部屋に反響する時計の音が、列車の発車時刻までの残り時間を残酷に刻んでいく。
力なくうなだれたライは、よろよろと顔を上げた。
時刻は八時四十三分。先ほど確認した時から三分しか経過していない。
そのわずかな時間でライは落ち着きを取り戻していた。
落ち込んでいたとはいっても、やはりミルフィは知り合ったばかりの他人なのだ。
一度激情を吐き出してしまえば、長く続くものではない。
所詮は知り合ったばかりの少女を奪われただけのこと。
この時間のない状況においては、その程度三分もあれば頭から振り払えてしまう。
三分前と違い、これはライが傷つかないための心的な防御反応ではない。
心が折れかけてもなお生きようともがく、愚かな生存本能だ。
ミルフィが助からなくても自分だけはという、醜い本性だ。
ライ自身、それに気づいている。
すでに冷静な部分がこれからどうするかを考えていた。
ライはそんな自分に嫌気がさした。
それでも身体は勝手に動き、部屋の中の衣服を漁って変装を開始する。
今ならまだ発車時刻に間に合う。
ライは己を嘲笑した。
生きる理由はなくとも死にたいわけではないという低俗な信念が、ライの身体をバレーヌ駅へと向かわせる。
着替え終えてすぐに窓から商会を出る。
幸いにも周囲には人がいなく、衛兵は見当違いの方向へと向かったようだ。
フード付きの服からスーツに着替えたライは、特徴的な青髪を隠すためにシルクハットをかぶった。
動きやすさが失われるが、ばれないことが大事だと考えた結果だ。
斬られた頬はいまだに痛むが、布を押し当てて止血をした。
少しの衝撃ですぐにまた出血するだろうが、時間がない。応急処置だ。
ふと、窓に反射した己の姿がエクレアの姿に似ていることに気づく。
スーツにシルクハット。彼女のお気に入りの服装そっくりだ。
少々不愉快な気持ちが芽生えるものの、仕方ないと無理やり自分を納得させた。
エクレアと違ってネクタイはしていない。それにそもそも彼女はスーツではなくタキシードだ。
その違いにライは心を落ち着ける。
外に出たライは狭い隙間道を抜けて通りに出た。
視界に衛兵が二人映るが、ライは努めて表情に出さないようにした。
行き交う人々が不安そうな顔をしている。
ライが騎士に正体を暴かれるまでの明るい中心街の姿とは程遠い。
すぐにここから離れようと、中心街の外へと早歩きで向かう人が多いようだ。
ライはその流れに逆らうように時計塔の方へ急ぐ。
何度もミルフィの顔が頭をよぎるが、もうどうしようもない。
そのたびに奥歯を噛み締めて後悔を断ち切った。
フード姿の男を探して目を光らせる衛兵の横を無造作に通り過ぎる。
ライに緊張はなくなっていた。
衛兵に慣れたからだとか、時間がなくて焦っているからだとか、そういうわけではない。
これはライのただの不注意だ。
心の奥底で、気づかれたらその時はその時だと自暴自棄の気配が顔を出している。
逃げるために変装した。それなのに捕まってもいいと思っている。
明らかに矛盾をはらんでいる。ライの心身は疲弊しきっていた。
その証拠に、己が抱える矛盾にライ自身も気づいていないようだった。
無警戒にまっすぐ道を進む。
しかしその無警戒さのおかげか、不審な素振りを見せず、衛兵も特にライだと気づくことはなかった。
バレーヌ駅がはっきりと見えてくる。
立派な装飾が施されたバレーヌ駅は、高い建物で溢れる中心街でも存在感が違う。
傍にそびえる時計塔と相まって、まるで王城のようだ。
実際のオルデマインの王城は北側にあるが、何も知らない人が見ると王城と勘違いするかもしれない。
皆一度は時計塔を見上げるように、一度はバレーヌ駅に圧倒される。
ライはそれをなんとなく眺めながら足を進める。
衛兵がまた一人、ライと気づかずに横を通り過ぎる。
ミルフィは今頃詰所にいるのだろうか。
既にイアニッツ家かチャーリントン家の手にわたっていてもおかしくない。
奥歯を強く噛んだ。頭を振る。
ライは駅へとどんどん近づいていく。
ここまで近づくと、時計塔は見上げるだけで首が痛い。
限界まで上を見上げると、シルクハットが頭から落ちそうになった。
反射的に手で押さえ、なんとか青髪の露出を防ぐ。
時刻は八時五十二分。あと八分。
足取りが心なしか重いが、バレーヌ駅はもうすぐそこだ。
そしてとうとう気づかれることなく、ライはバレーヌ駅の正面に立った。
躊躇いなく足を踏み入れる。
駅内部は予想より人が少なく、騒々しさは外の方が勝っていた。
赤い隊服が目に入るが、一瞥しただけでライは特に反応しなかった。
バレーヌ駅の構造は頭に入っている。
ライは迷うことなく貨物列車がとまっている場所に向かう。
一応周囲を確認してから駅員以外立ち入り禁止の表示を無視して突き進む。
ここまでくると辺りに人がいなくなった。
貨物列車は数分もすれば発車するので、点検だの確認だのは終わったのだろう。
細い通路を抜けると広い空間に出た。
三方は壁、残りの一方は外へと開けており、線路が先へと続いている。
ライのいる反対側の壁にも同様に空間への出入口が見られた。
その空間の真ん中に大きな貨物列車が堂々と鎮座している。
列車の先頭部に続くように八個の直方体、コンテナが連なっていた。
遠くに駅員の姿が見え、ライは急いでコンテナへと駆けた。
足音を鳴らさないように気をつかう。
コンテナまでたどり着き、すぐに駅員から見えないようにコンテナの裏側に回る。
しかしその直前、駅員がライの方を見た気がした。
「チッ」
一つ舌打ちをする。もう少し様子を見てから行動した方がよかったか。
己の不用心さを嘆く。
確信があるわけではない。気のせいだったかもしれない。
だが歩くにしてはやや速いコツコツという足音がそれを否定している。
物事はそう都合よくいくものではない。やはり見られていたようだ。
ライは近づいてくる音に耳を研ぎ澄ませた。
ここでコンテナの中に隠れるのは悪手だ。
コンテナを開けるには扉についた太い金属製の棒をずらして開錠しなければならない。
今開錠しようとすれば、その音に駅員が気づくだろう。
コンテナを壁として利用して駅員の死角に入り続けるしかない。
「そこに誰かいるのか」
駅員がコンテナを回り込んでくる。
ライは気配を察知し、コンテナを壁にして反対側に移動した。
鼓動が早まるのを感じる。止血した頬から再び血が滲み出した。
駅員が唸る声がする。ライは声を押し殺した。
もう一度反対側に回る足音が聞こえ、それに合わせてライも動く。
その時、遠くから声がした。
「もうすぐ発車時刻のはずですが、そんなところで何をしているんですか」
一瞬、自分のことを言われているのかと心臓が跳ねたが、どうやらそうではないらしい。
コンテナの向こう側、駅員がいる方の出入口に誰かいるようだ。
声は駅員にかけられたものだった。
よかったと一安心するライ。
駅員の注意が出入口にいる何者かに向いている隙にコンテナの中に隠れてしまえばいい。
まだ運に見放されていなかったようだ。
しかし安堵するのも束の間、その声がどこかで聞いたことがあるものだと脳が訴える。
ライは全身から冷汗が噴き出すのを感じた。頬の傷が痛む。
ライからは見えないが、駅員が声に振り返った。
「え、何故あなたがこんなところに! ブラウニー・エルンノーツ様!」
瞬間、ライの顔が絶望に染まる。
ライでは太刀打ちできない程優れた力量を持つ男、ブラウニーがそこにいた。
何故、どうして、ありえないとライの脳が理解を拒絶する。
頬から垂れた血が一滴、静かに地面に落ちた。
そのライの様子を嘲笑うかのように、大剣を携えた若き騎士団副団長は、驚いた様子の駅員を見て──
「私の使命を果たしに来ただけですよ」
──爽やかに笑ってみせるのだった。