「は? 冗談だろ?」
俺は唖然としていた。突如何もない空間にふすまが現れた。加えて、そのふすまより現れたのは上弦の壱。現状考え得る限り最悪の状況だった。
「あの御方の命令だ・・・お前は私が責任を持って葬るとしよう・・・」
「っ!!!」
俺は反射的に全速力で距離を取る。瞬きする間に俺と奴の距離は 10 m 以上離れたはずだった。
ー月の呼吸 漆ノ型 厄鏡・月映えー
「っが!!??」
一振りで複数の斬撃が大地を伝い俺にまで届く。気が付けば奴は刀を抜いていた。それも刃渡り 2 m 近い刀をだ。
その事実に俺は驚愕したが、一瞬で冷静さを取り戻し、コートからスプレー缶を取り出す。
刀を持っている相手なら、鉄使いとの戦闘と要領は同じだ。まずは腐食ガスで得物を錆させ破壊する。そして戦闘力を著しく下げてから搦め手で殺す。
さっきの不意の一撃も、
俺は落ち着きを取り戻し、腐食ガスを奴目掛けて散布する。周囲がガス煙で覆われるほどの量だ。もしガスを避けようと距離を取ってもそれはそれで好都合。逃走の時間稼ぎになるため有難い。
俺はガスを散布後、スプレー缶を投げ捨てて、そのまま背を向けて走り去ろうとした。だが・・・
ー月の呼吸 捌ノ型 月龍輪尾ー
「うおっ!!??」
俺の背後に数多の斬撃が通り過ぎる。振り返れば、奴は何事もなかったかのように刀を薙ぎ払っていた。俺は予想だにしなかった事態に驚愕する。
あのガスは、風車使い*1のバイクや、鉄使いの日本刀ですら、一瞬で腐食させ破壊した代物だ。
耐腐食性に優れた金属でもない限り、一瞬で錆びて強度を失うはず・・・
それなのになぜ奴の刀は錆びない!?
あの刀はセラミックとかの別の非金属素材でできてたりすんのか!?
「逃がさぬ・・・」
「っ!!」
奴の声を聞いて思わず全身に怖気が走る。俺は死に者狂いで森の中を逃げ回った。途中で何度も目くらましの煙幕を焚きながら。
通常であれば、俺の速力と、この視界の悪さ、そして毒の臭気によって、追跡などできるはずもなかった。ところが・・・
ー月の呼吸 玖ノ型 降り月・連面ー
「がっ!!?? なんでっ・・・!!!」
奴は的確に俺の後を追い、無数の斬撃の雨を打ち下ろしてくる。周囲の木の枝が、細切れにされ、周囲に飛び散って舞う。
(足の速さならともかく!! なんでそんなに正確に俺を追跡できるんだ!? 煙幕で視界も嗅覚も機能しないはずだ!! なんで・・・!!!)
煙幕の向こうに奴の影がうっすらと見えて、俺は背筋が凍った。奴の影は正確に俺に正対したまま追跡し距離を縮めていることを理解してしまったからだ。
まるで、煙幕の先に居る俺を正確に見据えているかのように。
まさかサーモグラフィーの要領で、視界が悪くても熱源感知で俺の位置を補足しているのか!?
俺はその可能性を疑って、可燃性ガスも同時に巻き、着火して辺りを熱源で埋め尽くす。
そうして更に走り続けるも、奴が意にも介さず追い上げてくる気配を感じた。
なら音で追跡して来ているのか!? だとしたら、音響弾をあたりに巻けば、耳がマヒして俺の足音を探知できないはずだ。
そう思い、念のためと現代から持ってきていた数少ないスタングレネードを落としながら走り続ける。
甲高い音が森に鳴り響く中、俺は逃走を続ける。しかし、やがて奴の足音が迫るのを否が応でも聞き取ってしまった。もう相当距離を縮められている。
(クソ!! 一体どうなってやがる!? 視界が透けて見えてるとでもいうのか!!?? じゃなきゃ、この煙幕が焚かれる中、正確無比に俺の後ろをついて来れるはずがねぇ!!!)
最後の可能性・・・血鬼術の類を想定したが、だとしたらお手上げだ。俺にはそれを無効化する手段なんてない。
俺がどれだけ逃げ回ろうと、奴はどこまでも追ってくるだろう。俺を殺すか、日が昇るまで。
俺は全集中の呼吸なんていう体力にバフがかかる技能なんて習得しちゃいない。毒薬で足は速くなっても、体力には限界がある。日の出まで逃げれるなんて到底思えない。
(考えろ!! 残された手を!! 正面から戦おうと思うな!!)
俺はさっきあいつの攻撃を受けて実感してしまった。まともに受ければ全身バラバラにされる。距離を取る以外に避けようがない攻撃だった。
加えて、足で逃げ切るのも難しい。奴の探知能力を妨害する手段が他にないからだ。そうなると奴を物理的に足止めする必要がある。
(そうなると考えられる手は・・・っな!!)
ー月の呼吸 拾ノ型 穿面斬・蘿月ー
夥しい数の斬撃を渦のようにまとった旋盤状の攻撃が、俺の背に迫りくる。
俺は
「よくぞ躱した・・・だが・・・」
奴の声が聞こえるほどの距離まで接近を許してしまった。俺は慌てて枝から枝へ飛び移りながら、奴の周囲の樹木に次々とアンプルを打ち込んでいく。
「・・・!! これは・・・!!」
やがて奴の周囲の樹木がメキメキと音を立てて急成長し、奴を閉じ込める樹木の監獄が出来上がる。
「ハアッ・・・ハアッ・・・まさか・・・植木モリモリ君が役に立つとはな・・・上弦の壱が出て来た時は死ぬかと思ったが・・・森の中での遭遇で逆に命拾いしたぜ・・・」
俺が周囲の樹木に打ち込んだのは、俺が開発した植物の成長促進剤だ。市販の促進剤をベースに魔改造した代物だが、鳴子と戦った時みたく意外と役に立つ場面は多い。
本来毒使いは暗殺や罠が本命だ。森のような開けた場所では毒ガスはすぐに霧散してしまうため使えなかったりする。加えて毒針の類も接近しなければ使用が難しい。
そのため、森の中というのは、毒使いにとってはかなり不利な戦場なのだ。それを補うために俺が開発したのが、植物の成長促進剤である植木モリモリ君だ。
下呂家現当主である俺のおばあちゃんなら、毒花毒草を操作することができるから、森での戦いは0辛で済むんだが、俺にはそんな芸当はできねぇ。結果、植木モリモリ君は俺の苦肉の策とも言える。
ともあれ、これで上弦の壱の足止めができるはずだ。俺はこれで漸く逃げ切ることができると安堵のため息をついた。
いくら上弦の壱とは言え、流石に世界最大サイズのセコイア顔負けクラスに急成長した樹林の檻を、刀で切断して破れるはずがない。
仮に破れたとしても、その間に多少の時間は稼げるはずで・・・
ー月の呼吸 拾肆ノ型 兇変・天満纎月ー
俺がそう思ったのも束の間、視界すべてに飽和するかのような斬撃が台風のように吹きすさび、あたり一帯が根こそぎ薙ぎ払われる。
俺が作った樹木の檻は、直径 10 m 近い木が折り重なって出来ていたはずだ。それを一瞬で切り払い伐採されるなんて夢にも思っていなかった。
巨大な樹木が次々に倒れ、周囲の山々に地鳴りが響き渡る。周囲に砕かれた木の欠片や枝葉、そして土埃が舞い上がる。
そして暫く経った後、俺は木の幹に寄りかかって地に腰を下ろしたまま、血反吐を吐いて動けずにいた。
「む・・・無茶苦茶過ぎんだろ・・・」
俺は力なくそう呟く。目を開くと、眼前には着物に袴姿の鬼が物言わず立って見下ろしていた。
「ふむ・・・随分堪えたがここまで・・・呼吸も使えない身でありながら・・・よく逃げ続けたものだ・・・見事・・・」
どういう訳か、目の前の上弦の鬼はそんな風に感心する素振りをしている。俺はそれに答えることもできない。頭も強打したし、血も流し過ぎている。
「私の技を初見で回避できるその反応速度・・・柱の中の痣者であったとしてもそうはいるまい・・・驚嘆する他なし・・・」
俺は何とかしてその場を立ちあがるが、ふらついてしまう。こんな状態では、戦うことも逃げることもできないだろう。
「最期に・・・何か言い残すことはあるか?」
奴はそんなことを俺に聞いてくる。武士の情けとかいう奴なのだろうか。鬼になってる癖に、そんなものを持ち合わせたところで一体何の意味があるのだろうか・・・
俺はそんなつまらないことを思い浮かべながら、力なく笑う。喉から乾いた声しか出なかった。
「死ぬ前に・・・結婚したかったな・・・マジで。」
「・・・・・・そうか・・・・・・」
俺は木に寄りかかり、観念して目を瞑る。
あー・・・死んだな。まさか大正時代にタイムスリップした挙句、鬼なんて訳のわからねぇモンに殺されるとは思いもしなかった。
俺が死んだら、アカリがおばあちゃんに無理矢理好きでもない奴と結婚させられるのか。
折角大切な人と出会えたってのに・・・代わりに俺が結婚して毒使いを継いでやるって言ったのに・・・不甲斐ない兄貴で申し訳ねぇ・・・
婚活も少しずつ軌道に乗って、姫川、嬉野、嵐山、赤倉、氷見、潮と連絡先まで交換できたのに・・・たまに会えるくらいには仲深められたってのにな・・・
別れも言わず音信不通になったら・・・あいつらどう思うんだろうな・・・
トシキ*2や繋*3にも迷惑かけるよな。俺がいなくなったらあいつらが俺の仕事の埋め合わせすんのかな。そいつはマジで申し訳ねぇ・・・
城崎も散々俺なんかのために婚活に協力してくれたのに、結局全部無駄にしちまった。
あいつが今まで掛けてくれた時間を・・・あいつの気持ちを・・・全部無駄にしたまま死んじまうのか・・・
しかもあいつをこの時代に取り残したまま先に死ぬとか・・・俺って最低のクズ人間じゃねぇか・・・
「終わりだ・・・」
上弦の壱が刀を掲げた。
しかしその瞬間、周囲に花のような香りが充満した。奴が動揺し動きを止めた後、俺は脱力したまま何者かの肩に担がれ、その場からみるみる離れていく。
「っ!!??」
上弦の壱は、まるで俺を見失ったかのように辺りをキョロキョロと首を振って周囲を探し回っていた。
加えて奴は刀を振り回し、周囲の樹木を片っ端から薙ぎ払っていた。
「ふう・・・奴の間合いの範囲外まで離れていなかったら、今のに巻き込まれてバラバラになってましたよ。もうこのような無茶なお願いは勘弁して頂けませんか?」
「しかし、危険を冒した価値はありました。このまま安全な場所まで離れましょう。」
「・・・誰だ・・・アンタら・・・」
どうやら俺を助けたのは二人組の男女のようだった。
俺は傍を並走して移動する和服の女性に、かすれるような声で問いかける。するとその女性は優しく微笑んだ。
「私は・・・鬼ですが、医者でもあり、あの男、鬼舞辻を抹殺したいと思っている珠世という者です。どうかあの男を滅ぼすために、貴方の血の力を貸して頂けませんか? 下呂ヒカルさん。」
続く
珠世さん登場です。愈史郎の血鬼術は本当に万能ですね。まんまと下呂君に逃げられて兄上にはご愁傷様としか言えないです。
なぜ珠世さんが刀鍛冶の里に来ていたのかは今後の話で補完する予定です。数話後になると思いますが、お待ちいただければ幸いです。