ノアが全力で蹴ったものだからすぽんと首が飛ばないかと心配していたのだが、流石に防御魔術は張っていたらしく、「ぶげーッ!?」と叫び声をあげてワイエス爺は飛んでいった。
そしてノアへと直ちにリインが迫る。何せ飛ばした距離はさほどでもない。精々が十メートル程度、爺の後方へと移動させただけである。
それでもちょっと、いや、かなり負荷が重かった。
「な、なあジョット、空間転移って君。それ、魔法じゃないか。……い、いや、大丈夫か?」
「め、眼と鼻から血が出ているわよ! 大丈夫じゃないでしょ? 今すぐ回復を……!」
「いらん。というか今の俺に魔術を使うな。本格的にぶっ壊れる」
やっぱり魔術は咄嗟に使うものではないな。頭の中がショートしてやがる。視界までぐらついて、とてもじゃないが使い物にならん。
それでもマルガレーテが「ねえ、お願い」とトレージに縋るように言い、彼は杖を振った。
そうして俺の内部を感じたのだろう。彼は呆れたように言った。
「はあ。神経の傷付き具合が酷いな。お爺様とやっている間も負荷が溜まっていたのに、無理をするからこれだよ」
「で、一番肝心な部分は?」
「そこは問題ない。傷自体も二三日安静にしていれば治るだろう。だから、あれへの手助けは出来ないね」
言ってトレージは向こうを眺めた。ノアとリインは剣戟を続けている。さて、こちらの決着は如何様に付くか。
と、思っていると、リインは「はあー……」と溜息を吐き、遠く引いて剣を収めた。どうした?
「ど、どうしましたかリインさん! なにか必殺技をやるつもりですか! そろそろ私にもそういうの教えて下さいよ!」
「そんなものはありません。基本の研鑽こそが必殺です。いやそうではなく、もう止めにしましょう。これ以上続けても無意味です」
「何をっ! 私はまだ負けていませんよ! 死んでいったジョットさんのためにも、私は戦わなければ!」
「死んでねえよ」
「いや、負けましたよ。私が。私が負けました。降参です」
「えっ?」
「はあ」と再び溜息を吐き、リインは両手をあげた。
「そも、あの転移の先にノアを置いていれば、それで私は殺されていたのです。この場合、どちらが倒されたのか、という結果は無意味ですよ。あれを使われた時点で私の敗北でした」
「そ、そうでしょうか? そうなんですかね……そうかも……」
「しかし、一方で私は勝ちましたよ。ノアではなくジョット君ではなく、私は私に勝ったのです」
「は、はい……?」
にんまりと笑ってリインは言った。「私は
「ジョット君は執着を捨てろと、己を本尊と尊ぶのさえ止めろと言いますが、その止めろというのさえ執着でしょう。故に私は尚も戴きますよ。いいや、それは執着を更に強めるのではなく、啓けた先に自由を見つめ、心気平らかにして事物を転がすといった風にですね……」
「ジョットさん! 何を言っているのかこれっぽっちも分かりません!」
「俺も分からないから安心しろ。ええと、つまり、殺し切れましたか?」
「そもそも、殺す必要があるのでしょうか。私が生来の気質として備えるのは執着だと、他ならぬ貴方が言ったのでしょう。であれば殺すのではなく含む。万象を取り込み、その上に君臨するのが……ではありません?」
「うーん、禅問答みたいになってきた」
リインは「ぎゃーてーぎゃーてーではなくぎゃはぎゃは」と歌うように言う。それそういう意味だったの? 「いや、口癖に後付けしただけです」そうなんだ。
しかし、まあ、実際に見てみれば俺も何となくは分かる。リインの太陽はかっかと燃えて、先のそれよりも純度を高めて輝いている。
良い結果だろう。俺にとっても。
「まあともかく! これで余計な遠回りは終わったということだ。さっさと地下室を開けてお宝を拝見させて貰うぞ!」
「あっ、忘れていたよ。あまりに激動過ぎて。というかもう地下室じゃなくなっているけどね。全部抉れちゃったから」
「こんだけ苦労したんだ。まさか宝がないとは言わせないぞ……! 行くぞトレージ!」
「行くぞ、じゃないでしょう! ほら、ふらついていますわよ。横になられて? その、さ、さあ……」
「何故自分の膝を指す。そこに寝ろってか」
そして恥ずかしいのなら膝枕をしようなんて気概を見せなくても良いだろうに。そしてリインも「ではお言葉に甘えて!」と飛び込まないで欲しい。マルガレーテが目を白黒させているぞ。
「おやなんです? 横になりたいのは私もですよ。ああ帝国貴族令嬢の、それも公爵令嬢の膝枕とは! 値千金いや万金。ノアもこちらに来て甘えなさい」
「ええっ!? 御貴族様の御膝枕様ですかぁっ!?」
「言った私も何ですが、本気で目を輝かせるのですね、ノア」
「いや、あの、急に来られても困ると言いますか……」
マルガレーテは困ったように微笑んでいる。その膝の上にごろごろ転がってリインは「ふっふー!」と笑って言った。
「嘶きですね。貴方は私が馬に蹴られてしまえば良いと? しかし馬に関しては私の得手ですよ。即ち蹴る足など押さえ付け、この様に乗っかってしまえば良いのです。ほら、どうどう」
「な、何がどうどうですか。馬が何ですか? 私に何か関係が? ねえブレイク君!」
「そうですよリインさん。馬肉が食べたいなら良い店知ってますよ。先生が娼館に行く前に必ず通っていた店です」
「ぎゃは! 最悪のグルメ情報をありがとうございますねジョット君!」
まあ美少女三人のきゃっきゃうふふなど目の保養にしかならないので、放置して元地下室の穴に向かう。
「放置しているのはお爺様もだけどね」
「あれは死んだって死にはしないだろう。それよりも宝だ!」
「はいはい。腹に雑誌を巻いとけよ」
流石にトレージの杖捌きは素晴らしく、ぐっちゃぐっちゃになった魔術式の配線も丁寧に解いて扉を開ける。
開かれた一室は黴臭く埃臭く、そして小さな部屋だった。六畳程度だろうか。机と椅子と、恐らくは彫刻用の大理石。そしてそれらに使う工具が整頓されて揃えられている。
しかし何よりも目を引いたのは、入口から真っ直ぐ行った奥、壁に背を預けるようにして膨らむ人型の大きさの何か。それは粗布が被せられ、静かに鎮座していた。
「あるな!」
「あるね。さて、他に罠はないかな?」
トレージが床に杖を立て、トントンと数回叩く。「ない、ようだね」少し残念そうに言った。
「これだけの部屋を作るのだから、研究の痕跡や論文でもあるかと思ったが、そういうのもなさそうだ。個人の意思を残すのはあれと……机の上の、なんだ、また聖書か?」
「そんなものは後にしておけ。いや付属して価値が生まれるかもしれないから見ておくがな! しかし今は何よりも!」
俺は麻布の端を手に取った。さあ、ようやく宝物とのお目通りである。
そしてこの時点で笑みが浮かんでくる。何せ麻布を持ち上げた先、見えたのは大理石製の素足である! 人型を成しているのは間違いなく、そして俺の審美眼が確かならば、確実にグノウの作!
「ははは……足、足だぜトレージ。足があるぞ!」
「スカート捲りしているみたいで気持ち悪いからさっさと捲ってくれよ」
「無粋な! しかしそれには同意する!」
「テンション高いな君……」
そりゃあ高くもなるだろう! 確実なる美が目の前にあるのだ。しかし、それを目の前にしながらも、その全貌を露わにしない状態というのも魅力的ではある。
「たとえばサモトラケのニケ。たとえばミロのヴィーナス。そしてマトゥラーのヤクシニー。欠落が完全以上の美を示す事だってある。そう考えればこの状態で完成とするのも吝かでは……」
「よっと」
「ああっ人が鑑賞しているときに!」
「この状態の君は面倒なんだよ」などとトレージは言ってくる。しかし今は無視して一刻も早く露わになった石像に目を向ける!
一体、どのような石像が……!?
「……なにこれ?」
「おお、おおとしか言いようがない。おお」
トレージは苦笑するように、或いは引いたように言った。対して俺は、何というか、困惑していた。
いや、造形は見事である。豊かな長髪を蓄えた女神の容貌は、白色に凝り固まりながらもほの柔らかく見て取れる。その装束もまた、伝統的ではありながらも女性的な肉感を仄かに醸しており、グノウの作品らしく、生命的な肉の動きがある。
問題は……本来、祈っているか剣や杖を持っているはずの両手が、天に向かって突き上げられ、その中指だけが真っ直ぐに伸ばされていることだった。
「これに題を付けるとしたら、ファックサインの女神像……いや、ファックの女神像だね。グノウって人は随分とロックだったんだなあ」
「な訳があるか! こんなのを残していたら破門どころか獄門行きだわ! いや、ちょっ、えぇ……?」
この石像は……!? 一体、誰が何のためにこんな事を……!?
「な、何か制作意図が残されていないか……? 日記とか……そうだ聖書! キエエエエ!」
「なんだいその掛け声。というか使うなって言っただろ!」
「あっ眼が痛ったい! そして何にもない!? あっいや普通に書かれている!」
「七転八倒だなおい……」
伝道記第16章19節! 長々とした文章の脇に、グノウの文字が残されている。その全文はこうであった。
『神が光であり闇ならば、これが正しいはずである』
「ファックサインが!?」
「女神自身に冒涜的な形を取らせることで、神の真なる姿を現わそうとしたのかな? 何にせよ、ロックだね。僕はこの人が好きになってきたよ」
「理念は分かるが! 分かるが、しかし! こんなの世に出せないだろ!」
こんなの製作図だけで教会に睨まれるに決まっている! ああいや、だから隠したのか? いやいや、どうやらまだあるようだ。
ページを捲れば、その裏側には殴り書きで長々と文章が書かれている。その全文はこうであった。
『そもそも、神が光と闇を現わし、それらが合一した存在であるのならば、どうして聖十字架は魔を遠ざけ、特に吸血鬼を討ち滅ぼすのか。思うに我らが通常に見、そして教会が掲げる神とは、光の側面でしかないのだろう。大陸北部、魔王を信仰する人々の下では、我らの文化圏とは隔絶した文化が育まれていると聞く。その本尊は秘匿され、一般に目するは叶わぬという。察するにそれが闇の側面、或いは真に合一した神性を象った神像ではないのか。故にこそ、私の芸術は、この地に留まっていては永遠に完成を見ぬものである。私の芸術とは、恐れ多くも神をこの地上に顕現させることである。そのために私は北へ行く。私の約束の地を探しに。人々よ、私を探してくれるな──』
長い。そして死ぬほど読みづらい筆跡だった。乱雑な筆致は読み取るのが困難であり、執筆者の、グノウの憤りが感じられた。
「ええと、つまり……これが芸術って事かい? 希代の彫刻家が最後に残した作品がこれ? へえ、ロックだな。ロック過ぎる」
「いや、別に芸術って訳じゃないらしいぞ……」
そう言って俺は、もう一枚ページを捲った先、先程よりも更に乱暴に書かれた文章をトレージに見せた。ここまで来ると紙とペンへの虐待である。その全文はこうであった。
『というかうっぜえんだよお父様もお母様もお親戚共もふざけやがって公爵家つっても分家じゃねえか好きに作品作らせろや。何が皇帝陛下への献上品じゃボケ股間に皇帝の顔付けてやろうか皇帝は神なりってか笑えるな笑えない死ねや死ね。というわけで、この作品は鬱憤を晴らすために作り出した習作、試作品、或いは書き殴りのスケッチです。世に出せるものなら世に出してみろや。時よ止まれとでも言ってみろ。その瞬間に魂は地獄行きじゃボケ。何せこれは神ではないのだから!』
そんな文章を、トレージは眼鏡を押し上げながら読み切り、こう言った。
「ロックだね! 僕、この人に惚れてしまいそうだよ!」
「お前の趣味などどうでもいいわ! ロック過ぎるんだよこれは!」
その理念は確かに理解できるものだ。確かに、本来分け隔てなく全てを祝福した神ならば、その威光によって闇を排斥するのはおかしな話である。
まあ俺が知らないだけで、問題になってない以上、教会が上手いこと理屈を付けているのだろうが。異世界からも異教の神話が流入する以上、彼らの理屈の付け方は一級品である。
だが、その疑念を以て真なる神の姿を希求しようというグノウの姿勢は、尊敬出来こそすれ、侮蔑するには当たらない。しかしその理念は一般的に冒涜と呼ばれるものだろう。間違っても一般公開など出来ない。ましてや売って金儲けなど誰が出来る。売買の可能性を出しただけで俺もお縄だ。
「とんでもないものを残してくれたな……。ええ、どうする? こんなものを見つけてしまって……」
「いや、対処など簡単だろう。寧ろ、僕は何故君がそんなに悩んでいるのかが不思議なんだが」
「言ってくれるなトレージ。その対処ってのは?」
「見なかったことにして埋めれば良い」
トレージはあっけらかんと言った。工事現場にはよくある話である。
「そうでなくても、どこか人目に付かない場所に保管してしまえば良いだろう。売買だって表に出さずとも出来るんじゃないのかい? 君の実家とかさ」
「俺の実家は誓ってそんな……まあいい。しかしだな、それには納得できないぞ!」
「何がまあいいんだ……聞かなかったことにするよ」
「ええ、私もそうします。それで、ジョット君は何がご不満で?」
「うおっと」
地下室にひょいと顔を出したのはリインである。「膝枕はどうしたんです?」と聞けば「ノアが堪能していますよ」と返された。彼女は怪我なんてしていないだろう。
「それにしても、これが件の宝物ですか。なんとまあ、爆笑ものですね。これが芸術なのですか?」
「芸術ではありますよ。当人がどう思おうとも俺はそう思います。造形は比類なく素晴らしいし、それでいて理念の下に積み上げられた情念は、この作品を単なる教会の装飾に留まらせないでいる。決して腕をもぎ取って世に出して良いものではないでしょう」
「なんだ? 余計なものがくっついていると悩んでいるわけではないのか。では何が不満だい?」
「これが世に出ないことにだよ!」
「はあ」とリインは首を捻った。どうにもよく分かってない様子である。
「美がそこにあると、そう認めているのならば、別に良いのでは? 悟りに同じく、それは境地でもありましょうに。寧ろジョット君は独占を誇るのかと思いましたが」
「俺が考える美とは悟りじゃないですよ。俺はね、リインさん。美しいものというのは、その存在だけで世界を征服するべきだと思っているんです。だからわざわざ貴方やノアにちょっかいをかけるんでしょう。美しいものが、下らない教義や常識によって価値を見誤らせて、破壊の対象になるなんてあってはならない」
「当のグノウはそう思っていなかったようだけどね。寧ろ教義と常識を馬鹿にして、破壊してみろと挑発している」
「そこなんだよなあ……」
これを作り出したグノウは、これを破壊されるべきものとして残している。名の知れた芸術家の、それも公爵家に連なるものが残した、冒涜極まる彫刻を残すことで、それを破壊せざるを得ない体制を嘲笑している。
そして俺は、グノウの狙いの通り、彼女の風評に踊らされてこの地下室を探し出し、あまり意味のない苦労をして、この彫刻に行き着いた。
それで得た物が水の泡ならば笑い話で済ませられるが、俺は確かに美を手にしたのだ。理念とはかけ離れた扱いをしなければならない美を。
これを守るためには、決して人目に付かない場所に保管する必要がある。そして、これを世に出す機会なんて、何時になるか分からない。まさか教会を倒すわけにもいくまいし。
「つまり……ジョット君は、このグノウという芸術家に負けましたね! 貴方はどう足掻いても、この彫刻を思うままには扱えないのです!」
そう、リインは非常に嬉しそうに言った。その通りであった。
「もう、保管しか思い浮かばん。グノウのように、世を敵に回しても美を追究することは出来ない。……俺は、この石像にそこまでの情熱は持てない。いやいや、それもグノウの意図の内か? ぐうう……!」
「まーた禅問答ですか?」
「いえ……結局、俺は鑑賞者でしかないって事です。リインさんには偉そうに言いましたが、何よりも俺自身に殺し方が足りないのでしょう」
公爵家の人間が、全てを打ち捨て北へ向かうなど、相当な覚悟があったはずだ。それこそ、世界を敵に回すような勢いである。
しかし俺は安穏に落ち着く。美は余裕を持って眺めるものであり、性格としてなるべく敵を作りたくないのだ。
「俺は所詮、浅瀬でちゃぷちゃぷ泳いでいるだけです。それをよくよく分からされました」
はあ、と溜息を吐いて俺は言った。俺は掌の上で踊らされたというか、芸術家の理念に敗北したのである。何が売買だ。思えば下らない。
遠く、北の大地を俺は思う。そこに一人、美を追究するものは向かったのだ──。
「いや、何だか感慨に耽っているようだが、君だってこのままだと世界を敵に回すからね。あの魔法染みた空間転移の魔術はどうするつもりなんだよ君」
「そうですよ! なーにが浅瀬ですか。ちゃぷちゃぷどころか津波ですよ。その波を受ける側の気持ちにもなって欲しいものですね!」
「なんですか急に! 俺は今、敗北感に浸っているんですよ!」
「グノウだって君に敗北したなんて思われたら迷惑だろう」
トレージは呆れたように言う。「それに、貴方は世界だって敵に回しますよ」リインが得意げに言った。
「たとえば私、或いはノアが迫害されたとしたら、ジョット君はどうします?」
「その美の証明を以て世界を征服しましょう」
「ぎゃは! この鶏以下!」
思わず口を突いて出た言葉にリインは笑った。三歩も歩いていないのに発言を翻したことにだろう。どうやら俺は頭が悪いらしい。