「その辺りでお止めになった方がよろしいのでは? 少将様」
「何度も言うけど少将じゃなくてまだ大佐なんだよね。君達のお陰でねえ!」
そう言って大佐は荒っぽく酒の入ったグラスをテーブルに叩き付けた。そんなんだからマルガレーテが皮肉を言うというのに、彼女はずっと顔を真っ赤にしてぐだぐだ言っている。部下である大尉が隣にいるというのに威厳の欠片もない。
「まったくさー! ジーニスさー! どうなってんのこれ! どうなってんだよおい!」
「うるせえな絡むなうぜえ」
「大佐、その辺にしておきましょうよ。みっともないですよ」
「なんだい大尉は上司に刃向かうっていうのかよ! 反逆罪だぞ!」
「今日は非番なんで無礼講って言ったのは貴方じゃないですか……それにこれからどうなるか分からないのは自分も同じですよ……」
言って大尉はグラスに注がれた酒を呷った。彼も彼で飲むペースが異常に速かった。こりゃあ本当にどうなるか分からない。
あの後、何が起こったのか。俺にはまだ分からない。これからについてはまだ何も起こっていない。それでもマルガレーテが戦勝祝いとしてレストランを貸し切ったのだ。
そこに呼ばれてもないのに来たのが大佐と大尉である。『暇になったんですよ』とは言っていたが、リインなどは警戒しっぱなしだった。
しかし、自棄になったように酒を飲んでは肉を食す姿を見ると、割と本気で愚痴を言いに来ただけのようである。
「私はさー……これでも国のためを思ってさー……それなのにごたごたごたついてどうなるんだよこれからさー……ねえジーニス聞いてるの?」
「うぜえ。あとお前が本気で国を思うわけがねえだろ」
「そりゃ私欲も九割ぐらいは混じってたけどさー……」
「ほぼ全部じゃねえか……」
まあ酔っ払いの相手は先生に任せるとして、「じょ、ジョットさーん……」と困った顔を浮かべているのがノアである。彼女の脇ではトレージがブツブツ言いながら紙に何かを書き続けていた。
「で、君の感覚としては解放感があったわけだ。肉体を解き放ちより高い存在になるという感覚……。しかし君は戻ってきたんだね」
「ま、まあそうですね……ジョットさんに声を掛けられたのもありますし……」
「おかしいな。僕の理論では行ったまま帰ってこない筈だったんだが」
「えっ」
信じられないという顔をしてノアは俺を見た。俺は慌てて言った。
「いや、大体にしてトレージ、俺はお前が言うほど魂を絶対だとは思っていない。お前は魂を本来の人間精神と言うが、俺は肉体と魂を合わせての人間だと考える。ノアが人間である以上、その先へ向かうというのはないだろう」
「しかしだね、僕の考えでは魂というのは……」
「ああもううざったいですねえ料理が不味くなりますよ小難しい小僧二人!」
べしんべしんと二発、リインは俺とトレージの頭を叩いて「さっきからごちゃごちゃと!」と言った。
「特にそこの眼鏡! 料理も食べずに何をぐだぐだ言っているのです。さっさと食べなさい!」
「いや、僕は味とか食感とかそういうのに興味がなくて……」
「黙りなさい!」
「ぐえーっ!?」
開いた口に肉を押し込められてトレージは悶絶した。それに馬鹿笑いをしているのがワイエス爺とメイヴン先輩である。前者は酒を飲んでいるからまだ良いとして、先輩は酒も飲んでいないのに顔を真っ赤にしている。場に酔っていやがるよこの人。
「良かったのうクソ孫よ! リキ付けにゃあ研究もはかどらんぞ! 肉食え肉! 苦手言うなら克服するのじゃこの機会に!」
「眼鏡にさあ、油付いてるんだけど。え? 油。はは、油!」
「メイヴン先輩は水を飲んだ方がよろしいのでは……?」
「どうしてぼくが水ってアルケシア君? どうしてってあはは!」
「駄目ですわねこれ……」
一応はこの場の主催者である責任を思ってか、マルガレーテはあちらこちらの世話を買って出ようとしているが、まるで手が付けられない様子である。
仕方がないので手伝ってやろうと思ったのだが、その前に「ああ、お気になさらず」と言われた。
「今日ばかりは私に任せ、ブレイク君は大人しくお楽しみ下さりますように。とても苦労なされたのですし。それに」
「それに?」
「約束、守って下さいましたもの」
にっこりと笑ってマルガレーテは言った。それに対してリインが「ほー? へー? はー?」と変な声を上げる。なんだ。
「いえ別に。ただ妙に余裕そうだと思いましてね。まあ私はジョット君に信頼されているので気にしませんが」
「そうですの? それはとても良いことですわね」
「はあ。へえ。ほお? ではこれならどうですか!」
「なんすかリインさん急に肩を組んで」
リインは自慢するような顔をしてぐるりと肩に腕を回してきた。それでもマルガレーテはにこにこと笑っている。口元を手で隠し、何だか余裕げであった。
その様子に、リインが愕然とした顔で言った。
「……えっ、やりました?」
「何がですかリインさん」
「やりました?」
「だから何がですかリインさん」
「何のことかしら。さっぱり分かりませんわね」
「では」と言ってマルガレーテはわざわざ酔っ払い共の方へと向かっていった。それと同時にまた酔っ払いが声を掛けてきた。
「ね、ねっ、ジョット君! おじさんさあ、あの言葉本気にしちゃって良いかなあ?」
「何がですかトールさん」
「何がって……へっ、決まってんだろがくせーよお……」
トールにファットにスレンダーの三人組は、驚くべき事に比較的静かに飲んでいたのだが、その間もニヤニヤ笑って俺に視線を向けてくるのだから不気味だった。
「で、何がですか」
「そりゃ、お前、なあ? ひひひ……」
「惚れちゃいそうだって言ったでしょ! 惚れちゃおうよ! 惚れてよ! 惚れようよ! 結婚して?」
「嫌です……」
「なんで?」
そんな曇りなき眼差しを向けられたって嫌なものは嫌である。たとえどんな恩があろうともそれだけは嫌である。
「なんとかして下さいよスレンダーさん」
「もう引き取ってくれない?」
「嫌ですよ」
「というかトールがこんな風になったのって君が原因じゃない? たぶんだけど前世の因縁とかあったりしない?」
「無茶苦茶な因縁を作らないで下さいよ」
「そうですよ! 私とジョットさんは今世の絆で結ばれているんですから貴方達が入り込む隙間なんてありません!」
トレージの口がワイエス爺の肉爆撃によって塞がれている隙を見て、ノアが慌てて近寄ってきた。「そうですよ!」とリインまで便乗してくる。
「大体ねえ、気持ち悪いんですよその口調。何が気持ち悪いって急に切り替わるのが気持ち悪いんですよ。二重人格ですか貴方?」
「ふん。衝動という意味ではそうかもしれないな。おじさんはジョット君を見るとこうなっちゃうんだからさあ! 責任取ってよ! ねえ!」
「嫌です……」
「なんで?」
「なんでも何もないですよ! ジョットさんは私の責任を取るだけで精一杯なんですから!」
「ねえ、ユラウちゃん!」とノアは言った。
ユラウは笑って言った。
「そろそろ行きましょうか」
「楽しい時が過ぎるのは一瞬ね」
夜道。月光が差す中にユラウは言う。懐かしみ、惜しむように。
「でも、時は止められるものではないから。進まなくちゃね。私も、貴方も」
つば広の帽子を被り、外套を着込み、剣と短剣を帯びてユラウは歩いている。
それは旅支度だった。これから遠くに行くための。
彼女は微笑み、俺に言った。
「引き留めてはくれないの?」
「引き留めて欲しいのか」
「ロマンがないわね。乙女心が分からないのね。悲しい人間性をしているわ」
ユラウがその選択肢を取ったのは、俺にとって意外ではなかった。
ここで生きていくことも出来ただろう。政治は混乱し、誰もが俺達の取り扱いに困っている。その中で何も決めることなく、今の自分を続けていくことも出来たはずだ。
『お父様は歓迎すると言いましたわよ』とマルガレーテは言った。『勿論、政治的意味合いも加味してのことですが。そういう利点もあるのだとは言っておきますわ』
それは彼女とその父親、公爵なりの優しさでもあるだろう。ユラウのための居場所が、必要性があるという優しさ。しかしそれでも、彼女は北に帰ることを選んだ。
「お父様が見ようとしたもの」
少しの沈黙を挟んでユラウは言った。
「ユラクロンという州は、何も全てが独立を願っているわけではない。それはあの吸血鬼達の数からも分かるでしょう。だから私は何も聞かされてなかったのかもね。万一のために。だから私は義務として……いえ」
彼女は軽く首を振って苦笑した。
「駄目ね。また理屈を付けようとして。勝手に推測を立てようとして」
「考え続ける事は約束だったろう」
「そうだけど、本音は言わなくちゃ。私はね、ジョット君。理屈じゃなくて感情で、帰りたいと思ったの」
「懐かしくなったのよ」とユラウは言った。
「それだけ。政治とか義務とか、責任とか、そんなものは知らない。勿論、帰ったらそういうものに相対する必要はあるでしょうけど、今はただ、帰りたいだけ」
「こっちに帰ってくることは?」
「ないでしょうね。立場としても帰れないでしょう」
「そうか」
「だけどね」
「なんだ」
「引き留めてみせてよ」
それは、随分と無理な注文だった。
だから俺は言った。
「愛している」
「あは」
ユラウは「下手ね」と少しばかり唇を尖らせ、薄く笑った。
「私、そんな三流の文句に心を動かされるほど、安い女じゃないのよ」
「知っていた。だから言いたくなかったんだ」
「本音だとしても?」
「だとしても」
「格好良いこと言うのね」
「格好悪いだろ」
「そうかしら」
「そうだろう」
ユラウはぐるりと辺りを眺めた。
夜。夏の風。星々の瞬き。煌々と輝く帝都の光。
彼女は眼を閉じた。
「素晴らしい日々だった」
「そうか」
「とても美しく、私は満足した」
「それなら良かった」
「だからね、ジョット君。私は無理を言うわ」
腕が掴まれる。優しく指先が包まれる。
「ノアちゃんじゃなくて、私を一番にしてくれない?」
俺は言った。
「無理だ」
「でしょうね」
「怒らないのか」
「下手な嘘は一度で十分よ」
「こんなのは愛想を尽かしてしまえよ」
「酷いことを言うのね。最低ね。出来ないと分かっていることを言うなんて」
「時は止められるものではない」
「お父様だって出来なかったのに、貴方が上手く行くわけがないでしょう」
「そんなにかい」
「貴方は私の青春だった」
彼女は俺を、輝かしいものと名付け、そうして言った。
「貴方にとってもそうであって欲しい。私は貴方の古傷。私は貴方の思い出のひと」
「詩的だな」
「夜に思い出して悶絶しなさい。あの時、この手を取っていればって」
「急に辛辣だな」
「殴ろうかしら」
「やめてくれ」
「ははは……」
ユラウは笑い、笑って、「ああ」と路地の向こうに手を振った。
伯爵は、黒く塗られた馬車の前で佇み、ユラウを待っている。
「お姫様みたいな待遇ね」
「似たようなものだろう」
「この短剣、本当に貰って良いの?」
「元より君にあげるためのものだ」
「月が綺麗ですね」
「日本文学には詳しくないんだ」
「私の事、忘れない?」
「世界で三番目に愛しているよ」
「クズ」
「知ってる」
「実は一目惚れだったの」
「それは知らなかった」
「嘘よ。こんなに楽しくなかったもの」
取り留めのないことを言い合って、一歩一歩進んでいった。
それは何時かの再現のようだった。互いの境界線を触れないよう、言葉によって牽制していたあの夕暮れに。
だからまた、ユラウの方からそれを言った。
赤色の瞳。銀色の髪。白い肌。
馬車の前に、薄い笑みを浮かべて。
「さよなら、私の──」
そこまで言って、唇を閉じて。
ユラウは微笑んだ。
「どうした、言えよ。据わりが悪いだろ」
「いいえ、言わない」
「どうして」
「それはね、ジョット君」
「なんだ」
悪戯っぽく微笑んで。
「私が何を言おうとしたのか、永遠に悩みなさい」
ケラケラと楽しそうに笑って、彼女は馬車に乗り込んだ。手を振ることはなかった。顔を出すことすらなかった。
馬車は夜の闇に消えていく。石畳を駆ける蹄の音が遠ざかっていく。
俺は空を見上げた。明るい夜。月より輝く帝都の街並み。
ここから彼女は消えていった。
「ノア」
「……い、居ませんけど」
「ノア、ユラウは美しかったな」
「……そう、ですね」
恐る恐る影から顔を出したのはノアである。物凄くばつが悪そうな顔をしているが、まあ彼女の心配は分かっているつもりだ。
「行くわけないだろう」
「私は浅ましかったですね」
「君の俗さを俺は好むよ」
「それでも精進はしていきたいです」
「そうか。俺は嫌だな。これから面倒なことが沢山あるだろう」
怠惰に、水が流れるように、俺はそんな事を言った。政治も民族も宗教も、俺の手に余るばかりで何も美しくない。
だから、ふと俺は思い出した。
「今日から夏休みなんだ」
「え? ああ、そうでしたね」
「だからノア、南に行こうか」
「はあ」
ノアはきょとんとした顔を浮かべた。そうして、慌てたように言った。
「……え? 良いんですか? だってこれから色々……」
「そんなのに付き合う義理などない。俺はやった。後は周りが慌てるだけだ。世界は俺を中心に動いたが、俺が中心に居続ける必要などないだろう」
「ええ……? 良いんですかねそれ……」
「良いということにするんだ」
「ああ」
ノアは俺の顔を見た。そこに何を見て取ったのか、彼女は頷き、仕方がなさそうに苦笑した。
「ジョットさんは我儘ですね」
「知らなかったのか?」
「これは皮肉ですよ」
「君も皮肉を言うようになったか」
「成長ですねっ」
「確かに、成長だな」
ならば出立は早い方が良い。逃げるように帝都を後にしよう。南へと、彼方なる北から逃げるように向かおう。
「私は何時までも隣に居ますよ」
ノアは明るく笑って、そう言った。
それでも、考えることを止めぬように。