イアニッツ家の屋敷は広大ではあるが、構造は比較的単純である。
それ故に見通しがよく、誰にも見つからずに移動するのは骨が折れる。
敷地を囲うように高い塀が建っており、よじ登って脱出することは極めて難しい。
となると、残る手は正面の門から出るしかない。
「他の出口はないのか? いくらなんでも正面から出ていくのはリスクが高すぎる」
「ないわ」
「これだけ広いのに入り口が一つしかないのか。流石に不便すぎないか」
「裏口があれば付け入られる隙ができるもの」
私たちみたいな人にね、と少女は続ける。
「五大貴族は狙う者が多いのだから仕方ないじゃない。イアニッツ家だけじゃなく、他の家もこんなものよ」
「詳しいんだな」
「あなたよりは」
「それは朗報だ」
ライと金髪の少女は現在、東の区画の真ん中に存在する一室に身を潜めていた。
見張りが手薄になっているとはいえ、ゼロというわけではない。
二人は細心の注意を払いながら行動を続けていた。
「ここまでは上手くばれずに来られたが、このまま屋敷の中を進むのは危険すぎる。どこかに外に出られる窓があればいいんだが……」
ライは格子が付いた窓を睨む。
地下室を探しているときに気づいたが、屋敷の窓すべてに格子がついており、窓からの脱出は不可能だ。
屋敷を出るには区画の端にある出入口を使うしかない。
地下室があった部屋からここまでで、出口まであと半分といったところだ。
「いいか、この調子で進みたいところだが、出口には見張りが立っている可能性が高い。俺が入ったときは隙をついてなんとかなったが、お前が一緒だと話が変わる。出会いがしらに遭遇なんてことになったら終わりだ」
「ええ、わかっているわ。でも、あそこ以外出口はない。祈るしかないわ」
「神は信じない主義なんだけどな」
「奇遇ね、私もよ」
「そんな気がした」
小声で会話を交えつつも、ライは警戒を怠っていない。
無駄口を叩くのは、お互いに緊張をほぐそうと必死だからだ。
見つかったら終わりという状況の中で、二人を極度の緊張が襲っていた。
「もう少し進んだら俺が様子を探る。見張りがいなかったら合図を出すから、急いでこっちまで来い」
「そのまま置いていかないわよね」
「そしたらお前騒ぐだろ。安心しろ」
そう言ってライは部屋のドアを少し開け、廊下に誰もいないことを確認する。
少女と目を合わせ、一度頷いてからライは部屋を出た。
音を立てないように注意しつつ進む。
そのまま出口付近の部屋まで到達し、一度足を止める。
外の様子を探る。
物音はしない。
しばらく耳を澄ませ、人がいないことを確信し、ライは振り返る。
わずかに部屋から顔を出した少女と目が合った。
ライは右の手のひらを上に向けて指を曲げ、少女に合図を出した。
おそるおそるといった様子で少女が部屋から出てくる。
音を立てないように、それでいて急ぎながら少女がライのもとにやってくる。
あと少し。
ライは安堵のため息をついた。
──その油断がライの判断を遅らせた。
ライの耳が外から誰かがこちらに向かってくる音をとらえた。
それも一人じゃない、二人だ。
背中に冷たいものが走る。
ライは咄嗟に少女に待てと手のひらを正面に出してしまった。
それを見た少女は困惑し、廊下の途中で立ち止まる。
しまった。
そう思った時にはもう遅かった。
位置関係的に、誰かが入ってきてもライの位置は死角になっている。
しかし、少女の姿は丸見えだ。
ここでライがとるべき選択は、少女を急がせて自分の元に来させることだった。
あれほど注意を払っていたのに、肝心な時に咄嗟の判断を誤った。
ライが慌ててこっちに来るように手を動かすが、
「なっ! ミルフィ! どうしてここにお前がいる!」
入ってきた男に少女が見つかる方が先だった。
豪華な服を着た男が、少女を見て叫ぶ。
入ってきた男は二人。片方は高価そうな服に身を包んだ男。おそらく貴族だろう。そしてもう片方はこれまで散々見た見張りの恰好をした男だ。
二人を認識して、すぐさまライは見張りの男に斬りかかった。
倒すなら厄介な方からというのは基本中の基本だ。
完全な不意をついた一撃だ。
見張りの男は防ぐ術もなく倒れる。
しかし、当然貴族らしき男が残ってしまった。
「侵入者だ!」
「チッ!」
ライは舌打ちをして、短剣を男の胸に突き刺した。
戦いの心得がなかったのだろう、男は何も反応できなかった。
そのまま喉を引き裂き、声を封じる。
しかし、間に合わなかった。
騒ぎに気付いた者たちが押し寄せる音がする。
「あっ…………」
呆気にとられている少女の腕を引き、ライは屋敷を飛び出した。
そのまま正面の門を目指して走る。
後ろから兵たちの声がする。
一体何が! と叫ぶのが聞こえる。
追いつかれたらおしまいだ。
「おい、ボケっとしてないでお前も走れ!」
腕を引かれながらいつまでも惚けている少女に声を荒げる。
少女ははっとした様子で、我に返った。
「わかってるわよ! それよりどうするの!」
「このまま正面の入り口まで走る! 向こうはまだ俺たちに気づいてないはずだ!」
無論、正面の入り口にも兵はいる。
しかしこうなったらもう強硬突破しかない。
全力で走り続け、門が見えた。
少女はかなり息を切らしている。
遠目にだが、兵は二人いるように見えた。
厳しいがライの腕でなんとか立ち向かえそうだ。
ライは短剣を握りしめる。
まださっき二人殺した感触が手に残っている。
それを振り払うかのようにライはさらに手に力を込めた。
いよいよ門も目の前だ。
ライは短剣を眼前に構え、兵の顔を見る。
そしてライは気づいた。
「また会いましたね。もうトイレはよろしいのでしょうか」
焦げ茶色の短髪に、エメラルドブルーの澄んだ瞳。
五大貴族の一角にして、オルデマイン王国騎士団副団長。
「ブラウニー・エルンノーツッ」
「ご存じでしたか」
「知らない奴の方が少ないだろッ」
「それもそうですね」
武の化身と呼ばれる男が、門の前に立っていた。
しかし止まるわけにはいかない。
ライは構えた短剣を素早く振り抜き、ブラウニーの首を狙う。
ガキンと金属音が響く。
ライの短剣はブラウニーが抜いた長剣に阻まれた。
一瞬だけ火花が散る。
「私と戦うことはあまりお勧めできませんよ。何をしたかは知りませんが、おとなしく投降するのが身のためです」
「黙ってろ」
ライは懐に隠し持っていた二本目の短剣でその心臓を狙った。
不意をついた一撃だ。
正面からブラウニーに勝てるとは思っていない。
ならば裏の手を使うまで。
目を丸くしたブラウニーを見て、ライは短剣が心臓に突き刺さるのを確信した。
ライの出せる最高速度で短剣が振り抜かれる。
しかしその剣先がブラウニーに触れるまさにその直前で、短剣はその軌道を止めた。
「は?」
「だから言っているでしょう。私と戦うのはお勧めしないと」
微塵も焦った様子を見せずに、ブラウニーは肩をすくめてみせた。
その右手は、短剣を握るライの左腕を握っていた。
短剣が己に刺さる直前に、腕を掴んで動きを止めたのだ。
常人にはとても不可能な技、それをいとも容易く実行してしまう。
これがブラウニー・エルンノーツなのだ。
「さて、これで身動きはとれないでしょう。そちらの少女とともに連行させてもらいますね」
ライは両腕をブラウニーに掴まれてしまった。
振り返ってみると、金髪の少女も兵に捕まっていた。
どうにか手を離そうと身をよじるが、ブラウニーの手はびくともしない。
「暴れないでください。何をしようとこの手は離しませんよ」
「クソッ」
ライはブラウニーを睨みつけた。
そして抵抗を諦め、力を抜いた。
睨みつける視線は外さないまま。
ライのくすんだ髪色と同じ青い視線がブラウニーに突き刺さる。
「そんなに怖い顔をしないでください。睨んでも何も変わりませッ……」
突然、ブラウニーは途中で何かに気づいたかのように黙り込んだ。
ライが特に何かをしたわけではない。
ただ、覚えおけよという意味で睨んでいただけだ。
「いや……でも、まさか……そんなはずはない……だとすると彼女は……?」
ひどく困惑した様子のブラウニー。
彼を見てまた、ライも困惑していた。
一体何が起きたのかわからない。
しかしこれは千載一遇のチャンスであった。
ブラウニーの拘束が少し緩んだのだ。
その一瞬の隙を逃さず、ライは身を捻る。
先ほどまで完全に脱力していたこともあり、突然の力にブラウニーは対応できなかった。
ライは拘束から抜け出すことに成功した。
ブラウニーならばこの程度、簡単に封じ込めると思っていただけに、成功したライがいちばん驚いた。
ライはそのまま身を翻し、少女を拘束していた兵に蹴りかかった。
ブラウニーが抑えているから大丈夫だと油断していた兵は、その蹴りをもろにくらい、少女の拘束をといた。
「逃げるぞ!」
ライは少女の手を掴み、そのまま走り出す。
その間、ブラウニーはなぜか動かなかった。
眉を顰め、ぶつぶつと何かを呟いている。
理由はわからないが、降って湧いた幸運を逃さまいと、二人は全力で駆けた。
無神論者二人の祈りが何かに届いたのかもしれない。
二人は門を抜け、バレーヌの街に飛び出す。
しかし、これで一件落着とはいかない。
あとから追いかけてきた兵がすぐそこまで迫ってきている。
待て、止まれ、と口々に叫ぶ声が徐々に近づいてくる。
「ちょっと、私、そろそろ、限界……」
走りっぱなしで少女の体力もなくなってきたようだ。
このままではまずい。
ライは周囲を見回し、頭を必死に回転させた。
視界の端に、川が映った。
もう、これしかない。
ライは意を決する。
「おいお前」
「なに、よ……」
「死にたくなければしっかり捕まれ」
「え? ちょっとあなた、何を……」
ライは川に向かって走り出す。
少女もライが何をするか悟ったらしく、顔を青ざめた。
「冗談でしょ……?」
「だとよかったな」
二人はそのまま減速することなく走る。
兵の声がすぐ後ろまで来ている。
「止まれ!」
「残念」
だが兵の手がライたちに触れるまさにその瞬間、ライと少女は地面を蹴ってその身を宙に放り出した。
兵たちの怒号がやけにゆっくりと聞こえる。
ライは少女をしっかりと抱え、衝撃に備えた。
数瞬して、全身に強い衝撃が走る。
口を閉じ、水の侵入を防ぐ。
少女もなんとかライに捕まり、離すまいと必死の様子だ。
そうして二人の身体は川の中へと消えていった。
「一体どういうことなんだ、オラン……」
兵たちの叫びの後ろで、ブラウニーが呟く様子を見た者は誰もいなかった──
「ふふ、どうやら君は気づいたようだね、エル」
──遠目に彼を眺め、シルクハットを抑えながら不敵に笑う銀髪の女を除いて。
「さて、幕は上がった。オルデマインを救いたいと願った一人の男の物語。ぜひ特等席で見させてもらおうか。出演料としてそれぐらいは貰わないとね。なあそうだろう、ライ。いやここはあえてこう呼ぶべきかな────」