登校するまでは果たして遠坂とのことについてどれほど問いただされるのかと一人恐々としていたけれど、予想していたようなことは起こらなかった。
それどころか意を決して教室に踏み入って挨拶をしてみても気づくのは近くにいた二、三人で、他の生徒は自分の机に縛り付けられたように動かず、ただそこにいるだけだった。誰もが他人に感心を寄せるほどの余裕がないらしく、いつもなら騒がしい筈の俺の教室は沈んでいた。
どうやらこの結界内にいて、あれだけの影響で済んでいた美綴は他の人間に比べて特殊だったらしい。あの藤ねえでさえいつものような元気はなく、至極一般の教師みたいな振る舞いしかしなかったほどなのだから、思っていたより事態は深刻なようだ。
色が褪せてしまったような教室内。時計の短針は『12』を回り、もう寸刻もすれば昼のチャイムが鳴るだろう。学校の敷地内の空気は重く、たぶん、いや間違いなく朝よりも状況は悪化している。
ただただ教科書を読み上げる教師の声が響き、生徒たちは誰一人喋ることもなく上の空でいる。中途で気分が悪くなったと保健室に向かう生徒も一人ではなく、午前中だけで四人が席を外していた。
この教室内で異質なのは教卓前で教鞭を執る葛木先生。彼は無感なのかと錯覚するくらいに普段と変わりない。美綴と同じであんまり影響を受けないタイプなのだろうか?
教室を見回してみるが、ところどころに空席が目立つ。保健室に向かった生徒の席と、慎二の席だ。
慎二はまだ学校に来ていないらしく、あいつの席は朝からずっと空いたままだった。連鎖するように、慎二の妹である桜の顔が脳裏に浮かんで、俺は朝のことを思い出していた。
HRが終わった直後の休み時間を使って、遠坂と二人で桜が在籍している下級生のクラスに確認しに行ったのだが、桜の席は空いていた。
入り口近くの女子生徒をつかまえて聞いてみるも、美綴の言うとおりに欠席の連絡もなくまだ登校してきていないらしい。
そこで意外だったのが遠坂の反応だった。女子生徒から桜がいないと聞いた時、遠坂は親指の爪を噛み、眉間に皺を寄せて考えに耽っていた。いつでも悠然と物事をこなしている遠坂が、あんなにもわかりやすく動揺していた。
魔術使いの俺と比べるのが失礼なほど魔術師である遠坂。桜のことを気の毒に感じるかもしれないとは考えていたが、こうまで心を乱されてしまうだなんて予想していなかった。
けど、動揺していたのは俺も同じ。危険がないように、巻き込まないようにと桜を俺の家から遠ざけたっていうのに、これじゃあ何の為だったのかわからなくなる。
いや、まだ巻き込まれたと決まったわけじゃない。もしかしたら間桐家で流行っている風邪で二人とも欠席しているかもしれないじゃないか。連絡だって忘れているだけなのかもしれない。
ああ、そうだ。学校の結界を解除したらまず慎二の家に行けばいい。病気にかかっているかもしれないから、見舞いがてらに様子を見てこよう。
だからこそ、この結界騒ぎに早く決着をつけないといけない。この問題が片付かないことには、慎二と桜の様子を見に行くこともできやしない。
それどころか、放って置けば聖杯戦争とは無関係な学校のみんなが巻き込まれてしまう。それだけは絶対に防がなくちゃならない。
午前中は生徒がいない弓道場やグラウンドなどの別棟を中心に、放課後は生徒が帰宅、部活で出て行くので教室がある本棟を見て回ると事前に遠坂と決めてある。
正午を回ろうとしている今、別棟は全て見て回ったのだが、魔方陣は見つかっていない。
見つからないから焦りが増す。焦りに任せて、数をこなそうと敷地内を走り回る。だというのに、成果は一向に上がらない。だから、余計に焦る。見事なまでに悪循環だった。
こうも気を急かされていたら大事なものを見落としてしまう。
どうせ授業中は動けない。せいぜい働かせることが出来るのは頭ぐらいのものだ。後手に回ってしまっているからこそ、落ち着かなければならない。少し冷静になって、結界を仕掛けた相手のマスターの情報を整理してみよう。
まずはその意図。わざわざ人がたくさん集まるところに結界を仕掛けたってことは、そいつの狙いが『たくさんの人』なのだということは簡単に想像がつく。
遠坂やイリヤは夜だけ――少なくとも戦闘するのは人気がない時間帯や場所と決めて行動しているようだけど、そのマスターはその範疇ではないのだろう。
夜に発動させても生徒は家に帰っているのだから、目的から考えれば発動のタイミングは昼の筈だ。
ただ、どうしてもわからないことがある。
――魔術は秘匿されるもの。それは魔術師の間では暗黙の了解となっている。魔術師相手に良識を求めてはいけないかもしれないのだけど、そんな世界にもルールはある。
なのに相手は人目につく公共の場で行おうとしている。いくら聖杯戦争だからといって、普通の魔術師ならそんな危険を犯さないと思う、のだけれど、俺自身も魔術師とは胸を張って言える訳じゃないから確証はない。
それに、不可解なことはもう一つ。具体的なことはわからないけど、遠坂の話では魔方陣を一つ組むにも、間取りや距離、高さに地脈の流れなどと色々な要素が絡むらしいから、それなりに内部に詳しくないといけない。
普段から出入り出来る学校関係者でもないと魔術を組み上げるのは無理ではないだろうか、ということだ。
そうなると学校の関係者でサーヴァントを従えているのは、俺と遠坂、慎二。後は、可能性の域を出ないが、キャスターの根城であるという柳洞寺に住んでいる一成ぐらいだろうか。もしくは、まだ見ぬマスターがいるのかもしれない。
「今日はここまでだ」
その声に思考を中断して顔を上げると、計ったようにスピーカーから鐘の音が流れてきた。教卓には教材を纏める葛木先生の姿。こんな時まで時間に正確らしい。
外的な刺激に生徒たちが反応して不思議そうに周りを見回している。ところどころから「あれ? もう昼か」なんて声が聞こえてくる。
昼休みは屋上をチェックするついでに、遠坂と一緒に昼食を摂ることを決めてある。葛木先生が教室前のドアを開けるのを視界の端に、俺も弁当箱を片手に屋上に向かおうと席を立とうとして――
一瞬、体中の感覚が消えうせた。
足から力が抜け、重力に勝てず膝をつく。体が鉛のように重い。
胃が勝手に蠢き、嘔吐感が体中を満たす。その所為で呼吸が侭ならない。
背中は冷や汗で濡れ、額には脂汗が噴きだしている。
そして、赤い。目に見えるもの全てが赤で染まっている。
傾いていく視界の中、席に着いていた生徒がみな床に倒れていくのが見えた。
教室前のドアでは、先ほどまでは何事もないように振舞っていたあの葛木先生もが膝をついている。
――――結界が発動して、しまった?
ゆっくりと床が迫る。いや、倒れ掛かっているのは俺?
体の中から活力が抜け落ちていくようだ。いや、これこそがこの結界の効力なのだろう。
駄目だ。ここで倒れるわけにはいかない。ここで動かず、いつ動くというんだ。
「同調、開始――」
魔術回路を起動させ、魔力を生成。体の中で循環させ、外からの略奪を僅かながら阻害させる。
スイッチという概念がなければ、この環境に俺は集中しきれず、回路の起動に失敗して激痛にのた打ち回っていたことだろう。
緩和されているとはいえ、結界の影響を受けていないわけではない。気力を奮って立ち上がり、ドアを開け放って廊下へ転がり出た。
すると途端に、礼呪が刻まれている左手が疼きだす。お前にとっての脅威が、すぐ近くに潜んでいると痛みで危険を知らせている。
位置までは掴めない。だが、ともかくここにいてはマズい。その直感の赴くままに、形振り構わずに全力で左へ跳んだ。
ヅガッ、と硬質な音が背後から耳に届く。
廊下を転がって反動で体を起こして向き直ると、今しがたまでいたところに銀色の馬鹿でかい釘が刺さっていた。
「はん、なんで今のが衛宮ごときに避けられるかな」
聞き覚えのある声が廊下に響いた。それは慣れ親しんだ声だった。聞き間違えようもない。
「――慎二!」
「不意をついたのに丸腰のマスターの一人も捕らえられないのかよ。サーヴァントっていっても所詮ライダーってことか」
慎二は俺の言葉が聞こえてなかったように無視し、ひとりごちる。
「もしかして、この結界を作ったのは――」
「はっ、いくら馬鹿なお前でも流石にわかっただろ? 間違いなく僕、この間桐慎二さ!」
慎二は高らかにそう告げる。精神が高揚しているようでさっきから絶えずにやけている。
「一刻も早く作りたかったんだけど、ライダーのやつが魔力が足りない、なんて言うものだから他からわざわざ持ってきたんだ。まったく、僕まで要らぬ苦労をさせられたよ」
釘が直結している鎖に引かれ、じゃらじゃらと音を立てて持ち主の手に戻る。あまりにでかすぎるソレは最早短剣と呼んでいい代物。
手にするは女性。紫のロングヘア、俺よりも高いその長身。
そしてその身に纏う死の気配。
危険、危険、危険危険危険――――
頭の中で警鐘がうるさく鳴り響いている。本能が必死に訴えてくる。
アレは相手すべきモノではない、と。アレとの間に戦闘は成り立たず、一方的に殺されるだけだと。
「……ちょっとまて。他から『持ってきた』、だって?」
「ああ、衛宮はニュース見てないのか? 確か『冬木の町で女性ばかりの行方不明者、その数14人』だったっけな? ……あ、まだ2人届けられてないらしいからまだ『12人』か。笑っちゃうよな、12人も同じ町から、それもこんな短期間に行方不明者が出るはずないじゃないか」
そう言って笑う慎二。手でライダーを下がらせて、一歩前に進み出てきた。あいつ自身は隙だらけだけど、その後にいるライダーが警戒を緩めない。
慎二は違うと言っていたから除外していたが、慎二は先ほどの条件に見事に合致していた。
学校関係者で、マスター。やはり、という思いがまったくなかったといわれればウソになる。それでも、疑いたくなんてなかったのに。
ただ、今俺にわかっていることは人を殺した慎二を俺は許すわけにはいかないってことだけ。だけどその前に慎二に確認しておかなければならないことがある。
「桜は、無事なのか?」
「は! 自分の命が危ないっていうのにあんなやつの心配か。とことん甘ちゃんだな、衛宮は」
「質問に答えろ、慎二」
「お前が僕に命令するのか? ふざけるなよな、衛宮。お前さ、自分の立場わかってるのかよ?」
俺の言葉に慎二は露骨に顔を歪め、不機嫌を全身で表した。舌打ちをして、唇を噛み、俺を見下している。
「ああ――桜のことだったっけ」
だが、何か思いついたらしく、うって変わって歪んだ笑みを浮かべた。それを視界に入れた途端に、ぞくり、と俺の背筋に悪寒が走る。
「安心しろよ、今頃は家で疲れて寝てるんじゃないか? は、はははははっ! 反応なくなるまで犯してやったからな。泣いてばっかでうざったいんだよ、あの役立たず!!」
「――ぁ?」
感情の猛りの余り、まず目の前が真っ白に染まった。
――――俺の耳は、おかしくなってしまったのか。
「衛宮、お前がもう来なくていいって言ったらしいじゃないか。いい加減、僕も愚図なあいつの態度にはいらいらしてたんだ! なにかある度に先輩、先輩ってめそめそとさぁ!」
「…………」
遅れて言葉の意味を、脳が認識してしまう。
反射的にガチリ、と再び頭に響く撃鉄の音。熱い。体中の血が沸騰しているようだ。
「そういえば組み敷いてやっている最中もお前のこと必死に呼んでたんだぜ。うるさいから殴って黙らせてやったけどさ!」
「…………」
もう限界だった。視界が赤く染まる。もちろんそれは結界の作用なんかではなく――
「なあに。どうせ衛宮も遠坂とよろしくやってんだろ。遠坂がこの僕を振るくらいだから相当なテク持ってるんだろうさ。はん、衛宮もやることやってんじゃないか」
「もう、いい。お前は黙れ」
溢れるほどの怒りで。
瞬間、駆ける。爆発したように体が弾ける。腿やふくらはぎのところどころからブチブチと何かが切れたような振動が伝わってくる。
慎二までは十メートルほど。知らずのうちの魔力強化で、その距離を一足で半分に縮めてみせたその反動か。
「なっ! ライダー、衛宮を止……!」
慎二が何か言っているようだけど聞こえない。俺の耳には届かない。
ライダーだという女が俺を狙って釘剣を投げるが、体を前傾に倒して下に避ける。その勢いで踏み込み、更に加速する。
慎二は動けない。あいつには逃げる間も与えてやらない。
まさかそこから加速するとは思っていなかったのか、サーヴァントの動きが一瞬止まる。
すぐさま立ち直って鎖を操り、凄い速度で俺に迫っていた。思い切り振りかぶった右腕に鎖が絡みつく。
「がっ!」
鈍い音と短い悲鳴、俺の拳に衝撃を残して、慎二が吹き飛んだ。俺の拳を避けることも、防ぐこともできずに顔に受け、廊下を派手にもんどりうって、うつ伏せに倒れた。
それより一瞬遅く鎖が巻き取られ、殴った方の腕が固定される。鉄の光沢を放つ釘が生き物のように動く。咄嗟にライダーと距離を開けようとして後退を試みるが、できなかった。
「なん――!?」
既に左の二の腕に釘が突き刺さっていて、俺の体は無理矢理引っ張られていた。
腕を貫通して、釘の先端が逆側から覗いている。鎖に巻き取られ、宙を舞い、そのままものすごい力で床に叩きつけられた。
思い出したように痛みが左腕に走っていく。
「っは!」
肺から空気が漏れる。背中を打って呼吸ができない。貫かれた腕が痛む。焼けるように熱い。
「ライダー! 衛宮を宙吊りにしろ!!」
慎二がいつの間にか立ち上がり、口元を制服の袖で拭っていた。鼻血で口の周りが真っ赤になり、その表情は憎悪に染められている。
「うっ――ぎ、あ!?」
鎖がジャラジャラと鳴り、俺の体が持ち上がっていく。体重が左腕一点にかかり、あまりの痛みに俺は悲鳴を上げていた。
右手で釘を抜こうとするが鎖で絞められていて上手くいかず、せめて痛みを和らげようと鎖を持って体重を支える。いつの間にか逆側の釘は天井を貫き、俺の体を宙にぶら下げている。
ライダーらしいサーヴァントは、歩み寄ってくる慎二の後方で控えているだけだ。
「知り合いのよしみで楽に殺してやろうかと思ったけど、やめだ」
振りかぶった慎二の拳が、無防備な俺の腹に打ち込まれる。
「がぁっ……!」
痛い。半端じゃなく、痛い。腕が、千切れる……!!
衝撃で右手が緩み、左腕に体重がかかる。痛みにこらえながら、必死で右腕に力を入れて自重を殺す。
「僕はお前のことが前から気に喰わなかったんだ!」
「ぐっ……!?」
しかし持ち直す前に鈍い音が響き、慎二の拳がわき腹に突き刺さる。
体が揺れ、振動で左腕が軋みを上げる。
「遠坂のやつもなんでお前なんだ! 僕がこいつなんかに劣っている所なんて一つもない!」
「……っ!」
慎二の蹴りが鳩尾に入る。呼吸ができない。胃液が逆流する。
「そんな考えをしてる時点で、あんたはどうしようもなく士郎に劣ってるわ」
「……と、おさかっ!」
廊下の先には、遠坂。慎二の後ろから駆けて来たので接近に気づかなかった。階段から降りてきたっていうことはどうやら屋上で俺を待っていたようだった。
俺を一目見やって慎二と対峙する。
「ようやくお出ましか。待っていたよ、遠坂」
遠坂と慎二の距離は目測で十五メートル足らず。ライダーは慎二の横で控えている。
「あら、間桐くん、ちょっと見ない間に随分と男前な顔になったじゃない」
「――――っ! ……はっ、僕は寛容だからね、多少の暴言には目を瞑ろう」
そう言って慎二は鼻血を拭う。
「で、遠坂。僕は君に同盟を申し込みたい。この状況をみてわかるように衛宮みたいな弱い奴と組むより僕と組んだほうが有益だと思うだろう?」
「――――」
遠坂は答えない。慎二を睨みつけたままその口は閉ざされている。
「ああ、そうか。僕を蔑ろにしたと思って気が引けてるのかい? 君も事情があったんだろう? 衛宮のやつに付きまとわれてたとかさ」
「――――」
「僕がここまで下手に出るなんて初めてかもしれない。遠坂、君は本当に運がいいよ!」
はぁ、と一つ息を吐き、遠坂は慎二を見下した。
「――――悪いけど、間桐くん、私あなたと組む気は毛頭ないわ。そして私はこれからもあなたと組む気になることはありえない」
決定的な拒絶。あまりのはっきりした遠坂の物言いに慎二は言葉を返すことも出来ない。
「だって勝率を上げてくれるならともかく……わざわざ下げる相手と組むわけないでしょう?」
「――は、ははは」
慎二の乾いた笑い声だけが俺たち以外誰もいない廊下に響く。
「……ああ、そうか。わかったよ。おい、ライダー。こいつを見てるとイラついてしょうがない。殺せ。窓から、地面に叩きつけてやれ」
「わかりました、マスター」
「士郎っ!」
どうなったのか、次の瞬間には窓ガラスを突き破って俺は空中に投げ出されていた。いつの間にか左腕から釘が抜かれていて、血を撒き散らしている。
校舎側を見ると、遠坂が凄い形相で俺の名前を叫んでいる姿が目に入った。