Fate/Imitation Saber   作:柚子餅

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6日目②

 

「あっきれた! ただの湯当たりだったなんて!」

 

 気がついたら俺はまたもや離れの布団の上にいた。前回と違ったのは、額には濡れたタオルが置かれ、布団横には洗面器に張られた水が用意されていたことか。

 壁に掛かった丸時計はしっかりと時を刻み、起きた時には既に午前の十時を回っていた。

 

 そうして覚醒して自身の状態を把握する間もなく、傍で書き物をしていた凛にそれからの約一時間、お小言を頂戴しているのだけど……。

 

「お風呂が好きなのはわかったけど、少し加減を知りなさいよね。バーサーカーに襲われても湯当たりして動けません、じゃ目も当てられないわよ」

「すみません」

 

 これについては本当に申し訳ないと言う他になかった。口からは謝罪の言葉しか出てこない。

 訊けば朝食は代わりに士郎が作ってくれたらしいし、ここまで俺を運んでくれたのはリアだという。みんなに迷惑をかけてしまった。

 

 説教を受けているうちに自分がどうなったのかを思い出すことが出来た。どうやらリアが入ってきて風呂から出るに出られなくなった俺はのぼせて、リアの目の前で湯の中に沈んでいったらしい。

 それにしても、サーヴァントものぼせるものなんだな。暑さ寒さを感じ取れるのだからおかしな話ではないけれど……いや、それともセイバーが特殊な立ち位置にいるからだろうか?

 

「遠坂、もうそのへんでいいんじゃないか?」

「士郎には関係ないでしょう! さっさと稽古の続きなりしてきなさいよ」

 

 リアと稽古していたのだろう、タオルで首元の汗を拭いている士郎がいつの間にやら部屋の入り口からこちらを覗き込んでいた。肌に貼られた湿布が痛々しいが、士郎は気にした様子もなく笑っている。

 

「アルト、こんなこと言ってるけど遠坂の奴、かなり心配してたんだぞ。つきっきりで看病していたのも遠坂だしな」

「士郎!」

 

 遠坂が顔を赤らめて士郎に怒鳴り上げる。悪い悪い、と全然悪びれた様子なく士郎は頭を掻いた。

 事実、凛はずっと俺を看ていてくれたんだろう。覚醒した時、額に当てられていたタオルにはまだ冷たさが残っていた。わざわざ俺が宛がわれた部屋で書き物をしていたし、そうでもなければ自分の部屋があるのだからわざわざここでする必要もなかったろう。

 士郎にしても、道場から母屋に移動するならば、離れのこの部屋を通りがかるわけもない。どうやら、わざわざここまで様子を見に来てくれたようだった。

 

 俺はほぼ一人暮らしだったから、調子が悪い時に傍に誰かいない寂しさを知っている。こうして気遣ってもらえることが、どれだけありがたいかよくわかる。

 ……まぁ、今回倒れたのは間違えようなく自業自得なので、嬉しさよりも申し訳なさが先に立つのだけれど。

 

「あ、そうだ。アルト、良かったら夕食の買い物つきあってくれないか? 午後は忙しくなりそうだから早めに行っておきたいんだ」

 

 ふと思い出したように、士郎が俺に声をかけてきた。軽く自己嫌悪に沈んで俯けていた顔を上げると、目前には凛。怪訝な表情を隠そうともしていない。

 

「士郎、なんだってアルトに頼むのよ? リアがいるでしょう」

 

 なんていう凛の疑問ももっともなものだった。確かに同盟を組んでいるとはいえ、あくまで俺は凛のサーヴァント。どこかに出かけるなら自身のサーヴァントであるリアを連れて行くべきではある。

 

「稽古に付き合ってもらって、その上買い物にもっていうんじゃリアが可哀想だ」

「あんたね、何のためのサーヴァントだと思ってるわけ?」

「それとこれとは別問題だろ? ずっと気を詰めっぱなしじゃ疲れるじゃないか」

「……はぁ」

 

 凛はこれ以上言っても無駄だと感じたのか、目を細めた後ため息を一つだけついて追求をやめた。

 

「私は構いませんよ。ちょっと外の風にも当たりたかったところです」

 

 これ幸いと追随するように俺も声を上げた。凛にはリアがいれば襲撃があったとしても問題はないだろう。

 それに心配してくれた凛に対してこういう言い方も失礼だけれど、この様子じゃいつまでお小言に付き合わされるかわかったものじゃない。

 

「――まぁ、アルトがいいっていうなら、リアもいることだし私は構わないけど」

「そっか、ありがとう。それじゃ稽古も終わったし、これから出れるか?」

「ええ。わかりました」

 

 そうと決まったならすぐに着替えないと。あんまり待たせるのも悪いし、俺も早く体を動かしたい。

 布団から立ち上がって、横に畳まれているいつもの私服を手に取る。誰に着替えさせられたのか分からないが、勿論自分で着た覚えのないパジャマのボタンに手を掛けた。

 

「うわわわわわわっ!!! ちょ、ちょっと、アルト!」

「士郎!? どうかしたのですか!?」

 

 士郎が慌てて大声を上げたのは、俺が全てのボタンを外し終わり、上を脱ぎ去ろうとした瞬間だった。咄嗟に周囲に気を張り巡らせ、警戒の構えを取る。

 ……しかし俺が見る限りでは異常が起こった様子はない。それにどうやら慌てているのは士郎だけで、凛には然程動じた様子がないし。

 

「士郎、一体何に」

「アルト! 頼むからこっちに寄って来ないでくれ!!」

「は?」

 

 士郎に駆け寄ろうとするが、声で止められた。そして程なくして気づく。

 士郎が必死に目線を逸らしているのだが、それは俺を視界に入れないようにするためだ。何事かと思ったら、そうだった。セイバーの姿を借りている俺は勿論、女性にしか見えないのだ。そりゃ異性が目の前で服を脱ぎ始めたりしたら慌てて声も上げるか。

 復調したつもりだったけど、前言を撤回させてもらいたい。体は問題ないけれど、頭はしっかりと覚醒してなかったようだった。

 

「お、俺、居間で待ってるから!!」

 

 だだだっ、と足音を残して、顔を真っ赤にした士郎が廊下へと消えた。

 

「アルト、あんたは少し人の目を気にしたほうがいいわね」

「……そうですね。気をつけます」

 

 凛が呆れたように、士郎が走り去った先を眺めて忠告してくる。それに素直に頷いた。

 

 しかし、俺は士郎にも気をつけなきゃいけないのか。俺から見れば士郎は過去の自分でしかないけど、士郎からすれば俺は人よりかなり強いだけの『女の子』として見えているのだろうし。

 はぁ……どうにも自分がどう見られているのか考えると、憂鬱だ。

 

 

 結局居間に向かったのはそれから三十分が経ってからになってだった。

 士郎が居間で待っているだろうに、凛の奴が「どうせ出かけるんだからお洒落でも」といつもとは違う服を持ってきた。

 

 俺の名誉のために言っておくけど、その服を着るのは嫌だった。今までだって、本当はTシャツジーンズで済ませたいところだが、セイバーと同じということでブラウスにスカートを着ている。それが、俺の最大限の譲歩だったんだ。

 だけど、「マスターの私に迷惑掛けて、その上、拒否なんかしないわよね」と、迷惑をかけたことを持ち出されて言われてしまえば、俺がそれを断ることなんて出来る筈がない。

 着替えさせられる間の凛の嬉々とした言葉の端々から推測するに以前から俺に色んな服を着せてみたかったようだけど、思うだけにとどめておいて欲しかった。

 

 さて前置きはもういいだろう。今俺が着ているのは長袖の胸に白で十字が入った赤い服、黒のミニスカート、これまた黒のニーソックス。

 一言で言えば遠坂が着ている服のサイズを小さくしたものだ。加えて、髪の毛も黒いリボンで二つに結ばれている。

 ただ、遠坂のように髪にウェーブがかかってないので同じ髪形のようには見えない。

 

 あまり似合っているとは思えないんだけど、遠坂はそこそこお気に入りの様子である。

 まぁ満足してくれたのならいいのだけど……俺はいつから凛の着せ替え人形になったのだろう?

 

 

 凛が用意しておいた昼食を済ませて、士郎と共に商店街に向かって、二人並んで歩いていく。

 ちなみにここまで来るにももう一悶着あった。昼食時に顔を合わせたリアが、わざわざ俺を買い物に誘った士郎に食って掛かっていた。「何故私ではなく、アルトを連れて行くのですか!」と声を荒らげて。

 ま、確かに他のマスターのサーヴァントを連れて行くってことを考えると非常識なのは士郎。間違いなくリアが正しいのだけれど、それを言った士郎には通用しなかったようだ。

 

 別にリアが行ってくれると言うなら、素直に一緒に行ったらいいと思うんだけどな。

 何か俺と話したいことでもあるのだろうか? 士郎が何を考えているのか俺にもわからなくなってきた。

 

 と、慌てて右手でスカートを押さえる。考え事をしていたからそちらの注意が疎かになっていた。歩くたびに翻りそうになるスカートの裾を気にしていると、どうしても内股になってしまう。というか、このスカート明らかに短すぎるだろ。

 凛はどのような特異な魔術を使って、こんな短いスカートを翻させずに動き回っているんだ。

 

 有体もないことを考えていることに気がついて、思わずため息をついた。曇りがかった空を見上げ、また息を吐く。

 考えてみれば、今俺はとてつもなく情けない姿をしているのかもしれない。親父が俺のこの姿を見たらどう思うだろう。

 

 ……じいさん、あんたから夢を引き継いだ息子は、何故かこんなことになってます。

 

 

 

 

「あ、ところでアルト、リアとはどうだ?」

 

 ぼんやりと商店街に向かって歩いていると、何やら意を決した風にして士郎が話しかけてきた。しかしどうにも要領を得ない質問だったので、少し考えてしまう。

 

「どう、と言われましても。共に暮らしている上で、これといった問題は生まれてはいないと思いますが」

 

 むしろ仮に同盟しているサーヴァント同士であるというのに、打ち解けすぎなところまである。

 俺としては全然構わないんだけど、リアが他サーヴァントに対してここまで踏み込ませているというのも不思議な話だ。

 

「そっか。何でかは分からないけど性格も違うみたいだし、出来れば俺は仲良くしてほしいんだ」

「それこそ問題はありません。リアが私をどう思ってるかはわかりませんが、私の方は同盟に関係なくリアを大切に思ってます」

「うん。それならいいんだ」

 

 士郎は安心した風にそう呟く。そんな返答しながらも、俺は自身の時のアーチャーを思い出していた。

 アレを相手に仲良くしよう、なんて考えは当時も今も微塵もない。相性がどうとかではなく、アレとは決して相容れないものだと思っていたし、向こうだってそれは同じだったろう。

 俺とアイツが、今の俺と士郎のように話すなんてあり得ない話だ。想像すらできないし、出来たとしてもしたくない。

 

 ……ふと思ったんだけど、士郎は今回アーチャーとして召喚された俺にどんな印象を持っているんだろうか?

 俺としてはそこそこには仲良く出来ていると思うのでそんなに心配はしていないが、いい機会だから聞いておこうか。

 

「ところで、士郎。私からもひとつ訊いておきたいのですが」

「ん? 何?」

「士郎は、私の立ち振る舞いが気に入らないとか、私とは絶対的に反りが合いそうにないとか思っていたりはしませんか? 端的に言うならば、アーチャーである私に対して何か不満はあったりはしないでしょうか」

 

 これらは俺がアイツに対して感じていたもの。同じ立場に立たされている俺に対し、士郎が同様に感じたりしないとは言い切れない。だが問われた士郎はと言えば俺が何を言っているのか理解できなかったのか、綺麗に一拍ほど固まった。

 

「い、いや、そんなことあるわけないじゃないか! それ以前に、俺は人の作法に文句をつけられるほど立派じゃないよ」

「そうですか。それはよかった」

「でも、いきなりどうして?」

「いえ、単にアーチャーのサーヴァントである私のことを不愉快に思っているのではないかと心配になりまして」

 

 どうやらただの杞憂だったみたいだけどさ。まぁそれでも安心したのも確かだった。相手が俺だとはいえ、出来る限りで仲良くやっていきたいと思っている。

 

「何だって俺がアルトのことを不愉快に思っているなんて考えたのかはわからないけど、間違いなく嫌ったりなんかしていないぞ。いや――――それにしても、やっぱりアルトは面白いな」

「えっ?」

「あ、人を指して『面白い』なんて失礼だよな。ごめん。なんていうかさ、俺が言いたいのはアルトって何だかサーヴァントらしくないっていうのかな。遠坂から聞いた話だと聖杯を手に入れるために呼び出されるって話だったけど、他のマスターに『自分を嫌っているか』なんて質問してくるとは思わなくて」

「……あ、はは」

 

 思わず乾いた笑いが漏れてしまう。単純にサーヴァント歴が短いからか、それとも呼び出されてからも以前の生活とあまり変わらないものだからか、確かに自身がサーヴァントだと忘れてしまうことがある。寝起きなんかそれが顕著だ。

 極力注意しているつもりだけれど、気がついてないうちについつい友人のような対応をしてしまっているのかもしれない。

 

「他のマスター、か。慎二や遠坂には早いか遅いかの違いだけでどちらにも覚悟をしろって言われてるし。それに、他の四人のマスターとも積極的に争いたいとは思わないけど、傍観していると無関係な人に犠牲が出かねない。アルトは何か、穏便にこの聖杯戦争を終わらせる方法を知らないか?」

 

 つまりは犠牲を出さずに戦わないで済む方法、だろうか。

 訊かれたものの、俺はそんな方法を知らない。俺は結局、聖杯が実際にどんなものなのかを知る前に敗退させられた。あの後聖杯戦争がどう終結を迎えたかを知る術ももはや存在していない。

 その過程はともかく、最後を見届けることは出来なかった俺が聖杯戦争について持っている情報は、士郎が知っているものとそう大差ない。

 

「この聖杯戦争を終わらせるためには、例外なく他のサーヴァントを倒さなければいけません」

「それじゃあ、やっぱり戦う羽目になるのか……」

「……しかし、あくまで可能性という域を出ませんが、終結の際にサーヴァントを二騎以上残す方法があるかもしれない」

 

 ただ――イレギュラーがいることは知っている。鍵は、ギルガメッシュだ。

 

「可能性って……他の六人のサーヴァントを倒さなければいけないんだろ? どっちにしても最後の一人になるまで戦うんじゃないか?」

「要は六人の英霊を倒せばいいのです。イレギュラーに召喚されたサーヴァントを倒せば、或いは」

「そんなやつがいるのか?」

「わかりません。あくまで可能性の話なので」

 

 ただ、ギルガメッシュがいるのはわかるけど、それで聖杯戦争が終結するのかはわからない。聖杯戦争というシステムを俺は一片も理解できていないのだから、本来はこうして口に出すほど根拠のある考えでもない。

 それを聞いた士郎は「む」とくぐもった声を上げて俯き、考え込んだようだが、そう時間が経たないうちに顔を上げる。

 

「駄目だな。考えても情報が少ない俺じゃあ、良い案が浮かんできそうにない。今は情報集めを兼ねて、他のマスターとサーヴァントを探して回るしかないか」

 

 疑問は残ったようだが、いくらか晴れやかになった士郎は改めて俺に顔を向けてきた。

 

「ああ、そういえば。『聖杯』で思い出したんだけどさ。サーヴァントは聖杯に願いを叶えて貰う為に召喚に応じるって聞いたんだけど、アルトは聖杯に何を願うんだ?」

「私が願う……ことですか?」

「ああ。それとなくリアにも聞いてみたんだけど、うまくはぐらかされちゃってさ」

「私の、願い……」

 

 セイバーの無事、だろうか。確かに死ぬ間際、それを願っていたけど。

 今の俺がしなければならないことは――みんなが誰一人欠けることないまま、この聖杯戦争を終結に持っていくことだ。

 

 しかしこれは、聖杯に願うことじゃない。聖杯を手に入れたら聖杯戦争は終わるっていうのに、勝ち残った後に願うことが聖杯戦争をみんなで生き延びる、じゃあ本末転倒だ。

 

「もしかして、願うことなんてない、とか?」

「いえ、もちろん願いはあります。ただ、私の願いは聖杯に叶えてもらうようなものではありません。私が望むものは願い叶えてもらうものようなものではなく、この手で掴み取るものですから」

「む、そうなのか。リアはリアで何か難しいことを言ってたけど」

「姿は同じとはいえ、彼女の願いは私とは違うものでしょう。恐らくは、ですが」

「――――そっか。でも、願うことがあるのはいいことだと思う」

 

 何故か嬉しそうに笑みを浮かべた士郎は、俺から目線を切って空を見上げた。

 

 

 

 

「着いたようですね。士郎、今日の食事は何にしましょうか?」

 

 歩きながら話しているうちに、いつの間にか俺たちは商店街に到着していた。道行く人がちらちらとこちらを見ているが、大方は金髪が珍しいのだろう。

 士郎が朝食代わってくれたことを思い出して、歩いて話している時に夕食担当を譲ってもらうことに成功していた。「迷惑なんかしていない」と渋ったものだったが、俺が「士郎の好きなものを作る」と言ってようやく、士郎は折れてくれた。

 

「えーと、アルトって和食も作れたりするのか?」

「ええ、任せてください。書物を読んで勉強していますから、一般的なものでしたら問題ありません」

「そっか、んじゃ和食をリクエストしてもいいかな? 俺や桜以外の人が作ったのって食べてみたかったんだ。他所のお宅の料理を食べられる機会ってないものだからさ」

 

 ふむ。そうなると衛宮士郎が知っていそうなメニューでは何にも面白みがなさそうだ。となると、凛の家にあったレシピを組み合わせれば……悪くない。

 

「わかりました。それでは、食材を選ぶところからですね」

 

 気合を入れ直して、まず主菜に考えている魚を探しに足を進める。

 

 

 

「少々買いすぎてしまいましたか?」

「ああ、ちょっとばかし、な」

 

 二人の両手は中が沢山詰まった袋で塞がっていた。流石に『四人+虎』の食事分を買い溜めするともなると量が半端じゃない。いや、ちょっと気合を入れすぎて、それを考慮しても買いすぎたけど。

 

「さてそれでは…………この匂いは?」

 

 荷物を持ち直して帰路に着こうと伸ばした足は、漂ってきた香りに止められることになった。

 甘くて、香ばしいこの香りは……間違いない。『江戸前屋』だ。たい焼き、たこ焼き、どら焼きの焼き三種のラインナップで成り立っている凄い屋台である。

 中でもたい焼きが八十円という低価格の割に餡子ぎっしりで近隣の学生に大人気だ。

 

「士郎、このとても香ばしい香りは江戸前屋ですよ」

「ああ、あそこに見えるは確かに江戸前屋だ。相変わらず食欲をそそる匂いだな。深山まで出てくるなんて珍しい」

「あの。たい焼き、売ってますよ」

「うん。何処から見てもたい焼きを売ってるな。あそこのたい焼きは餡子がしつこくなくて、けっこう上品なんだよな。飽きないっていうか」

「あ、ああ! そうではなくて、ほら。見てください、焼き立てが美味しそうです。それにどうやら今ちょうどお客もいないようですし、直ぐ買えそうです」

「確かに美味そうだけど、昼食食べたばっかだからなー。お。俺たちには全然関係ないけど、四個以上で値引きされるみたいだぞ」

 

 …………。

 

「士郎、絶対わかってますよね。私をいじめて、楽しいですか」

「ぶっ! あははははははは……くっくっ……」

「――――――」

 

 無言で士郎を睨む。なにかが、怒りと共に体から湧き出てくる。ごう、と周囲の風が巻き上がった。

 ああいや、決して俺の意志でやってるわけじゃないぞ。体が勝手に臨戦態勢になって、殺気混じりで睨んでしまうんだ。俺の所為じゃ、きっとない。

 

「わ、悪かった。ちょっとばかりふざけすぎたな。そうだな……それじゃあ、どうせだからみんなの分も買っていこうか?」

「……そうですね。リアもこれで機嫌を直してくれるといいんですけど」

 

 とは言いながらも、俺の目はたい焼きに移って離れない。

 何だか食事に――特に加えて言うならば、甘いモノに目がなくなってきた気がする。知らずに精神が肉体に引きずられているような気もするけど……まぁ、体が欲しているものを素直に食べるべきだよな。うん。

 

 自己弁護を密かに終えた俺は、黙って士郎に手を突き出した。苦笑いしている士郎から五百円玉を受け取り、代わりに荷物を渡してから江戸前屋に向かって駆け出したのだった。

 

 

 

 

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