ビター・スウィート・ビターシティ   作:パンダ2世

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諦観の少女

「え、何故あなたがこんなところに! ブラウニー・エルンノーツ様!」

「私の使命を果たしに来ただけですよ」

 

 コンテナの向こう側にいる駅員が、空間の入り口に立っているだろう若き騎士団副団長に声をかける。

 

 ライは絶望に顔を染めた。

 

 最後の最期、あと一歩というところにきて、最大の敵が現れたのだ。

 この場に彼が姿を見せたということは、ライの狙いが筒抜けになっていたのだろう。

 

 ブラウニーと戦って勝利する可能性はゼロだ。ライでは手も足も出ないと、イアニッツ家での接触で確信した。

 

 ならば見つからないことにかけて隠れるか。しかしそれも上手くはいかないだろう。

 ブラウニーほどの男は、鼠一匹見逃しはしない。

 その若さで騎士団副団長を任されるブラウニーは、そんな愚かな失敗を繰り返さない。

 コンテナ越しのこの状況でさえ、ブラウニーはライの存在に気づいている節があった。

 

 ライはシルクハットを深く被って顔を下げた。

 コンテナに背中を預け、力なくもたれかかる。

 

 ライに抵抗する気力はもはやなくなった。

 もう十分やったのだ。大健闘ではないか。

 ライは絶望を正面から受け入れた。

 

 ミルフィを見捨て、自分だけでも助かろうとここまで逃げてきたライにはお似合いの終わり方だ。

 

 たったったっ、と微かに聞こえる足音は駅員のものだろうか、それともブラウニーのものだろうか。

 どっちでもいいとライは思った。

 そもそもライのような小物がここまで逃げてこられたのが奇跡なのだ。

 奇跡は何度も起こらないから奇跡と呼べる。

 

 ライの肩に小さな手が触れる。

 駅員かブラウニーか、どちらの手にせよやけに華奢な手だと感じた。

 

「実はこの貨物列車には、キベルに住むとある貴族への支援物資が積まれているんです。定刻通りに出発していただかないと少々困ったことになるんですよ」

「え? そんな話は聞いておりませんが……」

 

 コンテナ越しに相変わらずブラウニーたちの声が聞こえる。

 ライの肩に置かれる手が、ゆさゆさと身体を揺らした。

 

 ライは違和感に気づいた。声はまだ向こうから聞こえている。

 ではこの手は一体誰の手なのか。

 

「極秘の話なんですよ。ですから心配でこうして見に来てしまったんです」

「は、はあ……」

 

 ライはのっそりと顔を上げた。

 そしてそこにいるはずのない少女の姿を見て、ライは目を見開いた。

 はじめ、ライは幻覚を見ているのかと思った。

 

 だってその少女はつい先ほど衛兵に連れていかれたのだ。

 助けることができず、諦めたばかりなのだ。

 いるはずがない。そんな都合の良い奇跡はありえない。

 

 ライの瞳に、長い金髪が、橙の目が、黄色の安っぽいリボンが、少女が映った。

 

「ミルっ……」

 

 名前を呼ぼうとしたところで、ミルフィの右手がライの口を塞ぐ。

 

 左手の人差し指を立て、口元によせた。口を横に開いて首を振る。

 大きい声を出すなと身振りで伝えていた。

 

 その姿は紛れもなくミルフィ・イアニッツだった。

 

 ライは思考がついていかず、状況に混乱した。

 

 ミルフィがコンテナの鍵である太い金属製の棒に触れた。

 そのままスライドさせればコンテナが開く。

 咄嗟にライはミルフィの腕を掴んだ。

 コンテナを開けば、それなりの音が鳴る。

 その音をブラウニーが聞き逃すはずがない。

 

 何がどうしてミルフィがこの場にいるのかはわからないが、ブラウニーに気づかれるのだけは阻止しなければならない。

 ライは混乱する頭でそれだけは理解していた。

 

「駄目だ、気づかれる」

 

 ミルフィの耳元に顔を寄せて、ライは小さな声を出した。

 

 ライは状況に置いて行かれている脳で必死に次に取るべき選択肢を考える。

 ブラウニーに斬りかかるか。先ほど無駄だと結論付けたではないか。

 奴らが去るまで身を潜めるか。ばれるに決まっている。

 この場から逃げ出すか。どこにも逃げ場はないだろう。外は敵だらけだ。

 

 ライは顔を顰め、頭を掻きむしった。シルクハットが地面に落ちる。

 

「大丈夫よ」

 

 ミルフィがそっとライの胸に触れた。

 小さな手の感触が、速まる鼓動を落ち着ける。

 

 何が大丈夫だというのか。状況はずっと絶望的だ。

 大丈夫な時なんて一瞬もない。

 ライは険しい顔でミルフィを見て、そして彼女の目に涙が浮かぶのを見た。

 

「大丈夫。私を信じて」

 

 鈴のようにか細い声が、明瞭に鼓膜を打つ。

 ミルフィを握るライの手から無意識に力が抜けた。

 ミルフィの真っ白な手が金属の棒を握る。

 ガチャン、と金属音が響いた。

 

「ん? 何か音がしませんでしたか?」

「いいえ、私は何も聞こえませんでしたよ。それよりもうすぐ出発の時刻ですよ」

「でも今たしかに……」

「わかりました。ならば私が確認しましょう」

 

 駅員とブラウニーの会話が聞こえる。

 

 空いたコンテナの中にミルフィがするりと入り、ライも続く。

 扉を閉めると、コンテナの中を闇が包み込んだ。

 ミルフィはぎゅっとライの手を握りしめた。

 私を信じてという言葉が、繋がれた手の握る強さに現れていた。

 

 ブラウニーが近づいてくる音がする。

 コンテナを回って扉の側に歩いてくる。

 その規則的な足音が、ライの鼓動を再び速める。

 

 足音が止まった。

 おそらく今、ブラウニーは扉の前に立っているのだろう。

 

 ライはミルフィの手を引き、彼女を背後に隠した。

 ガチャっという音とともに光が差し込んでくる。

 

 切り揃えられた焦茶の短髪と、エメラルドブルーの澄んだ瞳が光の奥から顔を出す。

 

 ライにできることはほとんどない。

 

 最期の抵抗だといわんばかりに精一杯ブラウニーのことを睨めつけた。

 目と目が合う。青の視線がぶつかり合う。

 

 ライはミルフィの手をしっかりと握った。

 ブラウニーが口を開く。

 何を言うのかと一瞬考えるが、そんなことに意味はない。

 どんな言葉が飛び出そうと、結末は変わらないのだ。

 

 ライはブラウニーを睨む。

 そして、ブラウニーはふっと口を緩ませて笑った。

 

「今日だけは見逃してあげるよ」

「……は? どういう意味……」

 

 ガチャン、とコンテナの扉が閉まる。足音が遠のいていく。

 何もかもが理解できなかった。

 ただ一つ理解できたのは、自分たちが助かったということだけ。

 

「私を信じてと言ったでしょう」

 

 ミルフィを握る手が、彼女の両手にそっと包まれる。

 暗闇の中で表情は見えないが、ライはミルフィがはにかんだのがわかった。

 

 まもなくして、コンテナが激しく揺れた。

 貨物列車が出発したのだ。

 バレーヌの中心に聳え立つ時計塔は、ちょうど九時を指していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミルフィ・イアニッツは物心ついた時から能力者(アノマリスト)だった。

 

 自分の物だと認識した物を、価値の劣る別の物と交換することができる能力。

 ないよりはあった方がいいが、なくても特に支障をきたさない中途半端な能力。

 ミルフィは自分の能力が役に立たないものだと思っていた。

 

 しかし、彼女の家族やガレット・チャーリントンはそうは思わなかったらしい。

 能力を完全に制御しようと、彼らはミルフィを地下に幽閉した。

 そして、自分たちの言うことをきくように様々な手段でミルフィを追い詰めた。

 

 それもそうだろう。彼女の能力を利用しようとするのなら、価値あるものをミルフィが「これは自分の物だ」と認識できるように一度譲渡しなければならないのだ。

 それを他の事に使われてしまっては、意味がなくなる。

 

 彼らが今後交換に使いたい物の中には、一般人では一生働いても手に入れられないような莫大な財産がある。

 ミルフィが自分たちの言う通りに交換を実行しなければ、それが一瞬で消え去る可能性があるのだ。

 

 莫大な財を自分の物だと認識するには、正式な手続きを経ての譲渡が必須だとわかった。

 いきなり大金をポンと渡されても、これを自分の物だと認識するのは難しい。

 世の中にはそれが可能な人間もいるのだろうが、ミルフィはとりわけ慎重な性格だった。

 明確に自分の物だと証明できなければ、彼女は能力を使えなかった。

 

 だから彼らはミルフィを閉じ込め、逆らえないようにした。

 正式な手続きを踏んだあと、ミルフィが大金を懐にしまってしまったら、彼らにはもうどうしようもない。

 

「お前は道具だ。意思を持ってはいけない」

 

 地下室に訪れるたびに彼らはミルフィにそう言い聞かせた。

 だが、彼らには誤算があった。

 

 それは、地下に幽閉された時点で、ミルフィには確かな意思が存在していたこと。そして、彼女は聡明な子供であったことだ。

 

 女性版ブラウニーと言ってもいいほど、幼いうちに人格が完成されていた。

 ブラウニーと違う点は、彼が人間の鏡のような『完璧な大人』の人格であったのに対して、ミルフィは何かと悲観的な『現実の大人』の人格であった点だ。

 それにブラウニーとは違って、多少の子供らしさも残していた。

 

 だからミルフィは抵抗は無駄だと理解していたし、一人で逃げ出すことは不可能だということも悟っていた。

 

 しかし諦めきれない子供な部分がライと邂逅した時に前面に出てきた。

 彼女の見かけによらず大人な人格は、ライと一緒に逃げてもすぐに見つかると結論付けていたのに、ミルフィは駄々をこねた。

 

 そうして彼女は無事に屋敷から脱出することに成功した。

 

 ミルフィはライという男に感謝していた。

 本当に短い付き合いだが、彼との掛け合いは気楽で心地よいものだったし、何より自分を殺さずにあの地下室から連れ出してくれたことで、信頼を寄せていた。

 たとえそれが、ミルフィがライの選択肢を奪った上で成り立った出来事だとしてもだ。

 

 彼女はまだ十四歳なのだ。人の温もりを知らないで、一人で生きていくには幼すぎた。

 ミルフィにできた初めて頼れる大人、それがライだった。

 

 次にミルフィが目を覚ますと、知らない銀髪の女性が視界に映った。

 

 彼女はミルフィにおはようとだけ言って、隣の部屋に移動した。

 ミルフィは身体に残る疲労を感じ、彼女を追わずにその場で横になった。

 笑顔が胡散臭いが、女性からは悪意が感じられなかったからだ。

 

 それからしばらくして、隣の部屋が騒々しくなったので様子を見に行くと、ライが目を覚ましていた。

 ほっとするのも束の間、ライはミルフィの出自をぴたりと言い当てた。

 あの状況で自分がイアニッツの子だと理解できるだろうか。

 

 ミルフィが不思議に思うと、先ほどの女性がにやりと笑った。

 どうやらこの女性はミルフィのことを事前に知っていたらしい。

 ミルフィは銀髪の女性への警戒を強めた。

 ミルフィのことを知っているのは、彼女の能力を利用しようとしていたイアニッツ家とチャーリントン家の者しかいないからだ。

 

 名前を聞けば、女性はエクレアというらしい。

 

 ミルフィはその名前に聞き覚えがあった。

 たしか、ヨーデライ家の長男を殺害した女がそんな名前だったはずだ。

 父やガレットが心中複雑そうな顔をして名前を呟いていたのを覚えている。

 

 ライの様子を確認したところ、彼はエクレアの正体を知らないようであった。

 先ほど述べた通り、ミルフィは『現実の大人』のような人格を持っている。

 自分の不利益になりそうなことは思っても口走らない。

 

 エクレアがどんなに凶悪な殺人鬼でも、今は彼女たちに頼らざるを得ないのだ。

 余計なことを言わないように気をつけた。

 ただ、彼女が子供であることに変わりはないため、態度の節々にエクレアの不信感が現れていたことには、本人は気づいていない。

 

 今後どう動いていくかについての話し合いは、方針がすぐに決まった。

 貨物列車を使って逃げるというものだ。

 そうと決まれば、あとは細かく擦り合わせていくだけだ。

 騎士団を攪乱するといってエクレアは部屋を出ていった。

 

 ミルフィにはそれが嘘にしか聞こえなかったが、実際どうなのかは彼女の知るところではない。

 日没に行動を開始すると決まり、それまでの時間、ライは傷を癒すことに専念するようだ。

 全身打撲痕だらけのライは見ていて痛々しかったが、動けないわけではないらしかった。

 強がってはいるのだろうが、軽く走ったり跳ねたりはできるようだった。

 

「本当に大丈夫なの」

「ああ」

 

 ミルフィは身体を伸ばしているライに声をかけた。

 日没まではまだまだ時間がある。

 

「そんなに痛そうな顔で言われても説得力がないわよ」

「もともとこういう顔つきなんだ」

「そう。致命的ね」

「冗談だぞ」

 

 ミルフィの言葉にライが真顔で言い返す。

 二人とも余裕がありそうなやり取りに見えるが、実際はそんなものではない。

 必死に緊張と恐怖をごまかしているだけだ。

 

「なあミルフィ」

「なによ」

「その破れたドレス、さっさと着替えたらどうだ」

「変態」

「なんでそうなるんだ」

「着替えを見たいのかと思って」

「お前の着替えを見るよりは、雲をぼーっと眺めてる方が何倍も楽しそうだから安心しろ」

「私が貴族なこと忘れてないかしら」

「ない権力は振れない」

 

 ライはそう言って隣の部屋に移動した。

 今のうちに着替えておけという意味だろう。

 

 部屋の隅にはエクレアが用意した市民の服が置いてあった。

 ミルフィに貴族としての矜持があれば着るのを躊躇っただろうが、あいにく彼女にはそんなものはない。普通に袖を通した。

 胸元の安っぽい黄色のリボンが邪魔だったが、服と一体型の物らしく、取り外せなかった。

 

「着替えたわよ。雲を眺めるのは楽しかった?」

「思った十倍つまらなかった」

「なんで実際の十倍面白いと考えていたのか理解に苦しむわね」

 

 隣の部屋に声をかけると、ライはぎこちない動きで戻ってきた。まだ体が痛むらしい。

 ミルフィはリボンに触れ、変装の出来はどうかとライに確認する。

 

「完璧だ」

「そうでしょう」

「貧乏人みたいでよく似合ってる」

「怒るわよ」

「誉め言葉だ」

 

 他愛のない会話で、緊張を緩和しつつ日没までの時間を埋める。

 ──そうしていよいよその時はきた。

 

「行くぞ」

「…………ええ」

 

 二人はボロボロの小屋から外へ出た。

 目指すは天高くそびえる時計塔の下、バレーヌ駅だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スラム街を抜け、バレーヌ駅のある中心街までは特に問題なく来られた。

 

 途中で何枚も手配書を見かけたが、幸い誰にもばれることはなかった。

 この調子で進めば、呆気なく駅にたどり着けるのではないかと一筋の希望が見えてくる。

 

 しかし、現実はそう甘くはない。

 中心街に踏み入ってすぐに、立て続けに衛兵と遭遇する。

 ミルフィは不安でいっぱいになった。

 彼女は今までほとんどを地下室で過ごしてきたのだ。

 外界のストレスと緊張や恐怖が合わさって、凄まじい速度で精神がすり減っていく。

 

 ミルフィは平静を装うのに限界がやってきていた。

 ただ一人の頼れる大人であるライの手を離したくない。

 離すとどこかに置いて行かれそうな気がするから。

 

「痛っ!」

「悪いがここで足踏みしてる場合じゃない」

「…………」

 

 握った手がライによって振り払われる。

 ミルフィは小さな絶望とともに理解した。

 

 たしかにライは頼りになるが、なんでもできるわけではない。

 今のは自分が悪かったのだ。

 

「ごめんなさい。でも、もうちょっと優しくできなかったのかしら」

「すまん。気遣う余裕があればそうしてる。行くぞ」

 

 だがしかし、先へと進んでいくライの背中に手を伸ばしてしまうのは、ミルフィが悪いのだろうか。

 それは幼い彼女にとって、あまりに酷な話だ。

 ライはそんなミルフィの姿に気づかずに、前へと歩みを進める。

 ミルフィは歯を食いしばってその背中を懸命に追いかけた。

 

 順調といっていいのかはわからないが、二人は少しずつバレーヌ駅に近づいている。

 

 衛兵を見かける回数が増えてきた。手配書にいたってはもはや数えきれない。

 極限の緊張状態の中、ミルフィはライの後ろにぴったりとくっついていた。

 

 ミルフィにはもはや顔を上げる余裕がない。

 ライの足音を頼りについていくだけだ。

 神様なんて信じてはいないが、ミルフィが何度祈ったかわからない。

 このまま無事に駅に着いて、と。

 しかし神様は薄情な奴だった。

 

「騎士団だ。少し話をきかせてもらおう」

 

 ミルフィは何度神様に裏切られればいいのだろうか。

 二人の前に騎士が立ちふさがる。背後には二人の衛兵だ。

 騎士は冷静で、流石はこの国の治安を守っているだけはある。

 ミルフィは何もできずに、騎士の指示の下に動いた衛兵に捕らえられた。

 

 必死に抵抗して、ライに向かって手を伸ばすも、それは無駄な足掻きだった。

 声を張り上げるも効果などあるはずがなく、無情にも衛兵に引きずられていく。

 

「やめろォォォオオ!」

 

 ライの叫びがミルフィの耳に届いた。

 心の奥底で、その叫びを聞けて安堵している自分がいることにミルフィは気づいた。

 

 手を振り払われてから、ライがいつ自分を見捨てるかわからないという不安が芽生えていたのだ。

 必死にライへと手を伸ばし、助けてと、少女は救いを求める。

 それでも神様はどこまでもミルフィのことが嫌いなようだった。

 

 衛兵に騎士団の詰所へと引きずられていく。

 十字路を曲がり、ミルフィとライは互いの存在を認識できなくなった。

 ミルフィはライが視界から消えた瞬間、こと切れたように抵抗をやめた。

 

 もう、自分は助からない。それがわかったのだ。

 橙の瞳にわずかばかりに残っていた生気は消え失せ、深い闇を映し出した。

 最後の一滴だといわんばかりに涙がぽろりと零れ落ち、パレットの染みのように乾ききった光のない橙だけが後に残った。

 

 ミルフィは短い夢を見ていたのだ。

 たった二日間だけの、初めて人生に希望が差し込んだ夢。

 そろそろ暗い現実へと目覚める時間だ。つまりはそういうことだろう。

 

「こんばんは、衛兵の方々。その少女は私が預かりましょう」

「えっ、ブラウニー様じゃないですか!」

「どうしてここへ!」

「その少女に少し用事があるんですよ。捕まえてくれてありがとうございます」

 

 どうやら現実の迎えに死神が直々に出張ってきたようだ。

 

 衛兵からブラウニーにミルフィが手渡される。

 衛兵はしきりにブラウニーに頭を下げて、ライと騎士の戦う元へ戻っていった。

 ミルフィはふっと鼻で笑い、現実を受け入れる。

 自棄になったと言い換えてもいい。

 

「現実のお迎えがこうも早いとは、神様は夢すら見させてくれないのかしら」

「貴方の言う意味は分かりかねますが、今の私は夢の使徒といったところですよ」

「え?」

「夢に連れ戻してあげます。貴方を彼の元に送り届けましょう。それ以降の私は夢の使徒ではないのでお気をつけを」

「あなた、何を言って……」

「今だけ見逃して助けて差し上げますと言っているのですよ」

 

 そういってブラウニーはミルフィを連れて、駅へと向かった。

 何故だかわからないが、どうやら夢の時間はまだ続くらしい。

 それに気づいたミルフィの瞳には、新しく瑞々しい橙色の絵具が一滴落とされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで一体どういうことなんだ、ミルフィ」

「私もよくわからないわ。ブラウニーが私を助けてくれた。わかるのはそれだけ」

「ブラウニー・エルンノーツ……奴は何を考えてるんだ」

 

 ガタゴトと揺れる貨物列車のコンテナの中で、ライはミルフィに尋ねた。

 首都バレーヌから第三都市キベルまでは列車をもってしてもまだまだ時間がかかる。

 真っ暗な中、二人は身を寄せ合って互いの存在を確認し合っていた。

 

「衛兵に詰所へと連れていかれている途中でブラウニーと会ったの。衛兵から彼に引き渡された私は、その時すべてを諦めていたわ。私はもう助からないという風にね。でも彼は私を助けてあげると、そう言ったの。今回限りだとは言っていたけれど」

「さっきも奴は今日だけは見逃すと言っていた」

「味方だと考えるのは、やめておいた方がよさそうね」

「……ああ。俺たちのあずかり知らぬところで、奴が俺たちを助けるメリットが存在していた。だから今回だけは見逃した……次もそうだとは限らない」

 

 ブラウニーの行動の理由が二人には全く見当がつかない。

 ブラウニーは騎士団副団長で、ライたちは犯罪者だ。

 よほどのことがないと、ブラウニーが二人を見逃すなんてありえない。

 ただ、ライには確かな予感があった。

 

「…………エクレア」

「え?」

「あいつが裏で何かをしたのかもしれない」

「…………そうね」

 

 ミルフィは眉を寄せる。

 彼女にとってエクレアは依然として警戒対象であることに変わりはない。

 暗闇が覆い隠した中で表情を厳しくするミルフィの様子にライは気づかなかった。

 想像上でさえずっと胡散臭い笑顔を浮かべるエクレアに、一応の感謝を抱く。

 ガタンガタンと小刻みに揺れるコンテナ。

 ライはそっと目を閉じ、その不規則な音の連続に耳を傾けた。

 

「なんだかどっと疲れた気分だ」

「この二日は何かに追われっぱなしだったものね」

 

 昨日はイアニッツ家の屋敷に潜入してミルフィと出会い、私兵に追われた。あの時川に飛び込まなければ、今は牢屋の中か、それ以前に首が繋がっていないかもしれない。

 そして今日は五大貴族殺しの指名手配となり、市民から騎士まであらゆる人々に追い回された。体は既にぼろぼろだ。

 

 疲労を意識すると、斬られた頬がずきりと痛んだ。

 その痛みが、ミルフィを助けられなかった先刻の後悔を思い出させた。

 

「…………ミルフィ」

「何よ」

「悪かった、助けられなくて」

 

 暗闇の中のライは沈痛な面持ちで、ミルフィに声をかける。

 少しの沈黙が降り立った。

 

「……なんであなたが謝るの。別にいいわよ。こうして無事だったんだから」

「でも、助けられなかったのは事実だ」

 

 ミルフィが今ここにいるのはブラウニーのおかげだ。

 ライのおかげではない。ライは彼女を助けられなかった。

 

「……あなた、やっぱり向いてないわ」

「なんでそうなる」

「だってそうでしょう。あなたと私はほとんど他人みたいなものよ。あなたにとって私の存在は害以外の何物でもない。そんな私を助けられなくて、あなたは罪悪感を覚えている」

「それは……」

「あなたは私を見捨てる方が都合が良かったはず。でもあなたは私をすぐに見捨てようとしなかった」

「それは違う。俺はお前を……」

「衛兵に連れていかれた時、私の名前を叫んでいたじゃない。それで十分よ」

「…………」

 

 ミルフィの優しい声が、コンテナの中で反響してライの耳でゆっくりと消える。

 ライは何も言葉を紡ぐことができなかった。

 後悔はした。絶望もした。だが、結局自分はミルフィを見捨てた。

 ライの中に巣くう罪悪感は消えることはない。

 

 しかし、ミルフィはライを責めないという。

 無論、厄介ごとを招き入れたのはミルフィだ。

 取り返しのつかない事態に発展させたのもミルフィだ。

 それでも、ライには彼女を助ける責任があった。

 

「人間なんて適当でいいのよ。私は今あなたの傍にいる。それだけ見ていればいいの」

 

 ミルフィの手がライの背中にそっと触れた。

 たしかにミルフィはここにいる。

 ミルフィの言いたいことが背中越しにじんわりと伝わってきた。

 

「そもそもあなたは適当な人間でしょう。昨日地下室で会った時に理性より感情を優先して私を生かしたんだから。その時点で私はあなたを責めることはできないの。まあ私が太った男だったら、あなたは考えずに私を殺していたかもだけれど。自分の見た目に感謝ね」

「…………」

「つまり私が何を言いたいのかというと…………あれ何だったかしら」

「…………おい」

「……とにかく、適当でいいって話よ。あなたが謝る必要はない。むしろ私の方が何倍もあなたに謝らないといけないわ」

「……そうだな。よくよく考えてみれば、悪いのは全部お前のせいだった」

「全部は言い過ぎよ」

「適当でいいって話だろ」

 

 ミルフィが大げさにため息を吐く音が聞こえる。それからくすりと笑う気配。

 ライもつられて笑った。頬が痛むが、大して気にならなかった。

 

 バレーヌから離れるという目標は達成したが、まだまだ問題は山積みだ。

 第三都市キベルに着いてからも二人は逃げ続けなければならない。

 それでも二人を乗せて、ガタンガタンと貨物列車は走り続ける。

 夜を裂いて進む列車の先には、朝が待っているのだろうか。

 

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