まだ外は暗いまま。太陽はまだ地平の向こうで、光がこの屋敷に届くのに二時間は優に掛かるだろう。
静謐とした世界の中、室内灯をつけた私の部屋はやはり静かであった。
そう、目の前で凛が私をじっと見ているのだ。じとーとした目で。……怖い。
「あ、あの」
胸の前で手を合わせたり、部屋の中に視線を巡らせたりしていたけれど、沈黙に耐え切れず声を掛けた。
自然と引け腰になってしまい、声もあんまり出てくれない。
「……その」
声を掛けてみたけど、凛に反応がない。状況の打破には至らなかった様だ。
どうしよう? どうすればいい? 結局また、おろおろすることになった。
掛けた声の余韻が完全に消え去った頃、ようやく凛が一つ息を吐いた。何事か考えごとをしていたのか、その息には、何か重いものが混ざっていた気がする。
「枕を投げつけるってのは一体どういう了見なのかしら?」
「す、すいません、すいません! 決してわざとじゃ……」
びくーん、と直立不動。その後、コメツキバッタのようにペコペコと頭を下げる。
「そうね……わざとやってたんなら、間違いなく拳が飛んでたわ」
「ひっ」
「……座れ」と言われて即座にその場で正座した。目線を合わせるように、凛が目の前でしゃがみ座りしている。
それに、凛の声が恐ろしいほど平坦である。もう一度言おう。……怖い。
「まぁいいわ。それで、どういうことよ? いきなり枕を投げつけるなんて」
ふぅ、と軽く息を吐いて両足を抱え込む凛。声が一瞬で普段の調子に戻る。
こちらもほっと息を吐き、姿勢を正した。
「申し訳ありません。あの、少し気が動転してまして」
「だから、何で気が動転してたの? って訊いてるわけ。何かあったんでしょ? 枕ぶつけられたんだから、訊く権利くらいあるわよね?」
なんて唇の端を吊り上げながら言って、私の額を掌でぺしぺし叩く。
「えーっと……その」
口篭ってしまう。『夢の中で貴女に襲われました』とでも言えばいいのか。何時ぞやの出来事が脳裏に甦る。
……
「凛は、何故か私の体に過度の興味を抱いているようなのです」
「――――過度の興味って、遠坂。まさか、お前」
誰も動かず、言葉も発せない中。数秒程経って、気づいたように士郎が凛から一歩分距離を取る。顔はヒクヒクと引きつり、その後もじりじりと後退している。
「ち、違うわよ! ア、アーチャー! 変なこと言わないで!!」
「セイバー、遠坂には極力近寄っちゃ駄目だぞ。何をされるかわかったものじゃない」
士郎はセイバーを腕で後ろに下がらせる。だが、それに素直に従うようなセイバーではなかった。
「ええ、わかりましたシロウ。――リン、先に言っておきますが、私はそちらの趣味は持ち合わせていません。少なくとも自ら進んで行おうとは思っておりません。どうか他を当たるよう、お願いします」
セイバーは進み出て、手を『STOP!』というように凛の前にかざす。
なるほど。サーヴァントはマスターを護るモノであって、マスターに護られるモノではないということなのだろうか。
「セ、セイバーまで……」
流石にセイバーの一言は効いたのか、凛は力尽きたように膝をついてうな垂れた。
……
なんてことがあったからな。俺が原因で。
夢の内容を見る限りじゃ、まったくのデマってわけでもなさそうではあるけれど。まぁ、それでも口に出すのは憚られる。
って……あれ? 夢の内容、覚えてるぞ。
今までは起きるころには断片しか残っていなくて、意識が覚醒するころには忘れていたけど今日ははっきりと覚えている。それどころか体験夢に限っていえば、初日から昨日の夜の分まで全部、記憶がある。いや、思い出したといったほうがいいのかもしれない。
でも……なんでさ?
「ねえ」
「はいっ! あ、なんでしょうか?」
どうやら考え事に耽ってしまっていたらしい。凛の声で我に返る。凛はいつの間にかに顔を伏せていた。声が、震えている。
「やっぱり駄目? 私には話せない?」
「駄目って、一体何を……?」
心臓が、一拍飛ばして跳ねた。俯いたままの凛の表情は、こちらからは見えない。けれど、その声からは容易に苦悶の色が聞き取れた。
「あなたは、何を隠しているの?」
「か、隠してるだなんて、そんな……」
「馬鹿じゃないんだから、リアと何かあったことぐらい気づいてる。その問題が、あなたとリアの存在に大きく関わっているってことも。――――伝承の相違による人物の分化だなんて、嘘なんでしょう?」
「…………」
凛に、睨みつけられている。顔を赤くして俺を見るその目尻は、少し潤んでいた。
疑問を投げかけられ、それでも俺が一向に何も言わないものだから凛は頭(かぶり)を振ってまた視線を落としてしまう。
「ずっと、引っかかってた。同じ英霊が同じ地に召還されて、性格がここまで違うなんてありえないって。そもそも、貴女とリアって本当に同じ英霊なの? セイバーにしか特性がないってことなのに、アーチャーとして召喚されるアーサー王。当時に存在している筈もない和弓を扱えるし、昨夜の中国剣にしてもそう。なんで、咄嗟に出るのが中国の短剣な訳? 同じ短剣にしても、アーサー王が所持していたっていうカルンウェナンの方が絶対に使い慣れてる筈よね? ……あなた、わからないことが多すぎる」
俺は、何も言葉を返せない。思考が上手く回ってくれない。
目は見開いたまま瞬きは出来ず、わなわなと唇が震えるだけで口を開けもしない。
そんな俺の様子をどう見て取ったのか、凛は自嘲するような笑みを浮かべた。
「……そうよね。私のことを信頼してくれてるようで、貴女は何も話してくれていない。いつかは本当のことを話してくれると思ってたけど、いつも言葉を濁してそれっぽいことを言うだけだもの。ねえ。私じゃあなたのマスター足り得ない? あなたのマスターとして力不足なの?」
「ち、違います、そんなことはありません! 凛は、凛は立派に……!」
関を切ったかのようにまくし立てられ、咄嗟の俺の否定も空しく響く。
感情の昂ぶりによるものか、信頼されていないという悔しさからなのかはわからないが、凛の頬を雫が伝っていた。あの遠坂凛が、俺に言葉を叩きつけながら涙を流していた。
「じゃあ、何よ! 何が違うっていうの?」
「それ、は……」
言葉が続かない。今まで隠していたことのやましさからか、凛の視線を避け、下方に向けてしまう。
俺は、どうすればいい? 凛に全てを話すべきなのか?
遠坂凛に、俺が衛宮士郎の成れの果てだと知られたくなくてここまで隠してきたけれど、それは果たして凛を不安にさせてまで貫き通さなければならないことなのか?
考えるまでもない。俺の我が侭なんかで、凛を悲しませていい筈なんかない。
――――けれど。俺がここで全てを打ち明けることで、良からぬ問題が発生しないだろうか?
これまでの経緯も、衛宮士郎としての一生をも語らなければ、今の俺について説明できない。
そうすると、どうしても俺の知るもう一つの聖杯戦争の顛末についても話さなければならなくなる。隠したまま上手く話せるほど、俺は器用じゃない。
これからの大まかな情報を凛が知ってしまうことで、何か重大な過ちへと繋がってしまわないだろうか?
リアに知らせる分には、問題はなかった。あくまで彼女はサーヴァントであり、物事の最終的な判断はマスターが行うからだ。情報に左右されるのは士郎や凛であり、その判断如何によっては全員の生死に関わってくる。
そも、衛宮士郎として聖杯戦争で得た知識は曖昧なもので、全てを知っているわけじゃない。
他のサーヴァントの情報にしてもそうだ。宝具について、戦い方や能力の幾つか知っているからといって、そのサーヴァントの全てを知ったわけじゃない。……知っているもの以外に、宝具を複数持っている可能性だってある。
そう考えると、迂闊には話せない。何より話すことで、結果的に凛や士郎に危険が及んでしまうかもしれないから。
「――――サーヴァント・アーチャー。真名をアルトリア=ペンドラゴン。有名な名は、アーサー王」
「ええ、貴女のことよね」
「あなたに召喚された後、私はそう名乗りました。――ですが、厳密にいうならば私はアルトリア=ペンドラゴンではあっても、アーサー王ではありません」
「え? アーサー王の名を持っていながら、アーサー王じゃない?」
それでも――話そう。話せるところまででも、凛に打ち明けよう。
ここで何も話せないなら築いてきた信頼は崩れ落ち、代わりに凛と俺の間には確実に大きな亀裂が生まれるだろう。
そうなったら、もう取り戻せない。一度生まれてしまった不信感は、簡単に拭えない。
凛は俺のことを戦力として信用はしても、今後一切、信頼することはなくなるだろう。パートナーではなく、完全に使役する者とされる者の関係――主(マスター)と従者(サーヴァント)に成り下がる。
でも、そんなことは結果でしかない。そんなことは、考えるまでも無い。だって俺は、凛との信頼を失いたくない。それだけなんだから。
「…………そしてその時、真名が二つあると言ったのを覚えていますか? 確証はありませんが、私がアーチャーのクラスで喚ばれたのはそのもう一つの真名が関わっているのだと思います」
「え? あ、真名がふたつあるって…………嘘!? それって、てっきり二つ名がアーサー王なんだと……」
勘違いしていたわけか。それについてまったく問い詰めてこないから、おかしいとは思っていたのだけど。
「凛。アーサー王は真名には成り得ません。アルトリア――いえ、アルトリウスを王の名としてアーサー王と呼称しているだけです」
「……考えてみればそうよね。なんであの時に思い至らなかったんだろ。それじゃあ、もう一つの真名っていうのは?」
「申し訳ありませんが、それについては、まだ話せません。今話してしまえば、色々な不都合が生じてしまう」
顎に手を当てて、考え込む凛。若干赤くなった目が、俺を射抜いている。
「……不都合? ねえ、真名が知られることで不都合が生じるって、何か重大な弱点でもあるわけ?」
「いえ、そういうわけでは……確かにその名の私は弱点だらけかもしれません。ですが、戦闘面で能力が下がるといったような類のものでもありません」
「――――そう。直接的に不利な事態に陥るって訳じゃないのね。中国剣や、和弓を使えたのは?」
「それは……もう一つの名の方に関わってきます」
「話せない、のね。そう……わかった」
「すみません」
大きく頭を下げる。話せたことなどないに等しいけれど、もうこれ以上は衛宮士郎に繋がってしまう。
「謝らなくていいわ。それより、今話したことに嘘はついてないのね?」
「ええ、ついていません。私の――アルトの名に誓って」
じっ、と俺の瞳を見つめる凛。対して俺も、目を逸らさず見つめ返す。ただ、ひたすらまっすぐに。
「……それならもういいわよ。ここで納得しとく」
そうして暫くして、凛は袖で目を一度こするとすっと立ち上がった。
「……悪かったわ。こんないい年して駄々をこねたみたいで。でも、貴女も悪いんだからね。これからは少し貴女のマスターのことを気に掛けてあげなさい?」
照れ隠しになのか、凛は顔を赤くしたままぶっきらぼうに言い放つ。申し訳ない気持ちになると同時に、どうしようもない愛おしさがこみ上げてきた。
ここに俺がいる理由は、いまだわからない。けれど、訳のわからないこの状況だけど、それでも俺のマスターが凛であってよかった。そう思えた。
「……はい。ありがとう、凛」
俺が小さく頷いてみせると、凛はフン、と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いて見せる。
「ああ、最後に聞いておきたいんだけど」
「はい?」
部屋から出て行こうとしていた凛が足を止めて、振り返ってきた。丁度こちらも立ち上がっていたので、目線が同じ高さになる。
振り向いた彼女は、そっと微笑んで一言。
「貴女の真名――貴女のもう一つの名前、いつか私に教えてくれる?」
「そう、ですね」
それがいつになるかはわからないけれど。
「きっと。いつか必ず」
「そ。それじゃ、その時を期待しているわ」
微笑むとそれだけを言って、凛は歩みを再開させた。いくらも経たないうちに彼女の背中が廊下に消える。
俺はその姿が見えなくなっても、凛が出て行ったドアをしばらく見つめ続けていた。