大国の間に挟まれた紛争地帯。その北端、大陸大草原に居を構えるハインフィリアの一団こそ、私が生を受けた修羅場である。
馬を駆り、馬を手足とし、戦場を荒らし回っては勢力を拡大する修羅の一族。彼らにとって戦争とは、生きる手段であり目的である。それは男も女も変わらぬ。戦争のただ中に彼らは生きている。
私の誕生は、当然のように馬の背の上で行われた。そしてその成育もまた、同じように。
その半生を語ることに意味はないだろう。思い起こされるのは血肉ばかりだ。生活と戦争は直結し、私は常に走る馬の背にあった。それが追いかけているのか逃げているのか、きっと意味は同じ事だろう。それが戦争だということには変わらない。
五歳に弓を取り、捕虜の首を撃ち抜いた私を父は褒めた。七歳に剣を取り、戦場に敵兵の首を刎ねた私を母が褒めた。
十を数える頃には、私は戦士として大人達を率いていた。
天才と、そう呼ばれることは心地よかった。しかしその尊称に意味などない。数多の天才がそこら中にひしめき合い、尚も決着がつかぬ地こそ、我らが戦場なれば。
私は戦場に数多の流星を見た。
比喩ではない。魔力光を光芒として引き、神々しく破滅を撒き散らす英雄達こそ、この戦場の主役である。それ以外は全て端役に過ぎない。戦場における主役とは華々しく、そして精強なる戦士である。
そこに策を弄する隙間もあるだろう。軍師達は常に顰め面で地図を広げる。端役達を何とか使い、英雄を殺せぬとも留められぬか、その隙に相手へ致命を与えられぬか苦心する。
しかし、策を弄させ、時には徒労に終わらせる英雄こそ、やはり戦場の主役だろう。如何に地図を広げようとも、地形ごと卓をひっくり返してしまえば意味がない。
これもまた比喩ではなく、現実として目にしたものである。山脈を切り裂いて現れた英雄は、私の母を殺し、そして父に首を刎ねられた。
父もまた、戦場の英雄だった。
その背中に憧れを抱かぬ者は居なかった。それは父に、と言うよりは、英雄にである。その存在だけで戦術も戦略も覆すほどの人間。人の形をした怪物。
幼子達は日々英雄譚を口にし、自らもまたそれに名を連ねようと、馬を駆って首を刎ねる。
ハインフィリアの一団だけが特別なのではなかった。この地に軒を連ねる者共は、皆往々にして英雄への憧れがある。それは信仰と言っても良いかもしれない。唯一なる神を抱く我らにとって、決定的に互いを切り離すものは、各々が抱える英雄の存在である。
『いや、民族を民族たらしめると思わせるのは、普通は文字とか芸術とか、つまりは文化ですけどね』と、少年は言ったが。
しかし少年風に言うのならば、これもまた文化であろう。私達は英雄という独自の文化に尊厳を抱き、自らもまたそれになろうとする。
私もまた父に、そして英雄に憧れ、一刀の下に山脈を切り裂く光景を夢見た。一矢に大地を切り裂く光景を求めた。
だが私の師はその様な英雄を、私の父を『未熟』と断じた。
『集団の長として象徴たらんと、派手な技を見せびらかす意味は理解する。しかし幼子がそれに憧れるのは悪い。剣の究極はそこにはない。剣の究極とは、その様な見せものにはない』
夜。天幕の内に父を叱り、師は剣を構えた。長い白髪が胸元に垂れ、皺に塗れた手足が力なく剣を支える。
師は、老婆だった。対して父は未だ精強な壮年である。抜刀に雲を裂くことも可能だろう。
事実、父の斬撃は天幕を裂き、風を起こした。しかし師の肉は風に揺れず健在であった。そしてその剣先は父の首筋に添えられており、静かに敗着を告げていた。
『見たか』と師は私に言った。『殺し合いとは、所詮人によって行われるもの。見ることが可能ならば、怪物が如き膂力も問題ではない』
私は確かに見た。師が抜刀の前に半身を逸らし、同時に腕を動かすだけで首筋に剣先を至らせたのを。
それは斬撃と呼ぶよりも、ただ置いただけのように見えた。そして事実、そうであった。師は剣を振ることはなく、置くようにして操っていた。
『力はいらぬ』師は一切刀を動かさず、身体の動きだけで馬を裂いた。そして賞賛を口にする父を叱り、私に言った。
『人が行うものならば、術理は依然、変わらぬのだ。たとえ世界が異なろうとも』
師は──私の祖母は、世界を渡ってきたのだという。
十一になった私は、山を切る修練を止め、代わりに鳥を切る修練を始めた。
膂力で切るのではない。空間ごと切るのではない。『木の葉を切るために山を切ってはならぬ』と師は言った。『それが出来るが故に、それに囚われてはならぬ』とも。
師曰く、剣の究極とは悟りである。
執着を捨てることが肝要なのだという。何事にも心を揺るがさぬ、寂静の境地こそが剣士としての理想なのだという。
勝とうと思って剣を振るうのではなく、ただ生死を明らかにするのが剣の究極。一切の事象に執着を持たず、一切のしがらみを捨て去り、心気平らかであればこそ、剣は自在に転じる。
無念無想──水月の位──剣禅一致。師は言った。『それこそが奥義にして基本。大悟にして日常である』と。
大悟──悟る──のだという。それも一切の前触れなく唐突に、分かるときが来るのだという。
『剣も禅も、究極は頓悟よ』と、師は言った。
唐突に『私は分かった』と、そういう時が来る。しかし剣も悟りも終わりはなく、分かった後にまた分かる。分かり続ける必要がある。
分かり続けなければ、分かったなどとは言えない。
『死ねば仏ではないのですか』
幼時の私は師にそう問うた。一般に聞くのはそれである。祖霊は尊く、仏に比される。それが終わりであり、分かったということ──。
『では仏とは何か』
師は私にそう問うた。私は答えた。『そう伝わるものです』師は憂うように首を振った。
『それは麻三斤、即心即仏、乾屎橛──あああ、伝わらぬか。あれも、これも、酷く遠くなってしまった。仏とは何か。何か』
師は手元を翻し、私の首に剣を付けた。
産毛が刃に削がれ、ちりちりと音を立てる。
師は柔らかく柄を握り、言った。
『
私は斬られた。見事に首を断たれた。喉を鋼が通ったのが分かった。
しかし──ぴたりと、首は付いていた。首に触る。脂汗が指先に滑る。暖かな血が流れている。
『肉を捨てよ。心を捨てよ。欲を断て。 仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ。そこに至れば』師は言った。
『そこに至れば──我のように、界を渡ることも出来るだろう』
では──師は幽霊なのだろうか。
そう言うと、彼女は笑って言った。
『そうだ。我はもののけだ。羽のように身体が軽いのも我が既に死したからだ。我は剣に狂うて、涅槃に至らず、この地獄に落ちたのだ』
呵呵──と狂ったように師は笑う。師は狂いながら寂静に居る。
『色即是空、空即是色、一切皆空、諸行無常──呵呵。無意味、無意味。伝わらぬ。由来も知れぬ。此処は何処か』
此処は何処か──師は、私の祖母は、私に問うた。
私は答えることが出来なかった。
『なに、お前は幸運じゃ。この地では、女子も男と変わらぬ腕を持てる。ましてお前は天稟を持っておる。それがどれだけ、羨ましいか』
師は私の頬を撫でた。『何が姫じゃ』と、『我に勝てぬ癖に囀りおって』と、私の顔に見知らぬ誰かを見るようにして言い、そうして笑った。
『見よ、我は強い。我は剣の究極にいる。我は──』
酒を飲んでいないというのに、酩酊したように私の頬を撫でる師に、私は思った。
それは執着ではないのか。
執着を捨て、剣の究極を目指す事そのものが、執着ではないのか。
それさえも忘れ、ただ無に至ることが悟りなのか。一切を打ち捨て、無になることが悟りなのか。
それが剣の究極を、本当にもたらすのか。もたらしたとしても、それは──。
それは、
さて、この地は戦場である。しかし戦場の常として、戦ってばかりいては息が続かぬのも確かである。
馬は消耗品であり、人もまた消耗品である。そうでなくとも和平条約は度々発行され、裏切りと共に焼け落ちる。
私が出立したのは、そんな風に、偶々暇が出来たからに過ぎない。
『諸国修行して見聞を広めるのは良いことだ』と師は言った。一団の皆もまた、笑って私を見送った。
いずれこの地に帰還し、屍山血河を築き上げるために。
しかしながら、この時分、十三の頃であったか。私には常に疑問があった。
私は強さに執着している。しかし師は執着を捨てろという。悟りこそが剣の道であり、無我の境地こそが理想である。
だが、無我において行われるのは戦争である。勝利のために欲を消す。勝利を欲するが故に執着を捨てる。生死を明らかにするとは言っても、前提として勝利を目的とする。
悟りの道とは、悟りを目指しながら、悟りを目指さぬものだという。悟りそのものにも囚われてはならぬと。
だが、その生に意味はあるのだろうか。この煩悶が、私を旅立たせた一因でもあった。
師は狂っているのか。私が狂っているのか。師の教えは間違っているのか。私が間違っているのか。
──私は馬を駆り、西へ向かった。
数多の剣に見え、数多の魔物と相対した。その尽くに私は勝利した。生まれ落ちた地から離れるごとに相手は脆弱になり、私は何時しか、剣先に目の前の敵を見ず、私自身を見るようになった。
私は矛盾を抱えている。
胸裡には煩悶があり、煩悶を抱えながら無我に臨もうとしている。
悟りに至るまでの道が、問い続けることならば──これは健全な状態だと言えよう。
しかしながら、この煩悶は根本の土台である気がするのだ。第一に信じるべきものを、信じ切れぬままに、私はものを積み上げている。
型ばかりを真似て、実がない。形式の内に心がない。
本当に必要なものを、私は持っていない──。
それでも尚、剣の冴えは増すばかり。強さを求める執着は、一切皆空の精神に反していながらも、私の肉体に妥協を許さなかった。
しかし──いや、やはり心の乱れこそ剣の乱れなのだろう。
私は馬を失った。西に君臨する帝国の、首都を間近にした時である。
道すがら襲ってきた山賊共は何てことは無い相手だったが、流れ矢が馬の目を貫き、脳にまで届かせた。それは、私が幼い頃から共にしてきた馬だった。栗毛の馬体は、流石に老齢して艶を失っていたが、それでもよく走り方を心得ている馬だった。並の若駒よりもずっと頼りになる、私の手足だった。
私は山中に馬を弔った。
四足を折り畳み、まじないを唱え、地面の上に寝転がした。それで弔いは終わり、その場を後にするのが通常である。
しかし私は、何故だかそこに夜を過ごした。
日が昇って、また夜になっても、私は馬の近くに居た。
私は獣が肉を啄むのを見た。私は獣を恐れなかった。獣もまた、私を恐れなかった。私は敵意を持たず、ただ見つめていた。
私は肉が腐るのを見た。私はその腐敗を恐れなかった。腐敗もまた、私を恐れなかった。私はただ見つめていた。
「諸行無常」
私はある日、呟いた。馬の肉は動物の歯と舌に刮ぎ落とされ、生々しく白くあった。
「一切皆空」
私は続けて呟いた。目の前には骨があった。数日前には野を駆けていた馬が、今は単なる骨としてある。
私は私の手足を見た。精強な、柔軟さを伴った手足だった。
手足だった馬とは何ら関係なく──私はここに居る。
「私は生きている」
その時、私は何故、この場に居続けたのか分かった。
私は、
その先に何かが見えるものと。内心の矛盾に──欠落に、何か答えをもたらすものと、そう思い、私は死体を見続けた。
しかし、私は腐らなかった。
私は生きていた。
私は私の馬とは何の関係もなく生きていた。私は立ち上がり、呟いた。
「無意味だ」
全てが無意味だからこそ、何も分からない。
骨を後にし、水浴びをして、帝国の首都に私は向かった。しかし、馬を失ったのは痛手だった。この地では満足な馬が手に入らぬ。少しばかり商品を見たが、いずれも駄馬に過ぎぬものばかり。
故に、私は暫くこの地に腰を落ち着けようと思った。どうせ無意味な旅路なれば、無意味なことをするのも良いだろう。
そういえば、冒険者ギルドなる互助会がこの地にはあるのだった。今までは無視していたが、腰を落ち着ける以上、無視をしてもいられない。面倒だが、顔を出してやろう。
そんな風に、私は新人冒険者となった。しかし、なったはいいが、その生活には苦労した。
単純なことだ。細々とした取り決めが性に合わなかったのである。討伐の証明だとか、依頼人との契約だとか、それを抜きにしても都市というものが私の肌には合わなかった。
都市に生きる人々は、堕落の民と私の目には映った。この都市は光と騒音に満ちている。歓楽に誘う手は無数にあり、堕落に誘う手はそれ以上に。
都市の中に、私は疲れていた。草原の風が恋しく思った。しかし何よりも、答えの出ぬ煩悶こそが私を疲弊させた。
意味と無意味の狭間に私は悶えていた。私という存在に意味があるのか、無意味なのか。無意味だとすれば死ねば良い。しかし剣への執着はある。執着が故にその執着は捨てなければならぬ。
生きることが無意味なら、死ぬこともまた無意味だろう。
意味を見出せばそこには必ず無意味がある。無意味を見出せば無意味という意味が矛盾を来す。
私の行為全てに、そう言った煩悶が纏わり付き、身体を重くさせた。
ギルドの依頼に真面目に応えなかったのは、有体に言えば、私が迷いの中に居たためである。
──しかし。
しかし私は、その迷いの先に、出会ってはならぬものに出会ってしまった。
「貴方は、本当は悟りなんてどうでも良いんでしょう」と──少年は言った。
私はその少年を知っていた。年若で──私とそれ程離れてもいないが──魔術を得意とする、変わった少年が居るのだと、風の噂で聞いていたのである。
その姿は、私の目にはまさしく都市の堕落と映った。特権たる魔術が、この様な少年までに及び、つまらぬ商売をさせている。靴磨きではないのだ。安価に売り渡して良い技術ではないだろう。
その少年が、聞けば最近は占いまで始めたと聞いて、私は思わず笑ってしまった。
都市の堕落は、神通力をも靴磨きにさせてしまったらしい。
──ならば私の煩悶も、靴のように磨いてしまおうか。
私は、私自身を侮辱するつもりで、少年に話しかけた。彼は大層驚いたようだった。聞けば、占いでは私が初めての客だったらしい。
少年が私を知っていたことは意外だった。彼は私を太陽と呼んだ。その時は、成程、単なる靴磨きではなく口が上手いのかと、その琥珀の瞳に思っていた。
私は少年に私の煩悶を話した。それは冷や水を浴びせる心地だった。或いは嘲笑か、皮肉か、それとも罵倒だろうか。
いずれにせよ私は、靴磨きのように占いを持ち出す少年を──さながら都市の象徴のように──不快に思っていたことは確かである。
しかし、門前の小僧に難題を唱えても何の意味もないことは分かっていた。事実、隣に座していたローブ姿の男は顔を引き攣らせていた。
だが、少年は、私の話を聞き終えて言った。それが、先の言葉である。
「貴方は、本当は悟りなんてどうでも良いんでしょう。別に詳しくはないですが、悟りとはこれこれこういった答えがあるわけではないでしょう。貴方が考えているとおり、考え続ける事こそが悟りの道じゃないですか。だからそれを続ければ良い。それを続けられぬというのなら、それは貴方が悟りなんてどうでも良いからだ」
私は狼狽えた。そこには整然とした思想があった。それも、私の祖母の語る思想である。
この都市に至るまでの道中、私は諸行無常も一切皆空も人の口に聞いたことが無かった。それはどうやら存在するらしいが、あくまで書物のものでしかないようだった。実践など、誰もやっていない。私と私の祖母を除いては。
「貴方は勘違いをしている。貴方自身を勘違いしているんです。まさしく無意味に意味を見出そうとしていることこそ、貴方の間違いだ。しかしそれは禅の間違いでも悟りの間違いでも、ましてや仏教の間違いでも無く、貴方自身の間違いでしょう」
「勘違いを──私は、私自身が見えていないと?」
「ええ。対して俺にはよく見えますよ。貴方は得たがっているのでしょう。剣の道ですか。それのために悟りが欲しいと。しかし、一度の神秘的な体験で救われることを望むのは、悟りとは呼べません。それは悟りと呼ぶよりも回心ですよ。神が与えたもうた特別な啓示によって、我々は神の真意を真に知り、信仰の道を歩むことが出来ると。その様にして貴方は答えを得たいんですかね。それで良いならそれを待てば良いと思いますが。座禅の型だけを真似ようとも、一生に一度くらいは魔境に入れましょう」
魔境──分かったと、そう思い込む境地。悟りに近く、悟りから最も遠きもの。
「大体、人間の脳なんかは幻覚を見やすいように作られているのです。いや、我々が見ていると思い込んでいる現実が、それこそ幻覚染みているとも言えますが」
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ──と、師は」
「ああ、有名な文句ですね。俺でも知っているくらいだ。それだけ人は魔境に入りやすいんでしょう」
黄金の仏が降りてくるのだという。極彩色の光明が降り注ぐのだという。その途端に、全てを悟った気になる。
しかし、それは『まやかしなのだ』師は言った。『問い続けろ。止まるな。澱むな。満足するな。それらは全てまやかしだ──』妙に、声が脳裏に鋭く響く。
「しかし、私は──まやかしも、見たことがない」
「まやかし? ああ、魔境ですか。そんなものは個人差ですよ。そしてそんなものは見なくても良いのです。本当のデータを計測するには不必要なノイズだ。そして致命的なノイズだ。観測機が人間である以上はね。その観測をあくまで客観的に行おうとする精神こそ、一切皆空だの諸行無常だのといった奴なんじゃないですか」
「でえた……?」
「いや、客観というか、真理というか。いやいや、人間の精神に科学的真理を持ち込んだって意味がない。しかし、それこそが悟りなのかもしれませんね。人間の精神における真理だ。それが本当のデータ──そう思い込んでいるだけの──ははは、宗教的真理など千差万別。絶対的に個人的な体験でしかあり得ない。まさしく無意味ですね。もっとも、
何を──言っているのだろう。
少年は、どうでも良さそうに深淵を語る。深淵を私の方へ無遠慮に放り投げ「それで?」と言う。
「言いたいことは言いました。それで、貴方はどうするんです?」
「どうする、とは」
「剣の道に明るくはありませんが、無我の境地に至り、一切の力みを排することは、まあ理に適っているんじゃないですかね。しかし技術はともかく、思想は貴方には合っていませんよ。貴方はそっちに適性がない。努力はしたんでしょうが、前提が間違っている」
「前提が、間違っているだと」
「ええ」
「では、前提とは。私とは、何だと言うのだ」
私の声は乾いていた。
私はいつの間にか、この少年に呑まれていた。
少年は笑って口を開く。
それを聞いては──。
「貴方の本性は、覇王のそれだ」
少年は言った。
「初めの疑問こそが貴方の答えです。貴方は、執着という人間なのです。強さに執着し、剣に執着している。無我の境地なんてものを目指したのは、それが一番の近道だと示されたからでしょう? 貴方の先達であるお婆さんに。しかし、貴方にとってそれは思想ではない。それは手段だ。強くなるための手段だ。それを思想と混同してしまったから、それこそ無意味に悩んでいるのですよ」
「私の思想ではない──」
「だから、貴方の本性は覇王のそれなのです。貴方は禅なんて大嫌いだし、無になって生きるなんて馬鹿らしいと思っているし、悟りなんて糞食らえと思っているんだ。だけど、それが剣を極めるのに必要不可欠だと思い込んで、それを目指すべきだと勘違いしていただけなんですよ」
少年は一息吐いた。琥珀色の瞳。少年らしからぬ、理知を備えた瞳。
その、どこまでも透き通るような眼が、私を捉え──。
ぞっとした。
「ああ、本当に良く見える──」
少年は私を見つめていた。それは事物ではなく、全体を──神の視座で、見つめているような気がした。
「ほら、綺麗な太陽がある。しかし黒点もまた多い。それが気に入らないんだ。だから俺は愚痴を言っている。意思の力で貴方は白色矮星になるつもりで? エネルギーを放射するだけの、熱源がない──それが貴方の悟りですか」
「何を、言っている」
「しかし、それではつまらないな。もったいない。とても、惜しい。いや、今光ったな。そうか、貴方は──」
「何を言っているのだ、お前は!」
何だ、この少年は。
私は、自然と剣に手を伸ばしていた。男が懐に手を伸ばす。少年が眼を見開く。
何を笑っている──!
「
「は」
「弾けろ。弾けてしまえ。執着のために執着を捨て、しがらみのためにしがらみを捨てろ。貴方は、貴方自身を殺してしまえ」
「何を、お前は──!」
「弾けて燃えろ。止まるな。澱むな。満足するな。
それは──師の言葉だ。
師の言葉が、真逆の意味で、少年の口から発せられている。
無念無想も、水月の位も、剣禅一致も──全てを打ち捨てて、私に、
「ああ──」
ずぬりと、剣を抜く。少年の頭上に剣がある。
少年は、満足したように言った。
「うん、それで良い。それが一番美しい」
ああ、
この少年は、私の魔境だ。
この少年は、魔性そのものだ──。
「この、人もどき」
私は呟き、魔境を切り払おうとした。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し。
羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し。
始めて解脱を得ん──。
「酷いことを言いますね。俺は貴方を本当に美しいと思っているのに」
少年は心外そうに言った。
魔性が私にそう言ったのだ。
魔性が、私を。
「──ああ、駄目だ。その言葉が、駄目だ」
私は笑って呟いた。
「魔境だと分かっているのに、極楽浄土に見えるぞ」
剣は微塵も動いていない。揺れることもなく、振るう先をとうに決めていた。
私は、望んで魔境に陥るのだ。
私は、望んで狂うのだ──。
私は剣を収め、居住まいを正し、少年に頭を下げ、言った。
「ありがとうございました。私の名はリイン。貴方の前では単なるリインです。貴方のお名前は?」
「ああ、言ってませんでしたっけ? ジョット。ジョット・ブレイクです」
「ジョット君、ですか」
そうか、それが。
それが──私の
「というか浄土じゃなくて世界ですよ。貴方が覇を成すのはあの世じゃなくてこの世です。というか禅宗って日常の労働も修行にしてるんじゃなかったです? その意味じゃ生きることこそが悟りへの道でしょう。何か間違って伝わっているんじゃないのかなあ。俺も詳しくないからよく知りませんがね」
少年はぶつぶつと言い、「ねえ先生」と振り返り、言った。「先生?」しかし返事は返ってこなかった。
ローブ姿の男は、泡を吹いて気絶していたのである。
私が剣を抜き、少年が笑った途端に顔が引き攣り、問答をしている内にますます顔が青ざめ、理解できぬとでも言うように、倒れ伏したのだった。
「つ、使えねえハゲだなこいつ……」
少年はゲシゲシと男を蹴る。起きる様子はない。その間に、私は言った。
「しかし、覇を成すと来ましたか! ぎゃはは。凄いことを言うのですね。君は」
「何ですその笑い方……。まあ、言いますよ。貴方は、広がりすぎるということがないのだから。だから大それた目標でも立てたら良いと思いますよ」
「それこそ、世界征服とか」
少年は半笑いで、明日には忘れるような、どうでも良い冗談を語るようにそう言った。