◇◇◇
あまりに寝苦しくて自然と目が覚める。知らぬうちに荒く息を吐いていた。
背中が気持ち悪い。湿った感触から、どうやら寝汗を掻いていたようだ。
息を整えながら目を開けると、視界に入ってくるのは見慣れない天井。布団から静かに上体を起こし、辺りを見回す。ここは……衛宮家の離れの客間だ。
ん? 土蔵や自分の部屋ならともかく、なんで俺は離れなんかで寝ているんだろうか?
――――ああ、そうだ。今の俺はもうヒトではなく、サーヴァントとして存在しているんだった。一週間が経とうとしている今も、未だにしっかりとした実感が湧いていない。
覚醒しきっていないぼんやりした頭で昨日のことを思い出す。……色々とあって大変だった、というのがまず浮かんでくる。
まず挙がるのが、竹刀とはいえリアと打ち合ったこと。
これは自分がどれだけ動けるのか試しておかなければと思って自分から申し込んだものだったけれど、当たり前だがセイバー……リアは強かった。立ち合いからじりじりと精神力を削られ、意を決して攻め入ればあっけなくかわされる。そして、僅かな隙に容赦なく斬り返される。
事実だけ並べれば衛宮士郎であった頃のそれと変わりないが、格段に上がった身体能力でも同じようにやられるということは、俺はリアの技術に及びもついていないということだ。
振るわれる鋭さも、体捌きの速度も衛宮士郎だった頃に受けた稽古とは違う。あの頃さんざん手を抜いてもらっていたことを身を以って実感した。衛宮士郎の身体能力と技術でサーヴァントに挑む無謀を、サーヴァントと同等の身体能力を得て初めて正しく理解できた。
しかし、我ながらよく直ぐにやられなかったものだと思う。今の破格ともいえる身体能力を持ってしても、互角とは決して言えなかった。渡り合うだけですら神経をすり減らしながらで、まともに戦いになっていたのかも疑問だ。
踏まえて、今俺に足りないのは技術と経験。能力だけでいえば他クラスのサーヴァントを上回っているのだろうけど、このままそれに頼り切っていたなら先は見えている。
今は、兎にも角にもこの身体能力を十二分に使えるだけの鍛錬と、ヒトとは桁違いに大量な魔力の運用練習を欠かさないようにするしかない。
そしてこれはあまり思い出したくもないのだけど、大変だったといえば昨日の風呂だ。
もちろん断った。俺なりに必死に抵抗を試みたんだけど、同じ姿のリアが断らない以上藤ねえの手が緩まることはなく、敢え無く連れ込まれてしまった。
せめて極力目線を向けないように頑張ったけど、それだって限界がある。顔を上げれば藤ねえとリアの裸が目に映るし、俯くとリアと寸分違わない俺の体が視界に入る。
結局数分も経たずにまるで漫画のようなことが起こり、これ幸いにのぼせたと言い訳して逃げ出したのだけれど、そうでなければどうなっていたか。
思い返して湧き上がってくるのは羞恥心よりも罪悪感。藤ねえもリアも女同士だと思って全然気にしなかったのだから尚更だ。
確かに今の俺は男とは罷(まか)り間違っても言える様な姿じゃないけど、中身が伴っているわけじゃないんだ。そう言った意味じゃ女性二人がこちらを気にしないのは当たり前なのだけれど、こちらはそうもいかない。
……それにしてもリアって呼び方、なんだか言いにくくてしょうがない。知り合ったばかりの凛や士郎はともかく、俺はさんざんセイバーって呼んでたからなぁ。
俺が言い出したことなんだけど、実際に呼ばれ続けるとなるとは思ってもいなかった。てっきり第三者専用の偽名になると踏んでいたんだけど、まぁ、『アルト』が『リア』よりはまだいくらか男っぽい名前で良かったとしておくべきか。
ようやく覚醒した頭を振り、洗面台に向かって歩き出す。借りている寝巻きが汗で体にまとわりついて、やっぱり気持ちが悪い。
そういや昨日も結局満足に風呂に入れなかったしな。早めに気がついたから朝食までは時間もあるし、今のうちに入っておこうか。
先に風呂に追い炊きをかけてから着替え用の下着、ブラウスとスカートを取りに部屋へと戻る。
脱衣所へと戻って寝巻きを脱ぎ、視線を極力下げないようにして風呂場に入っていく。
手を浴槽の湯に入れてみるがやっぱりというか、まだぬるい。
先に体を洗い始めることにして、スポンジにボディソープをつけて泡立てて体をこする。ちなみにだけれど、目は瞑っている。
こうして洗うのも初めてじゃない。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら体を洗い終える。
所要時間はおおよそ十五分超。以前なら五分程度で洗い終わっていたのを考えると優に三倍か。
衛宮士郎だった頃はもちろん躊躇なんてせずに体が洗えてたんだけど、そういかなくなった。自分の意思通りに動いてくれるからには間違いなく自分の体と言えるのだけど、同時に借り物でしかないのも確か。何よりもセイバーの体を無碍に扱ったりなんて、俺に出来る筈もない。
それでもまだ最初よりは慣れてきたのか、いくらかは抵抗がなくなってきた。もちろん裸を見ることなんてできないけど、俺からすれば大きな進歩だ。
次いで髪の編み込みを解いてお湯で湿らせ、シャンプーであわ立てる。
こちらもまた一苦労。当たり前だけれど髪の量が段違いに多い。初めの頃はガシガシと以前と変わらないやり方で洗っていたけど、どうにもそれじゃ髪が痛むとのことらしい。
その割には髪質は全く変わりがなかったように思えるのだけれど、元より女性である凛がそう言うなら女性として常識的なことなんだろう。
「……ふぅ」
女であるって、何かと大変だ。
ようやく髪の毛を洗い終わり、タオルで包んで湯船につかる。こうすると髪の毛に潤いを保てるとか言っていたが、それとは関係なく長くて少し邪魔になるからまとめるのに丁度良い。
目を瞑ると体の力と、精神的な疲労が抜けていく錯覚を覚えた。自然と意識が思考に沈んでいく。
なんだか前回と今回の流れが変わってきてしまっている。そのこと自体には大分前から気づいていた。
まず一つに、遠坂凛のサーヴァント――アーチャーである俺が戦闘に出来る状態であること。
衛宮士郎であった時のアーチャーは何を思ったのか、セイバーの太刀をまともに受けていた。来ることがわかっていたから俺は何とか反応できたけど、前回のアーチャーはセイバーにやられて満足に動ける状態じゃなかった。
そしてその後の食事と、話し合い。
些細な問題なのかもしれないけど、それがイリヤと出会う時間の違いに影響したのだろう。以前バーサーカーが襲ってきたのは隣町の坂ではなく、冬木の町の道路だった。
ただ、ここで俺がもしリアにやられていて動けなかったならば、バーサーカーを撃退できなかったかもしれない。単独でも膠着状態に持っていくことはできただろうけど、リアは単純な白兵戦でバーサーカーにダメージを与えることはできない。
魔力供給が充分なら宝具を用いての撃退も可能だろうけど、マスターが士郎である限りリアは魔力不足のままだろうからどちらにしても窮地に陥ることに変わりない。予想外だったけど、俺がいて、リアがいてようやくなんとかなった。
全体的に見ればいい方向に流れが進んでいるのだと思う。戦力的にも以前より充実しているし、士郎がやられることもなくバーサーカーを撃退できた。
桜も衛宮の家にはしばらく来ないようにと言っていたし、あいつが巻き込まれるのは何としても避けたい俺としては助かる。
ただ、少し気になることがある。慎二が完全に士郎の敵に回ったようだ。
前回は表面上だけだったかもしれないが同盟を持ち掛けてきたというのに、今回はそれがなかった。
士郎が慎二の家に呼ばれることはなく、そして柳洞寺の情報もこちらには伝わってきていない。
学校の結界については慎二は否定し、俺はそれを嘘だと知っているが、セイバーの同一体と思われている俺には凛や士郎に伝えることは出来ない。
なんとか慎二を止める方法はないだろうか? 発動する前日に結界の基点になってる魔方陣を潰して回れば足止めは出来ると思ってるんだけど、阻止とまではいかない。邪魔し続けていれば諦めるかもしれないが、果たしてそう上手くいくのか。
なんにせよ、俺が聖杯戦争に召喚されたことが全てに影響を与えているのだろう。
このままうまく立ち回っていけば被害を最小限に留めることができる筈だ。なら、頑張らなきゃな。
――う、なんだかぐらぐらしてきた。のぼせたかな? そろそろ出ないとまずいか。
「おや、アルト。あなたもお風呂ですか?」
「うえ!? リア!?」
リアが風呂場のドアを開けて俺を見ている。服は既に脱いでいて、風呂場に入ってこようとしていた。
浴槽から出ようと立ち上がったところだったんだけど、反射的にお湯に身を沈めた。
「お風呂というものはいいものですね。この時代に召喚されてからすっかり気に入ってしまいました」
「あ、うん。気持ちいいよな」
顔の半分まで浸かって、視線を前方から逸らせない。相槌も、のぼせてぼんやりした頭では気の入っていないものしか返せなかった。
「昨日はどうしたのですか? いきなり鼻血を出したりして」
先の『漫画のようなこと』を実際に口に出され、恥ずかしさで更に頭に血が上るのを自覚する。
随分長いことお湯に浸かっているから、顔はどっちにしろ真っ赤だったろうけど。
「あ、ああ。どうやらお湯に当たったみたいだ」
「ふふ、シロウのような話し方ですね。なかなか似ていますよ」
顔は逸らしているからリアの表情を見ることは出来ないけど、雰囲気から微笑しているのが分かる。
ようやくリアも俺と打ち解けてきた、のだろうか。リアの警戒がいくらか緩められているのは確かだと思うのだけど。
それも、『伝承の相違による人物の分化』という凛の推論を聞いて自分と別の人格だとわかったからだろうか。以前に衛宮士郎の口調でしゃべったときは相当剣呑な目で見られたのが、今は戯言だと思われるに済んでいる。
どうやら感情が昂ると口調が戻ってしまうようので、俺としては今の状況はかなり助かっている。
「ところであの後は何をしていたのですか? 姿が見えなかったようですが」
「この周辺の見回りを。何かあってからでは遅い、ですから」
「そうでしたか」
戻った口調に気づいて、咄嗟にセイバーを真似したがやはり言い慣れず途中で詰まってしまった。
幸いリアは口調についてのそれ以上の追求はせず、俺は話した内容に会得がいった様子で頷いていた。
見回りの件は、建前だ。確かに簡単に見回りもしたけれど時間をかけたわけじゃない。
わざわざ嘘を言ってまで何をしていたのかというと、屋根上で投影魔術の確認をしていたのだ。こればかりは人に見られるわけにはいかなかった。
対象は宝具。ランサーの『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』。
今まで投影したもので、これほどのものは『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』を除いて他にはない。俺が出来て、少しでも戦力に反映し得ることは考える限り投影しかなかった。
神秘の具現といわれる宝具を投影するなんて我ながら無茶だとは思っていたのだけど、どうやら行使自体には問題はなさそうだった。
ただ、やはりというべきなのか『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』を投影するときよりも消費する魔力は格段に増え、精度は格段に下がった。『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を普通に使うよりも消費が少なく済むようなのだけど、しかしこれでは戦闘に耐えられるかどうかも怪しい。
真名開放したら自身の魔力を消費するのかどうかだってわからない。なにせ試しようがない。試したら試したで魔力が集中するのを凛やリアが気づいただろうし、使う相手がいる筈もない。
確認しているのはどうにもならない、それこそ形振り構っていられない状況での選択肢を増やすためのものだ。そんな状況にならないに越したことはないのだけど、俺程度の戦闘技術ではどうしたって難しい。楽観視は出来ない。
確かに、このまま何事もなく俺がただの『アーチャー』であるまま聖杯戦争が終結してくれるのならば、それが一番良い。
実際に必要があって知られるとなれば構わない。確かに心境的には複雑にはなるだろうけれど、俺のことなんてどうでもいい。
ただ衛宮士郎の成れの果てがこんな結末だと、知られたくないだけなんだ。俺の時のようはさせない。そんな未来に辿らせないために、俺はここにいるのだから。
……あ、そうだ。そろそろ朝ご飯、作らなきゃ。もう、たぶん、時間がない。
って、あれ? 体に力が、入ら――
「アルト? どうしたのです?」
セイバーが……いや、リアが近づいてくる。
「な、んでも な――――」
「アルト!?」
大丈夫だと手を振ろうとして、動かず。視界は黒く染まっていった。