大通りの近くは危険だと判断したライは、かなり遠回りにはなるが、中心街の中では比較的閑静な道を進むことにした。
もっとも、その道も中心街でなければ、大通りと呼んで差し支えないほどの幅がある。
人の数は気休め程度に少なくなった。
ライとミルフィの間に会話はない。
基本横並びだったのが、今はミルフィがライの少し後ろを歩く形だ。
時々、ライがミルフィの様子を確認するために振り返る。
しかしミルフィは気を張った表情で、前方の注意をしなさいと、顎で前を指した。
片手はずっと、胸元のリボンに触れている。
その態度に、ライは彼女が本当に貴族かどうかますます疑わしくなった。
これまで五回ほど衛兵を見かけたが、幸い五回とも向こうが気づくより前に察知できた。
彼らの真っ赤な隊服は、夜でも目立つので助かる。
見つけるたびに引き返したり、道を曲がったりして、一度声をかけられた以降、鉢合わせるには至っていない。
手配書はすでに数えきれないほど見た。
道を曲がるたびに視界に入ってくるので、ライはあまり気にならなくなっていた。
バレーヌの至る所に手配書が張られるほど、オルデマイン王国にとって五大貴族の存在は大きい。
時計塔との距離は随分と近づいた。
ライは時計塔を見上げて、現在時刻が八時二十分であることを知る。発車まで四十分だ。
駅までの残りの距離を考えると、やはりぎりぎりである。
ライは少しだけ、歩く速度を速める。
その速度はミルフィにとっては早歩きくらいで、彼女は懸命にライの後を追う。
ライは足音でミルフィがしっかりとついてきているのを確認した。
二人は再び十字路に差し掛かる。
右手に赤い隊服が見えた。二人だ。
それもかなり近い。十メートルほどの距離だ。
ミルフィのリボンを持つ手が震える。
そのうち角でばったり遭遇するかもしれないとは思っていた。
二人の顔に動揺が浮かぶ。
フードを深めに被っているライと、俯きがちに歩くミルフィの表情は衛兵たちには見えなかったが、表情が見えないことが疑いに繋がりかねない。
実際、衛兵の一人がもう一人に耳打ちし、何か話し合っているのがわかった。
ライとミルフィは早歩きで十字路を渡り切ろうとする。
頼むから放っておいてくれと強く願った。
ライは斜め後ろに残った衛兵たちの動向を警戒する。
衛兵たちは少し距離をとってライとミルフィの後ろについてきた。
まずい事態になったと、ライは奥歯を噛み締める。
ミルフィがライの服を摘まんだ。
ライは迷う。
走り出して逃げた方がいいのかと。
衛兵たちはライがイアニッツを殺した犯人だとまだ確信を持っていない。
バレーヌの広さを考えれば、ライのような格好をした人はたくさんいるからだ。
だが、ライたちより少し早い速度で歩いて距離を縮めてきていることから、確実に疑われているとわかる。
話しかけられたら、ごまかすのは難しいだろう。
だからといって、ここで走り出したら自分が黒だと明かすことと同じだ。
衛兵以外にも周囲には人がいる。
ライには賞金がかかっているのだ。
衛兵に追われていたら、彼らもすぐに加勢してくるだろう。
そうなれば逃げ切ることはかなり難しい。
どちらを選んでも上手くいく気がしない。
後ろを歩く衛兵たちとの距離が五メートルほどに縮まった。
ライは覚悟を決める。
──走るしかない。
ごまかすか、走るか、二つの選択肢を吟味した結果、ライは後者の方が逃げられる可能性が高いと判断した。
自分よりやや後方を歩くミルフィに目配せをして合図を出す。
しかしミルフィはライを見ていなかった。
顔を真っ青にして、ライの後ろを見ているようだった。
目を合わせずに、摘まんでいたライの服を引く。
後ろの衛兵との距離はもう三メートルもない。
「おい、しっかりしろ」
ライはこの状況で目を合わせないミルフィに、極度の緊張状態で気が狂ったのかと思い、小さな声を出す。
それでもミルフィは、ライの服を引っ張った。
衛兵たちも何故かその歩みを止めた。
ミルフィの血の気の引いた顔を見たライは、不安になって後ろを振り向く。
「あ」
「騎士団だ。少し話をきかせてもらおう」
ライの前には騎士がいた。
全身を金属で囲い、腰に剣を携えている。
一瞬、ライの思考が停止する。
背後の衛兵に気をとられていて、前方の注意を怠った。
まさか、騎士などという存在感の塊を見過ごすとは。
「青髪青目の男に、長い金髪の少女。副団長が言っていた特徴と合致している。イアニッツ家を襲ったのはお前らだな。目撃証言だと西の住宅街にいるって話だったが、まさか中心街にいるとは。珍しく副団長の指示も外れたな」
ライは状況の打開策を必死に考える。
とりあえず、隠し持っている短剣に手を伸ばした。
「おっと、妙な真似はするんじゃない」
騎士はライの手元に目を光らせ、腰の剣に手をかけた。
背後の衛兵もじりじりと距離を詰めてくる。
周囲の人間の注目も集まってきた。
「大人しく投降しろ」
騎士が剣に手をかけたまま言う。
ライは騎士の言葉を鼻で笑った。
五大貴族を殺したのだ。投降しても待つのは死だけである。
誰が投降などするものか。
ライは懐の短剣を一気に引き抜いて騎士に斬りかかった。
だが、流石はオルデマイン直轄の騎士。
副団長のブラウニーほどではなくとも、慌てずにライの剣を捌いた。
背後で慌てて衛兵が剣を構える。
その行動から、ライは衛兵の実力は問題ないと判断する。
しかし、目の前の騎士は甘くない。
先ほどの対応から、武の技量はライに勝るだろうことは容易に察せられた。
さらにこちらには戦えないミルフィがいる。
状況は絶望的だ。
「無駄な抵抗はやめろ。醜いぞ」
「黙れ」
「衛兵、そこの少女をとらえろ」
騎士は冷静だった。
実力の足りない衛兵に足を引っ張らせず、彼らでも十分に対応できる仕事を与える。
衛兵の一人がミルフィの腕を掴む。
すぐにもう一人が後ろに回って、彼女を完全に拘束してしまった。
「やめて! 離して!」
「ミルフィ!」
「諦めろ。衛兵、その少女を詰所につれていけ」
騎士の指示に従って、衛兵はミルフィをどこかへとつれていく。
ミルフィも必死に抵抗するが、少女と大人の男二人の力など、最初から比べることすらできなかった。
ミルフィが抵抗むなしく引きずられていく。
ライはその様子を眺めることしかできなかった。
『いいか、その手を離すんじゃないぞ』
唯一言葉を交わした衛兵の声がフラッシュバックする。
『痛っ!』
『悪いがここで足踏みしてる場合じゃない』
振り払われた手を触るミルフィの表情を思い出す。
『わかった、お前を外に連れ出そう。ついてこい』
『いいの?』
『お仲間の頼みだから仕方ない』
その時の彼女はどんな顔をしていたか。
『私を殺すの?』
『ああ』
『そう』
その時の彼女は、達観して見えた。年齢に見合わない精神を持つ少女だと思った。
だが、その時の彼女はやはり怯えていた。取り繕っていただけで、子供らしく震えていなかったか。思い出せ。たった二日しか知らない彼女のことを。
『ごめんなさい、ありがとう』
──そう言った彼女は泣いていたではないか。
「やめろォォォオオ!」
ライの腹から大きな声が出る。それは叫びというよりも悲鳴に近かった。
だがライにはどうすることもできない。
騎士が淡々と己の隙を伺っている。
ミルフィはライの方へ必死に手を伸ばそうともがいていた。
乱れる金髪に隠れた橙の目が、はっきりと自分に助けを求めていた。
ライの悲鳴は反響して長く続き、肺の空気をすべて出し尽くすまで消えなかった。
衛兵がミルフィを連れていく。その足取りには止まる気配がない。
そのまま彼らはミルフィを引きずって十字路を曲がった。
ライの視界からミルフィの姿が消えた。
十字路を曲がる直前になんとか片手だけ拘束を逃れたミルフィが、己に手を伸ばしていたのを見た。
ライは奥歯を食いしばる。
ミルフィはもう、助けられない。
「お前も大人しくお縄につけ」
騎士は油断なく剣を構え、ライを見据える。
ライにはその構えには隙がないように思えた。
「もう一本の短剣でどうにかなると考えているなら、それは無駄だ」
不意打ちのためにまだ見せていなかった二本目の短剣の存在を言い当てられる。
昨日ブラウニーに対して使ったせいで、露見しているのは当然だった。
ライは懐に隠し持つもう一つの短剣を掴んだ。
二本の短剣を構えて目を伏せる。騎士は怪訝そうな顔をした。
「上等だ」
ライの瞳に激情が宿る。
その青い瞳は、濁りが消え、美しく澄んでいた。
ライは騎士に左手の短剣で斬りかかる。
騎士は構えた剣で上手くいなしたあと、返しの斬撃を放つ。
咄嗟に右手の短剣で受けようとするが、両手で剣を握る騎士の攻撃に、片手の短剣で受けきるのは困難だった。
なんとか防ぐことには成功したが、右手に持つ短剣が宙を舞う。
ライは構わずに、左手の短剣で相手の肩を突いた。
ライなりに無駄を削ぎ落した素早い反撃だ。
騎士の反応が遅れる。
ライの短剣は騎士の纏う金属の鎧に突き刺さる。
貫通するように全力で突いた。金属の鎧とはいっても、動きやすさ重視の薄っぺらい装甲にすぎない。
実際、短剣は鎧を貫いた。騎士の肩に血がにじむ。
だが、それだけだ。貫通したとはいえ、肉に刺さった部分は浅い。
ライの力量ではこれが精いっぱいだった。
騎士が苦痛の声をあげるが、しっかりと立っており、倒れる気配もない。
しかしそれで十分だ。
ライは騎士のひるんだ隙に短剣から手を離して横を抜け、走り出した。
武器を失ったが、突破することに成功する。
「待て!」
騎士が大声をあげる。すぐにライのあとを追った。
しかし、いくら身軽な鎧だからといって、金属を纏う騎士の足よりライの足のほうが速い。
「そいつがイアニッツ家を襲った犯人だ! 捉えろ! 懸賞金も出る!」
「向かってくる奴は容赦なく殺すぞ!」
騎士が追いつけないと悟ってか、周りの人間に向かって叫ぶ。
市民が色めき立ち、ライの進路に立ちふさがったが、ライが威圧するとすぐに道を開けた。
目の前で騎士が怪我を負わされた相手に、勇敢に立ち向かう人間はいなかったらしい。
怪我をしてまで止める、という覚悟はないようだ。
ライは通りを走り抜ける。悩んだ末、大金を諦めきれなかった市民が後を追う。
目の前に騒ぎをききつけてやってきた新たな衛兵が立ちふさがった。
腰の引けた構えを見て、ライは好機と見てその衛兵に飛び掛かる。
慌てて剣を振る衛兵。
ライはその斬撃をぎりぎりで交わそうとしたが、頬にあたってしまう。
ざっくりと頬が切れた。激痛が走り、血が滴る。口内まで貫通したかもしれない。
だが、ライの目的は達成された。
ライの拳が衛兵の剣を持つ手を打ち、剣を手放させることに成功する。
すぐさまその剣を拾い、ライは再び走り出した。
武器を手にしたことで、ライを追う市民はいなくなった。
しかし続々と衛兵がやってくる。
その中に騎士が一人もいないところをみると、エクレアが上手くやっているようだ。
ライは周辺の地図を思い浮かべ、衛兵を撒く手段はないか考える。
一度どこかに身を潜めたい。
そこでライは、現在所有者がいない完全な空き家状態の建物が近くにあることを思い出した。
ライは本来人が通ることを想定されていない、建物の狭い隙間を走り抜ける。
中心街に路地裏がほとんどないといっても、並び立つ建物は存在する。
その建物の間は道と呼べるものではなく、隙間といった表現が正しいのだが、スラム街で貧しく過ごしていたため、戦うわりに痩せているライならなんとか通れるのだ。
正面から誰か来たら逃げるのは不可能な上、そもそもそんなところに侵入する姿を見られたら怪しい人間確定であるため、ミルフィといる時は使わなかった手段だ。
隙間道を全力で走り、ライは必死に追いかけてくる衛兵をなんとか撒きつつあった。
振り返っても視界から衛兵の姿が消えたタイミングで、ライは目的の建物についた。
自分を追う衛兵の声が聞こえる。
ライは建物の窓を開けて中に侵入した。
以前になにかあったら使おうと考え、開錠しておいたのだ。
内装は一か月前とほとんど変わらない。
ライはイアニッツ家から武器の設計図を盗み出すという無茶な依頼の一つ前に受けていた、まだ記憶に新しい馬鹿な依頼を思い出していた。
二日でロイズ商会の商会長を暗殺しろという、馬鹿な依頼を。
その時のロイズ商会の建物がここだ。
商会長が殺されて空き家となったこの建物は、万が一の安全地帯の役割を担っている。
そのうち誰かが建物を購入して役割を果たさなくなるだろうが、暗殺から一月ではまだ誰も動き出していない。
きっと衛兵が己を探す声だろう、遠くから何者かの叫ぶような声が聞こえる。
ライは窓をそっと閉めて息をひそめた。遠くの声がくぐもる。
首筋をつたう汗の感触が気持ち悪い。
くぐもった声が次第に近づいてきて、その内容が判別できるほどのものになる。
あっちへ行っただとか、いいや逆だとか混乱しているようだ。
約一分の間、身じろぎ一つせずにライは気配を消すことに努めた。
近づいていた声が少しずつ遠くへ行く。
ライは息を吐き、額ににじんでいた汗を乱暴に拭った。
思い出したかのように頬に鋭い痛みが走る。
確認したところ、口内まで貫通はしていないが、血が流々と溢れ出す。
一息ついたことで脳が痛みを思い出したようだ。
しかし、耐えられない痛みではない。
騎士ではなく衛兵に傷を負わされるとは、なんとも自分らしいとライは思った。
目の下から口元まで縦一線に切れた頬の傷は、まるでライが泣いているように存在した。
ズキリと痛み、意識が一瞬白む。その空白の向こう側に手を伸ばす少女が映った。
「くそッ!」
ライはすぐに己への怒りを爆発させた。
力任せに壁を殴る。鈍い音が室内に響き、嫌な余韻がライの耳を通過した。
思い出すのは連れ去られたミルフィのことだ。
彼女は懸命に抵抗しながらも、なすすべなく衛兵に引きずられていった。
最後まで自分に助けを求めていたのに、ライは何もできなかった。
ライは拳を震わせる。今からではどうすることもできない。
室内に飾られた質素な時計が、八時四十分を指している。
列車の出発まであと二十分。もうミルフィを助け出す時間は残っていない。
──よかったじゃないかと、ライの中の黒い部分が顔を出す。
捕まった以上、ミルフィの口からライの情報が露呈するのは仕方ない。
だが、お荷物を背負って国から逃げるよりかはましじゃないか。
ライは無理やり自分を欺いて、心的損傷を防ごうとしていた。
そうだそうだと、黒い自分に別の自分が賛同している。
見方を変えれば状況は改善された。邪魔な少女は消えた。
「ははは」
ライは笑った。
これならうまくいくじゃないか。
「ははははは」
ライは笑っていた。息の続く限り笑っていた。
「ははははははは」
駅に向かってもギリギリなのだ。
時間的に、ミルフィを助けるのは不可能だ。
「はははは、はははは」
助けたい気持ちもないわけではないが、こうなったら仕方ない。
自分は大義名分を得たのだ。
「ははははははは、はははは」
しかし人の脳はそう都合よく騙されてはくれない。
「ははは、は、はは……」
頬を伝う感触が、血が流れる感触でないことくらい、ライは気づいていた。