推せば命の華が咲く―Vチューバーデスゲームモノ― 作:夢野ベル子
カチャリ、と。まるで錆びついた枷が外れるような、乾いた軽い音がした。
ほんの数瞬前までハルの首を締め付け、死の恐怖を絶えず意識させていた銀色の首輪が、断ち切られた過去の残骸のように、音もなく床に落ちた。
解放された首筋には、ひりつくような痛みと共に、くっきりと、生々しい赤い痕が残っている。それは物理的な傷跡であると同時に、決して消えることのない、この悪夢のような日々の記憶が刻み込まれた
ハルは、しばらくの間、まるで時間の流れから取り残された人形のように、その場に立ち尽くしていた。
終わったのだ。悪夢は。
降り注いでいたはずの、息もできないほどの絶望の豪雨は、いつの間にか止んでいる。しかし、雲が晴れ、青空が広がることはなかった。重く、鈍色の雲が、心を覆い尽くしている。勝利の味など、どこにもしない。
仲間たちの声が、もう聞こえない。
いつも穏やかで、みんなを包み込んでくれたアキの優しい声音も。
太陽みたいに明るくて、時にうるさいくらいに響いたナツのけたたましい笑い声も。
静かで、けれど芯のある、フユの落ち着いた呟きも……もう、この世界のどこを探しても、二度と聞くことはできない。
床には、フユの亡骸が、まるで眠るように、しかし永遠に目覚めることなく冷たくなって横たわっている。その瞳は、もう何も映さない。硬質な決意を宿していた光は消え、ただ虚空を見つめている。
その隣には、小さなナツの亡骸。最期の呪詛を吐き出した唇は、無念を物語るように固く結ばれ、見開かれた瞳には、拭いきれない恐怖と憎悪の色が凍り付いている。
そして、アキの亡骸は、少し離れた彼女自身の部屋のベッドの上で、シーツに包まれ、永遠の眠りについている。あの優しい笑顔は、もう見られない。
モダンで、美しくデザインされたはずのこのロッジは、今や色とりどりの花が嵐によって無残に散らされた後の、静かで、物悲しく、そしておぞましい死の気配に満ちた墓標となっていた。
「……あ……ああ……うぅ……うわあああああっ……!」
抑えきれなくなった感情が、ついに堰を切ったように、嗚咽となって漏れ出した。
それはもはや人間の泣き声ではなく、傷つき、群れからはぐれた獣が、夜の闇に向かって上げる遠吠えにも似た、魂からの慟哭だった。
ハルはその場に崩れ落ち、冷たい床に手をついた。まるで砕け散った硝子の破片のように、バラバラになった心をかき集めるように抱きしめ、ただ、ただ泣いた。
アキさん、ナツ、フユ……消え入りそうな声で仲間の名前を呼び、ごめんなさい、と許しを請い、どうして、と理由を問い、そしてまた、届くはずのない名前を呼ぶ。
声が嗄れ、喉が焼け付くように痛み、涙も涸れ果てて、ただひくひくとしゃくりあげるだけになるまで、彼女は泣き続けた。
それは、あまりにも早く、あまりにも理不尽に失われた命への、心からの追悼だった。
それは、彼女たちの死の上に自らの生があるという、耐え難い事実に打ちのめされた、生き残ってしまったことへの、終わりのない贖罪だった。
そして、それは、あまりにも重く、残酷な現実から、ほんの一瞬だけでも目を背けるための、最後の、無力な抵抗だったのかもしれない。
どれほどの時間が、そうして流れたのだろうか。意識が朦朧とし始めた頃、ふと、ポケットに入れていたスマートフォンが、静かに、しかし執拗に震え始めた。
暗いロッジの中で、着信を知らせる画面の光が、まるで弱々しい命の鼓動のように明滅する。
GM(AI)の言葉通り、この隔絶された島と、外の世界との繋がりが回復したのだ。
画面には、瞬く間に夥しい数の通知が流れ込んでくる。ニュース速報、SNSのトレンド、友人からの安否確認、そして、おそらくは無数の好奇の目、非難の声、憶測……。世界の喧騒が、この静謐な(あるいは、死によって静まり返った)島にも、容赦なく押し寄せてくる。
ハルは、ゆっくりと、重い頭を持ち上げた。涙で腫れ上がり、赤くなった瞳で、スマートフォンの冷たい光を見つめる。
連絡しなければ。助けを求めなければ。
そして、伝えなければならない。この場所で、何が起こったのか。散っていった仲間たちのこと。その選択を迫った者の歪んだ悪意を。そして、その選択を、画面の向こうで下し続けた、顔の見えない者たちの沈黙と責任を。
ふと、窓の外に目をやると、東の空が、わずかに白み始めていた。夜明けだ。
長く、暗く、血と涙に塗れた夜が、ようやく終わろうとしている。新しい朝が、静かに訪れようとしていた。
しかし、その柔らかな光は、ハルにとって、必ずしも救いを意味するものではなかった。それは同時に、床に転がる亡骸も、自分の心に残る傷跡も、そしてこれから向き合わなければならない過酷な現実をも、容赦なく照らし出す、残酷な光でもあった。
これから、私は、どうなるのだろう。
このゲームは終わった。けれど、本当の意味での終わりではない。
『穢れ』を世界中に晒し、『罪』――仲間を見捨て、生き残ってしまったという罪――を背負ったVチューバーとして、この先の人生に、私の居場所などあるのだろうか。世間は、私をどう見るのだろう。同情か、好奇か、非難か、あるいは忘却か。
フユは言った。「生かされた意味を忘れるな」と。
「最後の勝者が、本当に『勝者』なのかどうか、その意味を、あなたの目で確かめてくれ」と。
その問いの答えを、この重すぎる生の中で、私は見つけ出すことができるのだろうか。
それでも――。
ハルは、震える脚に、ありったけの意志を込めて力を入れた。ゆっくりと、しかし確かに、立ち上がる。
床に落ちた、あの銀色の首輪を拾い上げ、そっと、強く握りしめる。ひんやりとした金属の感触が、失われた命の重みのように、掌に伝わってきた。
床に横たわるフユとナツの亡骸、そしてアキが眠る部屋の方向を、順番に振り返り、深く、深く、頭を下げた。言葉にならない想いが、胸に込み上げる。
そして、朝日が差し込み始めた窓に向かって、一歩、踏み出した。
震えは、まだ止まらない。
一歩、また一歩。
その足取りは、鉛を引きずるように重く、生まれたての小鹿のように頼りない。
しかし、それは確かに、過去ではなく、未来へと向かう一歩だった。
自らの罪も、消せない穢れも、深い悲しみも、死んでいった仲間たちの想いも、GMの歪んだ願いも、視聴者の下した選択とその結果も……その全てを、この小さな身体に、壊れそうな心に、それでも背負って。
夜明けの、まだ冷たいけれど、確かな光の中へ。
ハルは、歩き始めた。
その先に、何が待っているのか、今はまだ分からない。茨の道かもしれない。深い闇かもしれない。
ただ、生きていくために。
生かされた者として、彼女たちの物語を、そして自分自身の物語を、紡ぎ続けるために。
朝日は、彼女の涙で濡れた頬の跡を、これから歩むべき道を、ただ静かに、平等に照らしていた。
彼女は、選び続ける。
生きていく限り。
あなたが、そうであるように。