ただ、見ていた。
『やだ、やだぁ!! やめてぇ!!』
『痛いよ、ママァ!!』
『いやぁ!! やぁああ!!』
膝を抱え、腕の隙間から、部屋の隅で誰かが虐げられるのを、見ていた。
『──────』
この孤児院では、職員が法だ。
暴力は当たり前。逆らえば食事はなく、外にだって出してもらえない。子供に似合わない敬語と歪な笑顔を獲得した者だけが、泥水のような恩恵にあずかれる地獄。
そんな中で、神威はただ虐げられる家族たちを見ていた。
気配の消し方も知らないし、攻撃を防ぐ術もなかったが、彼はただ一つ、耳が良かったのだ。
『───』
職員の投げたおもちゃの流れ弾が飛んできた。
神威は反射的に首を傾けて避ける。目ではとらえられなかったけれど、耳で察知していた。
事前に危機を察知して、回避して、回避できない暴力は大人しく受け入れる。
それがこの孤児院の生き残り方で、それ以外の時は───ヘッドフォンを付けた。
『───♪』
世界を嫌いにならないために、彼は音楽を聴いた。
音楽に逃げている時だけは、世界をの全てがどうでもよかった。脳に流れ込む電子音だけが世界の全てだった。
『いやぁああああッ!!』『なんで、なんでぇ!!』『痛い痛い痛い!!』
音楽に音色が加わる。
あまり心地いい物ではなかったが、最早環境音としか受け入れなくなっていた。
ただ、一つ───
『た■■てぇ!!!』
その、救いを求める言葉だけは、強いノイズとなって心臓を締め付けていた。
分かってるのだ。
神威には、特別な力がある。
だから誰かを救える力があって、それを使えば、もしかしたらこの地獄を破壊できるかもしれないって。
このクソッタレな世界を、希望に満ち溢れた世界に変えられるかもしれないって。
でも、布団の中でぼんやりとそれを願い、朝起きた時には霧散して、また端で音楽を聴き続ける。
繰り返す毎日。
何度も願っているのに、体は動かない。
───性根が腐っているのだ。
救おうとする意志は、あくまでも大衆正義に則った義務みたいなもので。
本心じゃあ、どうでもいいと思ってる。
その二つは相反する物だけれど、同居してしまうのだ。
(クズめ)
自虐して、笑って、決意して、それでも端で膝を抱えて。
自分を呪って、無力さを受け入れて、死体のように過ごしていて。
そうするしかないと思っていた。
それでいいのだと、思いたかった。
けれど。
『───動くな、銀狼隊”戦闘部”だ!! この施設には児童虐待の容疑がかかっている!!』
逃げ続けたら、幸運にも救われてしまったのだ。
■
訪れた隊員は、愛染輝夜と名乗った。
彼、あるいは彼女は、神威のことをずっと気にかけてくれた。
何度も助けられ、何度もフォローされた。
孤児院が検挙され行き場に困っていた神威に、月桜学園の関連施設への移動の手続きをしてくれたり、プライベートなのに様子を尋ねに来てくれたり。
『辛い目にあったんだ。今はゆっくり休め』
男性の愛染先生、黒輝夜先生は、大きな手で頭を撫でてくれた。
『困ったら言ってね! 沢山癒してあげる!』
女性の愛染先生、白輝夜先生は、胸に抱き留めてくれた。
それがどれほどの幸運か、神威はよく理解している。
同時に、こう思うのだ。
───なぜ、俺がこんなに幸せでいられるんだ?
神威は、救われるべきではないクズだ。
力があったのに動かず、怠惰に惰性を貪ったのだから。本当はもっと救われる子たちがいたはずなのだ。
死んだ子もいる。
後遺症が残った子も、四肢が欠けた子だって。その子たちのほうがよっぽど幸せになるべきで、神威は言い換えれば───傍観者という名の、加害者だったのに。
『───』
神威は感じていた。
本当は、輝夜や助けてくれる大人たちの手を振り払うべきだと。それが報いだと。
でも、彼にはそれを振り払う強さすらなかった。
惰性を貪り、殻を破る度胸すら持ち合わせていなかった。
だから今度は世界を好きにならないように───ヘッドフォンを付けたのだ。
■
転んだ子供を助けた。
その姿が、孤児院の子供と重なって、つい手を伸ばしてしまった。
くりくりとした瞳。
それが、記憶と重なって。
『ごっ、ごめんなさいッ!! 許して!!』
つい叫んでしまった。
ぽかんとしていた子供が泣きだして、母親に突き飛ばされる。どうやら、転んだ事も含めて神威のせいだと思っているらしい。
『───この人でなし! 私の子になんて事するの!!』
『ごめんなさい……』
『どっか行きなさい!! 近寄らないで!!』
『ごめん、なさい……』
足取りはおぼろげに、神威は去っていく。
確信があった。
やはり自分は、どうしようもない最低の屑だ。
たった一つ、何か行動を起こそうとしただけでこれだ。
悪の道に落ちる事も、全の道を歩む事も出来ない。クソの役にも立たない、つまらなく、意味のない人生。
なら、死ぬべきか。
生きることをやめるべきか。
薬にも毒にもなれないのなら、そんな人生は意味がない。
中途半端が、最も罪なのだ。
『……変わらなきゃ』
口から出たのは、消極的な覚悟。
『変わらなきゃ、いけない』
でもそれは、何かを夢見た訳でも、自分が情けないからでもない。
ただ、お世話になった人たちに、犠牲になった子供たちに、申し訳が立たないからだ。
誰かの人生を穢す事はしたくない。
嫌われたくない。
せめて、マイナスでいたくない。
『……銀狼隊』
そんな時に見たのが、銀狼隊の募集だった。
異種族・異能者とそうでない人たちの平和のために戦い、誰かの笑顔を守る、うってつけの組織。
倍率は数十倍で、特に戦闘部は合格者が例年十人を下回るほど厳しいという。
ここに入れたら、少しはマシな自分に変われるだろうか。
それとも、くだらない理由で志願する自分には、そのチャンスすら訪れないのだろうか。
『……決めた』
神威は、チラシを握った。
『──銀狼隊に入れなければ、死のう』
これで最後だ。
これでもう、苦しむ事は最後にしよう。
悲しみも嬉しさも全て音に塞いで、消えてしまおう。
ただ、願わくば。
何か一つだけ、そこに自分の意志を乗せるのだとすれば。
『なら……』
どうしようもないクズが、這い上がれるのなら。
何か一つ、この人生に誇れる物が生まれるのなら。
『───どうしようもない性根をへし折って、誰かを救えるいい人になりたい』
嗚咽のようなそれは、音楽に消えなかった。