺さる。
触れれば、そこに確かな体温がある。
否定してやりたい。
これは夢だと。幻だと。お前が見せるだけの空虚な無だと。
だけど、否定ができない。
皆がみんな、俺が〝その人〟と分かる反応を返してくる。
一切のズレもなく。疑いもなく。あまりにも自然に。
死んだのに。俺が殺してしまったのに。
その事実だけが、胸の奥で鈍く軋む。
ああ、悪夢だ。こんなの最低最悪の夢だ。
救いがないわけじゃない。むしろ───救いしかない。
だからこそ、これは悪夢なのだ。
それはまさに奇怪な跡のような
アイツは、永遠に待っている。
この、最高最善の現実で俺が〝壊れる〟その時を。
でも。
アイツから貰ったこの力なら、もしかしたら抜け出せるかもしれない。
この幸せな幻想を、殺せるかもしれない。
だけど───また、俺の手でやるのか?
一度壊したくせに?
大切にしたいと思った奴らすらも救えなかったのに?
また、……壊す?
喉の奥がひりつく。息が詰まる。
選択肢はあるはずなのに、どれも選べない。
ああ、駄目だ。やっぱり俺は弱すぎる。
俺が弱かったから救えなかった。
俺が惨めだから守れなかった。
俺が無力だから庇えなかった。
こんな時にも、取るべき選択が取れない。
過去に縛られて、足を引かれて、前に進めない。
まるで、見えない鎖に繋がれているみたいに。
アイツならどうしたかな。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
それは救いを求めるようでいて、同時に、自分の無力さを突きつける残酷な問いでもあった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
見渡す限りの荒野は、たった二人の異常による戦いにより、まるで巨人の死骸のようになってしまった。
かつて何かが存在していた痕跡すらも、無惨に削ぎ落とされ、ただ“結果”だけが残されている。
草一本生えぬ土は赤錆色に染まり、風が吹くたびに砂塵が咽ぶような音を立てて舞い上がる。
その音は耳障りで、どこか生き物の断末魔のようにも聞こえた。
空は濁り、太陽はその光を地上に届けるのを諦めたかのようだ。
重たい雲が蓋をするように覆い、世界そのものが沈んでいる。
この忘れ去られた大地の果てで、俺は杭のように、頼りなく独り立ち尽くしている。
足は地に着いているはずなのに、どこか浮ついているような感覚が抜けない。
そして、彼、基準点は
『なあ、始祖』
静寂を破るように、しかしどこか躊躇いを含んだ声音で呼びかけた。
目の前の真っ黒な外套とモノクロの仮面を被る青年、始祖に声をかけた。
その姿はこの荒野の中でも異質で、まるで“ここだけ切り取られた異物”のように浮いて見える。
『…………なんだ』
始祖は仮面を被り直しながらくぐもった声を上げる。
その仕草は無機質で、感情の温度を感じさせない。
『大丈夫、だったか…?』
言葉にした瞬間、自分でも分かる。
それがどれだけ意味の薄い問いなのかを。
それでも、聞かずにはいられなかった。
『別に。……なにも』
しかし、始祖は端的で淡白とした反応で返してくる。
その言葉には嘘も誇張もない。ただ事実だけを並べたような冷たさがあった。
その、冷淡な返しに基準点は『……』唇を噛み締める。
何か言いたいことはある。だが、それを言葉にする術が見つからない。
『呪いか…?』
絞り出すように、そう尋ねた。
それが核心に近いと、直感が告げていたからだ。
すると、始祖は『………』ちらりと、基準点を一瞥し
『そう見えたか?』
と、問い返す。
その視線は鋭く、どこか試すようでもあった。
無論基準点は『ああ』と言いながら言葉を続ける。
『矛盾点の奴が自信満々な時は大抵、精神攻撃をする時だろ』
そして、嘆息しながら『それに』と言って。
『アンタが気落ちし過ぎだ』
そう、付け加えた。
それは事実であり、同時に、励ましにも似た不器用な言葉だった。
しかし、始祖は『…ふ』と、鼻で笑うような、乾いたような、微笑むのような声を紡ぎ。
『安心しろよ。俺が死ぬ時はお前に腕を返す時だけだ』
カチリと仮面を外しながら、その血のような色の右目で基準点を見据えてくる。
その瞳には、狂気とも覚悟ともつかない光が宿っていた。
『要らねぇよ。なんだそのクーリングオフは』
基準点の呆れを含んだ返しに、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
始祖は再びくすりと微笑んだ。
ほんの一瞬だけ、人間らしい表情を見せる。
『で、結局呪いは大丈夫なのか?』
『ああ。問題ない。それに、俺の知りうる限り…これは呪いでも序の口だよ。もっと凄い事を出来る人も居る』
『……なら、解除とかできんのか?』
その問いには『んー…』と、始祖はぼやき。
少しだけ視線を逸らし、考える素振りを見せる。
『それは出来ない』
と、返す。
『はぁ!?じゃあ、何が問題ないんだよ!』
基準点が仰天したように声を荒げる。
焦りと苛立ちが一気に表に出た。
『呪われた状態でもいいってことか!?』
その叫びは、この荒野に虚しく響く。
その反応にくつくつと笑いながらも『落ち着けって』と、始祖は告げる。
まるで子供をあやすような口調だった。
『お前も知って───あー、お前は…知らねぇか。ともかく、矛盾点の能力の関係上。解除が可能でも、イタチごっこにしかなんねぇんだよ』
『……?』
話の意図が読めない基準点はただ困惑することしかできない。
理解が追いつかず、言葉だけが空回りする。
始祖はその反応に『あー』と、言うと
『簡単に言えば……解除しても、つけ直されるから意味がねぇんだ』
と、嘆息しながらも説明をした。
その声には、どこか諦めにも似た色が混じっていた。
そして
『矛盾点にかけられるかもしれねぇし。お前にも一応教えておいてやるよ
───絶対に解除できない呪いの解除の仕方』
と。
その言葉は、この荒野よりも重く、静かに落ちた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
窓から差し込む夕日が、散らかった学生寮の一室をオレンジ色に染め上げていた。
西に傾いた太陽の光はやけに柔らかく、それでいて、どこか現実味を薄めるような曖昧さを帯びている。
床に転がる雑誌、脱ぎっぱなしの服、無造作に置かれた生活用品。
雑然としたその光景は、いかにも“誰かが生きている部屋”という温度を持っていた。
「……お腹が、減ったんだよ……。とうま、私はもう、空腹で動けないんだよ……」
床にへたり込み、幽霊のような声を出すのは、安全ピンで留められた純白の修道服に身を包む居候――インデックスだ。
その声は今にも消え入りそうで、けれどしっかりと主張だけはしてくる。
まるで電池切れ寸前の機械のように、ゆらゆらと揺れながら、こちらに訴えかけてくるその姿は、ある意味で才能だとすら思える。
その足元では、広い猫である三毛猫のスフィンクスが小さく鳴いた。
主に似たのか、どこか空腹を訴えるような鳴き声だ。
「分かった、分かったから! 今すぐ作るから、その恨みがましい目でこっちを見るのはやめろ!」
上条当麻は、特売で手に入れたばかりの卵のパックを片手に、キッチンで声を荒らげる。
その声には焦りと諦め、そしてほんの少しの慣れが混じっていた。
これといって特別な事件があるわけではない。
魔術師が襲ってくる気配も、科学サイドの陰謀に巻き込まれる予感もない。
世界は驚くほど平穏で、拍子抜けするほど静かだった。
ただ、腹を空かせた少女を満足させるという、世界を救うよりも困難なミッションがそこにあるだけ。
それは冗談でも誇張でもなく、当麻にとっては本気でそう思える案件だった。
フライパンの上で、黄金色の卵がジュウと音を立てる。
油が弾ける小さな音が、静かな部屋の中で妙に心地よく響いた。
香ばしい匂いが部屋に広がると、さっきまで死にかけていたインデックスが、まるで磁石に吸い寄せられるように背後まで忍び寄ってきた。
さっきまでの弱々しさはどこへやら、気配だけは妙に元気だ。
「ほうほう、これはオムライスへの布石なんだね?」
「布石って言うな。……ほら、座って待ってろ。すぐできる」
当麻は半ば呆れながらも手を止めず、手際よく皿へと盛り付けていく。
その動きには無駄がなく、日常として繰り返されてきたことを物語っていた。
上条が皿をテーブルに置くと、インデックスは目を輝かせてスプーンを構えた。
その表情はあまりにも分かりやすく、見ているこちらが苦笑するほどだ。
一口、また一口と、幸せそうに頬張る姿。
そのたびに小さく「おいしい」と呟く様子は、妙に心に残る。
その姿を眺めながら、上条はふと、空になった財布の中身を思い出して溜息をつく。
現実はいつだってシビアだ。
「……はぁ。不幸だ。俺の食費、今月も限界突破確定だな」
口では文句を言いながらも、その表情にはどこか安堵が混じっていた。
騒がしくて、面倒で、理不尽で、それでも───悪くない。
騒がしくて、金がかかって、全くもって理不尽。
けれど、この「ありふれた日常」がどれだけ大事なのか、〝この〟当麻は理解をしていた。
失って初めて分かるものがある。
そして、それをもう一度手に入れた時、人はきっと手放せなくなる。
「とうま、おかわり!」
「早えよ! まだ自分の分作ってねーんだよ!」
沈みゆく太陽の下、少年と少女のなんてことのない怒鳴り合いが、狭い部屋の中に響き渡っていた。
それは騒音であり、同時に“生きている証”のようなものだった。
嗚呼、そうだ。
俺は、この日常が好きで。
この空気が、この温度が、このどうしようもなく騒がしい時間が、たまらなく愛おしい。
体験するのが夢だった。
叶わないと分かっていたからこそ、尚更に。
それを受けている〝俺〟が羨ましくてたまらない。
胸の奥がじくりと痛むほどに。
だけど、決して、〝俺〟に嫉妬をしたり恨んだりなんてしない。
それをしてしまえば、きっと自分自身を否定することになるから。
俺が、今俺なのは、全て、自業自得の何物でもない。
誰のせいでもない。逃げ場なんて、最初から存在しない。
だからこそ───
〝基準点〟は────
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
学園都市の夜は、科学の光で塗り潰されている。
昼間とは違う顔を見せる街は、どこか人工的で、どこか無機質で───それでいて、妙に落ち着く静けさを孕んでいた。
街灯が整然と並ぶ歩道は、まるで誰かに管理された箱庭のように整っている。
規則正しく並ぶ光は影を切り分け、世界を均一に保とうとしているかのようだった。
その中を、上条当麻はポケットに手を突っ込み、あてもなく歩いていた。
足取りに迷いはない。だが、目的地が明確なわけでもない。
ただ、“向かうべき場所”があると分かっているから歩いている。
そんな曖昧で、しかし確かな意思だけが彼を前に進ませていた。
時刻は深夜。
本来なら寮で泥のように眠っているはずの時間帯だ。
だが、今日は違う。
全てを終えるために、そして再び始めるために───〝ソイツ〟に会いに来たのだ。
なんてことのない道の真ん中で当麻は立ち止まり、ソイツを見上げる。
まるで、そこにいることが当然であるかのように。
顔周りを完全に覆う長い緑の髪。
風もないのに、わずかに揺れているように見えるその髪は、生きているかのような不気味さを持っていた。
身体そのものを引き伸ばしたかのように細く、長い体躯。
人の形をしているはずなのに、その均衡はどこか歪で、見ているだけで違和感を覚える。
完全にアンバランスなその姿に対し、服装は青と白を基調とした巫女服。
本来なら神聖さを感じさせるはずの衣装が、逆にその異質さを際立たせていた。
もう、恐れも後悔も何もない。
そう言い聞かせるように、当麻は口を開く。
『よう、手長女』
その単語が、やけに懐かしく感じられた。
それは記憶の奥底に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がる感覚に似ている。
祟り、という名の現実を生きさせられて。
体感時間で何ヶ月が経っただろうか。
時間の感覚はとうに曖昧だ。
長かったのか、短かったのかすら分からない。
ただ一つ分かるのは───確かに“そこにいた”という事実だけだ。
『あんた、優しいんだな』
ぽつりと、そんな言葉が漏れ出る。
それは皮肉でも嫌味でもなく、純粋な感想だった。
そうだ、コイツは……優しいのかもしれない。
少なくとも、“ただ壊すだけの存在”ではない。
手長女は〝耐えろ〟と述べた。
ならば、苦痛や地獄を見ると思った。
いや、明確には地獄ではあったのだが……。
少なくとも、目の前でアイツラが死にゆく様を見させられるような、直接的な絶望ではなかった。
こちらの方がダメージになると判断したのだろうか。
精神を削るという意味では、確かにこちらの方がよほど効く。
けれど、結果的に───例え夢や幻想だとしても。
俺は……再会できた。
もう二度と会えないはずの存在と、笑い合えた。
日常を、生きれた。
それだけは、どれだけ否定しようとしても消せない事実だった。
だからこそ。
『あんた、優しいけど趣味わりぃな』
微笑んだまま告げて、からからと笑う。
それは自嘲にも似た笑いだった。
彼女は何も言わない。
見透かしているのか、予想外なのか───そのどちらか、あるいは両方か。まぁ、なんだっていい。
趣味が悪い。
それは最も適した言葉だ。
手長女はどこまでも趣味が悪く。
その、呪い───いや、祟りの性質も最悪だ。
例えば、〝運動が苦手な者〟にコイツが祟りをかけた場合。
わざと追い回すようになるだろう。逃げ場を潰し、徐々に追い詰める。
〝死に忌避感がある者〟にコイツが祟りをかけた場合。
自分はあくまでも傍観者で、目の前で誰かが死んでいく光景を延々と見せつけられる。
〝閉所に忌避感がある者〟にコイツが祟りをかけた場合。
光のない空間に閉じ込められ、時間の感覚を奪われるだろう。
〝特定の個人を信頼する者〟にコイツが祟りをかけた場合。
その信頼は裏切られ、言葉は刃となって突き刺さる。
それも全て、〝掛けた相手〟がこれは現実味があると、思えるレベルに合わせて、だ。
徹底している。容赦がない。
ホント……笑えるぐらいに趣味が悪い。
けれど、『まあ』と言葉を切ると……右腕の裾をまくる。
そこには、これまで幾度となく“奇跡”を壊してきた力がある。
『それも全部ここまでだ』
そして、手長女に指を突きつける。
その仕草に迷いはない。
『消えろ。ここは
右腕を振りかぶり、手長女の身体をかき消すように振り上げた。
空間を掻き切るようなその動きは、確信に満ちている。
やはり、コイツは幻覚だった。
触れた感触すらなく、霧のように溶けて消える。
まるで最初から存在しなかったかのように。
続けて、視界の端から
ピシリ───
と、陶器にヒビが入るような音とともに〝崩壊〟が始まる。
空間そのものが耐えきれなくなったかのように、ひび割れていく。
基準点は自身の右腕を見下げ、くすりとほほ笑んだ。
それは安堵でもあり、覚悟でもあった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『っ』
帰って、きた。
その感覚は曖昧で、けれど確かだった。
足元の感触が変わる。空気の密度が変わる。
何より───現実の重さが、全身にのしかかってくる。
傍らで猫のように丸くなる霊夢の居る……現実に。
規則正しい寝息が、小さく耳に届く。
その音が、妙に安心感を与えた。
少なくとも、ここは“さっきまでの場所”ではない。
目の前には……祟りの主である緑の髪の女性が未だに存在する。
逃げたわけではない。終わったわけでもない。
むしろ───ここからが本番だ。
手長女は指で机をたたく。
その動作は緩やかで、どこか退屈そうですらある。
すると、再び文字が浮かび上がる。
何も終わっていない
その赤い文字は、まるで現実に焼き付くように浮かび上がり、視界に残り続ける。
何が終わっていないのか。
何故終わっていないのか。
そんな事は説明されるまでもない。
分かりきっている。
そうだ。
俺は祟り自体を乗り越えることなど出来ていない。
何故なら……この祟りは─────
『あんた、化け物だな』
基準点は前置きのように、乾いた笑みを浮かべながら告げる。
それは賞賛でも侮辱でもない。ただの“評価”だった。
『俺も沢山の世界を見てきたが……あんたのその力は異質だ』
視線を逸らさず、まっすぐに見据える。
逃げるつもりはないという意思表示。
この祟り。趣味の悪い性質もそうだが……恐らく死ぬ条件がある。
直感ではない。
これまでの体験と観察から導き出した、ひとつの“答え”だ。
『あんたの定めた〝法〟にどれだけ反したか。相手がどれだけ〝罰〟を恐怖、畏怖、忌避をするか』
言葉を重ねるたびに、輪郭がはっきりしていく。
バラバラだった情報が、一つに繋がっていく感覚。
そこまで言うと、手長女は初めて、反応のように指をほんの少しだけ震わせる。
わずかな変化。だが、それで十分だった。
“当たっている”と確信するには。
『そして、定められる〝法〟はあんたが自由に書き換えられる』
一歩、踏み込む。
もう引き返すつもりはない。
『どれだけ人を殺めたかは勿論。どれだけ人を救ったか、にもできる』
善悪の基準すら、相手次第で歪められる。
それはもはや“裁き”ではなく、“遊び”に近い。
『〝罰〟は今ここで起きた、祟り……だろ?』
これこそが、手長女の言う〝悪の排除〟。
その正体は───“主観による断罪”。
空気が僅かに張り詰める。
目に見えない圧が、じわりと広がる。
『つまるところ、あんたの定められるような〝法〟を何も犯しておらず』
言葉を切り、息を整える。
『あんたが起こす罰、───祟りに何も思わない。それが、呪いを乗り越える、ということ』
そして、絶対に出来るとも思わない…その結論を叩きつける。
『……違うか?』
問いかけではあるが、確認に近い。
答えは既に出ている。
そして、【何も終わっていない】
この言葉の意味も。
これは、悪夢の再開を意味する。
そうだ。
今こうやって自分が戻ってこれたのは……恐らく手長女が祟りの性質を変えると判断したから。
だから、一度現実に戻ってきた。
リセットではない。“次の段階”へ進んだだけだ。
基準点は深呼吸をすると、隣をチラリとみやった。
霊夢はまだ寝ている。
なら、良かった。
少なくとも、巻き込まれてはいない。
すると
なぜ、そこまで理解して尚、受け立つ?
指を叩くまでもなく、テーブルに文字が浮かぶ。
その問いには、感情は感じられない。ただ純粋な興味だけがある。
その問いかけに基準点は
『ああ』
と、即答で返す。
迷いはない。考えるまでもない。
『俺は、俺たちは…こんなところで止まるわけにはいかねぇんだよ』
その言葉には、自分だけではない者が含まれていた。
それが誰なのか、説明する必要性はない。分かりきった答えだ。
その回答に手長女は、玩具を見つけた子供のように……口角を上げた。
初めて見せる、分かりやすい感情だった。
面白い
そして、長い長いその手を伸ばし……指先で基準点の胸をとんとん、と叩く。
軽い接触。だが、それは開始の合図だった。
同時に
世界が歪み始めた。
空間が軋み、現実がねじ曲がる。
恐らく祟りが開始するのだろう。
しかし、基準点は───
『ふっ…』
笑った。
それも、心の底から。
………?
手長女が、僅かに疑問を示す。
ああ……まさか。
初めてこれをやるのが、ここまでの化け物だとは思わなかったからだ。
『なあ、手長女』
その呼び方に、もう躊躇いはない。
『あんたは言ったよな。呪いを耐えろって』
確認するように、言葉を重ねる。
『祟りはもう始まったんだろ?つまり、だ』
一瞬、間を置く。
その間に、全てを込める。
『〝こっから生き残ったら何が何でも滞在許可を貰うからな?〟』
宣言だった。
条件提示でもあり、挑発でもある。
そして、基準点は───〝消えた〟。
音もなく、気配もなく。
まるで“最初から存在しなかったかのように”。
残ったのは、一人の少女の静かな寝息のみ。
世界は一瞬、静止したかのように沈黙した。
流石の早苗もここまでの愚行には呆れ、というものが生まれかけた。
ほんの僅かだが、その無機質な内面に感情の揺らぎが発生する。
つまるところ、あの者は転移をした……ということであろう。
祟りという有効範囲から離れる為に。
より遠くへ、より確実に逃れる為に。
理屈としては成立している。
だが───浅い。
どこまでも遠くに行こうと関係などない。
距離という概念が、この祟りに意味を持つ事はない。
その上、既に“栞”は付いた。
対象は確定している。
逃れようが、擦り付けようが、成り代わろうが、全て無意味。
成り代わりによる回避も、なすりつけによる回避も何もできない。
対象という“枠”から外れない限り、終わりは訪れない。
枠を外れ、自死を選んだとしても……それは、終わりであり始まりに過ぎない。
輪は閉じない。循環するだけだ。
だからこそ、こんなにも呆気のない終幕に、呆れが生まれかける。
あまりにも単純で、あまりにも愚直な逃避。
だが。
「……………?」
妙な齟齬感を早苗は感じ取った。
それは極めて微細で、しかし決定的な違和感。
祟りの爆ぜる感覚がない。
発動しているはずの現象が、“起きていない”。
「……」
そして、思い返す。
彼はこの力の解析が異常なまでに早かった。
ただの勘ではない。観察と推論を積み重ねた、確かな理解。
そして、この力の異端さや特異さも理解している節があった。
ただの被害者ではない。対等な観測者に近い。
そんな彼が───
〝どこまで範囲があるかもわからない〟
〝そもそも有効範囲という概念があるのかもわからない〟
その状態で、“転移”などという安直な手を取るか?
そこまで思考を巡らせ、
早苗は────気付く。
「まさか…」
その瞬間。
『……作戦…勝ち、だな』
声がした。
「………っ」
消えたはずの場所に、一人の青年が再び顕現していた。
空間が歪むわけでもなく、音が鳴るわけでもない。
ただ、“戻ってきた”。
額には汗が浮かび上がり、息も荒い。
胸を押さえ、今にも崩れそうなほど消耗している。
それでも。
その顔には、確かな勝利の笑みが浮かんでいた。
そして
『俺の勝ちだ。手長女』
上条当麻は告げた。
それは宣言であり、終止符だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
東風谷早苗は青年の勝利を確信した笑みに対し、目を細めて唇を開く。
その視線は鋭く、まっすぐに核心を射抜く。
「……なにをした」
すると、基準点は一瞬目を丸くし
『あんた…喋れたんだな…』
と、思った言葉をそのまま漏らしていた。
緊張の糸が一瞬だけ緩む。
しかし、すぐに咳払いをすると……くつくつと微笑みながら答え合わせを始める。
『あんたのそれは、素人目でもヤバい。その上、そこまで呪いの性質を高めてるなら死に逃げも恐らく通用しない』
言葉を選びながらも、確信を持って語る。
これは推測ではない。体験した上での結論だ。
『だからこそ』
一拍置く。
『俺程度じゃあ、この呪いは消せない。その上、回避も逃避も無駄』
真正面から認める。
敵の強さも、自分の限界も。
だが───それで終わりではない。
『………けど、この手段だけは使えた』
右手を一瞥し、静かに息を吐く。
それは覚悟の確認のようでもあった。
『さっき消えたのは転移や無意識潜入でもない』
一歩、踏み込む。
『読んで字の如く、俺は〝居なくなったんだ〟』
その言葉は、あまりにも単純で───そして異常だった。
「………」
そこまで言うと、何かを理解したのか。
手長女は小さく唸る。
『基本的に攻撃っていう概念は、そりゃあ攻撃する対象が居なくちゃ意味がない』
当たり前の理屈。
だが、この場ではそれが“答え”になる。
『そりゃそうだろ?あんたの祟りの場合……俺という対象が〝この世界〟に居ないといけない』
そして、核心へ。
『だけど』
肩をすくめ、軽く首を振る。
『勿論、遠くに消えたりこの世界そのものから居なくなったわけじゃない』
矛盾するようでいて、成立する説明。
『……あの時、あの瞬間。俺という存在は消滅した。全てによる観測から消えた。無になったんだ』
時間が止まったような沈黙が流れる。
『時間差で起こるように能力を発動させてなかったら……』
一瞬だけ、表情が曇る。
『後から再構成も不可能。とんでもねぇ博打だったんだ』
それは勝利の裏にあった、純粋なリスク。
一歩間違えば終わりだった。
『成功してよかったよ』
軽く笑う。
だが、その裏には確かな疲労が滲んでいた。
そして
『さて、これで合格で良いんだろ?手長女』
勝者としてではなく、交渉者として言葉を投げる。
『俺はあんたの呪いを一度耐えた。それで終いだ』
疲れ切ったように吐息をつきながらも、視線は逸らさない。
『許可が貰いたい。……あんたからの、滞在許可を』
手を差し出す。
それは敵意ではなく、歩み寄りの意思表示だった。
そう───基準点も理解している。
これが反則スレスレ、いや反則じみた行為であることを。
それでもなお、踏み込む。
すると、手長女は……
「私の…」
ゆらりと、手を伸ばす。
その動きはゆっくりで、どこか迷いを含んでいた。
その反応に基準点は
『(ちっ…やっぱりアウトかよ…)』
と、内心で舌打ちし、最悪の展開を覚悟する。
だが───
「私の名前は…
その言葉と共に、手が握り返された。
温度は低い。
だが、確かに“繋がった”。
基準点は思わずポカンと呆ける。
予想外の展開に、思考が一瞬止まる。
だが、すぐに───
くすりと微笑み、
『良い名前だ』
そう、返した。
────因みに。
握られた手は冷たかった上に、力強すぎて痛かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ゆらり、ゆらりと宙ぶらりん。
まるで意識そのものが、水面に浮かぶ木の葉のように揺れている。
掴もうとすれば指の隙間からすり抜けていくような、不確かな感覚。
遠くで、誰かと誰かの声が聞こえる。
断片的で、ぼやけていて、それでいて妙に耳に残る。
楽しげではない。
だが、無味乾燥でもない。
そこには確かに、何かしらの温度があった。
そこで、博麗霊夢はぱちりと、ゆっくりと瞼を開いた。
まぶたの裏に残っていた微かな光が、現実へと引き戻される。
意識が段階的に浮上していく感覚。
「………?」
ぼんやりとした視界の中で、最初に認識したのは“黒”だった。
視界を覆うのは予想通り、真っ黒で、少しくすぐったい…ウニのようなツンツン頭の髪の毛。
見慣れているはずなのに、妙に現実感が薄い。
のだが、
「…!?」
そこで状況を理解した霊夢は、反射的に体を跳ねさせた。
思考よりも先に身体が反応する。
当麻の背中の上で跳ね起き、バランスを崩しながらも唇を開く。
「ここ、どこだ…!?」
声には明確な焦りが滲んでいた。
それは状況を把握できていない者特有の、剥き出しの不安。
『お。起きたか』
気の抜けるような当麻の声が鼓膜を震わせる。
あまりにも普段通りで、緊張感の欠片もない。
だが霊夢はそれに意識を向ける余裕すらなく、辺りを見渡した。
木、木、木。
視界の端から端まで、全てが木だった。
空さえも枝葉に遮られ、閉塞感のある緑の天井が広がっている。
風が吹くたびに葉が擦れ合い、ざわざわとした音を立てる。
その音は心地よいはずなのに、この場所では妙に不気味に響いた。
おかしい。
というより、理解が追いつかない。
なぜこんな場所にいる?
確か、自分たちは階段を登っていて───
『なに寝ぼけてんだ?』
当麻はそんな寝坊助に、心底呆れた声を向ける。
大きくため息をつきながら、歩みを止めることなく進み続ける。
その姿はあまりにも“日常的”で、逆に異様だった。
「お、おい。当麻!一体どこを歩いているんだ!?モリヤ神社はどうなってしまったんだ!?」
霊夢の中では一大事だ。
状況が一切繋がらない。
だが、当麻にとっては既に過ぎ去った出来事。
説明する気力もない。
『誰かさんが寝てる間に全部終わったわ』
あまりにも雑な一言だった。
「え゛」
間の抜けた声が漏れる。
理解を拒絶するかのような反応。
当然、説明を求めるが───
無視。
当麻はそれ以上取り合わず、隣を歩く〝早苗〟へと視線を向けた。
『ここまで付いてきてもらって悪いな。生憎次の場所が分からなくてよ』
軽く肩をすくめながら言う。
冗談めかしてはいるが、本音でもある。
「………かまわない」
返ってきたのは、相変わらず感情の読み取れない声。
抑揚がほとんどなく、機械的ですらある。
当麻は苦笑する。
慣れたようでいて、やはりどこか違和感は拭えない。
尚、霊夢はようやくそこで早苗の存在に気付いたのか───
ビクリ、と肩を震わせた。
そして、反射的に当麻の肩へとしがみつく。
その動きはあまりにも露骨で、警戒というより恐怖に近い。
なんだこいつ。
と、早苗は音もなく歩きながら、ゆらりと首を傾ける。
その仕草は人間らしいのに、どこか“ずれている”。
そして───当麻を、否。
〝一点〟を見据え、見下ろしてくる。
『…?』
沈黙と困惑。
視線の意味が分からない。
すると、
「その右手」
『右手…?』
無意識に視線を落とす。
自分の右手。
見慣れているはずのそれが、妙に重く感じた。
「似ている。とても」
『……えぇっと…。なにに?』
間を置く。
ほんの僅かな沈黙。
そして
「〝彼〟のモノに」
その言葉だけが、静かに落ちた。
彼。
その一言に、様々な可能性が脳裏をよぎる。
だが、どれも確証には至らない。
『そりゃ…どうも…?』
結局、当たり障りのない返答に落ち着く。
下手に踏み込めば、面倒なことになる予感があった。
このまま主導権を握られるのはまずい。
そう判断し、当麻は思考を切り替える。
情報が足りない。圧倒的に。
『なあ、早苗』
「……なにか?」
『………』
普通に会話が成立している。
それが逆に不気味だった。
さっきまで殺されかけていた相手とは思えない。
……いや、俺の感覚がおかしくなってるのか。
そんな自嘲を胸の奥で転がしながら、口を開く。
『次行く場所って【紅魔城】って所で合ってるんだよな?』
「相違ない」
やはり淡白。
会話が続く気配がない。
『それってどんなところなんだ?』
「行けば分かる」
『さいですか…』
会話終了。
乾いた沈黙が流れる。
コイツ、絶対会話弾ませる気ねぇだろ。
内心でぼやきながらも、当麻はさらに踏み込む。
『ここって一体何なんだ?』
歩きながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『俺はこの馬鹿の付き添いで来てるだけなんだが……端から端まで分からないことだらけでよ』
現状の整理。
ここは幻想郷の平行世界。
だが、ただの別世界ではない。
動物も、建物も、住民も。
全てが歪み、異形と化している。
名付けるなら───〝異形郷〟。
霊夢と紫さんに繋がりがあったり。
この右手があると危険。ということが分かったことだけ。
昔に外来者のせいで誰かが亡くなった。そのせいで、異形郷の住民は外来者を敵視している。
からこそ、霊夢の言う主に会いたいなら……他の者たちにここに滞在する許可をもらいたい。
知っているのはそれだけだ。折角対話ができるのだし、情報が欲しい。
だが───
「説明することはない」
返ってきたのは、あまりにも冷たい拒絶だった。
『……だろうな』
苦笑が漏れる。
それでも、諦める気はない。
『じゃあさ』
少しだけ言い方を変える。
『コイツ、自分の主を探してここに来たんだよ』
背中の霊夢を軽く揺らす。
『会えればそれでいい。滞在する気はない。……その相手、知らないか?』
「────知ってはいる」
一瞬、空気が変わる。
『なら───』
「けれど、言わない」
即答。
『………なぜ?』
「言うな。と言われた」
『なるほどねぇ……』
それだけで理解する。この世界の構造が、少しだけ見えた気がした。
しかし
「次行く城の主ならば機嫌よく話すだろう」
思わぬ追加情報。
『……城の主?なんだそれ。王様かなんかか?』
「当たらずも遠からずだ」
『じゃあ…』
ほんの一瞬の間。
そして
「魔王。そう言うべきだ」
その単語が、静かに落ちた。
魔王。
あまりにも分かりやすく、そして最悪な響き。
当麻の脳裏に浮かぶのは、暴力と支配の象徴。
交渉など通じない存在。
粗相をすれば即終了。
そんな未来しか見えない。
だが───
『それで、その魔王サマはなんであんたと違って話してくれるんだ?』
疑問は尽きない。
「魔王は母の意思に従うことは無い。私のように口止めもされないだろう」
母。
また一つ、新しい単語。
そして早苗は、ゆらりと空を見上げる。まるで、遠い記憶を辿るように。
「彼女は〝彼〟を気に入っていた。」
静かに続ける。
「思い出でも聞けば、上機嫌に話すだろう」
彼。
再び出てきたキーワード。
当麻は口を開こうとする。
何かを掴めそうな予感がしたからだ。
その、瞬間。
「 ひょおてきをほそく 」
異質な声。それは人のものではない。
楽しげだが、抑揚は大きく、子供のような無邪気さすら感じられる。
そして
───ピロン
小さな電子音。あまりにも場違いな音が、静寂を切り裂き、当麻の鼓膜を震わせた。
『……あ゛…?』
瞬間――それまで矛盾点の内側を満たしていた記憶の流入が、唐突に、そして乱暴に断ち切られる。
滑らかに繋がっていたはずの思考は、途中で引き裂かれ、無理やり現実へと引き戻された。
まるで深い水の底から、急激に水面へ引き上げられたような不快感。
耳鳴りにも似た余韻が頭の奥で反響し、神経をじわじわと逆撫でしていく。
その不快さを誤魔化すこともできず、矛盾点は喉の奥から濁った声を漏らした。
その声音には、わずかではあるが確かに苛立ちが混じっている。
折角、良いところだったというのに。
『おい、基準点。今良いところだったんだぞ?何起こして───』
深く、そして露骨に不満を含んだため息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げる。
気怠げに、しかし内心の苛立ちを隠そうともせず、視線を基準点の方へ向ける。
そのまま、軽口を叩くように言葉を続けようとした――その瞬間だった。
言葉が、不自然に止まる。喉の奥で、ぴたりと凍り付いたように、それ以上、続けることができなかった。
その理由は単純で、そして明確だった。
視界に映った基準点の様子が――明らかにおかしい。
『……』
そこに居た基準点は、矛盾点を見ていなかった。
いや、それどころではない。
まるで別の何かに意識の全てを奪われているかのように、ある一点へと視線を固定している。
瞬きすら忘れているかのような凝視。
その瞳には、普段の冷静さは微塵も残っていなかった。
浮かんでいるのは、焦燥。
そして――ほんのわずかだが、確かに存在する“恐怖”。
基準点の視線の先を追う。その行為は、ほとんど反射だった。
そして――
その先を視認した瞬間、矛盾点の瞳がわずかに揺れる。
それは理性による理解ではない。もっと直接的で、本能的な反応だった。
『こんにちは。主人公さんと裏切り者』
その声は、驚くほど穏やかだった。柔らかく、落ち着いていて、どこか親しみすら感じさせる響き。しかし、その“普通さ”こそが異常だった。
この状況、この空気、この場において――
そんな声音で話しかけてくる存在が、まともであるはずがない。
そこに立っていたのは、たった一人の少年。
年齢だけで言えば、どこにでもいるような普通の子どもに見える。
だが。
その存在が発する圧は、空間そのものを歪ませるほどに重い。
空気が、変わる。密度が増す。
今、この場において――最も、出会いたくなかった存在。
この世界で、一二を争う強さを持つ異常。
〝真実点〟。
その少年は、ゆるやかな笑みを浮かべていた。まるで、この再会が最初から予定されていたかのように。あるいは、全てを見通した上でここに立っているかのように。その視線は、真っ直ぐに矛盾点へと向けられている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
しかし――
その圧迫感を真正面から受けながらも、矛盾点はすぐに呼吸を整えた。
一度、肺の奥まで空気を送り込み、ゆっくりと吐き出す。
乱れかけたリズムを、意識的に均していく。
動揺はある。
だが、それを表に出すほど甘くはない。
そして次の瞬間には、いつも通りの軽薄な笑みを浮かべていた。
まるで先程の空気など存在しなかったかのように。
『よう。久しぶりじゃねぇか。あの世界破壊ぶりか?真実点』
軽口のように、冗談のように。しかし、その言葉の裏には確かな探りが含まれている。
今、この場において最も重要なこと。
それは――
目の前の存在が、どちらなのかということだ。
〝佐藤鷹禾〟なのか。
それとも〝真実点〟なのか。
同じ肉体でありながら、まるで別物の人格。どちらであるかによって、取るべき対応は大きく変わる。
もっとも。
ここまでの言動、雰囲気。
それらを総合すれば、答えはほぼ一つに絞られる。
……十中八九、真実点だろう。
内心で結論を下しながら、矛盾点はわずかに肩を竦める。
予想通りであることへの安堵はない。
むしろ、確信に変わったことで、より厄介さが増しただけだった。
思わず、見えないほど小さくため息を吐く。
その直後――
『それで、何しに来た。真実点』
基準点が、口を開いた。
先程までの動揺は、表面上は抑え込まれている。だが、その声の奥底には緊張が残っていた。わずかに低い、硬い声音。
油断は一切していないという意思表示でもある。
『何しに来たって。それは一番…そこの裏切り者が理解してることじゃないんですか?』
真実点は、何でもないことのように言った。
まるでそれが当然であるかのように。まるで説明するまでもない事実であるかのように。
だが、その言葉の内容は曖昧で、意図が読めない。
空気が、わずかに軋む。その不明瞭さを打ち消すように――
『何言ってんだお前。遂に自己暗示のし過ぎで頭おかしくなかったか?』
矛盾点が、挑発するように言い放つ。
声音は軽い。
だが、その視線は鋭く、相手の反応を見逃すまいとしていた。
わざとだ。
この程度で揺らぐ相手ではないことはわかっている。
それでも、僅かな情報でも引き出すために、言葉を投げる。
すると――
『………ああ、なるほど。そういうことですか』
真実点は怒ることもなく。むしろ、何かを理解したかのように、静かに頷いた。
その仕草はあまりにも自然で、逆に不気味だった。
薄く、口元に笑みを浮かべる。それは嘲笑でもなく、愉悦でもなく。ただ、納得した者の表情だった。
『……?』
その反応に、基準点と矛盾点は同時に眉をひそめ、互いに視線を交わす。
そして。
わずかな間を置いた後、基準点は再び口を開く。
今度は、明確に声音を変えて。
『なあ、真実点』
低く、抑えた声。先程までとは違う、探るのではなく、“切り込む”ための声音だった。
『なんですか?』
真実点は即座に返す。その表情には、皮肉と憎悪が混ざった微笑みが浮かんでいた。
『お前は何で、【佐藤鷹禾】って。名前を名乗ってるんだ?』
基準点は、真正面から問いをぶつけた。遠回しな探りではない。
核心へと踏み込む質問。
しかし――
真実点は意に介さなかった。
むしろ、その問いが少し意外だったのか。一瞬だけ目を丸くする。
だが、それもほんの刹那。すぐに小さく息を吐き、落ち着きを取り戻す。
『何か変、ですか?』
淡々とした声音で揺らぎはない。
『僕は【佐藤鷹禾】です。だから、そう名乗る。それ以上でもそれ以下でもありせんよ』
その言葉には、妙な説得力があった。嘘をついている様子はない。
そして、真実点は続ける。
『それとも』
わずかに首を傾げ。
視線を、まっすぐに基準点へ向ける。
『僕が【佐藤鷹禾】と名乗るのが、おかしなコト…とでも思うんですか?主人公さん』
「主人公」という単語が、空気を裂いた。
基準点の奥歯が、ぎり、と音を立てる。表情は崩さない。
だが、確実に反応していた。
『っ。…何度も言ってるが、俺はもう主人公じゃない』
絞り出すような声。
否定の言葉。
だが、それはどこか――
自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
それに対して。
『いいえ』
真実点は、即座に否定する。
一切の迷いなく。断定するように。
『貴方は紛れも無く主人公です。勝手に作られて、捨てられて、認識もされていない。それを知った上で、憎悪に支配されず、前を見ている。正にスポットライトの当たる人間そのものです。凄いじゃないですか』
真実点は、淀みなく言葉を紡いだ。
そこに迷いはない。
感情の揺れも、誇張もない。
ただ“評価”として、事実を述べているだけの声音。
だからこそ――重い。
まるで、他人の人生を上から俯瞰し、その価値を勝手に定義しているかのような響きだった。
一つ一つの言葉が、静かに、しかし確実に基準点の内側へと沈んでいく。
否定しようとすればするほど、どこかで“理解してしまう”類の言葉。
それが、何よりも厄介だった。告げ終えると、真実点は小さくため息を吐く。
まるで、語るべきことは語り終えたと言わんばかりに。
そして――
『それよりも…』
僅かに視線をずらす。
その先にいるのは、矛盾点。
ゆっくりと、焦点が合う。
逃がさない、とでも言うように。
『〝紗雪さんはお元気ですか?〟』
その言葉は、あまりにも唐突だった。
脈絡がない。
文脈も繋がっていない。
まるで、全く別の会話が突然差し込まれたかのような違和感。
だが――
その“意味”は、明確に刺さる。
『………』
『…?何言ってんだ?』
矛盾点は、いつも通りの調子で返す。声音も、態度も、何もかも崩れてはいない。
真実点はそれを見届けると――
『あはは』
軽やかな笑い声を漏らす。そして、楽しそうに手を叩いた。
ぱち、ぱち、と乾いた音が空間に響く。その仕草は、無邪気な子供のようで。同時に、どこまでも不気味だった。
『貴方は凄いですね。そこまで、怒りを抑えられるなんて』
感心したように言う。だが、その言葉の裏には明確な確信があった。
演技だと、見抜いている。
いや――“知っている”。
『……?お前マジで頭大丈夫か?』
矛盾点は、呆れたように返す。
あくまで軽く。
あくまで崩さず。
だが、その内側では。確実に、何かが軋んでいた。
『いえいえ、良いんですよ?無駄に演技なんてしなくても』
真実点は、穏やかに続ける。
その声音は柔らかい。だが、内容は鋭利だった。
『まあ、貴方が僕を即座に殺そうとしないのは……その二人も居るから、でしょうが』
視線が、わずかに動く。
基準点と、そしてもう一人。傍らで眠っている少女も確認して。
『…………』
矛盾点は、何も返さない。
沈黙。それは否定でも肯定でもない。
だが――
真実点にとっては、それで十分だった。
『だってそうでしょう?』
くすり、と笑う。その笑みは、あまりにも屈託がない。
だからこそ、異様だった。
『〝覚悟〟も〝決意〟も使い…あの時よりも理解を深めた僕と。〝覚悟しか使えず弱体化した裏切り者〟、〝中途半端な愚者〟…。まあ、例え、貴方が居たとしても…本気でぶつかりあえば…そちらは二人ほど死んでしまうでしょうから』
淡々と。あまりにも淡々と。
残酷な内容を並べる。優越も、侮蔑も、憐れみすらない。
ただの“事実”として、提示しているだけ。
それが、何よりも恐ろしかった。その言葉は、脅しではない。警告ですらない。ただの、結果予測。
それだけ。
『ま、僕としてはそれで嬉しいです』
さらりと続ける。まるで軽い雑談のように。
『あくまでも、僕の相手はあの男。……殺すのも、死なすのも、アイツだけで良いんですから』
その言葉に、わずかな“執着”が滲む。
初めて、ほんの僅かだけだが、感情らしきものが見えた。
しかし、それも一瞬。すぐに消える。
まるで最初から存在しなかったかのように。そして、真実点はくるりと背を向ける。
一切の未練もなく。この場に価値はないと判断したかのように。
『知りたいことは知れました。僕はお暇を頂きます』
そのまま、歩き出す。来た道をなぞるように。足取りは軽い。
だが、その背中には一切の隙がない。
しかし――
そのまま「はいそうですか」と見送るわけにはいかない。
この場で得られた情報は多い。
だが、それ以上に持ち帰られる情報の方が致命的だ。
何より――このまま帰すという選択は、あまりにも無防備すぎる。
『おい…待て。真実点。まだ、何も話は終わってねぇよ。何勝手に納得してんだ』
基準点が声を張る。その動作と同時に、右手の裾を捲る。
戦闘態勢に入る前の、無意識の準備。その仕草には、明確な意思が込められていた。
――逃がさない。
背中に向けて放たれたその言葉は、静かながらも強い拘束力を持っていた。
『………はあ』
足が止まる。そして、真実点はゆっくりとため息を吐いた。
それは、心底面倒だとでも言いたげな響きだった。
やがて。
ゆらり、と。振り返る。
その動作は緩慢で、無防備にも見える。
だが、その実――一切の隙は存在しない。
『何ですか?僕は早く戻りたいんです』
声音は変わらない。
淡々と、ただ事実を述べるだけ。
だが、その〝戻りたい〟という言葉。
それが、基準点の思考を一瞬止めた。
『…?戻りたい…?』
思わず、言葉が漏れる。それは疑問というよりも、違和感の吐露に近かった。
真実点という存在。
それは、どこかに“帰属する”ようなものではない。
むしろ、どこにも属さない。
どこにも留まらない。
そういう在り方のはずだ。
元々の矛盾点と同じように、始祖を殺すという一点のためだけに生きている。
そんな存在が――
【戻りたい】などと口にする。
あまりにも不自然だった。
『ええ、そうです。僕はさっさと戻りたいんです』
迷いなく、肯定する。その様子には違和感がない。
だからこそ、余計に異質だった。
『どこに…?』
問いは、ほとんど反射だった。
だが――
『…………さあ、どこでしょう』
真実点は、わずかに間を置いてから答える。
そして、肩をすくめる。
薄っぺらな微笑み。
はぐらかしているのか。
それとも、本当に答える気がないのか。
判別はつかない。だが、どちらにせよ。
これ以上、この方向から情報を引き出すのは難しい。
『じゃあ、お前は何しに来た。そもそも、何で俺たちの場所が分かった?』
問いを切り替える。
今度は、より実利的な内容へ。
その問いに対し――
真実点は一瞬だけ、視線を矛盾点へと向けた。
確認するように。あるいは、何かを測るように。
だが、それもほんの刹那。
すぐに基準点へと視線を戻す。
『僕の居た世界に…一番大嫌いな存在が来たと思えば、今度はおじゃま虫さんが飛んできて。そのうえ、裏切り者さんまで来たので……結界を張ったんです。まあ、その結果…少しだけスポットライトを浴びちゃいましたけど……』
前置きのように、淡々と語る。
言葉の選び方は軽い。断片的な情報が、点として提示されていく。それらが意味するものを繋ぎ合わせるには、まだ材料が足りない。
そして、真実点は続ける。
『僕はとある諸事情で眠りに就いています。今の僕は、いわば、思考の具現化……あっちの僕から【真実点】だけを抜き出した……みたいなものです。あなた方の場所が分かったのは僕の能力によるもの。そして、僕の用件はただ一つ……』
そこまで言って。
ぴたり、と動きを止める。
そして。ゆっくりと。
矛盾点へ向けて、人差し指を向けた。
『そこの裏切り者への忠告です。けれど、それは意味が無いと理解したので何も言わなかった。それで、……満足しましたか?主人公さん』
言い切る。余計な装飾はない。
ただ、結論だけを提示する。
そして――
再び、小さくため息を吐いた。
視線が、まっすぐに基準点へと向けられる。
その目は、すでに会話終了を告げていた。
これ以上、言うことはない。
そう言わんばかりに。
よくわからない情報もあったが。
つまるところ、コイツが〝その場所〟に戻ろうとしているのは恐らく、ここでの情報を本体に還元させるためだろう。
分身の仕様が矛盾点と同様なら合ってはいるはず。
そして、コイツはここで……俺と矛盾点が一緒に居る所を見てしまっている。その上、何時から観測されていたのかも分からない。
だとすれば……こいつをそこにまで帰らせてしまうのは得策じゃない。少なくともコイツが何か不穏な事をしている時点で、見過ごせはしない。
それに、コイツは俺の〝覚悟〟を知らない。矛盾点も弱体化しているとは言え、強いのだ……少なくとも敗北確定の戦いではない。
そこまで思考を巡らせたところで。基準点は、決断する。
一度、矛盾点へと視線を向ける。
意思を確認するために。
『矛じゅ─────』
しかし。
その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
視界が、暗転する。
唐突に。
何の前触れもなく。
意識が、落ちる。
力が抜ける。
身体の制御が、完全に失われる。
そして――
基準点は、その場に崩れ落ちた。
そして――
崩れ落ちる基準点の身体を。その一連の動作を、矛盾点はただ静かに見届けていた。
次いで、ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
矛盾点は、視線を持ち上げる。
その先にいるのは、当然――真実点。
『お前』
声が、低く沈む。自分の喉から出ているとは思えないほどに重い。
濁っていて、掠れている。
それでいて、妙に鮮明だった。
自分の声なのかどうか。
一瞬、判別がつかなくなる。
『いつ、その名前を知った』
問いかけ。その形は保っている。
だが、その実態は“確認”ではない。
抑えきれない何かを、言葉という形で吐き出しているだけ。
それだけのものだった。
空気が、重くなる。いや――違う。
重くしているのは、自分だ。
胸の奥で、何かが膨れ上がっている。
押し潰されそうになるほどの、圧。
それを逃がす術がない。
真実点は、一瞬だけ目を丸くする。
ほんの僅かに、意外そうに。
だが。
すぐに理解したように頷いた。
『ああ』
軽い納得。その温度差が、さらに神経を逆撫でする。
『記憶でも抜け落ちたものかとも考えましたけど…良かったです。それで、いつ知っていたか、ですか。……教えると思いますか?』
笑みが、深くなる。
待っていましたと言わんばかりに。だが、その笑みには一切の“正”がない。
喜びも、楽しさも、含まれていない。
ただ、相手の反応を観察するためだけの形。
――それでも。
矛盾点には、どうでもよかった。
そんなことは。
どうでもいい。
どうでもいいのに。
どうでもいいからこそ。
頭を掻きむしる手が、止まらない。
ガリガリガリガリと。
爪が皮膚を削る音が、やけに大きく響く。
痛みはある。だが、それすらも遠い。
思考の方が、先に壊れそうだった。
ストレス。
怒り。
焦燥。
それらが混ざり合い、形を持たないまま膨張していく。
今すぐにでも。
目の前の存在を。
ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
形も残らないほどに。
徹底的に。
あの言葉。
【元気ですか?】
知っている理由は分からない。けれど、どうせ分かりきっているくせに。
知っているくせに。
それでもなお、あえて聞いた。
その事実が、許せない。
許せるはずがない。
――だから。
『は……ぁ………』
長く、息を吐く。
肺の奥に溜まったものを、無理やり外へ押し出すように。
そして。
右目に触れる。
そっと。
撫でるように。
その動作は、どこか無意識だった。
何かを思い出すように。
何かを確かめるように。
一拍。
二拍。
静寂。
その後。矛盾点の口元に、笑みが浮かぶ。
それは、先程までの衝動とはあまりにもかけ離れたものだった。
穏やかで。柔らかくて。どこか――“慈しみ”すら含んでいる。
『ま。お前がどこで知ったかなんて正直なところどーだっていいよ。ほら、さっさとどっか行け』
軽い声音といつも通りの調子で言葉を紡ぐ。まるで何事もなかったかのように。
だが、その内側にあるものを。
真実点は、確かに見ていた。
だからこそ――
一瞬だけ。
驚いたように目を見開く。だが、それもすぐに消える。
小さく苦笑を浮かべ。そして、最後の言葉を告げる。
『……一応、あなたに言っておきます。僕はあの世界で始祖を必ず殺します。邪魔なんてしないことを勧めておきます』
淡々と。
だが、その言葉には確かな意思が込められていた。
揺るがない決意。
それだけは、偽りがない。
そして――
今度こそ。
真実点は、完全に背を向ける。
ゆらり、と。
そのまま、歩き出す。
振り返ることなく。
止まることなく。
空間に残るのは、わずかな余韻だけ。
やがて、その気配も遠ざかっていく。
完全に、消えた。
それを見届けると、
『はぁ』
矛盾点は、小さくため息を吐いた。
張り詰めていたものが、わずかに緩む。だが、完全には解けない。
まだ、残っている。
奥の方に。
どうしようもないものが。
『…………沙雪、か』
ぽつりと。
誰に聞かせるでもなく、呟く。
その名前は、空気に溶けるように消えていく。
だが――
その響きだけは、確かに残った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
真実点は、ほんの僅かに――本当に、意識しなければ見落としてしまうほどに微細な苛立ちを胸の奥に滲ませながら、帰路を歩き続けていた。
足取りは一定だった。
乱れはない。躊躇いもない。
だが、その内側では、確かに何かが引っかかっている。
靴底が真っ黒な地面を打つたび、乾いた音が規則的に響く。
その音が、やけに耳に残る。
思考が、そこに縛られているようで――それでいて、逃げるように巡っている。
想定では。
あの裏切り者は、もっと単純な反応を示すはずだった。
殺意に呑まれる。
怒りに支配される。
自我すら曖昧になるほどに、感情に飲み込まれる。
そういう存在だったはずだ。
しかし――現実は違った。
あの短時間で。
あの状況で。
あの男は、“演技”をした。
余裕を見せた。
激情を抑え込んだ。
しかも、それを破綻させることなく、最後まで貫いた。
理解が、追いつかない。
いや、そもそも――理解という行為そのものが拒絶されているような感覚。
やはり、意味が分からない。
思考すればするほど、霧が濃くなる。
自分は違う。
怒りも、憎しみも。
それらは消えることがない。
忘れることなど、できない。
押し込めることすら、できない。
常にそこにある。
焼き付いている。
だからこそ――
〝あの人〟から与えられた
それに縋るしかなかった。
記憶を改竄し、思い出を歪める。
感情そのものに手を加える。
自分という存在を、自分で書き換える。
そこまでしなければ――
自分は壊れていた。
保てなかった。
抑えつけることなど、到底できなかった。
それほどまでに、自分は脆く、歪で、不完全な存在だった。
それを、理解しているからこそ。
余計に、理解ができない。
矛盾点という存在が。
あの裏切り者が。
彼は元々――始祖を憎悪していた。
それは確信だ。
疑いようがないほどに、濃く、深く、歪んだ憎悪。
自分以上に。
むしろ、それこそが彼の核だったはずだ。
存在理由そのもの。
それが――
今は違う。
完全に、反転している。
理解不能。
だが、断片的な情報はある。
彼は言っていた。
【始祖の思想を理解した】と。
ふざけている。
あまりにも。
だが、それでも。
そこに何かがあったのは間違いない。
変化のきっかけ。
転換の理由。
だが――
そこに至る道筋が、どうしても見えない。
自分にはどうやっても、体験できないし辿り着けない。
理解できるはずがない。
まるで、最初から別の生き物であるかのように。決定的な隔たりがある。
そして。
それ以上に彼に関しては──────────
その思考が、さらに深く沈もうとした、その瞬間だった。
『こんな所に、幼気な男の子が一人。迷子でしょうか?』
鈴を転がしたような、澄み切った声音。
それはあまりにも自然に、あまりにも唐突に、真実点の鼓膜を震わせた。
空気に溶け込むように。
だが確実に、異物として存在している。
一瞬で、思考が切り替わる。
警戒。
分析。
逃走経路の算出。
複数の思考が、同時に走る。
しかし、背後にいる女性は――構わず、言葉を続ける。
『ああ、これは大変。子どもが保護者の下から逸れてしまう。それはどんな者の目から見ても…恐ろしいことです』
声音に、徐々に熱が混じっていく。
最初は穏やかだったそれが、じわじわと歪んでいく。
感情が、滲み出る。制御されていない。
いや、そもそも――制御する意思が見えない。
『無論で、当然で、言うまでもなく、明らかに、疑いようもなく、確実的に、絶対に、それは末恐ろしい』
言葉が重なる。積み重なる。意味よりも、勢いが前に出ている。
同じ方向の言葉を、執拗に重ねることで、異様な圧を生み出している。
それは説得ではない。
侵食だ。
聞く者の思考に入り込み、塗り潰すような感覚。
やがて女性は、ぴたりと止まる。まるで何事もなかったかのように。そして、小さく深呼吸をする。
整えるように。
作り直すように。
『貴方、大丈夫ですか?』
落ち着いた声音。先程までの狂気が嘘のように。
だが、その落差が、何よりも異常だった。
そして、真実点は――
ゆっくりと、振り返る。
警戒を崩さず。視線だけを動かし、空気ごと観察するように。
そこには。
一人の、若い女性が立っていた。
長く、光を受けて、わずかに揺らめく滑らかな金髪。
吸い込まれそうなほどに濃い、血を思わせる、深紅の瞳。
ツバの広い帽子と、白いフリルのブラウスを着用し。
整った外見を持つ
――だが。
首元にある、それ。……犬に付けるような首輪。
その一点だけが、すべてを歪ませていた。
違和感ではない。拒絶に近い何か。本能が、警鐘を鳴らす。
だが、それでも。
真実点は、一度呼吸を整える。
『いえ、迷子ではないですよ。ご心配ありがとうございます』
丁寧に、礼儀を崩さず。
距離を保ったまま言葉を返す。
すると、女性は――
喉の奥で、くつり、と音を鳴らす。
『あらあら』
柔らかく。しかし、どこか湿った響き。
『随分と礼儀のなった男の子ですね。親御さんのお顔が見てみたいです』
好意的な言葉。だが、その裏は読めない。読ませる気もないのだろう。
そして。
女性は一歩、真実点から距離を取る。
その動きと同時に――
黒い装丁の本が、手の中に現れていた。まるで最初からそこにあったかのように違和感なく。
自然にページを捲る。ぺら、ぺら、と。一定のリズムで何かを確認している。
『あの、もう行って良いですか?』
真実点は言う。
別段許可など必要ない。だが、刺激を避けるために、あえて問う。
すると女性は、本を閉じる。……ぱたん、と。
『貴方は、帰るべき家があるのですか?』
唐突な問い。文脈が断絶している。
『……はい。そうですけど』
困惑を滲ませながら答えると――
女性の表情が、変わる。
『ああ、素晴らしい』
その一言には、明確な熱が宿っていた。
先程までの穏やかさとは違う。
抑えきれない感情が、言葉の隙間から溢れ出している。
『帰るべき場所がある。安息の地がある。家と呼べる平穏な地がある』
言葉を重ねるごとに、声がわずかに震えていく。
歓喜とも、羨望とも、あるいは――それらが歪に混ざり合った何か。
『なんて、当たり前で、あることが前提の幸せな事象なんでしょう』
その“当たり前”という言葉を、まるで噛み締めるように。
何度も、何度も、心の中で反芻してきたかのように。
『それこそまさに、人々が享受すべき幸福。それを貴方は受けれている』
言葉が、滑らかに繋がっていく。
だが、その滑らかさは自然なものではない。
どこか、作られたような――あるいは、壊れた歯車が無理やり噛み合っているような不気味さ。
『貴方は…とても良い、当たり前のように当たり前の教育を受けた…素晴らしき人間なんでしょう』
称賛。だが、その響きは歪んでいる。
まるで“人間”という存在そのものを、遠くから観察しているかのような距離感。
『でなければ、そんな事象を受けれるはずがありません。ああ、ああ、嗚呼!!』
感情が、限界を超える。
溢れる。
制御を完全に失ったように、声が跳ねる。
頬に手を添え、恍惚とした笑み。瞳は焦点が合っていない。
完全に、何かに酔っている。内側の何かに。外界とは断絶した、自己完結の世界。
『………』
真実点は、言葉を失う。
本能的に、一歩後退る。
距離を取る。危険だ、と。
理屈ではなく、身体がそう判断していた。
そもそも、この狭間に存在している時点で“普通”ではない。
その上で、この人間性。
理解不能というより――理解すること自体が危険に思える。
すると。
女性は、その反応に気づいたのか。
『おっと』
ぴたりと動きを止める。
さきほどまでの熱が、嘘のように引いていく。
『申し訳ございません』
すっと、綺麗な動作で一礼する。
『今日はとても、私にとって良い日で気分が昂ぶってしまっていて。初対面の方には失礼でしたね』
完璧な謝罪。
礼儀正しい。
非の打ち所がない。
だが――
それが逆に、不気味だった。
“切り替え”が、あまりにも滑らかすぎる。
人間の感情の流れではない。
そして。
顔を上げる。
ゆっくりと。
確実に。
その瞳が、真実点を捉える。
逃がさないとでも言うように。
そして――
唇が開く。
『さて、ところで、では、話は変わりますが』
『何時までも名を名乗らないのも無礼そのもの。自己紹介をしておきましょうか』
丁寧な流れ。
だからこそ、次に来るものが“異常”であることを、際立たせる。
『私の名前は…【転換点】。今ここで、貴方を殺す者です』
断言。
一切の迷いなし。
躊躇も、揺らぎもない。
ただの事実の提示のように。
好意と、殺意と、狂気と、理性が――全て同時に存在する、歪な微笑みのまま。
『………っ』
真実点の呼吸が、僅かに乱れる。
動揺。
それは確かにあった。
だが、それ以上に――
“違和感”。
【転換点】という名。
それは、本来であれば明確な“異常”を指すはずのもの。
だが。
目の前の存在から、それが感じられない。
むしろ、薄い。
希薄。
強いて言えば、ほんのわずかに――〝
それだけなのに。
何故、その名を名乗る。
理解が、追いつかない。思考が、空回りする。
それでも――
真実点は、能力を発動する。目の前の女性の情報を取得するために。解析するために。
だが。
――何も、得られない。
発動はしている。
確かに。
だが、結果が返ってこない。
空白。完全な空白。
“そこにあるはずの情報”が、存在していない。まるで最初から、参照先が無いかのように。
『何で…僕を狙うんですか…?』
言葉が、漏れる。意図的に、情報を引き出すために。
だが、その奥には、わずかな焦りが混じっていた。
『何故、ですか』
女性は、首を傾げる。本当に分からない、というように。
『……何故と言われても、それが私の目的だからです』
答えになっていない。
だが、本人は納得している。そのことが、余計に不気味だった。そして、続ける。
『私の目的は全てあの方に会うこと。だから、以上より、したがって、私は貴方を殺します。精々、恨んで下さい』
論理のようでいて、論理ではない。接続詞だけが整っている、歪な結論。
『貴方も…随分と、狂った人ですね…』
真実点は、苦笑を浮かべる。呆れと、警戒と、理解不能が混ざった表情。
すると――
女性の笑みが、深まる。
歪む。歓喜に満ちる。
『ええ、ええ!!私はあの人への愛に、溺れ、焦がれ、飢えて、狂っています!!』
爆発するように、言葉が溢れる。
身体を捻る。抑えきれない衝動が、形として現れている。
『ただ、それだけの〝人間〟!そうですとも、私は人間!それ以上でもそれ以下でも、それ未満でもありません!』
定義。自己規定。
それを何度も強調する。まるで、自分に言い聞かせるように。
『くひっ、くひひっ!くひひひひ!!!』
笑い声が、歪む。空気が震える。
耳にまとわりつくような、不快な残響。真実点は、深く息を吐く。
理解できない。理解する必要もない。
ただ――危険だ。それだけは、明確だった。
『僕と貴方は、初対面。ですよね?』
確認。無駄だと分かっていながらも、口にする。
『そうですよ。こんな事で会いたくもなかったくらいです』
あっさりと肯定する転換点。
『とは言っても、貴方のような素晴らしい少年に会わせてくれた天の采配と私の運命に感謝をしたいです』
感謝。だが、その裏にあるものは歪んでいる。
『じゃあ、なぜ』
間髪入れずに。
『僕を殺すんです?』
問い詰める。
すると――
『理由は私にも分かりません』
即答。迷いもなし。
『貴方を殺すことが私にとっての全てである夢の
言葉が、熱を帯びる。
『つまり、要するに、すなわち、だからこそ、私はあなたに感謝したい!』
膨張する。
『私の夢の終わりを見させてくれて!兆しを教えてくれて!』
狂気が、滲み出る。
止まらない。
『感謝はします。ですが!!しかし、しかしながら、それでも、だけど、だけども、けれど、けれどもッ!!』
接続詞が連なる。意味ではなく、勢いで押し切る。
『…私は貴方を殺します! ご覚悟は、よろしくて?』
そして、結論を告げ。満足したように、静かになる。
『………』
沈黙。
真実点は、何も返さない。その沈黙を、どう受け取ったのか。
『安心して下さい』
女性は、穏やかに言う。
『たとえ、貴方が死んだとしても。私は貴方を覚え続けます』
優しい声音。だからこそ、狂っている。
『私のために、犠牲となってしまった…尊く、悲劇的で、哀れな少年』
言葉が、丁寧に積み上げられる。
『そして、さらに、加えて、その上、なおかつ、貴方は〝あの方〟へと捧げる素晴らしき人間となれるんです』
祝福のように。
呪いのように。
『嗚呼、羨ましい。とてもとても』
本心からの、羨望。
だからこそ、歪んでいる。
――十分だ。
情報は得た。
理解も、ある程度はできた。
だが、それ以上に。
ここに居続ける意味がない。
不快だ。
危険だ。
だから――離脱する。
即座に。
能力を発動する。
そう、判断した。
その、刹那。
パンッ──────
あまりにも軽い音。
乾いた、拍子抜けするほどの音。
だが――
次の瞬間。
両腕が、存在しなかった。
視界から消えている。
認識が、遅れる。
そして――
激痛。
遅れて、爆発するように。
『あ…っ…ぐ…』
声にならない声を紡ぎ、膝から崩れる。
身体が地面に叩きつけられ、額からは汗が滲み出る。
理解が追いつかない。能力は、確かに発動している。
だが――
“効いていない”。
治癒も。
防御も。
無効化も。
何もかもが、意味をなしていない。
適用されていない。
まるで――最初から存在しないかのように。
なんだ、これは。
異常ではない。
なのに。
異常以上に、異常だ。
『人間の命というものは、儚いものですね』
その言葉は――真実点に届かない。
痛みと、思考の洪水に、完全に掻き消されている。
最後に。
転換点は、静かに本を開く。
そして――深く微笑む。満足そうに。
次の瞬間。
真実点の視界が、断ち切られた。
終わりです。
因みにですが真実点(分身)は、首チョンパされてます。
もう二つ因みにですが、転換点さんは既に【葬送のフリーレン】の世界でやる事終えている状態です。
最後の因みに。
現在のエラーたちの実力は、順位的に
1位転換点
2位真実点、矛盾点
3位基準点
4位始祖
ぐらいです。始祖さんは強そうに見えて、基準点とかと一騎打ちをしても普通に負けます。
摂理のクラウンさんなら転換点さんともいい勝負をするでしょうが、勝てはしません。逆も然りで転換点さんは決してクラウンさんには勝てません。
まあ、この順位はあくまでも〝現在は〟ですが……
では、次のお話をお楽しみに。