「聖人の安売りに関しては私も思うところがありますよ」
数え上げた銀貨を革袋に収めて聖女様に近付けば、彼女はどうやら話を聞いていたようで、開口一番にそう言った。
「本来、それは慎重に扱われるべき言葉でした。何故というに、聖人とは信仰に値する人々だからです。なればこそ神に同じく像が造られ、種々の教会にも置かれるようになったのですから」
「はあ。断じてプロ野球選手なんぞが得て良い称号ではないと?」
「得て良い、というよりは、与えて良いものではない、というのが私の考えです。その人も迷惑でしょう。教会の人気取りのためだけに余計なものを与えられるなど」
聖女様は毅然として言った。思わずノアを見る。彼女は驚いた顔を浮かべて聖女様を見つめている。
「あの、それって……」
「ええ。教会批判です。意外でしたか? 仮にも聖人と呼ばれる者が、自らの母屋を毀損するのは」
「意外、ですねえ……その、見ていただけですが、真っ直ぐに信仰しているように思っていましたので……」
「ねえ」とノアは俺に言った。ノアってばミーハーだから夢想と実像との違いに少し困惑しているらしい。
しかし聖女様は気にせずに言う。
「文化は確かに尊ぶべきもので、技術の発展に寄与したものは賞賛されるべきです。しかしながら、彼らを褒め称えるに、聖人という言葉はそぐわないでしょう。文化人は文化人のままで、将棋人や野球人はその人のままで良いのです。殊更に聖なる敬称を付けようとするのは、言ってしまえば教会の場当たり的態度の産物に過ぎません」
「随分と辛辣ですね」
「この言葉が辛辣に聞こえるのは、それだけ教会の広告戦略が上手く行っているということなのでしょうが、それを加味しても決して賞賛には至りませんよ。本質的なところで彼らは間違えているのですから」
「本質ですか」
「聖人とは、神の世界にあるべき人のこと。彼らは人ではありますが、女神に対する信仰の深い部分にあるのです。たとえば騎士伝説のカーヴァル。たとえば龍女成仏のマルメフなど……」
「そして勇者様ですか」
聖女様があげた二人が分からなかったので、とりあえず知っている一人を言ってみた。寧ろ一番にあげるべきはそれではなかろうか。
三百年前、西方の教会総本山にて生を受けた彼は、その武勇を以て名を上げ、諸国遍歴の後、仲間を率いて魔王討伐に向かったらしい。それは両者の激突を原因として大陸中を巻き込んだ戦争となり、数年の膠着の後、相打ちとなって倒れたという。
その死後に関しての話は不明である。一説によれば女神の下に昇ったとも、故郷に戻ったとも、或いは光の力を求めて南に渡ったとも言われるが、その全ては伝説でしかない。
だが、聖人を語るのならば、まさしく代表格ではあるだろう。
しかし聖女様は頷きながらも続けて言った。
「そして、魔王もですね」
「魔王が聖人、ですか?」
ノアが不思議そうに言う。聖女様は大した感慨もなさそうに言った。
「そもそも、聖とは何でしょうか」
「え? ええと、何と言いますか。清らかな……?」
「そういった使い方もありますが、信仰においては別の意味があります。何せ、女神は清浄も不浄も等しく祝福なされたのですから。即ちこの場合の聖とは、より高い意味──神の世界を表わす言葉なのです。対となる言葉は不浄ではなく、俗。世俗になります」
「だから、聖女様は魔王も聖人だと?」
「勇者が聖人と呼ばれるのならば、その対となる魔王もまた、そう呼ばれるべきでしょう」
いまいち、納得しがたい理屈だと思った。いや、そもそも。
「そもそも、魔王とは人なのですかね?」
そう俺は言った。文献そのものが少ないが、そこに著わされているのは現象としての魔王である。人格が見える記述はなく、その暴虐と脅威ばかりが誇張されて描かれている。
それを言えば勇者の方も人格が見える記述はないが、人の形をしていたのは確からしい。彼が身に付けていたとされる物品は全て人が使えるように作られたものだ。
しかし、聖女様はこちらに眼を向けて言った。
「人の形をしていなければ、人ではありませんか?」
無機質な瞳が、鏡のように俺の姿を映している。
「そもそも、人の形とは何か。人の定義とは何か。それは酷く曖昧なものでしょう。我々は姿形も異なり、言葉さえも違うのですから。その曖昧な定義の上に祝福をもたらしたのが女神なれば、我々は、我々が自認する上で人であると思うだけです」
「自認ですか。確かに、この世界に様々な種族が存在する以上、その定義は曖昧ですが……」
「寧ろ、その曖昧さこそが女神の祝福なのかもしれませんね」
「曖昧さが?」
「ええ」
聖女様は慣れたように朗々と語る。
「女神はこの世界の全てに祝福を与えた。女神は人間の定義を厳密化せず、どころか、人間以外にも祝福を与えた。それは世界の全てに存在する意味があるという祝福でしょう。この神話によって、単一の種族が支配的に世界を見ることが難しくなりました。西方人は南方人に優越するか。南方人はエルフやドワーフに優越するか。いいえ。女神の祝福において全ては平等です。この、曖昧な平等さこそが祝福における重要な側面だとは思いませんか」
「故に」と彼女は平坦な声色で言う。
「聖という言葉は神のものであり、人という言葉は曖昧なものです。そのため、聖人という言葉は慎重に扱うべきもので、それをまるで自分達のもののように安売りするのは信仰自体を揺るがせる。教会は自らの首を絞めているようなものでしょう」
それは……どうなのだろうか。
俺は思わずノアを見た。ノアもまた俺を見つめていた。
今の教会がそういった理屈を掲げているとは到底思えない。そういった事件に、俺達は関わっていた。
だから、聖女様の言葉は彼女自身の言葉なのか。しかしその内容に反して、腹に据えかねているといった風でもない。
ただ淡々と真実を言い表しているような。
そう、ノアの言葉を借りれば『真っ直ぐに』、彼女は言葉を使っていた。
「……とまあ、こんな風に」
ふと、聖女様は相好を崩した。照れくさそうに笑みを浮かべる。
「言いたいことを素直に言ってしまうからか、私は小間使いのような仕事をさせられているんですよ。貴方達は知っていますね? 今の教会が、まさしく支配的に世界を見ようとしていることを。そういう顔を浮かべていますから」
「そういう顔、ですか」
「現実と理想の対立を見たような、居心地の悪そうな顔ですよ」
彼女は、まさしくそう言う顔を見慣れているように言った。溜息を吐かんばかりに続ける。
「今回もそうですよ。ノアさんが言うような、秘密の任務なんてものではありません。何せ船も用意されていないのです。幻滅してしまいましたかね?」
「い、いえいえ、そんな……。というか、聞いちゃっていましたかね……?」
「風に乗って。海の上では、人の声は良く聞こえるものです。そして神の声も」
「神の声?」
聖女様は顔を空に向けた。雲一つない快晴である。
しかし彼女は指先を探るように動かすと、得心したように頷いて立ち上がった。
「もうすぐ雨が降ります。嵐と言うほどではありませんが、波は荒れるでしょう。船員さん達に告げておかなければなりませんね」
「な、なんでそんな事が……」
ノアの狼狽えた様子に、俺は言った。
「風読みですか」
それは卓越した風魔術が可能とする技である。風から天候を読み、気象を予測するのだ。
彼らは帝国では皇帝直属の『風読み人』として知られており、人力の気象台として活躍している。魔術師の一般的な就職先であるインフラ整備において、エリート中のエリートである。
しかし、俺は不思議に思った。
人間の力で世界を把握するのだから、そこには力が必要となる。杖があっても不十分で、帝国においては専用の魔道具を使うと聞く。
だが、彼女は指先を風に当てただけで、魔術を使った様子などなかった。
「何も不思議なことはありませんよ。神の声は、遍く降り注いでいるのですから」
聖女様は楚々として立ち去る。その背中に、俺はやはり首を傾げた。
風読みもそうだが、あのような弱々しい光で、どうして回復魔術が使えるのだろう。
雨はすぐに降ってきた。それも急な豪雨である。乗客達は騒ぎながらもデッキから去り、船員さん達は帆を畳んで嵐に備えた。
いくら豪華客船とは言っても、基本的な機構は普通の船と変わらない。機関車に代表されるように、昨今の魔道技術は目覚ましい発展を遂げているが、それでも魔石による動力だけで動く船というのは未だ実験段階である。
俺達はデッキに面したラウンジに座って雨を眺めていた。
船員さん達は雨の中にも慌ただしく行き交い、濡れた縄を巻き取るき、きゅ、という音が響いて聞こえている。
「忙しそうですね」
「忙しそうだね」
船はぐらぐらと揺れている。波が高いのだろう。右の壁から左の壁へ、とまでは行かないが、それでも足下は落ち着かない。
何だか温かい物が飲みたくて、俺はラウンジに併設されたカフェで紅茶を注文した。
「美味しいですか?」
「そんなに」
恐らくは水が悪いのだろうが、こればかりは仕方がないだろう。水魔術は航海において必要不可欠なものであるが、飲み水としてはミネラルが足りない。あれで出てくる水は純水なのだ。
サービスとして付けてくれたビスケットもまた、長期保存のために硬く焼きすぎている。それを少しずつ齧りながら紅茶を喫する。
ノアはホットココアを両手で抱え、それをこくこくと飲んでいる。
温かい物を飲んだからか、少し眠そうだった。
「貴方達は大丈夫なようですね」
ふらりと、聖女様が現れて言った。
「あ」とノアはぼんやりと開いていた眼を瞬かせて「ええと、何がですか?」と顔を向けた。
「港から今まで順風満帆そのものの航海でしたから、この波に酔ってしまった人が居ましてね。船員さんに雨を告げてから暫く、そちらの方に」
「ああ、私もジョットさんもそういうのは大丈夫みたいです。ね?」
「いや、実を言えば大丈夫じゃない」
「えっ、そうなんですか」
俺はノアとは違って温室育ちのお坊ちゃんなのだ。普通にしていたら大声でカエルの鳴き真似をしていただろう。事実今もちょっと気分が悪い。
それでもちょっとで済んでいるのは、俺自身に回復魔術を使っているからだ。船酔いの原因は所詮肉体の変調なのだから、肉体の正常化で解決出来るものである。
「それは。思ったよりも力ある魔術師なのですね、ブレイクさんは」
聖女様はラウンジの椅子に腰掛けて言った。それにノアが首を傾げる。
「ジョットさんが回復魔術を使えるのはご存じですよね? それとも、自分に掛けるのは大変だったりするんですか?」
「大変ですね。術者の肉体が正常な場合は全く問題はありませんが、肉体が傷付いている場合は本当に大変です。魔力操作が根本からねじ曲がったりしますから」
「熱を出している医者がまともに患者を診られるかという話だよ、ノア。まあ俺は出来るが」
「無免許なのに、ですね」
聖女様が言った。相変わらず脅すようでもなく、単なる事実を語るようである。
そう、この世界において回復魔術とは免許制なのだ。何せ人体に深く関わる魔術である。生兵法で手を出して良い領域ではない。
それは光魔術と闇魔術の混成による高度技術だ。闇魔術によって生命力を活性化させ、光魔術によって浄化、消毒を行う。神官達は往々にして卓越した光と闇の使い手であり、その秘奥は教会の総本山にて日夜研究されているという。
「まあ、安売りするには勿体ないし、安売りしてはいけない技術ですね。しかし、これがなければ船室も手に入らなかったんだから仕方がない」
「それは、そうですね。相手にするのも擦り傷程度ですし」
「もう二度とあんな媚び媚びスマイルは浮かべませんがね!」
「ああ、そう言えば。ブレイクさんは当初、今とは全く違う態度でしたね」
聖女様は思い出すように言った。あれは本当に屈辱だった。何せ十三歳の少年が回復魔術を使えるなどとほざいても失笑されるのがオチである。それでも荷物運びを手伝いながら徐々に信用を勝ち取り、何とか今の地位に至ったのだ。
まあこんな風に上手く行くのも俺の見た目のお陰である。怪しい中年男性が回復魔術を使えるなどと言えば鼻つまみ者からの豚箱行きだろうが、愛くるしい少年ならば警戒心も薄らぐのだ。
「だからあの数日間のことは忘れて下さい。あんなの俺じゃありませんので」
「ずっとげっそりしていましたからね……。でも、あれはあれでいけると思いますよ! 私は!」
「いけるって何が?」
「いけます!」
「何が?」
謎に自信満々なノアはともかくとして、しかし俺の存在が歓迎された理由はもう一つある。寧ろ、それこそが深刻な問題かもしれん。
「俺が無免許でも、というか、俺や貴方のような人間が歓迎されるのは、この船の回復術士が働かないせいでしょう。結構な傷を作っても追い返されるって話ですよ。全くふてえ野郎ですね」
「ああ、船員さん達も言ってましたね……。あんなのにかかるくらいならジョットさんの方がよっぽど信頼できるって」
「酒を飲んで飯食ってぎゃあぎゃあ騒いで。俺よかあっちの方が無免許っぽくないですか?」
「その事なのですが」
そこでふと、聖女様は申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「申し訳ありません。もしかすると私とブレイクさん、そしてノアさんは、首都に着く前にこの船を下ろされてしまうかもしれません」
「えっ、なんでです」
「先程、船酔いが酷い人を介抱した時のことなのですが……」
珍しく、溜息を吐いてから彼女は話し始めた。
聞けば、彼女は患者の治療中に件の回復術士と鉢合わせてしまったのだという。酒浸りのそいつに彼女自身は何も言わなかったそうだが、同じく介抱していた船員さんがぼそぼそと何か悪口めいたものを呟いたらしい。
その悪口が見事に聞き取られてしまい、そいつはかんかんに怒って、やれ『密航者』だの『犯罪者』だの船長に怒鳴ったとか。
「この船の船長も悪い人ではないのですが、何分、相手は回復術士です。即ち光と闇に精通し常人では敵わぬ魔術師です。乗客の安全も鑑みてどちらを取るかは自明でしょう。何せ、私達の方が話が通じますからね」
「言いますねえ聖女様。しかし耳だけは良いんだから。あの耳長野郎」
「それは差別用語ですよ、ブレイクさん」
「言ってる場合ですか……?」
ノアはそう言うが、しかし聖女様に文句を言っても仕方がないだろう。この人何も言ってないんだし。相手が勝手に仕事をしなくて勝手に怒りやがっただけである。
「いやまさか仕返しに襲撃を……? やるな、ノア」
「言ってませんけど!?」
「分かってる分かってる。まあ元より密航者の立場だ。海に落とされないだけマシと思って──」
その時、ぐらりと船体が揺れた。
高波が襲ったか。デッキの上に白い飛沫がぱらぱらと落ちる。
それと同時に船内から悲鳴が聞こえた。
「まずい」
俺は立ち上がった。聖女様はいち早く駆けていった。足音が聞こえる。船員さんが俺達を見て「ああ」と安堵の顔を、いや引き締めて言った。
「良かった。いいや良くないか。怪我人です。頼みます」
「容体は」
「料理人の胸に包丁が突き刺さりました。心臓は無事ですが、肺が」
「分かりました」
悲鳴を聞きつけたのか、廊下に顔を出した乗客達を掻き分けて先に向かう。
果たして厨房には血が広がっていた。中年の料理人が真っ青になって倒れている。その胸に包丁が突き刺さったままなのは流石に心得ているということか。下手に抜けばそのまま失血死になる。
「た、タコをくれたおじさん……! ジョットさん、大丈夫ですかねこれ……」
「借りは返したいが、今の俺は俺を診ている。聖女様」
「問題なく。しかし助手をお頼みしたい」
「勿論」
俺達は直ちに料理人さんの周りに構えた。船員さん達は刃物やら何やらが高波に揺れぬよう押さえ付けている。
聖女様は瞳を閉じて料理人さんの胸に手を当て、とんとんと数回指を動かした。肉体の精査。損傷部の確認。患部を起点として異常の有無を全身に渡って確認する。
「意識なし。魔力に反応した痙攣なし。脈は酷く薄い。切っ先が右肺にまで届き水が溜まり、空気が胸腔内に漏れ出しています」
「外傷を原因とした緊張性気胸」
「余計な説明は必要ありませんか。貴方の先生は本当に良いようで」
そう言って聖女様は光で針を生み出すと、料理人さんの右胸に突き刺した。直ちに空気が吹き出す軽い音がする。
緊張性気胸とは、肺が損傷し穴が空き、胸腔内に空気が入り混み続けることで発生する。
通常、人体は肺を膨らませ、萎ませる事で呼吸を行うが、肺に穴が空いてしまっている状況では際限なく空気が入り続ける。その結果、胸腔内及び肺静脈は空気によって圧迫され、心臓に血液が戻らず、致命的な血圧の低下が発生する。
回復魔術とは光による浄化、消毒と闇魔術による肉体活性の合わせ技だが、この場合、肉体を活性化させる前にまず空気という刃を人体から取り除く必要があった。何せ空気は単なる空気なので浄化は効かないのだ。この辺りの前後を間違えると却って患者が危険である。
「浄化を」
「はい」
俺は杖を振った。力ある光によって厨房内の空気を清潔にし、損傷部付近を消毒していく。
聖女様は頷くと患部の上に手を広げた。杖は使わないのか。彼女は瞳を閉じて言う。
「それでは術式を──」
「犯罪者共が何やってんだ!」
「……はあ」
船員さん達を掻き分けて、酒に焼けた甲高い声が向かってくる。浅黒い容貌の女。特徴的な長い耳。銀の髪と瞳。
南方エルフ。本来は南方大陸の秘境にて暮らしている筈だが、そのはぐれものはやくざな回復術士をしていやがった。
ノアが俺に眼を向ける。俺は小さく首を振った。流石に高波の中に落とされるのは勘弁である。
「私が居ないところで、勝手な真似を。おい、呼べよ。おい。なあ」
「私たちの方が近くに居ましたので」
船員さんが何かを言う前に聖女様が答えた。見向きもせずに指先を動かそうとする。それを見てそいつは嘲笑を浮かべた。
「人間は、下らないね。回復するのに、身体を傷付けるのは、ばかだ。なんだ、その針は。ええ?」
「緊張性気胸ですよエルフさん」
「肺から空気が漏れていますので」
「そんな事はどうにでもなるだろ。それともお前達は、やっぱり犯罪者だ。もぐりだ。人間の機能を元に戻してやれば、そんなものはどうとでもなる。それが分からないか!」
確かにそれも手ではあるだろう。魔術とは意思によって発現される。人体を正常に戻すという事を念頭に置けば、外科処置なしに空気は排出され、肺の穴もまた塞がれる。
しかし患者の安全を考慮すれば、胸腔部への対処は何よりも優先されて然るべきである。
冒険者が戦闘中に怪我をしたのでもあるまいし、今すぐに身体を動かせるように、というよりも、各臓器の状態を見ながら限りなく予後が良くなるように努めるべきだ。
だが、この辺りは文化の違いでもある。
南方エルフというか、南方大陸の文化は自然と密接に結びついている。西が光を尊ぶのなら南は自然を尊ぶといった具合に、その建築も芸術も自然物をモチーフに、或いは直接的に取り入れたものが多い。
そしてその魔術の形態もまた、自然に近しいものだった。
「どけ、どけ」とそいつは偉そうに言って虚空に手を翳した。
彼らは杖を使わない。そして魔術式も殆ど解さない。そこにあるのは感覚的修練である。学者というよりは修験者、仙人風と呼ぶべきか。自然という世界に自らを調和させることで、彼らは世界そのものを操る。
しかしこの場合は浅慮だろう。というか酔っ払っているのだから魔力操作がぐらぐらとして定まっていない。こんなのは回復魔術とも呼べない、単なる攻撃でしかない。
なので殴った。杖を振る前に手が出てしまうのは常のことである。
頬を殴って「ぶげえ」と言わせて床に転がした。流石にこればかりは看過できん。というかマジでふざけてんのかお前。
「ジョットさん。私が」
「いいさ」
「いいですかね」
ノアは既に剣に手を掛けていた。しかし言葉よりも身体の方が早かったのだ。それにこれ以上など必要ない。
「おま、お前、犯罪者の、密航者の」
「おう海に落とされる前に降りてやりますよ。今すぐにでもね。ノアにはすまないが」
「いいですよ。私は」
「いいか」
疲れるが魔術を使えば陸地には辿り着けるだろう。船員さん達は「いや、そんな」と押し留めるように言ってくるが、流石にこんな奴とこれ以上同じ船に乗りたくはない。
「しかし、こんな喧嘩はどうでも良いでしょう。とにかく今はこの人の治療を──」
「終わりましたよ、ブレイクさん」
「えっ」
振り返れば確かに傷は塞がっていた。血に濡れた包丁は料理人さんの脇に転がっている。
しかし、早過ぎるだろう。そりゃあこのエルフのように多大な魔力があれば無茶も出来るだろうが、聖女様にそんな魔力はないし、発せられた感覚もなかった。
聖女様は変わらず感情の読めない目でエルフを見つめていた。奴はわなわなと口元を震えさせて立ち上がった。
「お前、お前は。まさか聖女とでも」
「はい、聖女です」
エルフは沈黙した。さっと顔を背けた。
そのまま「気分が悪い」と言って去って行った。
後に残されたのは侮蔑混じりの歓声だった。船員さん達が口々に俺達を褒め称え、エルフが去って行った方に嘲笑を向ける。
聖女様は料理人さんを安静にするように言って、こちらを見た。
「私が聖人と呼ばれる所以は、まさしくこのように」
彼女は指先を虚空に広げた。そこに何が宿っているのか。"眼"で見ても分からない。力の残滓さえ見えやしない。
ただ、納得はいった。この世界は魔術社会であり、魔術が世界を支配しているが、魔術だけで物事を理解できるわけではない。
異世界の存在がそうであるように。そして、神の存在がそうであるように。
魔術社会において魔法と呼ばれるそれは、教会においてはまた違った名前で呼ばれる。
「神の奇跡。天啓を代表とした、不可思議な力──ですか」
「その通りです」
「しかし、それを最初から使わなかったのは……」
その言葉に、聖女様は不思議な笑みを浮かべた。
「喫緊の対処としてはあちらの方が相応しかったのと、そしてもう一つ」
「それは」
「エゴですよ」
「エゴ?」
その振る舞いに似合わない言葉を口にして、彼女は言った。
「私、文明や技術というものを尊敬しているんです」
神の奇跡ではなく、そういったものを尊敬していると。
聖人と呼ばれる人は、無機質な眼でそう言った。