ぶわっと、冷たい汗が背中や手のひらから吹き出ている。
背中に張り付く布地に不快感を覚えながらも、ばくばくと過剰に拍動する心臓を押さえつけて前方を睨みつける。
その先にはふわふわと浮かんでいる黒いローブ――――キャスター。
姿は見えず、唯一俺が視認できるのはそこから伸びている片腕だけだ。何に戸惑っているのかわからないが、キャスターに動きは無い。
だが、体の前面がぴりぴりと違和感を訴えている。きっとキャスターの意識は絶えずこちらに向いているのだろう。
右足を一歩引き、手に風王結界(インビジブル・エア) に包まれた エクスカリバーを顕現させて斜に構える。セイバーの構えならば、相手のどんな動きにも咄嗟に反応できるだろう。
――――
あの時に脳裏に浮かんだ短剣――キャスターの宝具である、『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』はとんでもないものだった。
脳内で短剣の構造を把握、解析したところ、あらゆる魔術を解除できる規格外の代物だと理解。慎重に八節の手順を踏むことで投影に成功した。
霊脈を解析し、結界と霊脈のつながりを確認した俺はすぐさま、結界を破棄させるために霊脈にルールブレイカーを突き立てる。しかし、ルールブレイカーをもってしても、ライダーの結界を消し去ることは出来なかった。結界には干渉すら出来ず、地脈と結界付近に施されていた魔術式を無効化しただけで、役目を終えて靄となって消えていってしまったのだ。
投影が失敗したのかと手順を見直したり、霊脈に干渉する位置が悪かったのかと解析をし直したりした。
解析して得た情報に偽りが無いのだとしたら解除できない筈はない。けれども自分で言うのもなんだが、投影したそれは会心の出来だったし、あれ以上のものは少なくとも今の俺には作れそうに無かった。
思えば、この結界は魔術の類ではなかったのだろう。そんなことに思い至ることもできない程、余裕がなかったのだ。消去できないことにあたふたと右往左往していた所為で結界の効果が薄れていることを察知できず、霊脈を解析し直してようやく気づいたくらいに。
ルールブレイカーで消去できた魔術式は、結界に影響を及ぼすもののようだった。
魔術式は結界と霊脈とを繋ぎ、魔力や生命力を汲み上げる役割を担っていたらしく、結界の消去までは出来ずとも結果的に効果を減衰させることができた。これは思わぬ誤算と、嬉しい誤算だった。
しかしその直後に真上から爆音が響き、校舎を揺らす。予想外のことに急いで音の発生源である三階に駆けつけたら、そこには何故かキャスターの姿。加えて、士郎がキャスターの放った魔力弾の前に、何の対策もせずに飛び出しているところに出くわした。
まったく、当たれば間違いなく死んでしまうだろうに、あいつも無茶をする。そういう俺も、考えるよりも早く士郎の前に立ちふさがっていたんだけどさ。
今更ながらだけど、血の気が引く体験だった。無意識に飛び出していたから気にする暇も無かったけど、常人には致死性だろう魔力の塊の前に飛び出すなんて正気の沙汰じゃない。
魔力が霧散してから初めて血の気が引き、遅れて体が心臓が暴走したように脈動し始めた。いくら魔術を無効化するといっても、慣れていない俺にはかなり恐ろしい。対魔力が無いに等しい体を持っていた俺にとって、魔力の塊に飛び込むにはそれこそ自殺するくらいの覚悟が必要だ。
無事だとは頭ではわかっているのに、生存本能が危険だと判断する感じといえばいいのか。少なくとも何度も好んでしたい体験じゃない。それでも、そうすることで人を守れるのならそれも構わないし、そんなことを躊躇う時間があるなら一秒でも早く手を伸ばしたほうがいい。
「アルト、すまない。助かった」
ようやく士郎が立ち上がったようだ。気配から察するに慎二に肩を貸しているのだろう。
士郎と慎二をかばいながらじりじりと移動し、セイバーや凛と合流する。もちろんその間も視線はキャスターから外さない。未だ浮いているだけで外見に変化はない。
「一つ、訊かせてもらえるかしら? そこの男……ここに結界を張った男よ。あなたたちはその男を庇う気でいるのかしら」
目の前のローブから女性の、冷たい声が放たれる。その問いに対して反射的に俺は口を開きかけたが、すぐに閉じ直す。俺は、その問いに答えることができない。
あくまで慎二は士郎と凛の知り合いであり、俺やリアの立場からいえば弓道場で一度会ったことがあるっていうだけで慎二は敵マスターでしかない。
加えて言えば、これは士郎と凛――マスターが決断する問題であって、サーヴァントである俺が口を挟むべきものではなかった。
「ああ、慎二を見捨てるなんてできない。こいつに危害を加えるって言うなら全力で阻止させてもらう」
少しの間の後、士郎が答えた。その声に迷いはない。背後からは小さな嘆息が微かに聞こえてくる。これはたぶん凛のものだろう。
「そう……」
キャスターがそう呟いた後、手をかざし呪文らしき言葉を唱えると、士郎の教室――以前は俺も在籍していた教室から光が放たれ、何事も無く元に戻る。俺とリアが反射的に重心を低く構え、警戒を強めた。
「……何をした?」
「私のマスターを転移させただけよ。ここにいる人間に危害を加えた訳ではないから、安心なさい」
微笑しているような雰囲気が浮いているローブから感じ取れる。
そのキャスターの言葉に凛が息を飲み、スカートのポケットに手を入れた。宝石をいつでも投擲できるよう、構えている。
空間転移は大魔術に分類されると聞いたことがある。それを即席で行うキャスターはやはり、俺はもちろん凛でさえも及ばないレベルなのだろう。
だけど俺はそれよりも、気になることがあった。マスターを転移させた? てっきり柳洞寺にいるとばかり思っていたんだけど、違うのか?
「それで、どうするつもりだキャスター。我がマスターはお前の要求には受け入れない。ならば、ここで我らと決着をつけるととっていいのか?」
リアが一歩進み出て剣を握り締めながら問いかける。少なくともリア自身はキャスターを打倒する気でいる。思考に沈んでいた俺も我に返り、気を引き締める。
「残念だけど、一対一ですら勝てそうにない相手に何の準備もなく正面から挑む気はさらさらないわ。ここは退いてあげる」
言うなり、光が空中に軌跡を描き、魔方陣が作られる。その上にはキャスター。魔方陣から放たれる光がキャスターのローブを包んでいく。
「けれども、覚えておきなさい。私は、我がマスターに危害を加えたそこの男を許す気はないわ」
「な、待て!」
リアの声が響く中、先ほど教室から漏れたものと同じ光が放たれ、視界を塗りつぶす。光が収まった時、キャスターの姿は消えていた。
ひとつ息を吐く。辺りにサーヴァントの気配が消えたことを確認してから武装を解除した。とりあえずこれでこの結界に関しては終局したと見ていいだろう。
欲を言えばキャスターはここで倒しておいたほうが後々のためにはいいのかもしれない。けれども生徒たちを放っておくわけにもいかなかったから、あちらから退いてくれて正直なところ助かった。
士郎と慎二の無事を確かめるようにして見ていた時、凛がこちらに歩いてきていた。その顔は厳しい。
「さて、アルト。近場で待機していた筈のあなたが、どうしてこんなにも遅れたのか聞かせてもらいましょうか?」
…………。
「あまりに重篤な、危険な状態の者がいたので、応急処置をしていました。申し訳ありません」
「……アルト、あなた本気で言っているわけ? つまり死に掛けているのを見捨てられず、私たちにすぐ合流できなかったってこと?」
凛はもとより、リアも眉根を寄せて不可解そうな様子を隠さず信じられないものを見る目で見てくる。
俺には、他に言い訳のしようがない。まさか、結界の解呪を試みていたなんて言えるわけがない。言ったなら間違いなくその方法にまで話がいくし、そうなると投影について、如いては俺の正体についてここにいる全員に話さなければならなくなる。
「……ええ」
「この状況でどう行動すればいいのかっていうことぐらい、自ずとわかるでしょう!」
「っと、遠坂。それでみんな助けられたのなら、別にいいじゃないか」
「悪いけど、衛宮くんは黙っていて」
士郎のフォローは凛の一言で切り捨てられた。
「別に、助けることを止めろと言っている訳じゃないの。私だって無駄な犠牲なんて、ないに越したことはないと思っている。でも今回は、本当に助けたいと思うのであれば、私たちは一刻も早く元凶を潰すべきだったわ。一人二人の為に遅れれば遅れるほど、結果的にもっと大勢の人間が死ぬことになるのよ。それぐらいは理解しているのでしょう?」
「……はい」
「わかっているのなら、どうして……! こんな程度の取捨選択、王であったあなたならしてきている筈でしょう!」
もし俺がわき目も振らずに凛と合流してリアと共闘できていたなら、もっと早くライダーの結界を除去出来ていたかもしれない。
今回遅れたことは、俺の独断が原因。信用を裏切った俺に非があった。それは、違えようもないことだ。だからこそ凛が怒るのももっともだし、叱責されれば反論することもない。
けれど、それでも。より大きな理由があるなら目の前で危機に瀕している人を見過ごすしかない、という、その言葉に対してだけは――――
俺は、声を出すことも、頷くこともなく押し黙った。そんな俺の姿を見てか、誰も喋らない。
キャスターに崩された壁から破片がガラリ、と音を立てて落下する。
「……アルト、あんたもしかして」
凛の言葉に顔を上げ、それを遮るように口を開いた。
「お……いや、私は、見殺しになんて出来ない。多くの為に少数を見捨てたりなんてしない。死に瀕している人がいるのなら、救いたい。どこかに助けを求めて手を伸ばしている人がいるのなら、手を、取ってあげたい……」
――――絶対に、譲れない。人を助ける為に、人を見殺すだなんて、それは違う。理想のために、ここだけは絶対に嘘はつけない。
これが衛宮士郎の在り方。この身体が変わろうとも、変わらない魂の在り方。
「正義の、味方……」
士郎の微かな呟きが耳に残る。
「これは、私の信条です。マスターには申し訳ありませんが、受け入れられないというなら令呪を使ってください。私の在り方を捻じ曲げるその言葉に頷くことは出来ない」
「…………はぁ」
凛がゲンナリといった様子でため息をついた。
「まったく、なんでこんな甘い英雄がいるのよ。それが出来るならって話で、そうはならないってのが世の常だっていうのに。……もし衛宮くんがそのまま英雄になったらこうなるのかしらね。それより、アルトがこんな性格をしているってことに気がつかなかった私に呆れるわ」
士郎の方をちらりと見やり、どうにもならないと諦めたのか肩を落としてうなだれる。
「凛。私だってすべき行動はわかっているつもりです。今回、私が判断を誤ったことに関して申し訳ないと思っています。もちろん今後も私のマスターである凛の判断、指示に従います。ですが、こうあればよいという理想として、私は私の考えを変えるつもりはありませんし、変えられません」
「あーもう、わかった! わかったわよ! 従ってくれるのなら別にそれでも構わない。信条を変えるためなんかに令呪を使うなんてこと、私だってしたくはないもの。それに、これ以上話していても思想の問題。いくところまでいっても結局は平行線だもの」
そういって顔を上げたところで凛の動きが止まる。その視線の先にはこちらを見ているリアの姿があった
「どうしたの? リア」
「ああ、いえ。少し、驚いていたのです。国の為にあれとしていた私には、そのような理想を掲げ続けるなんて到底できなかった」
なんて、目を見開いて、口だけ動かして答えるリア。その発した内容に特に興味を示した様子もない士郎と凛は、生徒や教師を保護するために話し合いを始めた。
「――万人を救いたいなどという理想を掲げることなんて、一国すら護りきることが出来なかった『アルトリア』にはできうる筈がない。それが出来る『アーサー王』とすれば、それはもう私ではなく、別人だ」
微かな呟きが聞こえた。凛や士郎の耳には届かなかったのだろう。呟いたリアは厳しく俺を睨みつけていて、そして次の瞬間には無表情になっていた。
その様子に思わず驚いて、俺は呆然とリアを見返してしまった。
「アルト、後で話があります」
リアはそれだけ俺の横で囁き、士郎の後ろについていった。俺は一人、その場に立ち尽くす。
――――限界か。
間違いなくリアは、アルトがアーサーであることに違和感を覚えた。凛との問答でアルトのアーサーとしての異常が浮き彫りになってしまった。
アーサー王は国を守るために多くの選択をした筈だ。どちらを選んでとしても、犠牲を生む選択もあっただろう。より少数を切り捨て、より大数を生かし、戦争に勝利し、その結果として国を存続させていたのだ。
微細な部分は変われど、伝承として残っている英雄アーサーとしての生き方に変化が及ぶ筈はない。事実、どの書物にのっているアーサーもそのように生き、国を執り、覇業を成してきた。そうしてアーサーは多くの騎士を束ねた王として、後世になっても尚、一般に浸透するほどの英雄となっている。
俺の考えは、アーサー王としてのあり方に逆らっているといってよかった。国を存続させる為には、害はあっても益はない。
……セイバーは己が王の器ではなかったと思い悩みながらも、けれど王としての在り方に誇りを持っていた。『アーサー王』が王としての覚悟すらも持っていないことに、どうしてリアが納得できようか。
凛はうっかり『伝承の違い』で納得しているのかもしれないし、リアと俺との性格の違いがあることに慣れて気づいてないのかもしれない。
だがその凛にしてもいつ俺の不自然さに気づくかわからない。それは、遠い未来ではないのかもしれない。
本当に隠し通したかったのなら、自分を殺してでもセイバーとしての行動を取るべきだった。せめて反論なんてするべきではなかった。
それでも、自分を曲げてまで嘘をつきたくなかった。自分の理想を偽りたくなかった。
ここまできたならば、もうリアには俺の正体を明かす他ないだろう。あまりに俺の行動は、元来のアーサー王であるリアと違いすぎた。
信じてくれるかはわからないし、最悪、士郎や凛にも話さなければならないのかもしれない。それでも自分が行った選択、その責任は取るべきだ。
その後、凛が学校の始末を言峰に任せて、衛宮家に帰る。
士郎と凛が話し合った結果、慎二も衛宮家に連れて行くことになった。凛とリアはマスターだったことで反対していたが、家主である士郎が強硬に主張したためにこのような運びになった。
まぁでも、いくら教会に保護さようともサーヴァントの襲撃に耐えられるとは思えない。キャスターもどうやら慎二を殺す気でいるようだし、慎二を守るという点では現状で最善の選択だろう。
士郎と凛は今後の活動方針について話し合いながら先頭で並んで歩いている。その横には慎二。たまに士郎と凛を見てはそっぽを向いて無言で足を進めていた。
リアは相も変わらず、ただ黙々と士郎の後ろに控えている。俺は今後のリアとの関係に憂慮しながらも、考えることがあった。
キャスターのマスターについて。間違いなくそのマスターは士郎のクラスにいたのだろう。俺がいたクラスに柳洞寺から通う生徒は一成唯一人、だけどその一成は確かに教室で倒れたままだった。
生徒にはいない。そうなると残るは教師なのだが、一人だけ該当していた。
葛木宗一郎先生。うちに居候しているのだ、と一成本人から聞いたことがある。昼休み一つ前の授業を思い出すと、その担当教諭は確かに葛木先生だった。それに、教室を確認した時、俺のクラスメイトだった連中は全員揃っていた。間違いないとみていいだろう。
「どうかしたのか、アルト?」
「……士郎?」
いつの間にか俺の横には士郎が歩いていた。心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「元気がないみたいだけど、どうしたんだ? もしかしてさっきの遠坂のアレか?」
「いえ、……その」
それほど深刻な顔をしていたのだろうか、俺は。反射的に返事を言いよどんでしまう。
確かにあれから会話には加わっていなかったけど、別にそれで落ち込んでいる訳じゃない。まぁ、さきほどの問答が原因ではあるのだけれど。
「リアも遠坂もああ言っていたけど、とりあえず俺はアルトの味方、っていうか同じ考えだからさ。あんまり人に話すようなことでもないけれど、俺はさ、誰かを助けられるような人間になりたいって思っているんだ」
「そう、なんですか?」
「ああ」
士郎は頭の後ろで手を組んで空を見上げる。
「子供の頃からずっと。助けを求めている人を救うんだ、ってさ。そのために体を鍛えたりとか色々やっているんだけどどうも上手くいかなくて。今回のことだって、アルトが来なけりゃ俺も今頃死んでいただろうし」
確かに後一歩遅れていたら士郎は間違いなく消し炭になっていただろう。その行動に思うところはあるけれど、間に合ってよかったとは思う。
「まぁ、ちょっと人に言うのは恥ずかしいんだけどさ」
そういって、顔を赤く染めながら照れくさそうに頬を掻く士郎。何故そんな話を、俺にするのだろうか。
「ふふっ」
でも、何処か一生懸命な士郎のその様子が可笑しくて、知らずに口から笑いが漏れていた。
「うん。やっぱりアルトは笑っていたほうがいい。それと、言い忘れていたけど助けてくれてありがとな!」
そう言って顔を真っ赤にして笑うと、士郎は凛の横に並んで先を歩いていった。
ああ、そうか。ようやく合点がいった。士郎は士郎なりに落ち込んでいるように見える俺を慰めようとしていたのか。自分に慰められるって何だか変な感じだし、それは客観的に見れば自己弁護になってしまうのだろう。
ま、でも
「……俺のほうこそ、ありがとう」
――そのお陰で気分は軽くなったかな。
耳まで赤くしている士郎のその背中に向かって、小さく、本人には聞こえないだろう感謝を述べた。帰り道を歩く俺の足取りも、きっと軽くなっていただろう。