しばらく扉を眺め、布団の上に寝そべりながら頭の中を整理する。付けっ放しの室内灯から影をつくるように、顔を右腕で覆った。
……軽い耳鳴りを覚えながら先程のことを思い出していた。頭の中は話さずに済んだという安心感と、凛に対しての罪悪感で一杯だった。
判断を誤る可能性があるから話せないとあの時は決断したけど、それだけだったのか。
凛や士郎の身を危惧したから、あの結論に至ったのか。本音を明かしてくれた凛に対して、誠意のある回答ができたのだろうか。
――――そんなことは、ない。
衛宮士郎が感情で動いてしまうのを止めてくれているのは、いつも彼女だ。俺が一人で考えるよりも、手持ちの知識を活用して今よりも優れた対策を立ててくれるだろう。
何かを間違えているようなら俺やリア、士郎が意見するなりしてサポートすればいいだけのこと。あの時俺は、正体を『話さずに済む理由』を必死に探していた。
イレギュラーなセイバーのままでいたかったのは否定しない。自分が衛宮士郎であると露見しまうことに対する不安は、いつでも心に根付いている。
それが、凛に対する都合のいい過小評価を生み出した。それを、自分が逃げる為の言い訳にしていた。
俺は冷静に、自分が今後どうするべきかを考えなきゃいけない。
手をついて上半身を起こす。小さく息を吐いて、寝巻きにプリントされているデフォルメした子犬を何となく見つめてみる。
――――俺は、俺自身はどうしたいんだろう。
図らずもセイバーの体を借り受けてしまった俺は、いったい何になりたいんだろう。
今の俺という存在はきっと酷く曖昧で、不安定だ。あまりに弱い。自分の居場所にばかり固執して、為すべき事が出来ちゃいない。
今一度、俺は原点に帰る必要がある。
――――『正義の味方』
赤い世界。起こしてはいけない悲劇。そこに浮かぶ衛宮切嗣の顔。救われた、そしてその行為に憧れた。
切嗣の目指したモノ。そして、衛宮士郎が目指しているモノ。
多くの人を助け、救う。そんな夢のカタチ。届かない、遥か遠い到達点。そこへの道、その在り方。
俺が衛宮である理由。いや、衛宮士郎を名乗る俺は、衛宮士郎である限り其れを求め続けていく。
それだけは変わらない事実。
あの赤だけの世界から生還し、朽ちていった者を置き去りにした俺に出来ること。すべきことはより多くの人を、助けること――――それだけだ。
悩む必要はない。悩む余地など挟まない。――――俺が、衛宮士郎であるならば。
頭がクリアになっていく。
そうだ。いくら考えても結果は一つしかない。
サーヴァントは聖杯戦争が終わった後はこの世界から消滅し、またどこかへと召喚される。
その枠組みに俺が含まれているのかはわからない。でも、出来ることなんて限られている。出来る限り被害を出さずに聖杯戦争を終わらせるだけ。
持てる力で凛やリア、士郎を守り、そしてその上で聖杯戦争中の被害を最小限に留めることだけだ。
聖杯に求めるモノなんて、俺にはない。
人々を救える、人々に平穏を取り戻す。それだけで俺は俺でいられる。例え、その過程で朽ち果てようとも。
思考は終着まで行き着いた。
……行き着いたはずだ。それ以外の選択肢は存在しない。
でも、この心に残る異物はなんだろう。
衛宮士郎の精神に残る、このわだかまりは――――。
異物感を払うように頭を軽く振り、時計を見る。
起きるには早すぎるけど、今から寝るにはちょっと遅すぎる。朝食を作るなら、丁度いいかな。
立ち上がってクローゼットを開ける。そこに掛かっているハンガーを手に取って、ブラウスを取り出す。
思考を切り替えて、改めて自分の部屋を見回してみる。
衛宮士郎だった頃と変わらず、いや、その頃よりも物が少ない。基本的には凛の部屋と間取りは変わらない洋室。その隅には小さな机。その上には遠坂邸から持ってきた『世界の宝剣』とレシピ本が置いてある。
ベットの代わりに布団が敷いてあって、それが凛の部屋より広いような錯覚を覚えさせている。
クローゼットに掛かっている赤の長袖を端にずらして、同じく掛かっているスカートを二つにたたんで腕に掛ける。
ここに掛かっているものも、そんなに数がない。いつも私服にしているブラウス数着と、スカートも同じ数だけ。それに今ずらした凛の私服のサイズ違いに、昨日借りたベージュのカーディガン。
サーヴァントだから、私物が少ないのは当然なんだけどさ。出来ればジーパンとかズボン類の方が精神的に楽になる。……でも、用意してくれないんだろうな、凛は。俺の反応を見て、楽しんでいる節があるし。
軽くため息をつきつつ、視界を下げないままパジャマを脱いで手に取ったそれらを身に着けていく。
最後に髪の毛を結ぶ。結び終わって鏡で確認。そして時計を見る。――よし。上出来。
結ぶ速度が上がっていることに密かに達成感を覚えている俺がいる。
リアに教えてもらおうかと思ってたけど、ちょっとしたコツを掴んだから後は追いつけ追い越せだ。……俺、追い越してどうする気なんだろう。
廊下を静かに歩きながら、居間に向かう。
士郎を部屋に寝かせた後、リアに任せて部屋に戻ったけど、士郎は大丈夫だろうか。
「アルト、おはよう」
「あ、おはようございます」
居間に着くと声が掛かり、思わぬ人物がいたことに驚く。
小さく笑みを浮かべて挨拶をしたのは、先ほどまで一緒にいた凛だった。私服に着替えた彼女は居間で静かに紅茶を飲んでいたみたいだ。
朝が弱い彼女のことだからもう一度寝るのかと思っていたけど、起きていることにした様子である。時計を見ると六時ちょっと前。俺が着替えたりする時間を差し引くと凛が出て行ったのは五時過ぎくらいか。
「あ、アルト、ちょっと来て」
「何でしょうか?」
朝食の下ごしらえを始めようかと台所に向かっていた俺は振り向くと、凛は立ち上がって歩き始めた。廊下に続く戸の側まで行くと、そこで俺が付いてくるのを待っている。
なんだろう、と思いつつ素直についていくことにする。
どこに行くのかと思ったら、凛は士郎の部屋の前で立ち止まった。
そのまま襖をノックする。……少し待ってみても中から返事はない。
「入るわよ」
凛は一言だけ声を投げかけた後、襖を開けて中へ入っていく。というよりも、元より返事は期待していない振る舞いだ。
男の部屋に堂々と乗り込む凛に軽く嘆息しながら、後に続く。
「失礼します」
……そういえば、アルトになってから士郎の部屋に入るのは初めてだな。
といっても珍しい物は何もない。記憶の中にある俺の部屋と寸分違わない。
部屋の真ん中で、士郎が布団の上に横たわっている。その横にはリア。壁を背もたれにして眠っていた彼女は凛の声に反応して起きたらしく、佇まいを正している。
俺と凛が無言で歩いていたとはいえ、彼女が声を掛けられるまで気づかないというのは異常だ。
魔力の供給が少ない彼女には、昨夜の葛木との戦闘で負った負傷の修復も馬鹿にならないのだろう。俺が駆けつけたときにはもう倒されていてその怪我の程度を見ることはできなかったけど、首の骨を折られていたらしい。キャスターのあの短剣を使われなかっただけ、首の骨だけで済んで良かったと見るべきなのか。
いつの間にかサーヴァントの常識に染まってきている自分に、ちょっとびっくりする。
普通、人間だったら首の骨折られたら即死だ。俺にしてもアサシンに斬られた傷で死んでいる。
……知らないうちに、そうとは思えなくなってきているのが怖い。
「あの、こんな早くにどうしたのですか?」
リアが不安げに凛を見ている。こんな早朝に乱入したことから緊急事態だと思ったか、それとも寝入っていたのを見られたことを気にしているのか。
「ちょっと早起きしちゃっただけ。別に他意はないわよ」
「そう、でしたか」
二人が会話している間に、俺は士郎の様子を見てみる。
以前、宝石を呑まされた時の様に息は荒く、頬が赤い。うなされているのか、口元は言葉を紡ぐことなく、ぱくぱくと動いている。
どんなことを言っているのか気になって、士郎の口元に顔を寄せてみる。
ほとんど聞き取れない。唯一理解できたのは「男……赤い……世界」
……赤い世界とは俺が助けられたことか、そしてそこで語られる男とは切嗣のことだろうか。
その単語には心当たりがありすぎる。組み合わせてみても『赤い男』、『赤い世界』……。『男の世界』だけは心当たりはないが。
なんにしても、基本的に夢を見ない衛宮士郎という人間が何かを見ているということ自体が珍しい。ま、もともと興味本位だから、そんなに内容が気に掛かるわけじゃないけど。
ふと気が付くと、リアと凛の話し声が聞こえてこなくなっていた。
不思議に思って二人の方に顔を向けると、リアは複雑そうな顔で、凛はにやりと笑ってこっちを見ている。
「どうしたのですか? リア、凛?」
「ああ、いえ。この位置から見るとアルトがシロウに、まるで抱きついているように見えたものですから」
「へ?」
俺が、士郎に、抱きついている?
リアの言っている意味を理解する前に、凛がすっと立ち上がる。そのまま静かに歩き出すと、俺と士郎の延長線上に立った。
「丁度いいわ、ていっ!」
そう言って、俺に向かって蹴りを繰り出す凛。打撃を与えるというよりも押しのけるように足を押し出した。
士郎の顔に寄せるように体勢を崩していた俺は、もちろん避ける余地もなくその蹴りを受けることになる。
「な、なにを……やめてください、凛」
背中に凛の足が当たる。痛くはない。でも、なんとか持ちこたえようとする俺に向かって体重をかけてくる。あ、もう駄目だ。倒れる。
「あ、ちょっ……ぅあ」
どさっ、と倒れる俺。当然俺の下で寝ている士郎は潰される。
何故か、倒れた俺を足でぐりぐりと踏みつける凛。なにやら顔を赤くしてそんな俺と士郎を見比べるリア。
……なんだ、この状況。
「ん~、駄目ねぇ」
俺を踏みつけたまま、そう漏らす凛。なんにせよ説明があって然るべきではなかろうか。
「やっぱり、直じゃないと駄目かしら」
そう言いつつも足は未だに俺の背中に乗っていて、俺と士郎は密着状態にある。伝わってくるのはごつごつとした、男の体。
む、もしや……。
体で押し潰してから、下に潰された士郎を見て思い当たる。士郎の胸と俺の胸に挟まれていた手を引き抜き、そのまま伸ばす。
「……ぅ」
小さく漏れる士郎の声。それに構わず、俺は手を伸ばし続ける。
顔の位置を合わす様に、士郎の肩と自分の肩を合わせる。当然だけど、俺よりぜんぜん広い。一回りも二回りも違う。
腕。そこまで太いわけじゃないが引き締まっている。触っただけで欠かさず鍛えていることがわかる。
腹。手を沿わすと筋肉の隆起が感じ取れる。硬い。自動車のタイヤみたいな弾力がある。
胸。見た目ではわからないけど筋肉質だ。重過ぎない程度ついている。
触るたびに士郎から漏れる、喘ぐ様な声。それに気づかず、俺は士郎の体に魅入っていた。
太ももをさすって、ぺたぺたと触ってみる。
だらしなく放り出された左手で握ってみる。無意識にか握り返してきた。
首を撫でる。……ちょっと物足りないけど、いい感じ。
最後に背。両腕を使って抱きついてみる。安心できる、思っていたよりも逞しい体。
うん――――やっぱり。思ったとおり。
「な、あ、ちょっと! アルトどうしたのですか! 何をいきなり!」
先ほどより顔を赤くしたリアが俺に向かって叫んでいる。顔から湯気が出そうな勢いだ。
「そうよ、何をしているのよアルト! なな、なんか手付きがいやらしいわよ!」
同じく、いつの間にか背中にあった足を離して距離を取った凛が顔を真っ赤にしている。おまけに、若干ぷるぷる震えている。
「何って……。士郎って、実は結構筋肉質なんですね。気づきませんでした」
――――何をしているって、見てわかるように士郎の体の鍛え具合を見ていたのだ。
自分だった頃じゃわからなかったが、傍から見ると中々どうして。体に厚みはあるし、全体的に贅肉は少なく柔軟な筋肉が作られている。筋トレのみで作られた見せる筋肉じゃなく、動くための筋肉。
ああ、毎日の日課が間違っていなかったんだと今だからこそわかる。こうした日々の鍛錬があったからこそ、聖杯戦争中に遭った咄嗟の襲撃にも体が対応出来ていたんだろう。
自分が目指している位置に、ほんの少しだけど近づけていたんだと思うと、思わず微笑んでしまう。
俺の微笑みを見たらしいリアと凛は何故か、ぴしり、と固まった。
「だ、駄目ですアルト! そっちの道は間違っています!! 戻ってきてくださいアルト!」
「い、イヤーー! 私のサーヴァントが好色なんて、すっごいイヤーー!! マッチョ好きとか、ほんとやめてー!!」
何で二人はそんなに取り乱しているんだろう。
士郎に抱きついたまま、訳もわからず俺は首を捻った。