芸術的で文化的な異世界生活を目指して   作:生しょうゆ

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第57話 理念としての愛

 

 

 

「なら、この女神像は純粋美術なのね。何の役にも立たない、鑑賞するだけの美術」

「別にどちらが高尚って訳ではないと思うがね。というか、これを前に高尚だのを論じるのは馬鹿らしすぎる」

 

 言って俺はユラウの前、両手の中指を立てて佇む女神像に苦笑した。ユラウもまた笑っていた。「過激すぎるでしょう」と。

 

 約束を果たす日はすぐに訪れた。というのも、マルガレーテが俺に向け、像を見せる代わりに公爵家に顔を出すことを条件として求めたからである。

 

 散々伸ばしたので気まずいのだが、それも彼女なりの優しさなのだろう。ユラウへの機会だ。そもそもの話がグノウの作品に関してなので、彼女の思い出を語ることだってあるだろうしな。

 

 そんな事で期末試験を間近に控えた七月末、俺達は郊外に建てられた公爵家の倉庫に訪れていた。

 

 古くから受け継がれている品物を保管するための倉庫だが、外観は倉庫というか、別荘である。区画には噴水を中心に庭園が築かれ、古めかしい煉瓦造りの建物がひっそりと佇んでいる。歴史的に見ても価値のある建築であろう。

 

 事前に話を通していたのか、門前の兵は馬車の紋章だけで鉄門を開けた。姿すら見せぬままに内部へと通される。その後もマルガレーテが管理人と茶をしばいている間、俺達は鍵を持って館内の奥、潜まった一室の前に立っていた。

 

「では、存分に」とローベンが扉を開ける。権威としては執事の方が上なのか、他の職員がお目付役として出張ることもない。

 

 しかし不安要素というか、いまいち事情を理解していない者は居る。ノアである。

 

「何度も言うがね、ノア。ここにユラウが居ることはあまり喋ってくれるなよ。特に公爵家のご当主様の前ではな」

「心配しすぎですよジョットさん! 私だって最近は頭が良くなっているんです。まずいことは分かってますよ!」

「じゃあ、何がまずい?」

「ユラウちゃんが公爵家様の親戚だからでしょう! お家問題、相続争い、華麗なる一族争い! かーっ! ワクワクしますねぇ!」

「うーん、違うような合っているような……。というか、どうして楽しそうなのかしら……」

 

 ユラウが苦笑して言った。すっかりドロドロの世界に憧れてしまっているノアには嬉しいかも知れないが、事はそれよりも深刻である。

 

 ユラウの母親が公爵家に連なる者だということ以上に、その血の半分が吸血鬼だということが問題なのだ。

 

 それ自体は既に聞かせてある。というよりも、ユラウ自身が俺達に言ったのだ。母親の事を告白した際に、同時に父親が吸血鬼のお偉いさんであると彼女は言った。あくまで観光客であるという立場は崩さなかったが、それを明言するのとしないのとでは、取りうる立場も異なるだろう。

 

 しかし、マルガレーテが大好きなそういった政治的云々の以前に、そもそもノアは気付いていなかった。言われても『はあ……?』と、何が問題なのかよく分かってなさそうだった。

 

 というのも、国家や政治の問題は、村生まれであるノアにとっては遠い出来事だからなのだろう。だから吸血鬼と言われても『あの伯爵さんみたいなものですか』と、都会にはそういうのが普通にいるのだと思っている。

 

 後々、一応は詳細な説明をしたが、その結果が昼ドラを煎餅片手に見るようなあの態度である。ノアにとっては吸血鬼よりも公爵家の方が幾分か理解しやすく、それ故に「私は味方ですよ!」と元気付けるように言っているのだろう。

 

「まあ、味方なら良いだろう。心強い味方だ。そんな味方を付けて、さあ、心の準備は良いか」

「ええ……」

 

 ローベンが開いた扉の先、仄暗い一室の中に俺達は進んだ。杖を振って、弱い光を全面に広げさせる。その中心に佇んでいるのが、件の女神像であった。

 

 これで見るのは二度目であるが、やはり素晴らしい造形である。凝り固まった大理石から、良くもここまで活動的な肉の造形を彫り出せたものだと感心する。

 

 しかし、どうしても目を引くのはその両手だろう。

 

 天に向かって祈るように伸び出た両腕の先、きりりと聳えるのは中指である。素晴らしく見事であり、実にロックなファックサインだった。

 

「……は」

 

 ユラウは呆れたような顔を浮かべて、暫くの間、口をぽかんと開けていた。

 

 そうして、爆笑した。

 

「はははは!」と、指差して笑っていた。そりゃあそうだろうとしか言い様がないが、幻滅はなかったようで何よりである。

 

「しかし、これには耐えられるか」

「え、なに? もっと面白いものがあるの?」

「制作意図がね」

 

 そう言って俺は女神像の脇、同じく運び込まれた机と、その上に置かれた聖書の中に書き込まれた文章をユラウに見せた。彼女はまた笑った。腹を抱えて大笑した。

 

 そうして、彼女は口元に笑みを湛えたまま言った。

 

「ねえ、ジョット君」

「なんだい」

「これは光かしら、それとも闇かしら?」

 

 ユラウが何を言いたいのか、俺には分かっていた。ゲーテの色彩論。ファウストの救済。対比と鬩ぎ合い、そして高進。

 

 だから俺は、茶道の授業における一幕を話した。純粋美術と応用美術による対比と鬩ぎ合い。それは理解の手助けとなるだろうか? ユラウはずっとにやにや笑ったまま話を聞き、そうして再び女神像を見て言った。

 

「鬩ぎ合いと調和という意味では、そのメイヴンって人の方がよっぽど上手くやっているわ。これは本当に若い作品よ。いっそ下手と言っても良いわね」

「下手か?」

「この、はは、派手な指先に気を取られすぎているわよ。光を否定しても、それは闇にはならない。この中指が表すものは汚い光でしかない。完成を目指しているのに否定に拘泥してしまっている。それってちょっと無様よ」

 

 ユラウは辛辣に女神像を批評した。それでも彼女は楽しそうだった。大理石の顔に触れ、その唇、頬を撫でる。

 

「それでも顔を醜悪にしなかったのは、追求の前提に美があるからね」

 

 そう呟いた。

 

「……これで未完成なんですか? だったら、その後で完成したんでしょうか。これ以上のものが……」

 

 ノアが言った。彼女は女神像の造形に素直に感服し「細かいですねー……」と呟いて、そうして自分の腕を見つめた。

 

「人間を象るのに、人間以外を使うと、こんなに細かくする必要があるんですね。服も、装飾品も、こんなに。……だけど、それなら既に在るものを使った方が簡単に表現できると思ってしまうのは、私が芸術というものを分かってないからでしょうか」

「そりゃあノア、無理な話だろう。女神を表現するのなら、そりゃあ女神をこの場に呼び出せば良いだろうが、それが無理だから大理石に彫り出すんだ」

「でも、理念としては正しいわ」

 

 ユラウが言った。薄く笑みを宿して。

 

「創作活動に制限はないわ。使うのは鑿でもペンでも楽器でも良い。でも、鑿を使い大理石を素材にするからこそ出来る事も意味もある」

「それこそ、グノウのように?」

「いいえ、その逆よ。ノアちゃんが言った通りね」

「というと?」

「お母様は理念の人だったの。理念を現実に生み出すために偶々鑿を手に取っただけなのよ。だから、最期にはそれを置いたわ」

「……それはつまり、グノウは彫刻家を辞めたって事か?」

 

 俺は驚き、言った。ユラウは首を振って言う。

 

「辞めたと言うよりも、最初から彫刻家じゃなかったのよ。土魔術が得意だったから、手段として彫刻を選んだだけ。お母様は第一に思索の人だった。これは貴族という生まれが関係しているのかしら。職人のように手を動かすよりも、思索することが先にあった。だから、私の前で石を削るのは、手慰みのそれでしかなかったわ」

「それでも……残念だな。こんなに素晴らしい造形を生み出す作家が、鑿を置いてしまったなんて」

 

 しかし納得はあった。書き殴った文章にもある通り、グノウは造形的な完成ではなく理念としての完成を目指している。それを形作るのに必要なものはユラウの言った通り、第一に思索だろう。

 

「ならば」と俺は言った。

 

「グノウが北で生み出したのは、文章か。ゲーテに倣って戯曲を書いたのか? それで君は戯曲の構造に詳しいのか」

 

 ユラウは再び首を振った。

 

「いいえ、もっと活動的なものよ」

 

 彼女は言った。

 

「お母様が追求したのは完成だった。光と闇を併せ持ち、その対立の上に高進するもの。だからそこに静止があってはならなかった。絶えず活動して髙く昇るもの。それをお母様は目指した。丁度、ノアちゃんが言った通りね。女神を表現したいのなら、女神そのものを呼び出せば良い」

「それは無理だろう。どう足掻いても」

「ええ、無理だった。二重の意味でね。でも、一つは解決出来たのよ」

 

 ユラウは思い起こすように眼を閉じた。微笑みは依然、口元にある。

 

「私が生まれたのは、北方連邦の片田舎、ユラクロン州の州都。母は元帝国公爵家のグノウ・アルケシア。そして父は、その地を治める吸血鬼の長、クラウン・ユラクロン。この二人の、あまりに数奇な考えから、私、ユラウ・ユラクロンは生まれた」

「数奇?」

「芸術的完成を、人間で表現しようとする考えよ」

 

「は」と言って、俺は二の句が継げなかった。

 

「はあ」とノアが言って、意味を探るように俺を見つめた。

 

 しかし、言っている意味が分からないのは俺も同じだった。なんだ、それは。どういう。

 

「二人が出会ったのは、丁度、お母様が連邦に辿り着いた頃。その、あまりに人間的な見た目は人目を引いて、入国審査官にたちまち捕えられたらしいわ。でも、そこでお父様と出会えたのは幸運だった。お父様は、南の人間が捕えられて、しかも意味の分からない事を言っていると聞いて、興味を持ったらしいの。その時点で、二人は同じ完成を目指していたのね」

「同じ完成って……人間を、というのか」

「怯えるほどの事じゃないわよ。『女神の真意を求めるのなら、再び世界を掻き混ぜる必要がある』と、お母様は入国の意図としてそんな風に言ったとか」

 

 ユラウは思い出すように虚空を見つめて語る。

 

「つまり今の社会は、文化や民族、宗教に至るまで分断化が進んでいるので、それを女神の時代にまで戻さなければ、完成が見えるはずもないという事ね。何故ならば、完成を目指そうとするお母様自身にも、前提としての分断がある」

「前提……価値観とか、視点って事か?」

「そう。お母様は吸血鬼であるお父様を、お父様の視点で理解することは出来ないし、逆もまた然り。人間が女神の視座に近付くには、それを掻き混ぜて混沌に戻す必要がある。祝福された混沌の時代にまで」

 

 混沌。掻き混ぜたその先。吸血鬼と人間を、北と南を掻き混ぜて生まれたもの。

 

「お父様も、お母様と同じような考えを持っていたの。間違いつつあるこの世界を、混沌に戻すことで、平和も安寧も生まれるだろうって。種族の差異も無く、民族の差異も無く、神の理念に沿った完成。それは一個の生命という意味じゃなくて、社会、いえ、世界という意味よ。掻き混ぜられた世界こそが、神の理念そのものだろうって」

 

 俺はなんとか、ユラウの話を咀嚼しようと努力した。

 

 なるほど、確かに民族的意識を統一し、唯一なる神の下に平等であれば、戦争というものは生まれにくくなるだろう。そんな世界など見たことがないので、今に比べれば恐らくは、としか言えないが。

 

 しかし、それが真実可能かどうかではなく、それを完成だと、芸術的に夢見て志したのが彼女の両親だった。

 

 だが、それは世界の話だろう。平和を叫ぶのであれば政治をやれば良い。それが芸術だというのなら好きなだけデモでもストでもやれば良いのだ。

 

「だとすれば、おかしくはないか。世界を目指したのなら、どうして君をそんな理念で産もうとする」

 

 ユラウの父親、クラウン・ユラクロンと言ったか。州知事という立場とその地名からすれば古くは貴族なのだろう。事実ユラウはそう言っていたじゃないか。その立場で政治的努力を重ねれば良い。

 

「なのに、どうして子供が完成になる。そんなのは履き違えだ。それとも平和の象徴にでもする気だったか。自分達の子供を掲げて、これが平和だと言うつもりだったのか」

 

 そんな理念でユラウが産まれたとしたら、それこそ悍ましい。吸血鬼の悍ましさではなく、南と北との価値観の違いでもなく、親として悍ましい。

 

 それを完成と宣うのなら俺はグノウを軽蔑してやる。

 

 人間を材料に美を追究するなんて馬鹿馬鹿しい。下らない。派手なレッテルを貼り付けただけで美からかけ離れた狂気に陥っている。

 

 ……しかし、ふと思った。

 

「ジョットさん」と不安そうに俺とユラウとを見比べる眼。

 

 ノアという少女。俺が追究する美。人の形をした宇宙。

 

 ()()()()()()

 

「違う。違うのよジョット君。思い出して!」

 

 ユラウは言った。笑って、胸内の思い出を慈しむように。

 

「ファウストの救済に私が必要だと言ったのは、運動だけじゃなかった。何よりも必要なのは、愛よ! 掻き混ぜるだけでは足りないの。そこに祝福がなければ完成とは言えないのよ。だから二人は理念のために愛を育んだの。理念として、愛し合ったの。私は愛されて産まれたの!」

「なに、何を、言うか。そんなものが……」

「そんなものだなんて言わないで! 私から見て、お父様とお母様は確かに愛し合っていたわ。理念が先だったのか、愛が先だったのか、それも分からなくなるくらいに。それが理想だったのよ! 掻き混ぜた先に思索は消えて、活動も消えて、現象としての愛が、救済が生まれる! それって、とても素晴らしいことだと思わない?」

「何を……」

「人間の完成を目指す材料として、人間を選ぶのは自然だった。ノアちゃんが言った通り、在るものを使った方が近いもの。でも、芸術的な活動として、文化的な活動として……両親が愛を選んだことを、私は誇りに思う。彫刻でも政治でもなく、人間が人間を愛し、人間を産んで、それを育むという活動そのものに、完成を見出そうとしたことを、誇りに思う」

 

 ユラウは、心の底から喜ばしいものを語るように、必死になって俺に言った。

 

「芸術的に文化的に、愛を理念に産まれたことを、私はずっと誇りに思う」

 

 愛。愛だと。

 

 それが確かにあったと、彼女は言うのか。

 

「愛こそが前提だったのよ。光と闇が鬩ぎ合い、調和の先の高進としてそれがある。高進という力の働きこそが愛。救済。真理! この世で最も尊いもの!」

 

 ユラウはこの世で最も尊いものを語るように言った。その頬は紅潮している。自らの言葉に陶酔し打ち震える信仰者のような顔。

 

「ああ……でも、でもね」

 

 ふと、そこでユラウは笑みを潜めた。

 

「女神そのものを呼び出すのは、二重の意味で無理だったと、私は言ったわね。一つは解決出来たとも」

「ああ……そうだな」

「その一つが、愛よ。両親にとって、私は確かに完成だった。これは、単なる親馬鹿ね。実の娘を女神と言って、甘やかして、愛したのよ。家庭の中では、確かに完成がそこにあった」

 

 自嘲するようにユラウは笑い、「でも」と胸を広げて言った。

 

「私自身は、私を完成だとは思わなかった。どころか、端から見てもそうでしょう。吸血鬼と人間のハーフは中途半端に入り混じったものでしかない。吸血鬼の長、ユラクロンの娘がそれでは、期待外れも良いところでしょう。私は彼らを満足させることは出来なかった」

「……満足?」

「南に光への志向があるように、北にも思想の流行があるのよ。種族への回帰という思想がね」

 

 魔族というのはあくまで総称に過ぎない。それらは吸血鬼に悪魔に巨人だったりと、種族としての差異が大きすぎるものを、魔王なる存在を信仰するという一点で以て纏め上げたものに過ぎない。

 

 北方にて連邦が作られている以上、その連帯は確かなものなのだろう。唯一なる神を戴くのは変わらないが、その中における派閥、南から見れば異端と言った所か。

 

 しかし種族への回帰とユラウは言った。それはつまり、民族的アイデンティティの勃興ということだろうか。

 

「元々、連邦という連帯は穏やかなものだったのよ。州ごとの独自性が強いのも、種族ごとに形成された国家が、三百年前の戦争を契機に集まったからというだけだから。元々、吸血鬼と巨人、悪魔や鬼が同じ文化を共有することなんて出来なかった。だから、昨今の独立志向は当然の成り行きだった」

「だとしても、三百年は上手くやっていたんだろう。そこに連帯を継続させるだけの理由があるんじゃないのか」

「その、上手くやってきたという勘違いが、そもそもの原因なのよ。皆が勘違いしている。連邦という国家は、あくまで戦争に際しての同盟染みたものに過ぎなかったのに、三百年の内に、何時しか国家と勘違いされてしまった。他ならない、北の魔族達自身にね。だから、わざわざそこから独立しようとするの。だから、わざわざ独立を押し留めようとする動きもあるの。魔族という、最初から存在しないものを守るために」

 

 また政治か、と俺は思った。どこもかしこも政治ばかりだ。嫌になってくる。

 

「私の父が州知事であるというのは、そういった民族的アイデンティティの象徴として求められているということ。でも、娘の私は混じり物。婚姻外交だって出来ないわ。人間が混じっているのだから魔族にもなりやしない。……それは、人間からしてもそう。だから私は、吸血鬼は悍ましいと思う」

「あの時、君が軍の奴等にそう言ったのは……」

「他ならぬ吸血鬼自身がそう思いたがっているからよ。自分達は人間とは違うって。血を吸って、死体を操るのが吸血鬼だって。それが種族としてのアイデンティティ。……私はそれを否定できない。だって私は、それを超えないもの」

 

「いっその事、どちらかだったら。そんな風に思ったこともあるわ」と、ユラウは言った。

 

「ほら、マルガレーテ。ジョット君のお友達のように、ファウストにおける光のように、私も光だけであったなら。それならきっと楽だった。吸血鬼を純粋に悍ましいと思える。逆でも良いわ。吸血鬼として、メフィストフェレスとして、人間を純粋に見下す事が出来たなら」

「……出来ないだろう。だって君は、両親を」

「ええ、出来ない。だって私は中途半端。だけどそれ以上に愛されて産まれたもの。その愛を捨てることなんて私には出来ない。だけど、その両方を超えることも出来ないの」

 

 そうして、ユラウは沈黙した。

 

 理念との矛盾。理念を目指す苦しみ。

 

 それは一種の信仰告白だった。

 

「それでも、愛されて産まれたなら良いんじゃないですか」

 

 ノアが言った。瞳を伏せて、些か責めるように。

 

「愛されて産まれたのなら、愛してくれるご両親が今も居るのなら、良いじゃないですか。それで、別に」

 

 自分にはそれさえなかったと、言外に言ってノアは唇を噛んだ。彼女自身、言いたくはなかったのだろう。それでも言ってしまった後悔があった。

 

「……そうね。私には誇れるものがある。それは確か。私は恵まれている。私は、これを呪いだなんて思いたくはない」

 

 ユラウもまた、ノアの出生に関しては聞いていたのか、微笑んでそう言った。

 

「優劣が付くものじゃないだろう」

 

 俺は言った。

 

「不幸は不幸だ。どちらがより苦しいかを比べるのは、誰も彼もを傷付ける」

「分かっていますよ、そんなこと……」

「……そうだな。わざわざ言うべき事でもなかった。そして、俺が言えたことでもなかったな。すまない」

 

 これは視点の問題だ。ユラウが言ったように、吸血鬼の価値観は人間の価値観では計り知れないのと同じく、その人にとっての不幸はその人にしか分からない。優劣だって、その人の価値観に依存する。

 

 だからか「そうね」とユラウは言った。

 

「私の境遇は恵まれているかもしれないし、不幸かもしれない。でもね、ジョット君。私が中途半端なのは確かなのよ。これは境遇ではない、私自身の問題。そして、これが一番の問題」

「……それは?」

「私、今語ったことを苦しいと思うけど、それでも笑っていられるの」

 

 そう言って、ユラウは言葉の通りに笑った。

 

「私が、私を完成だと思わないのは、何よりもその精神なの。人間と吸血鬼の価値観の上に新しい何かを啓く事も出来ないし、お父様やお母様のように、何かを情熱的に追求することもない。期待されて、期待に応えられないことを苦しく思っているのに、その苦しさだって中途半端。起きて、食べて、寝ることが出来る。寝食を忘れるということがないのよ」

「それは……健全なことだろう。人間として当然のことだ。人は理念だけで生きられるものではない」

「でも、私は理念だけで生きたかった。だって理念から産まれたのだから」

 

 ユラウはふとノアを見つめ、微笑んだ。

 

「だからね、ノアちゃん。私、貴方が羨ましいの」

「……私が、ですか?」

 

 ノアは顔を上げてユラウを見つめた。「ええ」と、本当に眩しそうにユラウは眼を細めた。

 

「だって、真っ直ぐだもの。夢に向かって、一生懸命。……私にはそれがない。徹底というものが私にはない。魔術だって、知識だって、手慰みの域を出ないし、それだって必死じゃない」

「……それでも、それは確かに力だろう。あるものをないと言うのは傲慢だぞ」

「貴方がそれを言うの? そうね、貴方のように手慰みで余人を越える事が出来たら少しは違ったのかもね」

 

 その言葉に、ノアが一歩前に出た。

 

「……ジョットさんは頑張ってますよ」

 

 強く言った。ユラウは微笑みを浮かべる。

 

「いいえ、彼は私と同じよ。私と同じ、中途半端」

「ジョットさんは、私を英雄にしてくれると言ってくれました。私が真っ直ぐだというのなら、ジョットさんだってそうでしょう」

「いいえ、それだって中途半端。だって私を殺さないもの。貴方を英雄にするには格好の材料を殺さない」

「それは……そんな事をしても、なれませんよ。……友達を、殺して、英雄になるなんて」

「友達だけど、それ以上に吸血鬼の娘。そうは思わない?」

「吸血鬼がどうとか知りませんよ。……ユラウちゃんは、ユラウちゃんじゃないですか」

「じゃあ、ノアちゃんもまだ中途半端ね。お父様とお母様には及ばない」

 

 ユラウは言った。

 

「私達には、殺し方が足りない。徹底的なものが足りない。だから、完成には程遠い」

 

「悔しい?」とユラウは言う。「ノアちゃん。唇を噛んで、悔しいのね。それはとても立派な事よ。貴方が自分を素晴らしく徹底したい証拠」

「なにを……」

「だけどね、私達は違うのよ。私とジョット君は、ああそうだなあって、納得しちゃうの。それで良いと思ってしまうのよ。だって必死さがないから。泥臭さがないから。そうあればいいなあって、夢に思っているだけだから」

「これ以上、侮辱を……!」

「確かに、そうではある」

 

 俺は言った。

 

「ジョットさん……」

 

 ノアが心細げに俺を見つめてくる。ユラウが嬉しそうに微笑む。

 

「だが」と重ねて俺は言った。

 

「自分にはないからこそ、憧れるんだろう。ユラウ、お前は自分がそうなりたいようだが、俺は違う。俺はどう足掻いても鑑賞者に過ぎない。それになる事よりも、それを賛美することに喜びを覚える。だから、中途半端と言われても、特に苦しくは思わん。何せ、そんな中途半端な全て、世界丸ごとを平伏させるものこそがノア、俺の完成だからだ」

「……っ、ジョットさん」

「ユラウ、何時か言ったな。俺が求めるものがノアなら君は何を求めているのかと。その答えは君自身だろう」

 

 ユラウは俺が自分と似ていると言った。現実を見つめているのにも関わらず、それを超えるものを求めていると。

 

 ユラウが見つめる現実とは、吸血鬼と人間という鬩ぎ合い。そこから抜け出せず中途半端に陥る自分自身だろう。

 

「君は、己が己を超えることを求めているんだな。殺し方が足りないというか、殺して欲しいんだろう。今の自分を徹底的に、自分が自分でなくなるまで」

「……分かったようなことを言うのね」

「分かり切ったことを言うんだ。ノアだって同じだからな」

「……ノアちゃんが?」

 

 ユラウはノアを見た。ノアは苦しくて仕方がないように唇を噛み、目を伏せている。

 

「あまり、虐めてくれるな」と俺は言った。

 

「友人に、自分を殺さないのは間違っていると、そう言われるのは辛いことだ。ユラウ、君は俺以上にノアを神格化し過ぎている。彼女は理念なんかじゃない。人間だよ。君と同じ人間だ。起きて食べて寝る。そうして夢に向かって突き進む。徹底を求めるのなら、それを継続することこそが徹底だ」

「継続こそが徹底、ね……」

「加えて言うのなら、それはお前が言ったことでもあるだろう」

「私が?」

 

 俺は頷き、言った。

 

「ファウストにおける救済を、探求という運動であると言ったのはお前じゃないか。お前の母親、グノウがそれを聞かせたのなら、お前は探求を期待されて生まれたんじゃないのか。だから彫刻ではなく、お前という人間が芸術の題材に選ばれたんじゃないのか」

 

 何となくだが、グノウの意図というものが見えてきた気がする。

 

 嫌々ながらだが、確かにこの精神を具現するには、静止した彫刻ではなく、人間を材料にしなければならないだろう。

 

「それは、そう、だけど……」

「救済に愛が必要だというのなら、それが欠けているのはお前自身なんだろう。お前が言った通り、真っ直ぐじゃないのが原因だ。しかし、その真っ直ぐというのにしたって、どれだけ継続を徹底できるかということでしかない」

「私が……」

 

 大体にして、ノアにしても真っ直ぐだとは言えないだろう。彼女が夢に描く英雄とは、あまりに漠然とし過ぎている。

 

 金持ちで、きらきらとした武具に身を包んで、民衆からの賞賛を得る。実に俗っぽい英雄像だ。

 

「リインさんにしてもそうだろう。俺が彼女に『殺し方が足りない』などと言ったのは間違いだ。勝手な期待だった。彼女は徹底ではなく、多くを含むことを志向している。その多くを含むという事にさえ徹底を望むのは、そもそもの方向性の間違いだった」

「……というよりは、照れ隠しですよね」

 

 ふと、ノアが言った。俺を見つめて。

 

「ジョットさん、何だかんだ言っても、リインさんを凄いと思っていますから。自分がリインさんよりも上だとか、そういうことを言われるのが嫌だったんでしょう。あの、先生って人と同じ事ですよ。ジョットさんは、自分より上だと思う人に、褒められたくないんでしょう」

「褒められたくないわけじゃないさ。ただ不相応だと思っただけだ。本尊にせよ、何にせよ」

「同じ事ですよ。それだけはしているのに。……私にとっても、ですよ」

「君に?」

「鑑賞だとか、そうやって一歩引くんですから。……私にとって、貴方は世界そのものだというのに」

「それは、これから……」

 

 これから君が歩む栄達を思えば、過剰だとか、視野が狭いだとか。これからもっと、見えるものがあるだろうと言おうとして。

 

 ノアが先に言った。

 

「……簡単に、私の事を思わないで下さいよ」

「は」

「そうやって簡単に、これからを思わないで下さい。私は貴方と違って今しか見えないんです。……だから、今の私を、未来なんかで否定しないで下さいよ」

 

 ……それは、何というか。

 

 言葉で切られたような気分だった。

 

「だから」とノアはユラウに眼を向けた。

 

「だから、ユラウちゃん。私は、憧れるような人じゃありません。ユラウちゃんの憧れは、理想でしかありませんよ。……お父さんとお母さんみたいに、なりたかっただけじゃないですか」

「……そう、ね」

「だったら、私には分かりません。お爺さんもお婆さんも、私とは離れて暮らしていましたから。親という理想が、自分によって貶される苦しさなんて、私には分かりません」

「そう……その通り。その通り、だけど」

 

 ユラウは、俺を見つめて言った。

 

「そんな事は、分かってるのよ。全部、分かってる」

 

 眉間に皺を寄せ、憎むように俺を見つめる。

 

 苦しく、悔しくて堪らないように、彼女は言った。

 

「だけど、それでも。どうすれば私は救われるのか」

 

 それは咄嗟に漏れ出た本音のように、余計な装飾なく発せられた。

 

 ああ、何時か彼女は言ったな。『この世のあらゆる物事は、もしかしたら貴方に聞けば分かるんじゃないかって』と。

 

 それは期待だったか。ユラウ自身が己を殺すのではなく、俺がユラウを殺すような答えをくれるのではないかという期待か。

 

 だが、回答は出したはずだ。『継続することこそが徹底だ』と。そもそも彼女の生まれを思えば、それが理念に適った事ではないかとも。

 

 しかし、それでは。

 

 今この瞬間に、自分を救う何かを、自分を殺す何かを求める彼女は、決して救われない。

 

 俺が言ったことなどとっくに分かった上で、尚も彼女は苦しく、今に救いとなる何かを求めているのだ。

 

『そうやって、簡単に、これからを思わないで下さい』と、ノアの言葉が妙に印象的に思い起こされる。俺が見ているのは、これからに過ぎない。俺の態度は鑑賞者に過ぎない。遠くから、本人の気持ちも考えず、そう在れば良いと思っているだけに過ぎない。

 

 馬鹿か、俺は。俺こそ人間相手に芸術をやっているじゃないか。剰え自分への徹底は行わず、他人だけに殺し方を求める。

 

 醜悪。無様。いいや今は止めろ。だったら何だ。今、彼女へ向けることが出来る答えとは。

 

「……ああ、ごめんなさい。変なことを言って」

 

 そうやって、ユラウは笑みを繕おうとする。「これからよね」と「何時かは」と、何の保証もないのに笑みを浮かべる。

 

 それは慣れた態度だった。裏切られたとは微塵も思っていない。あらゆるものに回答を求め、しかし得られず、失望さえなくしてしまった顔。

 

「ジョットさん」

 

 ノアが言った。

 

「私には、何も分かりません。どうしてそんなに嫌そうな顔をしているのかも。でも、私は……」

「分かっている」

 

 考えて、考えた。

 

 しかし、やはり俺は芸術家ではなかった。回答など思い付かない。光と闇に調和と高進を目指した先など見えやしない。

 

 だから、まあ、何というか。

 

 俺はどうにも、口が下手だと思った。

 

「問題を解決することは出来ないが、問題そのものを無くす事は出来る」

 

 俺はそう言った。

 

「はあ」とユラウがよく分かってなさそうに声を出す。ノアが期待するように眼を向ける。

 

 しかし、これは言った通りでしかない。未来に答えが出せないのなら、そんな未来などそもそも間違っていると突き付けることしか俺には出来ない。

 

「ユラウ、君にとっての救いとは、人間と吸血鬼を超越するような何かに成るということだろう」

「……まあ、そうね」

「なら、それはどう足掻いても出来ない。君の望みは永遠に叶うことはない」

「はっ?」

「えっ、ちょっと何言っているんですかジョットさん」

 

 ノアが慌てたように言う。ユラウが呆気に取られた顔を浮かべる。

 

 ああもう下手糞なんだよ俺は。こういうやり方しか思い付かないんだ。

 

 答えが出せないなら、問題文そのものの誤謬を突く方法しか。

 

「前提をひっくり返す。君は殺し方が足りないと言ったが、その考えすらも纏めて殺してやる。だから、その後に生まれて来てくれ」

 

「頼むから」と殆ど願うように俺は言った。

 

 

 

 

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